君はこの世界の方程式が崩壊する音を聞いたことがあるだろうか?
その時、君はすべてがわかると同時に、何もわからなくなる。君の信じたリアリティは意味を失くし、モノクロの中で息絶える。そしてその場所では、そう、あの音色。ハロー、ハロー。
出会ったばかりの僕らはまだ何も互いのことを知らなかった。でも何もかもを理解していたのだ。目映いほどに世界は輝いていた。カラフルな明日がキラキラ透けて手の届くほど近くで揺らめいていた。
ふたりを軸にして廻る、この新しい世界。もう、僕らは言葉なんていらない。祝福の光の雨を浴びて、限りなく止まった時の中で、自由落下。ふたつの唇を重ねていた。生まれた時から呼吸を覚えていたのと同じように、初めから僕らはそれを知っていた。
なんでだろう。喜びが6013の僕を襲って、幸せに窒息した僕は、泣いていた。
suisui
僕には何かが欠けている。理性で構築された世界で、僕は走り出す理由を知らない。
誰かが云った。絶対的なラッシュ、シナプスの乱反射、浮かび上がる恍惚のフロー。それはこの世の果てまで続くユーフォリックな体験、らしい。
“ エクスタシー? ”
“ 違う、カタルシス ”
僕は耳をそばだてる。
“ カタルシスって何? ”
“ さあ。でもすごいんだよ ”
ひそひそと熱のこもった囁き声。
“ すごいって何が ”
“ 全細胞がやられた ”
僕は目を閉じて想像した。生まれてこのかた感じたことすらない、僕の細胞を。この隅々まで満たしているはずのミクロの構造物。フォーカスしてゆくほどに途方もなくて信じられない。クロマチンなんて解剖しても無感覚ではないだろうか。なのに僕は細胞が壊れたら、きっと、痛い。
“ 意味わかんない ”
“ まあ、自分の耳と目で確かめてみろよ ”
横にいた2人組が席を立った。飲み終わったコーヒーを片手に本を読むフリをして、僕は彼らの奇妙な話を盗み聞きしていた。いつも周りの音なんて聞こえてこない。でも、何故かこの瞬間に限っては他人の戯れ言に無性に惹き付けられてしまった。それは何かの予感のよう、僕は彼らの後ろ姿を追わずにはいられない。
彼らは期待に声を上擦らせていた。その早足に柄にもなく少しだけ緊張する。そうして緊張の糸がこの靴にも絡まってしまったらしい。一瞬のスローモーション、からの暗転。僕は人生初、転んだ。何もないアスファルトの上でつまずいて思いきり頭からいった。何処彼処から驚きの溜め息。何より僕が一番驚いていた。今までの僕の辞書には“ 予想外 ”は存在しない。
今日は何かがおかしい、そう感じた。
ツンとした鼻を押さえてようやく立ち上がると、もう2人組の姿はなかった。くたびれ儲け、か。この不可思議な何かも終わってしまうのだろうか。惜しい気もするけど、何にそんなに興奮していたのだろうと冷静にもなってきた。そう、このまま頭を冷やして、何でもない顔をして、歩き出せ。
それなのに、
僕はやっぱり、僕の知らない世界に迷い込んでしまったらしい。
空を見上げると、無数のシャボンがビルの屋上から吹き出していた。周りから歓声が上がる。降り注ぐプリズムが弧を描いて煌めいていた。燦々と白昼の陽に照らされ、弾けては生まれて、分裂してはまた生まれた。僕が透明な輝きに立ち尽くしていると、目の前を横切る黒い影。誰かが「待て!」と遠くで叫んだ。そしてもうひとつの影が何故か僕に向かって突進してくる。空間にひしめき合う泡の大群、霞んだ視界、僕を誰かと間違えている。その急速な展開に戸惑う暇もない。殺意がこっちにやって来るんだ。僕は考えるよりも先に駆け出した。
風を切ると弾けるシャボンは僕に細胞膜を思い出させる。細胞は衝突によってやられてしまったのだろうか。すると、全細胞なら天文学的数のそれが弾けるほどの衝突だ。それって、
――何?
物思いに耽りながら疾走している僕が運命とぶつかるのは必然だった。
電柱と頭蓋骨のかち合う鈍い音。眩しいスパークが僕を襲う。その場でくずおれて、思った。全細胞がやられるとはこういうことなんだ。今日はもしかしたら、史上最低の、僕の命日かもしれない。
“ daijyoubu desuka ? ”
あまりの痛さに目も開けられずに倒れていると、誰か、やさしい誰かの、声がした。聞いたことのないような柔らかい響き。天使のようだ。僕は思わずその誰かにしがみつく。今まで僕が感じた安らぎは安らぎではなかったのかもしれない。この洪水のように溢れ出すあたたかいものの正体を確かめたくて、僕はゆっくりと、目を開けた。
「捕まえた!コイツ!」
僕が知らない誰かを介抱していると、もうひとりの知らない誰かが僕から彼を引き剥がした。馬乗りになってものすごく怒ってる。僕の前の、男と女。
その時、待っていたバスが5分遅れで到着した。これに乗らなきゃ待ち合わせに間に合わない。だから僕はそのバスに乗った。それが正しいことだから。
“ matte ”
バスのドアがプシュッと閉じて、足元からエンジン音をかき鳴らして走り出す。目の端で遠ざかるバス停をチラッと確認したら、男の人が女の人にマンガのようなビンタをされていた。
“ ikanaide ”
こんな風に他人に本気になれるんだ、きっと恋人同士なんだろう。後ろ髪を引かれる僕はバスが角を曲がる前にもう一度、彼を見た。見ようとした。でも、もうぼやけて何も見えなかった。
なんでだろう。客が数人しか乗ってないのにぼんやりと立っているのは。目の前の席に座る。なんでだろう。僕は繰り返す。なんでずっとこの心臓はびっくりするくらいドキドキが速いんだ。
――doushite ?
腕を掴まれて、僕は彼を抱き起こそうとした。助けてあげたい、よりもそう、やっと見つけた、そんな感じ。
僕は何だかとんでもない運命を手に入れた気がしたんだ。例えるなら音楽のイントロ、そのメロディの歌う前に息を吸うあの瞬間。こんな感覚は初めてだった。
――もしかして…
彼は男だよ。僕ってゲイなの?「まさか!」そう言うかわりに僕は嗤った。何血走ったこと考えてるんだよ、しっかりしろ、僕。
ふと窓を見上げると(俯いていたなんて!)嘘みたいな景色が広がった。シャボン玉が辺り一面を埋め尽くしている。なんで?あ、バスが減速した。それくらい、すべてが虹色だった。とても綺麗で、この胸はざわついてゆく。
――もしも本当に運命だったら?
シャボン玉は僕に語りかける。
――もしも奇跡の出会いだったら?
途切れない泡模様。僕は静かに肩を震わせた。指先を握り締める。
僕は泣いていた。どうかしてる。僕はバス停に残らなかったことを既に後悔していた。どうかしてる!どうしてこんなことになってるんだ。全速力で電柱にぶつかったのがあんまりにも可哀想で僕は彼を助けようとした。それだけのことなのに。あの一瞬で何が変わったというんだ。何がわかったというんだ。ああ、僕にはわからない。わからないよ。
―だけど僕はまた立ち上がった。運転手へ大声で「止めてください!」と呼びかけて、バスは急停車。慌てて降りた僕はそのまま来た方角へと一目散に駆け出した。わからないなら確かめにいかなければ。もう二度と会えないかもしれないじゃないか!だから僕はまた、彼に会いに行く―
そう言いたかった。でも僕はこの世界の主人公じゃない。そんな違う自分を想像しながらバスに揺られることしかできない、ただの脇役だ。何度も立ち上がろうとして動かないこの、凡人の足。まるで羊膜を破れずにもがいているみたいだった。
気がつくとクリアな青空がいつもの街並を照らしていた。もう、バスは通常運転。そう、これが僕の日常。ほっとする。さっきは夢でも見てたんだ。僕らしくもない。感化されちゃってさ。涙をそっと拭ったら、もう何でもない気がした。
それにしても。僕は思う。あの人、なんであんなに怒られてたんだろう?浮気しちゃったとか?ギャンブル中毒で借金まみれになっちゃった?あ、ひどい詐欺師だったのかも?もしかして、変態?
僕は彼と知り合わなくてよかったのかもしれない。
今朝、僕は嫌味なくらい晴れた青空を目を細めて眺めていた。暗がりの自室で僕を無理やり目覚めさせたそれに、僕は悪態をついた。
“ この世界を創った神は悪趣味だな ”
ああ、きっとあの言葉が天の上まで届いてしまったんだ。もしくは悪趣味なばかりに僕の横で盗み聞きをしていたのか。とにかく、僕はやっと手に入れた大切なものをあっという間もなく失くしてしまった。そんな凄まじい喪失感に取り憑かれた。
「アナタが間違えて追ってきたんだ!」
「キミが勝手に逃げるからでしょ」
ひと通り不毛な小競り合いをして、僕はその場を立ち去った。悔しさのあまり泣きそうになったが、どうしてだかわからない。
ただ、また彼を見つけなければ。そう思った。
――どうして?
バスの進んだ方角へと走り出す。時刻表を確認したら、それは隣町まで遥々と向かってしまったらしい。今から走って間に合うだろうか。先に体力を消耗してこの肺は軋み、指先はピリピリと痛み出した。苦しい。でも、行かなければ。
――ドウシテ?
途中、またあのシャボンの道を通り抜けた。もうほとんどが弾けて消えてしまっていた。醒める前の褪せた夢のようだった。だから僕は心の中で叫んだ。
“ 待って ”
祈りを込めて、一目散に駆け出した。
“ 行かないで ”
すると、地面から地響きが突き上げてきて、目の前のマンホールが空高く舞い上がった。その下から水の柱が勢いよく吹き上がり、その圧力に倒された僕はとたんに水浸しになる。神が僕へと一点集中で巨大な如雨露を傾けているようだった。
「…まだ間に合う」
この最悪な夢はまだ続いているらしい。だからまだ、望みはある。
もう一度。ずぶ濡れの服の水分を振り切るように走り出した。ちょうど急な上り坂、走行中のトラックの扉が開き、中から色とりどりの未確認物質が僕めがけて雪崩のように転がって来るのが見えた。
戦いは、始まったらしい。
「本当にいいのかよ」
「…うん」
夕陽がビルの谷間にこっくりと沈んでゆく黄昏の時間。まだ少し明るいのに急ぎ足でライトアップした都会の匂いはなんだかメランコリックだった。
「せっかくここまで来たんじゃない」
「でも、やっぱり気分が悪いんだ。ライブ中に倒れたら迷惑だから。ごめん」
熱気に満ちた開場の列から抜けた僕。馴染みの仲間に手を振って、元来た道を歩き出す。背中からまだ諦めのつかない声で「カタルシスを感じてけよ!」なんて聞こえてきた。でも僕は聞こえないフリをした。
――僕はバカだなあ。
これから友達が壊れたレコードみたいに呟く“ ユーフォリックな体験 ”をしに行く予定だった。でも、僕はもう、それどころじゃなかった。
――引き返すなら間に合ううちにすればいいのに。
もう一度、彼に会いたい。離れてゆくほどに、そう感じた。現在地はバスの終点の、そのまた先。あの場所から何km来ちゃったんだろう。歩道橋の上でまっすぐな車道を見つめた。こっち?いや、あっちだ。そっちへ行けと囁くように、やさしい風が吹いている。だから僕は、深呼吸した。
――何もしないより、してから、諦めよう。
そして、また、歩き出す。果てしない道のりを。途中で力尽きて道端に野垂れ死ぬかもしれない。それでもいい。辿り着かないのに朝が来ちゃうかも。それでもいい。知らない街で迷子になっちゃうかも。その先で車に轢かれちゃうかも。それでもいい。あの場所へ戻ってもう彼が居ないのを確かめてから、おしまい。そこまでしなきゃ、今の僕はずっと息ができなくて死んでしまいそうだった。
――でも、いざ再会できたとして、なんて言えばいいんだろう。
気持ち悪がられるに決まってる。
――僕は何がしたいんだ。そもそも何がどうなるって言うの。
何にもならないにキマッテル。
それならいっそ、ここでやめてしまった方が…僕は立ち止まった。そして後ろを振り返る。煌々としたスタジアムから沸き起こる歓声。イヤフォンで何度も聞いたあの曲、僕たちのアンセム。音漏れがここまで聞こえるなんて。やっぱり行けばよかったかな、僕は唇を噛んだ。
世界で僕だけひとりきり。からっぽな気分だ。規則的な街灯とリズミカルなヘッドライトが夜の闇に滲んで消える。ネオンのページェントが網膜を焼いて残像になる。騒がしいのに無性に寂しい都会の営み、終わらないEDMのように、僕だけをとり残して無意味に、無関心に、流れてゆく。
“ ここは何処? ”
――いきなり知らない世界に放り出された。
“ 僕は誰? ”
――居場所なんてない。すべてから見放された。
ねえ、このままずっと世界は続いてゆくの?
“ iyada ”
それなら僕が死んじゃうくらいbpm上げてよ。狂っちゃうくらい振り切ってよ。
転調/奇抜なコード進行/dimしてaugしちゃってもいい/ディセプティブ・ケーデンスだっていいじゃないか/7th重ねて9thも重ねて/トニックで解決?ピカルディの三度だってある!
音楽は自由なんだ!
僕は自分の殻を破りたいんだ!
この平坦な日常から抜け出したいんだ!
――僕にもう一度、チャンスをください。
もう何も考えない。僕はそう決めて、全速力で駆け出した。
二度と会えないのかもしれない。日が傾くほどにその考えは濃くなった。
もうすぐバスの終点へと辿り着く。移動ケバブ屋のトラップに嵌ろうが謎の着ぐるみの紛争に巻き込まれようが動物園から抜け出したトラに遭遇しようが、僕は諦めずにここまでやってきた。選択肢はない。すべて諦めるか、諦めないか。そしてこんなムチャクチャな試練が立て続けに襲ってくるのには理由があると思っていた。だってそうだろう?物語ではそれを乗り越えたら、乗り越えた者だけが見られる景色を用意してある。そして最後にはそう、幸せな結末。happily ever after.
でも…終点へと辿り着いたらひとつの結論が出る。僕は間に合わなかった。
“ こんなつまらない世界なんて ”
今まで何もかもがどうでもよかった。
“ 生きてても死んでても同じじゃないか ”
あまりにも簡単すぎて、僕は今まで何も求めなかった。命さえ、そうだ。
昨日、僕はガラスの破片を首の血管に当てて、指先に力を込めた。熱い血液が先端に滲んだ。いつでも終わりにできる、その安息だけが、僕をこの明日へと繋いでいた。
なのに。どうして、どうして、初めて求めたものは僕の手を離れてしまったのか。
今日の陽の最後のひとかけらが遠くの街へと沈んでしまう。
僕は全速力で駆け出して、喉を枯らすまで大声で叫んだ。
――神がいるなら本当に悪趣味だ。
“ 君に会いたい ”
現実はこんなにも残酷で、何も面白味がない。
“ 君に会いたい ”
――どうしてこんな気持ちを今になって味わわせるんだ。
“ 君に会いたい ”
なのに、僕は今日、知ってしまったんだ。
何かを、知ってしまったんだ。
“ 君に会いたい ”
――もう一度。
言葉にならないものが僕の奥から発せられて、がむしゃらに何かを掴もうとする。走れ。走れ。走れ。運命なんて誰かに与えられてたまるか。僕自身が手に入れてやる。だから、
まだ知らない君へ
――待たなくてもいい!
“ matte ”
――僕が行くから!
“ ikanaide ”
そしてゴール直前、僕は見知らぬ何かに凄まじい勢いで衝突した。この物語は最後の最後まで意地悪らしい。僕の疲れきった体は宙を舞い、思いきり地面へと投げ出された。ああ、もう起き上がれない。君が起こしてくれないと、起き上がれない。僕は、君に呼びかけた。
――君に、会いたい…
「大丈夫ですか?」
僕は夜風を切って極限まで速く足を動かしていた。コンマ1ミリでも前に進みたかった。でもいきなり前方でヘンテコな絶叫が聞こえて、それはものすごい速さで、バス停の前、僕らは彗星がぶつかって爆発するくらいの正面衝突をした。地味にすごく痛かった。目の奥に火花が散って内臓がバラバラになりそう。しばらくして、呻いて起き上がる僕の横、くたりと倒れ込む絶体絶命の誰か。慌てて声を掛けてその顔を覗いたら、鮮烈な既視感に襲われた。
――…!
目を閉じたままピクリとも動かない彼をそっと抱き起こすと、睫毛が震えて、瞼がスローモーションで開いてゆく。彼の澄んだ瞳がようやく僕を見つけた。その瞳は永遠に沈まない夕陽のように僕をそこに映していた。そして時が止まった気がした。全身の僕を形成する何かが共振するみたいに戦慄する。これって幻覚?もしかして、現実?心がごちゃまぜになって僕は口もきけない。
「やっぱり、君だ…」
彼はとても幸せそうに笑っていた。僕を確かめようと小さく頬を撫でた指先。とても冷たかった。よく見ると、彼は傷だらけのボロボロだった。
「あの、どうして」
聞きたいことが多すぎて、その先が続かない。
「君にまた会いたくて、あの場所から走ってきたんだ」
「あのバス停から?」
声が掠れる。僕がやろうとしたことをもう、彼はやり遂げたらしい。それでこんなに、銀髪は濡れていて(ちょっと泡がついていて)、服は擦り切れてガムがこびりついていて(今ポケットから転がったのってBB弾?)、頬にはひどい痣ができてるのかな。あ、この痣、手形かも。
「…嵐の中を駆け抜けてきたみたいですね」
「ああ、嵐か」
答え合わせをするように、彼は可笑しそうに頷いた。
「確かに。マンホールから水の柱が噴き出したり、お菓子の雪崩が起こったり、奇妙な着ぐるみ達の争いに巻き込まれたのは嵐だったのかもしれない」
「何ですか、それ」
「動物園のトラともご対面したよ」
「嘘だあ」
「本当だよ」
ジョークなのかわからず僕が曖昧な顔をしたら、彼はもう一度「本当だよ」と囁いた。だから僕は彼を信じることにした。普段、別世界からやってきたみたいな変態チックな見知らぬ人のどうかしてる発言を信じるような趣味はないけれど、僕にはわかった。彼は特別だって。
冷たい夜の地面から彼の手を引っぱり起こすと、よろめいた彼が僕の肩に掴まる。至近距離で見つめ合う、僕たち。もうbpm振り切っちゃってる。息ができない。
あれ。なんで僕、音楽の中にいるんだろう。誰かが言ってた。音楽を聞いている間は僕が世界の主人公だって。あ、でも、違う。聞こえるのは音楽じゃなくて、彼の鼓動。そのまま僕を抱き締めた、彼の鼓動。
どうして世界はいつの間にかとても綺麗で、僕はひとりきりじゃなくて、からっぽだった胸には何かが満ち満ちているんだろう。もう僕は、彼が浮気性でも、ギャンブル中毒で借金まみれでも、ひどい詐欺師でも変態でもかまわない、そんな気がしてる。
――もしも本当に運命だったら?
“ 運命に決まってる! ”
――もしも奇跡の出会いだったら?
“ 奇跡の出会いに決まってる! ”
だって、僕にはわかるんだ。
わかるんだ。
6013の全細胞が弾けた。劇的な嵐が一陣の風になって、何もかもを吹っ飛ばした。僕は数時間前に想像もつかなかったものを今、全身全霊で感じている。
ドクンドクンと血液ではないものが体中を巡っている。頭が痺れて何も考えられない。重力がなくなったみたいだ。嬉しくて声が震える。言葉すらもうコントロールできないんだ。
僕は生まれて初めて目を開けたような気分だった。腕の中に君がいる。それだけでいい。どうなってもいい。それはガラスの破片が僕に与えた安らぎとは真逆のベクトルで、今ここに僕を生かしていた。
「ずっと会いたかったよ…」
抱き締めた君は固まっていた。抱き締め返してくれない。
――出会ったばかりで緊張しているのかい?
もしも、君が僕を好きなら うれしい
――いきなりこんなことされたら嫌なのかな?
もしも、君が僕を嫌いなら かなしい
まあ、普通に考えれば洗濯機から出てきたような格好で、信じがたい危ない口説き文句を吐くヤツなんて、君は信じちゃいけない。
でもね、
――僕は君に会うために生まれてきたんだ。
ねえ、君は?
君の気持ちがわからない。切なくて、僕がもっと強くギュッと抱き寄せると、君はうろたえた。
「僕は今まで生も死も等価値だと思っていたんだ」
だけど、僕はもう止められない。
「だから死んでもかまわなかった」
「えっ」
この想いを吐露せずにはいられない。
「でも違った。全然等価値なんかじゃない」
何故なら、僕にはもうわかっているんだ。
「生きているから君に出会えた」
――生まれた時からわかっていただろう?
世界が僕を見つめ返した。その先には万華鏡みたいに回転して揺れる明日の光。砕け散ったガラスのよう、ぼんやりと閃き、拡散し、やさしいスポットライトで僕らを包む。フラッシュした明日。クラッシュした昨日。そして今しかない、完璧な瞬間。
そう、僕は生きているんだ!君と生きている!
ただそう感じるのになんて遠回りをしてしまったんだろう。
僕は君が抱き締め返してくれると知っている。そう、知っているんだ。運命が衝突して、すべてが弾けて、ふたりして永遠に醒めない夢の住人になってしまった。こんな美しい世界、普通じゃない。でも、普通じゃなくてもいいじゃないか。だってもう戻れないんだ。僕らはもう、――
生まれた時からわかっていただろう?
だから、認めてしまいなよ。
――恋に落ちている。
“ 重ねてみて ”
“ 心を ”
君の腕のぬくもりに、この世界の方程式が崩壊する。
新しい世界が産声を上げるのを聞いた。
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