クジラよ、ラプソディを唄え




人は云う。
若いうちに多くの恋をして、
多くの事を経験しろと。
僕に云わせれば、
百万回のありきたりの恋をしても、
一回の本気の恋には敵わない。
本気の恋には、
人生の醍醐味が全て詰まっている。
もう他には何もいらないと云うくらいに、
それは一度きりで
僕を完全にイカれさせたんだ。


この愛すべき狂詩曲を、君に捧ぐ。





第一章   クジラは色のある夢を見るのか



それは僕の初恋にして最後の恋だった。恋の始まりをキューピッド、有翼の裸の少年が弓矢で誰かのハートを射抜く様に例えるが、僕のそれは違った。それはまるで深海のクジラが果てしない大海原で同じかたちのクジラに出逢うような感覚だった。僕は幼いながらに、ようやく見つけた片割れへの再会に似た感慨に打ちのめされて、そして理解した。僕はこの人と結ばれるんだ、と。クジラは求愛にラヴソングを唄う。けれど僕の場合、その役目はシェイクスピアだった。

「あの、落ちましたよ。」

七歳の僕に、十七歳の君。それは不条理で残酷な定めだった。

僕は図書館へと真夏の早朝の住宅街を走り抜けていた。昨日、遥か昔のイタリアでの若い男女の禁断の愛の物語を読み耽っていたら、黄昏時の閉館時間を遠に過ぎてしまっていたのだ。僕の性格を考えるとそれは見事な不意討ちだった。ドイツ生まれの僕は時間に厳格だ。これは人生初めての失態。だから焦って駆け足な僕の腕からするりと本はアスファルトへと落下したのだった。

「…へえ。君、すごく難しい本を読めるんだね。」

僕が振り返り声の方へと駆け寄っていくと、そこには制服の君が立っていた。本の表面を優しく払い、表紙を見つめている。そしてふと、その漆黒の美しい瞳で僕を見つめたんだ。

「今の小学生はこんな本を読むの?それとも君って神童?」

そう軽やかに告げて綻ぶ瞳に、僕は片割れとの初めての再会の感動に襲われる。

一陣の風が世界の全てを洗い流して、新しい色が湧き立ち目覚めるような、瞬間。

「…はい。どうしたの?」

「やあ…君、名前は?」

「え?」

「名前を教えて。」

「…碇シンジだけど、どうして?」

「君が運命の人だからさ。」

「はい!?」

けれどそこで君は仰天して可笑しそうに破顔するんだ。

「それ、今時の小学生の悪戯なの?」

「まさか。君はわからないのかい?」

「ええ?…ごめん。僕は君ほど多感じゃないみたい。」

僕は当然君も同じ気持ちかと思っていたから、酷く落胆したのだった。僕の頭の中の完璧な純愛のプロットは崩壊して、僕は瓦礫の中に膝を抱える。

けれど、君は面白い事を云ってこの運命の出逢いの証明をするのだ。

「…でも、きっと僕らが運命の人なら、きっとすぐにまた会えるだろうね。その時は、これを返してよ。」

そう言って君はポケットから真っ白なハンカチを取り出して、僕の前へと掲げた。

「…涙、拭いて。」

僕は自分でも気づかないうちに涙を零していた。僕が驚いて指先で頬を拭うと君がハンカチをその上に重ねる。

「ごめん。君を哀しませるつもりはなかったんだ。」

その時の君の表情は僕よりも照れて頬を紅潮させて、決まりが悪そうに曖昧に微笑んでいた。しゃがんで僕を心配そうに覗く瞳に、僕の胸は苦しく脈打つ。

君の落ちた、という指摘通り。僕は君に堕ちていた。まっさらな恋。その始まりの時に、僕の耳には遥か彼方の海の底からクジラの唄が聞こえた気がした。



ーあの瞳は何だろう。なんて言えば、君に伝わるんだろう…

僕はそれから図書館に向かって取り憑かれたようにあの美しい瞳の色や質感を探した。君に伝えたい、僕だけがわかっている運命について、君の有象無象を超えたその存在について。僕は早熟な子供だった。それでも僕はまだ幼い少年なのだ。年上の君を納得させるには、僕にはまだ語彙や経験が足りなかった。だから僕は鉱物図鑑を眺めながら溜息を吐く。

ーどんなものでも、君のあの瞳は言い表せないんだ。そして僕のこの想いさえも…

背伸びをする恋心に、僕は切ない歯痒さと人知れぬ陶酔を覚えていた。そして僕の頭の中を悲恋の戯曲が掠めてゆく。指先は紙の上で煌めくアレキサンドライトをなぞっていた。

ー碇、シンジ君…

その頃の僕は、宇宙の神秘や文学の詩情に思いを馳せるセンチメンタルな子供だったのだ。



「あれ、ロミオ君。」

運命を告げる再会は意外にもあっさりと次の日だった。早朝から昨日シンジ君とすれ違った道を行ったり来たりしていたら、同じ時刻に君は姿を現した。

「なら、君はジュリエットなのかい?」

「ふふ。君、面白いね。」

「僕は渚カヲル。君の予言通り、運命のふたりは再会したようだね。」

「渚君はロマンチストだね。」

「カヲルでいいよ。シンジ君。」

「カヲル君。これは確かに運命かもね。それじゃ、よろしく。」

そして僕らは握手をした。その掌は大人と子供くらいの差があって、僕は思わず自分の細くて頼りない指先をまじまじと見つめる。その景色が僕の胸を鮮烈なまでに辛く焦がすのだった。



ーーーーー…

僕がカヲル君と出会ったのは、夏休みに補習を受けに行く道すがらだった。僕の成績はどちらかと言うと甲の方だけれど、今年の一学期は運悪く期末テストの期間に入院していた。バイクとの接触事故。轢かれかけたお婆さんの身代わりになったのだ。友達は口々に冗談めかして、鈍臭いだと最弱ヒーローだのと笑ったけれど、僕の気分は何となく清々しかった。テストを欠席した代わりの補習の日取りを知らされるまでは。

「イイコトをしたのに、こんなのっておかしいよ。」

ぶつぶつ文句を早朝の通学路に溢しながら、僕はとぼとぼと歩いていた。真夏のむさ苦しい満員電車は死んでも嫌だ。だから僕はまだ小鳥の囀る涼しい朝の空気を肺の中ひたひたに満たす。

ーこの時間って気持ちいいな。明日も同じ時間の電車に乗ろう。

そして僕がそう思うと同時に銀色が目の前を通り過ぎて、僕の足許に落とすのだ。禁断の恋の戯曲を。


今思えば沢山の偶然が重なり合って生まれた出会いだった。カヲル君が初めてのうっかりに気が動転して図書館の開館時間よりずっと前の早朝に駆け足だったり、僕がお婆さんを助けて入院した日が期末テストの日だったり。もしもあの本がマクベスやリヤ王だったなら。僕は何も言わずに君に本を渡しただけだったかも。ロミオとジュリエットはお見舞いに親友のアスカが映画を貸してくれたから記憶に新しくて、つい内向的な僕にしては珍しく口を滑らせてしまったんだ。それはきっと、奇跡や運命と呼んでも差し支えないと思う。



それから僕がその運命の人に最初のプロポーズをされるのは半年後のバレンタインの事だった。その冬は例年よりも厳しくて、放課後の外は粉雪がちらついていた。

「僕と結婚しよう、碇シンジ君。」

「…はい?」

手袋を擦り合わせて家の門を潜ると、玄関先で僕は生まれて初めてバレンタインの愛の告白をされる。その相手はまさかの小学生の男の子だった。勿論プロポーズされるのだって初めてだ。

「…今は出来ないとはわかっているよ。けれどね、シンジ君。素敵な君がいつ誰かに攫われてしまうかもわからないから、これは早めの婚約さ。」

カヲル君は天上から舞い降りた天使のように白いコートを着こなしていた。そして恭しい仕草で彼の身体の半分もありそうな大きな赤い薔薇の花束を僕にくれた。情熱的なそれに僕は一瞬ドキッとするけれど、その可愛い背伸びに思わず苦笑してしまう。

「…僕は本気だよ、シンジ君。」

カヲル君は心外と言う風に眉を寄せた。僕の反応が彼を傷付けてしまったのかと、ちょっと申し訳なく思い、ブルーグレーのマフラーから埋めた顔半分を出して、僕は目線を彼に合わせようと片膝を地面に付き跪いた。

「…ごめん、カヲル君。ありがとう。僕、そんな事言われたの、初めてだったから…」

返答を考えあぐねているとカヲル君は僕に花束を持たせてから、僕の手を両手で持ち、丁寧に紺の手袋を外してからくちづけをした。その悴んだ君の白い指先とは対照的に桜色の唇は熱く湿っているから、僕の心音がとくんと鳴る。

「君が好きだよ、碇シンジ君。愛している。」

まるで大人が乗り移ったかのような科白の言い回しに僕は妙に逆上せてしまった。こそばゆいような、じんわり温かいような、言葉の余韻。

「…君が、大人になったらね。」

僕が健気な気迫に押されて無責任な約束を交わしたら、君はそれはそれは綺麗な笑顔を咲かせるのだった。

「ありがとう。シンジ君。僕はとても嬉しいよ。」

僕はこんなに綺麗な存在が世界に息をしているなんて知らなかった。そして自分がその純粋さを勢いのままにあしらってしまった事を小さく恥じたのだった。


君はあの時から、粉雪のように僕に降り注いでいたのかもしれない。積もりそうで積もらない、人肌にすっと馴染む半透明な雪。けれど降り続けばやがて一面の銀世界が僕の心に広がってゆく。



そうした僕の文目も分からない不可思議なエンゲージはずっと続いた。彼の話を組み立てると僕らはフィアンセでデートを続けているらしい。可愛い子供のままごとだと思い続けて幾星霜。カヲル君は十歳で僕は二十歳になっていた。僕は妙な美少年に懐かれてしまった。彼は飽きずに今日もままごとに熱中する。大人になった僕は綺麗だと褒めそやして、ベッドに腰を下ろした僕に後ろから抱きついてから、ちゅっと頬に温かなキスをする。そんな事が絶え間なく続くのだから、僕だって妙な気分になるのだ。

「ねえ、カヲル君。」

「なんだい、シンジ君。」

「僕、男だよ?」

「知っているよ。」

「…君のクラスに可愛い女の子は居ないの?」

「さあね、興味ない。」

「カヲル君は絶対モテるでしょ。告白とかされないの?」

「ああ、よくあるよ。鬱陶しいからやめてほしいんだけれど、小学生はなかなか聞く耳が無くてね。」

「ふふ。君も小学生じゃないか。」

「…僕はね、シンジ君。僕には素敵なフィアンセがいるからって理由で断っているんだよ。」

「そんな。勿体無いよ。」

「何故?」

「僕の事ばかりじゃなくて、試しに同世代の子と付き合ってみるのも大事な経験だよ。」

「…それは時間の無駄だよ。」

「そうとは限らないよ。人生何が起こるかわからないから。」

「けれど、人生に必要なものがわかっていたら、それは簡潔なものなのさ。」

「そうかなあ?でもーー」

「僕はもう本当の相手を見つけているんだ!必要ないじゃないか!」

カヲル君は苛立った声でそう叫んでベッドから飛び降りた。窓の前で立ち止まり、片手を腰に付く。手持ち無沙汰な左手の指先はギュッと握られて、それを隠すようにズボンのポケットに押し込まれた。身体を強張らせているから呼吸の度に肩が上下している。荒々しくて早いそれ。艶やかな銀髪を透かした窓の外では梅雨の重い雨雲が物憂げに街に影を落としていた。

僕はこんな風に怒るカヲル君を初めて見た。彼はいつも淡い口元に弧を描き、いとけない紅い瞳を楽しげに揺らしていたから。どうして彼は怒ったのか、薄々と心算はある。彼のしている事はままごとではないのかもしれない。けれど、それに気づいたら僕はどうなってしまうのだろう。彼の後姿を見つめると僕の気づかないうちにその姿は少年から青少年へと変わろうとしていた。しなやかに力強い輪郭線。僕はその成長に今更ながらにハッとしたのだった。

「…ごめん。いきなり叫んでしまって。ただ…たまに、もどかしくなってしまうんだ。」

「…もどかしい?」

「歳の差がね…まあ、君にそんなものは関係ないと証明してみせるよ。」

カヲル君は振り返った。その紅い瞳はモノクロームの世界の中の唯一の色のようにくっきりと鮮やかだった。

「昨日君の夢を見たんだ。とても色鮮やかで、美しかった。」

そう言って何事も無かったかのように微笑むその表情に、僕は鳥肌を覚えた。身体から溢れ出す、この感覚。これはーー

カヲル君は美そのものだった。儚げな含みのある表情。刹那の夢のように煌めく瞳。隅々まで染まった純白の中で桃のように色付く瑞々しい頬。僕はその時初めて彼は僕とは対岸の存在なのではないかと、憧れと胸騒ぎに胸を強く焦がしたのだった。

そしてその日の夜、僕も君の夢を見た。美しい中間色の夢。昼下がりに零れる水面の光の氾濫のような、君の夢。

けれど、その事は決して君には告げなかった。



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