眠りから覚めたら世界が変わっていた。それはまだ僕が世界を信じていた頃のこと。14歳にとって世界は公平で、不条理なんて一時で、正義はやがて報われるものだった。どうでもいいと言いながらも、心の何処かではそう信じていた。

けれど、僕が目覚めたのは14年後の世界。いつの間にか僕が勝手に主人公にされていた物語は終わっていた。世界は間延びしてしまうほど平和で、いつの間にか新しい一歩や二歩を踏み出していた。もうこの世界は僕には何も無理強いしない。僕はエヴァに乗る必要もなく、居場所すら用意されていなかった。コンフォート17はもう他の誰かが移り住んでいて、僕の荷物は段ボールに詰められて病室の一角へ。かつての保護者のミサトさんは自分の家庭を築き、かつての同居人のアスカは階級を上り詰め今はネルフのユーロ支部で活躍中。それに僕の助けた綾波は僕とは違ってこんなに長くは眠っていなかった。彼女が父さんの右腕となってネルフの仕事をしているとベッドの上で聞いた時、僕はよかった…と言いながら嬉しさよりも複雑にどろっとした気持ちが込み上げていた。

どうして僕だけ置いてけぼりにされてしまったんだろう。

寝返りを何度もうちながら心細さと闘う。皆は今の生活に忙しくてそれぞれの用事があって、目覚めた僕に会いにも来てくれない。僕はまた、ひとりに戻った。

そして新しい事実を知る。僕はニアサードインパクトのトリガーと見なされて世間では戦犯扱いらしい。規模は最小限に食い止められたが爆心地になりかけた第3新東京市は瓦礫の山。ネルフは僕を幽閉すると公表して保護してくれていた。でも僕はそのネルフのために闘っていた。世界のために闘っていた。そして、綾波のために。

どうして綾波は見舞いに来てくれないんだろう。

独りきりの部屋はそれまでの日々のしっぺ返しのように孤独だった。僕はこれから裁判にかけられて一生罪を償わなければならないのかもしれない。憂鬱を煮詰めた空気を肺に吸い込みながら、どうして涙が出ないんだろうと考える。このまま死んでしまってもいいとさえ考えて、指先まで凍って動かない。そんな時だった。

「やあ、碇シンジ君。迎えに来たよ。」

彼が現れたのは。



ルービックキューブ・モザイク



「待たせてしまってごめん。手続きに手間取っていたんだ。一刻も早く君を連れて帰りたくて、これでも飛ばして来たのさ。」

世界に取り残された僕に手を差し伸べてくれたのは同世代の男の子だった。僕はそれが不思議で首を傾げた。保護者には不適切な年齢だと思ったのだ。でも退院する前の身体検査の時、唯一見知った顔のリツコさんが教えてくれた。その、渚カヲル君のことを。

彼は僕よりずっと長生きらしい。カヲル君の精神年齢は29歳。僕と同じでエヴァの呪縛によって体の成長が止まっていた。僕が眠りについた時の彼はひとつ年上の15歳。今もその年齢の容姿でネルフで働いている。

「あの後、ゼーレは解体されてネルフや戦略自衛隊のあらゆる陰謀も断たれたんだ。だからもう大丈夫。君の心配することは何もないよ。」

あの後。そう、彼こそがニアサードインパクトを最小限に抑えたフィフス・チルドレンだった。僕と正反対で、彼は世間では英雄扱い。彼のおかげで僕はこうして自由に生活が出来る。カヲル君は自分の功績と引き換えに僕を無罪にしてくれた。そして僕を引き取ることも約束してくれた。僕にとっても彼は英雄なのだ。この世界で唯一の僕の味方だ。

そして僕はもうひとつ、彼の大きな秘密を知る。カヲル君はなんと使徒だった。出会ったばかりの彼が、あんなに綺麗な人が使徒だなんて。僕はずっと彼らと闘わされてきたから、どう反応していいかわからなかった。そんな時、リツコさんがこう言った。

「彼は無害よ。ヒトと使徒とのハイブリットとして造られたの。ほとんど私達とは変わらないわ。」

ほとんど変わらない。彼女はどこまでの範囲でその言葉を遣ったんだろう。僕はそれを聞いて安心した。けれど、このことでこれから大いに悩まされることになるのだ。


カヲル君と僕の日常はとても心地が好かった。僕達は指と指とを絡めたように得手不得手がぴったりと組み合わさる。カヲル君はもう学校に行けない僕に勉強を教えてくれた。僕は彼の身の回りの世話をした。僕の作る料理をとても美味しそうに頬張ってくれるカヲル君。彼は食事の必要がないのにいつも僕と一緒に食卓の席に着いてくれた。

「これはなんて言う料理だい?」

「揚げ出し豆腐だよ。」

「揚げ出し豆腐か。とっても美味しいね。」

僕はこうすることで彼の知識欲をささやかに満たす。カヲル君は体の差はそこまでないのに仕草や態度は背伸びしても届かないくらい立派な大人だった。余裕があって落ち着いていた。

「無理して僕に合わせているなら、気を遣わないで。」

「こんな美味しいものをこれから毎日食べられるなんて、僕は幸せだよ。」

カヲル君は僕がいなくても生きてゆける。けれど僕は違う。その違いに僕は気後れする。けれどカヲル君は僕をそうさせないよう、僕と同じ目線で驕ることなくすべてを分かち合ってくれた。僕はそのことにいつも感謝した。

「…ありがとう。」

僕は少しでもカヲル君に恩返しが出来るようにふたりの生活をより良いものにしようと密かに心に誓った。

「え?これは何だい?」

そんな僕たちの奇妙な生活は発見の連続だった。カヲル君は知ってることと知らないことの差が激しい。仕事では何カ国語も駆使して連絡を取っていた。僕がどんなに難しい公式を質問してもさらさらと解いていた。なのにガラスの花瓶に牛乳を注ぎそうになる。そんな時、僕は彼を使徒なんだと再確認した。

「ほら、こうすると綺麗でしょ?」

その花瓶に僕の好きな青色の花を差す。カヲル君が笑顔になる。そう。室内にある生活用品も一見普通だけれど、それは彼が知識から模倣したに過ぎないんだと知った。カーテンも包丁もテレビも一度も使われた形跡がなくただ飾られているだけ。

「あはは。何それ。」

ルービックキューブを渡してみたらキューブをすべて分解したカヲル君。今度はふたりで可笑しくて笑った。まるで生活に興味がないかのように必要最低限の消耗しかしていなかった部屋に美しさや楽しさが鮮やかな色を咲かす。

「随分上達したね、碇君。」

「渚君が反復練習だって教えてくれたから。」

そこには世界の中心にそびえる大樹のようにグランドピアノが息をしていた。褒められて、僕は耳まで熱くなる。

使い込まれて深く澄んだ音色の鍵盤を叩く度、僕の心に静かな風がそよぎ出す。何もしないでいいと世界に言われて僕はずっと戸惑っていた。もう誰にも必要とされないのは苦しかった。何もしないでいると僕はそのまま朽ち果てそうだった。でも僕にはピアノがある。こうして音楽を奏でられる。

「カヲルでいいよ。」

「僕も、シンジでいいよ。」

僕達はふたりの差を埋めてゆくように音で語り合った。それは僕にとってこの世界で唯一の救いだった。まるで穏やかなゆりかごのようで、けれど混ざり合う官能にも似ていて、僕は彼に淡い気持ちを抱くようになっていた。

そんな時、カヲル君が言ったんだ。

「僕は君に会うために生まれてきたんだ。」

ベランダでふたり並んで星を見ていた。僕が振り返ったら、カヲル君は僕を見ていた。

「好きだよ、シンジ君。」

僕は嬉しくて泣いた。初めて人から好きだって言われたんだ。こんな僕でも誰かにそう言ってもらえる。僕がいつまでも泣き止まないとカヲル君が心配そうに側にいてくれた。静謐で幸せな時間。

「僕もカヲル君が好き…」

僕はこの時、ふたりの関係がひとつ進んだと感じていた。彼に身も心も捧げたいと願っていた。僕はカヲル君のものになる、そう勝手に思っていた。



「ねえ、どうしてカヲル君はそんなに勉強熱心なの?」

季節は巡ってゆく。ある日、食後に分厚い本を熟読しているカヲル君に僕は聞いた。

「僕は使徒だろう?君はリリン。だから僕が君を知るには学ばなければならないんだ。」

「僕を知るため?」

「そう。僕は君のすべてを知りたいからね。」

「外国語も?」

「それは君を守るため。」

「この本は?」

「君の心を知るため。」

表紙には心理学の用語が書いてあった。

―こんなもの読んだってわかるはずないのに。

不服そうな僕の顔を不思議そうに覗き込むカヲル君。僕は心を見透かされたくなくてそっと目を逸らした。


「イヤフォン、直しておいたよ。」

歳月は重なって、その想いはだんだん累積されてゆく。

「元気少ないね。どうしたんだい?」

ありがとう、と弱々しく呟いてそれを受け取った僕を困った顔で見つめるカヲル君。僕はなんでもないと言うことしか出来なかった。

「僕には君が何でもないようには見えないよ。」

目の前に置かれるマグカップ。僕が不安な時に何度かカモミールティを飲んでいたら、もう覚えてしまったらしい。カヲル君は本当に細かいところにまで気がつく。魔法使いみたいに僕のことはお見通し。イヤフォンのことだって僕は何も言わなかった。でもきっと僕を観察していたんだろう。

僕の足が冷えていたら靴下を履かせてくれる。僕が手が届かなくて爪先立ちになっているとすぐにでも物を取ってくれる。僕が不安な時間帯にはいつも隣にいてくれる。なのに。僕の心はわかってくれない。

「…君に何を言ってもわからないよ、」

淡白な愛し方。そう言えばいいんだろうか。カヲル君はいつだって間接的にしか思いやってくれない。取って付けたような優しさをくれるだけ。カヲル君からは何も求めない。僕に触れてくれない。

―だって、君は僕の気持ちには応えられないじゃないか…

僕は何年も彼のキスを待っていた。カヲル君の隣に座って彼の腕に抱かれることを想像していた。ただ待っていたわけじゃない。一緒に暮らして一年が経った頃、僕は同じベッドで眠りたいと伝えた。そして意識した目で見つめてもカヲル君は微笑むだけ。もう一年経った頃、僕は彼に下着姿を見せつけていた。風呂上がりに逆上せたふりして。でもカヲル君は、風邪引くよ、と言っただけ。僕は君に何をされてもいいのに。僕をめちゃくちゃにしたっていいのに。なのに君は…

だから僕は怖くてもうそれ以上は出来なかった。ただ何でもないかのように流されるのは残酷だ。僕のサインはすべて無視された。僕はカヲル君に必要とされなかった。でも僕は違う。いつまでも大人にならない性に目覚めた体で、僕はいつだってカヲル君を必要としていた。

「シンジ君?」

僕は絶望した。何もかも勘違いだったのだ。愛されていると思っていた。ふたりで恋に落ちていると思っていた。でも――僕はひとりで恋のピエロを演じていた。僕は彼にとってそういう対象じゃないんだ。そうだったんだ。

「どうしたんだい?」

僕は男だし、そんな性的魅力もない。女の子みたいに胸も膨らまないし、いつまで経っても子どもの体。カヲル君はただ優しくしてくれるだけなのに。僕はずっと勘違いしていた。遠回りしてやっとそれを認めた僕はただ悲しくて涙が止まらなかった。

「教えてよ、シンジ君…」

こんな時、同じ家に住むのは嫌だなと思う。逃げ場のない僕は、僕にとどめを刺した相手の横で泣いた。僕が自分の部屋に逃げてもカヲル君はずっと僕の側にいた。心配でたまらないって顔をして僕の言葉を待って、頑なに説明を拒んだ僕に今度は適切な対処をしようと画策する。カモミールティを淹れて、僕の足が冷えてるからって靴下を履かせて、それでも号泣する僕を布団にまで寝かせた。僕はそうやって慰められる程、余計に心がちぎれそうで泣き続けた。違う、そんなんじゃない。僕は心で叫び続ける。そんな子どもにすることを僕にしないで。ただ僕を強く抱き締めて。僕を恋愛対象として見て。

「…ごめんね、」

それでも、好きな気持ちは変わらない。泣き疲れて眠った翌朝、ずっと僕に付き添ってくれていたカヲル君を見つけて僕は思い直す。僕が我が侭だった。彼の側に居られればそれだけでいい。だって僕にはもうカヲル君しかいない。この世界にはもう――

僕はベッドにもたれて眠っているカヲル君に頬を寄せた。触れそうで触れない距離で、心の中では彼に触れていた。キスしていた。そして想う。

僕はいつまでも片想いみたいだ。



「綾波レイに会いに行く?」

「うん。今、父さんと一緒に本部に戻って来てるんだって。」

気分転換が必要だと感じて、久々に綾波に連絡を取ってみた。もう僕なんて忘れてるんだろうと思っていたら、逆に怒られてしまった。何度も僕に手紙を送ってくれていたらしい。どういう訳か、行き違いで僕には一通も届いていなかった。

「でも…」

カヲル君は何かを言おうとした。彼らしくなく落ち着きがなかった。でも、

「君がそうしたいなら、そうするといいよ。」

そう言って送り出してくれた。少し落ち込んでいるようにも見えた。でもカヲル君はあまり感情が表に出ないから僕には確信が持てない。

ずっと皆に忘れられたと僕は拗ねていた。でも実際にはネルフに行ってたくさんの昔の仲間に歓迎されたから、僕は驚いた。綾波から連絡を受けて皆が駆けつけてくれていたのだ。世界は、少なくとも僕の知っている世界は、僕が思っている程、僕を憎んでいなかった。でも、僕はふと思う。誰も僕とカヲル君の家に連絡してこなかったのはなんでだろう。僕はその疑問を一通り考えたけれどわからずに、最後には何もかも水に流してしまった。久々にたくさん笑ったらそんなことはどうでも良くなってしまった。

そして家に帰る。ドアを開けたら、もう何時間もそうしていたかのように、カヲル君が待っていた。僕の顔を見るとほっとしたように笑って、おかえり、と言ってくれた。その顔は心がこぼれそうなくらいで、僕はカヲル君がそんな表情が出来ることに驚いた。


それからまた日常が始まって、けれどカヲル君は少し変わった。もどかしそうな顔をして毎日僕に好きだって囁いてくれる。僕がありがとうと言うと何も伝わらないと焦ったようにまた同じことを言う。僕が知ってるよと言うと今度は途方に暮れたように悲しく微笑む。僕には意味がわからなかった。ただ、好きだという癖に手も握られないことに僕は少しずつ腹を立てていた。

「本当のことを言ってほしい。」

「だから何でもないって。」

カヲル君はどんな些細なことでも気がついて褒めてくれる。今日も僕がカヲル君のいない間にカーテンレールの埃を掃除したら、帰ってきてすぐに綺麗になったねと言ってくれた。まるでセンサーが働いたみたいに。

―なのに僕の本当の気持ちはわかってくれない。

カヲル君は僕の好きなものも全部知っている。ありがとうと言って彼が僕に手渡したのは一本の缶ジュース。在庫が切れる前に僕の好きなそのジュースを袋一杯買ってきてくれたらしい。

―なのに僕の本当の願いはわかってくれない。

そしてまた取って付けたように、好きだよ、と囁いた。愛情でいっぱいの優しい声で。僕はそれを聞いたら急に手に力が入らなくなって、渡されたジュースを落とした。そしてそれを拾うふりして、小さく溜め息を吐いた。

「君は不安な時に指先が強張るんだ。嘘を吐く時には目が左に泳いで――」

「うるさいな!いちいち説明しないでよ!」

「ごめん、気に障ってしまったね。」

「謝らないでよ!」

カヲル君に優しくされる度に僕の神経は逆撫でされた。一歩離れた距離でそうされることが今の僕には全身を針で刺されるみたいに痛い。

もしも僕が、抱き締めて、キスをして、と言ったら彼はきっとしてくれる。でもそれは僕が願ったからで、カヲル君の願いじゃない。ただの奉仕だ。だから僕はそれを言えない。言えないのに、そうしてほしい――その願いで僕はもう窒息しそうだ。僕が泣きそうな顔をするとどうしていいのかわからずにカヲル君がまたこう言った。

「好きだよ、大好きだよ…シンジ君。」

僕が何も言わずに顔を背けたら途方に暮れたカヲル君が一歩踏み出す。僕は抱き締められると思った。万感の想いで、意識して、肌を粟立たせた。けれど僕の期待は虚しくカヲル君は通り過ぎる。そしてピアノを弾き出すのだ。とても情感のこもったノクターンを。

―難しい本を読まなくても人なら自然と理解するものがカヲル君にはわからないんだ。

彼の好きという言葉に偽りはない。その気持ちは友愛なのか恋愛なのか僕にはわからない。でも、もしもそれが僕と同じ愛だとしても、もしかしたらこれが彼の愛し方なのかもしれない。

―触れ合うことはない、ただ側で見守るだけの、愛。

諦めた冷たい心で、でも彼の愛にすがりたくて、僕はカヲル君の隣に座った。そして心の中で泣きながら、ピアノを弾いた。鍵盤を叩きながら、好きな人の肩の温もりを感じて、指先で触れ合って、その息遣いに耳を澄ませた。そして――まるで彼に抱かれているような錯覚に襲われた。

そうしたら僕はもう、我慢が出来なくなった。


真夜中まで待ってから僕はベッドから抜け出した。カヲル君がぐっすり眠っているのを確認して忍び足で浴室へと向かう。服が濡れないように裸になる。察しのいい彼に気づかれないようにこの場所を選んだ。

「ん…」

足を開いて座って、初めて自分のペニスを手で擦る。心の中でカヲル君を呼ぶ。ピアノの音色を思い出す。連弾をしていたら彼の音が僕の肌をぞわぞわと這って体の中にまで入ってくるような心地がした。それは恍惚として目眩がした。このままじゃ頭がおかしくなりそうで、僕はもう欲を吐き出さなきゃと思った。

ずっと我慢していたから手の中のものはすぐに突っ張って反り返る。これがカヲル君の指だったら。そう思うだけで興奮して先端から露が漏れ出る。もしこんな姿をカヲル君に見られたらどうしよう。僕のこんな淫らな姿見たらカヲル君は欲情してくれるだろうか。もう我慢出来ないって理性がプツンと切れて僕に襲いかかってくれたら…

「カヲル、くん…」

思わず声が漏れてしまう。もうイキそう。僕が姿勢を変えて足を踏み締めた、その時だった。

「シンジ君?」

イク寸前に浴室のドアが開く。カヲル君が驚いた顔で僕を見ていた。でも僕は、

「ッ――!」

見られて興奮したのかもしれない。カヲル君の目の前で喘いで息んで思いきり射精してしまった。勢い良く吹き出すその精液の放物線を彼はただ不思議そうに見つめていた。欲を出し切ってくたっと壁にもたれて僕が見上げるとその顔は青ざめているようにも見えた。

―僕が欲しいって言って。

でも僕はまだ少しだけ期待していたのだ。

「…どうしたんだい?」

―感情を剥き出しに怒って。

「痛いのかい?」

カヲル君は僕の予想を遥かに超えていた。彼は僕が具合が悪いのかと思い込んで慌てていた。大人の保護者然とした彼に僕は言葉を失くす。何も言わず動かなくなった僕にバスタオルを掛けて、カヲル君は僕を抱き上げベッドまで運んだ。僕は初めて好きな人の腕の中を知った。そしてその温もりに抱かれて、その腕の優しさにまるで世界で最後の夕暮れを見つめている心地がした。

「辛かったら僕に言ってよ、シンジ君。」

おくるみに包まれた赤ちゃんを寝かせるように僕をシーツの上に下ろして濡れた箇所を乾かしてゆくカヲル君。僕は好きな人にまだ敏感な性器を丁寧に拭われて泣くように、あぁ、と喘いだ。痛いと勘違いしたカヲル君は僕に謝る、ごめん、と。僕は静かに涙を流した。

「何か欲しいものはあるかい?」

優しくされる程に自己嫌悪が心の襞をさざなみのようにざわつかせる。僕は彼には不釣り合いだ。カヲル君と一緒に居ると自分が穢れた人間みたいで嫌になる。無償の愛をくれる彼に僕は自分の欲望が満たされないと怒っている。最低だ。どんどん自分が嫌いになって耐えられない。もう、耐えられないんだ。

「…僕はちゃんとわかり合える人が欲しい。」

「え?」

「僕と同じ気持ちの人が欲しい。」

「シンジ君…」

カヲル君が苦しそうな顔をした。それは使徒の彼にはとても酷い言葉だったに違いない。それでも、麻痺してしまったからっぽの心で僕は微笑んでいた。

「もう一緒に暮らすのをやめよう。」

僕がそう告げると、横になった僕の目の先、白い指先が微かに震えた。

「…僕達、別れるのかい?」

それは付き合っていた、ということなのだろうか。僕は小さく苦笑した。

「カヲル君は僕に同情なんてしてないでちゃんとした人を見つけるべきだよ。」

「ちゃんとした人?」

「君がちゃんと求めたくなる人。」

どうしようもなく求めてしまう人を。言葉なんていらないくらいの人を。するとカヲル君がぼやけるくらいに唇を寄せて囁いた。いつも僕を悩ませる君らしい距離感で。

「それは君だよ。僕は君しか欲しくない。君だけなんだ。」

なら僕にちゃんと興奮してよ、荒んだ心がそう叫ぶ。喉から出てこないように、息を呑んだ。

「君の求めているものを僕に教えてほしい。お願いだよ。」

カヲル君は囁き続ける。僕に触れずに。僕の目から止め処なく涙があふれる。

「君の欲しいものは何でもあげるよ。何でもしてあげる。」

「言葉ばっかり…」

嗚咽を嚥下する。僕だけがくしゃくしゃになって泣く。カヲル君はただ顔を少し歪めて寂しそうに佇むだけ。それはまるで心の差を見せつけられているみたい。僕は苦しくてたまらない。

「僕を忘れて幸せになってよ…」

僕はそういうと上体を起こした。するするとタオルがはだけて裸になる。もうおしまい、そういう態度で、僕は寝室を出て行こうと身を乗り出した。

「嫌だ。」

初めて聞く、否定の響き。

「僕は諦めない。」

僕の横に腰掛けてカヲル君は僕を呼び止めた。切羽詰まって目を見開いて。こんな余裕のない顔の彼を僕は初めて見た。

「僕が君を幸せにする。誰にも渡さない。」

感情的な響き。緊迫したカヲル君は肩で息をしていた。

「最初、僕は君だけが幸せになってくれればそれでいいと思っていた。」

赤い瞳が光を宿して揺れている。どうにかして繋ぎ止めようと僕に訴える。

「けれど世界は君に罪を着せた。だから誓ったんだ。僕は君をもう離さない。」

どうして今更そんなことを言うの。

「僕は世界を変えられた。だからきっと、使徒とヒトの差だって埋めてみせるよ。」

どうしてもう引き返せないところでそんなことを――

カヲル君は心からそう言っていた。でも、と僕は思う。きっと堂々巡りなんだ。僕は君にはないものを求めて、君は僕のことがわからない。これはきっと、変わらない。

――好きな人から望むかたちで愛されることはない。

疲れ果てた僕は、カヲル君から目を逸らした。

「…もう、決めたことだから。」

そして立ち上がろうとした。

「行かないで、シンジ君…」

初めて聞く乞いすがる声に心が揺れる。それでも僕は立ち上がる。

「駄目だ、行ってはいけない…!」

僕の腕を掴むカヲル君。僕はそれを振り切って歩き出す。

「行かないでくれ…!」

カヲル君は僕を後ろから捉まえた。暴れる僕を力尽くで抱き留めてシーツの上に押さえつけた。僕が泣き叫んでひたすら抵抗しても彼は止めなかった。ただ、僕がそうする度に辛そうに呻いていた。泣いているみたいだった。

「僕だって、君をわかりたいんだ…」

やがて僕が抵抗をやめると、カヲル君は僕に覆い被さりながらとても静かに泣いた。泣きながら、これが涙、と囁いた。そして、僕は君に嫌われると悲しい、とまるで学んだことを復唱するように言葉にした。僕はそんなヒト非ざる者の心の叫びが切なくて、意地を捨ててカヲル君を抱き締めた。もう何も考えられなかった。

僕を抱き締め返してくれたカヲル君。裸の僕を潰れそうなくらいに強く強く。息も出来ない程だった。僕はずっとこれが欲しかったと思った。初めて好きな人から求められている喜びにうち震えた。

「シンジ君、」

「うん?」

「心拍数が早くなる。」

ふたりの重なる心音は同じくらい早かった。

「そうだね。」

「どうして?」

「どうしてだろうね。」

「ふたりの触れている箇所が熱いんだ。」

「僕もだよ。」

「どうして?」

カヲル君は耳許でとても不思議そうに僕に聞いた。何でも知りたがる子どものように。それはちょうどルービックキューブを首を傾げて目を輝かせて分解しているあの時のカヲル君のようだった。

「これはね…ドキドキするって言うんだよ。」

「ドキドキする…気持ちいい。」

カヲル君はうっとりとそう呟いた。僕はその声を聞いてくらくらした。そして、

「こうしたら、ドキドキする?」

身をよじってその背中を撫で上げる。

「…うん。」

カヲル君は頷いた。深く息を吐きながら僕に額を擦りつける。

「これは?」

「ん、」

そして僕が股間に触れると驚いて身をびくつかせた。僕がそのまま寝間着の上から指でそこを柔らかく刺激してゆくとカヲル君は、体がおかしい、熱い、なんて動揺しながら興奮してゆく。カヲル君はペニスは硬くなり始めていた。そして、僕の真似して、と手を彼の体中に這わせてゆくと、僕の体を弄りながらカヲル君は勃起した。白い手が貪欲に僕の薄い肉を揉みしだく。僕の名前を呼んで感じてその息は上がってゆく。それが嬉しくて僕は頬を擦り寄せる。カヲル君の唇を欲しがる。カヲル君も同じ仕草で唇を押しつける。そして僕らは初めてのキスをした。唇を触れ合わせて、優しくついばんで、熱い舌で舐めてゆく。それは重なって深くなる。止まらない。

「もっと教えてよ、シンジ君…」

カヲル君はもう熱く硬くなってしまったものを持て余しながら僕に懇願する。見つめている瞳は驚くくらい欲に濡れそぼっていた。

僕は死んでしまうくらい幸せだった。嬉しくて涙がこぼしながら笑っていた。カヲル君は愛し方を知らなかっただけなんだ。なら僕が教えてあげよう。僕は彼のズボンを下ろした。



今でも思い出すと恥ずかしくてたまらない。僕が喘ぐ度に心配して及び腰になるカヲル君。普段はあんなに頼りがいのある彼が僕にしがみついて快感に身悶えしていた。でも最後には、カヲル君はその類稀な物覚えの良さで僕をとろとろにとろけさせてしまう。僕達は不慣れで、でもあふれて止まらない愛情で互いの体を貪り合った。僕は頭が変になるくらい感じてずっとカヲル君に甘えていた。もっともっととおねだりしていた。

「こっちにおいで。」

僕らは相変わらず指と指とを絡めたように支え合って暮らしている。けれど違うところもある。

「くすぐったいよ。」

カヲル君はすぐに僕に触れたがる。僕の腰を抱き寄せて首筋に唇を寄せて、今日はドイツ語を教えてくれる。僕がちゃんと発音出来ると、

「よく出来たね。上手だよ。」

指先にご褒美のキスをくれる。一本一本に唇をちゅっとしてくれる。僕が照れてしまうくらい、そんなことをしてくれる。

そして、夜になると――

「シンジ君、」

「ん?」

「もう一度、していい?」

あれから月日が経って、カヲル君はヒトの愛し方をちゃんと習得した。触れ合うことの幸せに酔いしれて、もっともっとと夢中でせがむ。裸の僕を抱き寄せて、頬にキスをして、指先をきゅっと絡めて。夢見心地の僕が頷くとカヲル君はまた深く腰を沈めた。

彼の知識欲は僕をどこまでも知ろうとして僕を笑顔にしてくれる。僕もカヲル君をもっと知りたくてたまらない。今の僕にはふたりのささやかな違いが愛おしいんだ。分解してしまったルービックキューブをふたりで新しく組み立ててゆく楽しさを、今の僕らは知っている。

だから僕は誰が何と言おうと幸せだ。たとえ世界が僕に背を向けたとしても。


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