僕は君と一番哀しいことがしたい
すべてのペシミストたちへ
「シンジくーん!」
第三新東京市の住宅街のある一角、あるマンション、ある路上。今夜も響き渡る、同じ名前。
「ほーら、やっぱり来たじゃん。」
「シンちゃーん!寝ちゃったのかね…」
「お姉ちゃん、今日も始まったよ!」
街の片隅がざわめき立つ。明るい月夜。満月がビルの谷間から顔を出す。
あるマンションの窓が、静かに開いた。
「やあ。」
カヲルの見上げた声の先、少し不機嫌な顔をしたシンジがいる。どうやら風呂上がりのようだ。
「…今日も来たんだ。」
「遅れてしまってごめん。残業だったのさ。それに君の気も引けると思ってね。」
路上の笑顔が深まってゆく。カヲルはシンジが不安になると風呂でやり過ごすことを知っていた。
「別に…もう寝ようと思ってただけだよ。」
肩に掛けたタオルで毛先の水滴を拭う。喜びや恥ずかしさが入り混じる度、ムッとした表情で隠している。
「変わらないな、君は。」
僕と暮らしていた頃と。そう続く言葉を飲み込む。何故なら、
「今夜こそキメてくれよ!」
「こりゃご機嫌ナナメだから分が悪いや、」
「お姉ちゃん!始まってるよ〜!」
マンションを囲んで辺り一面の野次馬が、出窓でパジャマを着ながら、屋上でビールを飲みながら、塀によじ登りながら、耳をそばだてているのだ。
夜々繰り広げられるカヲルのシンジへのプロポーズは、今となっては第三新東京市の名物となっていた。
「もう部屋に押しかけちまいなよ!俺が許可する!」
ヤッちまいなー、なんて汚い声援まで飛んできてカヲルが苦笑する。カヲルが照れるとそうするのを知っているから、シンジはドキッとするのだった。
ーそう言えば、初めてキスした時もそんな顔してた…
「月が綺麗だね、シンジ君。」
月並みだな!と遠くのツッコミに今度はシンジが笑ってしまう。窓際の柵に寄り掛かり首を傾げる。
「ねぇ、どうしたの?今日のカヲル君、ちょっと変。」
「今日は君にちゃんと伝わるような気がするんだ。」
そう言うとカヲルはとても綺麗に微笑んだ。哀しいくらい綺麗、シンジはそれを見る度いつもそう想う。
始まりの時も終わりの時も、シンジはそう思った。
ふたりが出会ったのはシンジがすべてを失くした時だった。
その時ふたりは紅い夕陽を眺めていた。茜の湖畔、照る水面を背に微笑んだカヲルはとても綺麗で、綺麗すぎて、シンジは胸が苦しかった。綺麗なものは儚い。束の間に過ぎ去ってゆく。だからシンジは別れを想った。別れが来ると知っていれば、その瞬間の痛みは、知らないよりも、ずっといい。
幼い頃、シンジは母を亡くしてそう、理解した。
「何度やったって一緒だよ。答えは同じだもの。」
101回やらなきゃ駄目だな、と名のない誰かがまたふざける。笑い声がそこかしこに転がる。
「それでも僕は何度だって君に同じことを伝えるよ。たとえ1万回だってね。」
カヲルの挑発的な表情。その強い口調に喝采、指笛がこだまする。カヲルさま!と誰かのお姉ちゃんが叫んだ。
「カヲル君はわかってないよ。」
「わかってないのは君さ。」
「期待したって無駄だって言ってるじゃないか!」
「君は僕を試しているんだろう?」
シンジが表情を固くしてカヲルに向き直る。街灯のスポットライトの下、銀髪が眩しい。
「君はペシミストの仮面を被った巡礼者だ。」
シンジの瞳の中には、今のスーツを纏う前のカヲルがちらついている。
大学に進学する際、ふたりでこの街に部屋を借りた。母を亡くした後、シンジは父に厄介払いされて親戚の家を転々としていたので、早く独立がしたかった。
ーあんまり深入りしたらいけないのに…
そう、胸の中で呟きながら一方で、カヲルには抗えないものを感じてしまう。
「君に似合うと思ったんだ。」
大学の帰りに見つけて、と添えて手渡された緑のブーケ。初夏の風のように爽やかな寄せ集めの中に潜む、季節外れのナズナの花。シンジはその花言葉も知らないのに、頬を染める。
「僕、女の子じゃないのに…」
そう呟いて、けれど、ありがとうと葉に埋もれて囁いた。
好きと哀しいって似てる。つんと胸が苦しくなる。そう言えば、昔の人は愛しいをかなしいと読んだって前に講義で言っていたっけ。シンジはふと、そんなことを思った。
カヲルは初めて人から好きと言われる喜びを教えてくれた。その喜びを誰かと分かち合う心地好さも教えてくれた。もしかしたら。この人なら。シンジは何度もそう繰り返す。
言葉なんて信じられない。そう告げてカヲルの言葉を拒絶したことがある。それなのに。信じてもいいかもしれないと思えるくらい、シンジはカヲルに夢中になった。泣けるくらいの恋をしていた。
でも。やっぱり。
ー期待してはいけないんだ…
期待したら裏切られる。
それは父がシンジに教えてくれたこと。
「…思い違いだよ、」
シンジが路面に言葉を投げつける。弱々しく。
「君は新しい窓辺でいつも祈っている。」
「違う…」
「僕に見つけてほしくてまた越してゆく。」
「違う!」
「君は僕が難題をクリアすることで僕の愛情を押し測ってる。」
「だから!カヲル君がこんな騒ぎを起こすからだろ!有名になって困ってるんだ!僕は!」
シンジは叫ぶ。むきになって。
確かに。周りには窓際と路上のプロポーズを固唾を飲んで見守っている輩が星の数ほど集まってきていた。現代のロミオとジュリエットは、コンクリートで塗り固められた要塞都市に灯された一筋の明かりのよう。疲れてぼろぼろになった二足歩行の羽根のない虫たちが、愛の蜜を嗅ぎ分けて群がっている。
「君はいつもそうだった。それは君の過去がそうさせたことだ。だから君は悪くない。」
「わかってるなら帰っーー」
「悪いのは僕の方だ。」
ロミオの唐突な懺悔に、窓辺のジュリエットは驚いて口を噤む。
シンジはペシミストだった。
それはシンジの友達、アスカが及ぼした影響なのかもしれない。
アスカは気の強い活発な女の子だった。とても明るかった。けれど、明るい光に照らされるほど陰が濃くなるように、彼女の中には深い闇が巣食っていた。
「バカね。」
それはアスカがシンジに伝えた最後の言葉。真っ白な病室のベッドで眠る彼女の、焦点のない瞳を見つめて、シンジはその言葉を復唱した。
「………」
頑張れば報われる、幸せになれる…なんて大人は簡単に嘘を吐く。悪びれもせずに、親切ぶって。そうしてシンジの胸にはひとつの答えがぽっかりと、浮かんでゆく。
ー希望を捨てられないことが、最悪の、絶望、なんだ…
シンジはアスカに心の何処かで共感していた。彼女の頑張りは自分に向けてのものじゃない。無理をしても振り向いてほしい誰かが居たのだ。けれど祈りは届かずに、その頑張りは無視されて、ついに彼女は人形になった。空っぽになって天井をただ見ている。そう。空っぽになって。
頑張っても報われないものがある世界ってなんて残酷なんだろう。
シンジは深く沈んでいった。
この世界の色が一瞬にして、変わってしまうほどだった。
「僕は君の哀しみを失くせると思っていた。僕が間違っていた。」
カヲルの声にその痛切な心が滲む。
「なに言ってるの?」
その滲みが窓辺へ届き、シンジの胸を締めつける。
「君が僕を見てくれたら、僕だけを想ってくれたら…君の中から哀しみを追い出せると、あの時、僕は本気でそう信じていた。」
「やめてよ…」
「僕の思い上がりだった。」
「もうやめてよ!」
シンジが窓から身を乗り出して叫ぶと、街中が水を打つ。その波紋は夜風となってカヲルの銀髪を優しくさらった。
「僕がひねくれてるから悪いんだ!全部僕のせいだ!勝手に自分のせいにしないでよ!」
「シンジ君…」
「僕なんかのためにいつまでもこんなことしないでよ!迷惑だ!僕なんか放っとけばいいじゃないか!」
ーそして誰か君にふさわしい人と幸せになったらいいじゃないか…
「そんなことはできないよ。」
「なんでさ!」
「君が好きだから。」
「なんで!」
「僕にはわかっているんだ!君と初めて会った時から、君を見つけたあの日から、僕は君に会うために生まれてきたって!」
感嘆の溜息が場内に満ちる。
「だから、僕はありのままの君を受け入れるべきだった…」
カヲルの赤い瞳が夜空の星のよう、熱っぽく煌めいた。
それはまるで終わりの見えない持久走だった。
ふたりの暮らしは繊細で穏やかで、大切なたまごをあたためるよう。熱くても冷たくてもいけない。カヲルは決してシンジの殻を破らないようにした。ちょうどいい温度を保ち、彼を安心させようとした。
「こんなに濡れて…」
カヲルは雨に濡れたシンジにバスタオルを掛けてやる。そして、どさくさに紛れてさりげなく、抱き寄せる。
「こんなに冷たいと、風邪を引いてしまうよ…」
一瞬で離れてゆくふたり。それは微温湯の心地でさらさらと流れてゆく。
ふと思う。ふたりは同じ気持ちなんじゃないか。シンジの視線を背中に感じて、けれど、カヲルはとても振り向けない。
もしかしたら。そう信じてカヲルは何度もシンジへと手を伸ばした。そして、手を握ろうとしてその指先が手のひらから引き抜かれる時、キスしようとしてその全身で思いきり突っぱねられる時、カヲルは引き裂かれるような痛みを感じながら、何事もなかったように微笑っていた。
だから。曖昧でなければいけない。カヲルは何よりもシンジからの拒絶を恐れた。
そんなカヲルとシンジの共同生活は長く続いた。それは今のように離れ離れになる歳月と同じくらいに。
ふたりの別れ道の夜もまた、満月だった。
シンジには時折襲う発作があった。過去が彼を哀しみに縛りつける。とまらない静かな涙はドアの向こう、カヲルへと違和感を伝え、彼はそっと、シンジの部屋へと入ってゆく。そこにはいつも、毛布に包まったひと塊りがひっそりと、息を潜めていた。
「どうしたんだい?」
シンジ君、と幼子をあやすように囁くカヲル。ベッドに腰を下ろし、意識されたふたりの絶対の境界線に細心の注意を払う。カヲルはシンジに触れようとして、そうしない。
「こんなのって…おかしいよ…」
沈黙に零された声はとても、か弱かった。
「だって…」
目を閉じる。嗚呼、今夜は誰だろう。
「綾波はとても良い子だったんだ…それなのに、僕の身代わりになって…僕がそうなるべきだったんだ…」
伸ばされた白い指先が、握り締められる。
シンジはいつもそうだった。どんなにカヲルがシンジを見つめて語りかけても、もう手の届かない過去ばかりを見つめている。
「綾波…」
ー僕なら君にそんな顔をさせないのに…
泣き濡れた顔を見つめて、頬を撫でる。
「うう、」
ー僕なら君をそうして哀しませないのに…
短い前髪をすくい上げて、丸い額にキスをする。
もどかしい。カヲルにはその自信があった。自分がシンジを幸せにする。たとえどんなことをしてでも。そう想ってずっとシンジだけを見つめていた。
もしも、僕に振り向いてくれたなら
「シンジ君…」
僕を見て、くれたなら
額から唇を離すと、目の前には涙に濡れたシンジがいる。その顔は自分を求めているとさえ、感じられた。
だから、カヲルは殻を破ろうとしたのだ。
「僕が君を幸せにするよ…」
カヲルは深くシンジに沈んだ。もう我慢できなかった。狂おしいほどに願った初めてのキスは、涙の味。震える唇にそっと笑みを浮かべる。拒み傾く首を、そうさせない。いやいやともがく身体を無理やりに抱き締めて、もう離さない。そうして何度も何度も水音が重なると、シンジはもう、抵抗をやめた。
腕の中のシンジを繋ぎ止めるよう、カヲルはキスをしながら彼を愛撫した。まさぐる指先も熱い舌も何もかも、今まで表すことさえ許されなかった想いを必死で伝えようとする。シンジが怖がり身をよじる度に、大丈夫だよ、心配いらないよ、と指を絡めて身体をひらく。密度が高まるほどに甘く痛いと感じた。愛しく苦しいと感じた。けれど、ふたりが泣いていたのは哀しみからだったのか。
シンジはきっと、カヲルを拒絶することもできた。けれど、そうしなかった。カヲルのねだる腰を許して、その熱い強張りを受け入れた。初めての感覚に苦しそうに喘いでも止められずに激しく愛を乞うカヲルを、シンジはたまらなく好きだと思った。どうしようもないほどに愛されている。体験したことのない絶頂の痙攣に、溺れそうな快感の中でしがみつく肌の温もりに、どうしてこんなにも安堵するのだろう。
シンジは初めて自由になれた気がした。
哀しみなんて忘れてしまうほどだった。
けれど今、窓辺と路上にいるふたりは離れ離れ。気の遠くなる距離に互いがいる。
「僕は君の哀しみを否定した。」
ー過去が無ければ今を邪魔されないと思った。
「君の哀しみは君の一部だったのに、それを失くそうとした。」
ーそうすれば君が自分のものになると思った。
「僕は…身勝手だった。」
手を伸ばしても届かないシンジに、この想いは伝わらないかもしれない。カヲルは爪の先までシンジの恋しさに痺れてゆく。
ー身勝手…
そして、シンジは思う。
ー身勝手なのは僕の方だ…
生きるためにはカヲルが必要だった。だから一緒にいた。けれど、果たしてそれだけだったのか。カヲルの側にいるシンジはたまに遠くを見ながらそう、考える。
「ほら、夕食ができたよ。」
気力をなくして眠っていたシンジにカヲルが二人分の夕食を持って来る。シンジの好きなカヲルのシチューの匂いが部屋中に広がってゆく。
ーこんなに優しい人、僕にはもったいない…
カヲルが優しくしてくれる度にシンジはそんな罪悪感を音のない雪のように積もらせた。
「落ち込んでいる顔は君には似合わないよ。」
スプーンでそれをすくうとニンジンが星のかたちになっている。シンジは天体が好き。それだけで楽しい気持ちになる。嬉しくて頬が緩む。それからすんと、切なくなる。
ー僕なんかより、もっとふさわしい人がいるはずだ…
「…おいしい。」
綯い交ぜの気持ちを噛み締めて、味わって。だから、シンジは一線は越えないと心に誓っていた。それなのに…
本当の願いには逆らえなかった。
ーもしかしたら…カヲル君となら、ずっと一緒にいられるかもしれない…
肌を重ねたシーツの上、シンジはカヲルに抱かれながらそう思った。シンジはとても幸せだった。何度も何度も、大事そうに頭を撫でてくれるカヲルの肩にそっと額を寄せてみる。
ーカヲル君とずっとこうしていられたら、僕はそれだけでいいんだ…
鼻から息を深く吸い込む。大好きなカヲルの匂いがする。こんなに安心できたのは生まれてはじめてだった。嬉しくて、そっと身をすり寄せてみる。ふわりと抱き締め返される。
シンジは期待した。ありふれた幸せを。好きな人とずっと一緒にいたい。その笑顔を見ていたい。声を聞いていたい。触れていたい。
それなのに、哀しみはいつだって、シンジにそっと囁きかける。
『この幸せはきっと続かない。』
そのとたん。シンジの胸が冷たくなる。カヲルと分け合った体温が、下がってゆく。
『永遠なんてないんだ。愛は冷める。いつかはカヲル君だって優しくなくなる。』
ーカヲル君がそんなはず…
『カヲル君に裏切られたらどんな気持ちだろう。』
ーやめて…
『カヲル君が他の誰かを好きになったらどんな気持ちだろう。』
ーやめてよ…
『どんなことにも終わりはあるよ。絶対に別れは来る。それはどんなにつらいだろうね。』
瞼を閉じる。睫毛の先に淡い涙が溢れてゆく。
僕はそんなの見たくない。
「ねえ、カヲル君…」
シンジはとても甘えた声でカヲルを呼んだ。とても明るい響きだった。
「何だい?」
自分の腕の中でシンジが素直に愛されている。恋人の仕草でいる。それがたまらなく嬉しい。カヲルはとろけそうな幸せを全身で感じていた。今なら何だってできる気がした。
それなのに。
「一番哀しいことって知ってる?」
まるで夢から醒めるような目眩に襲われる。カヲルは忍び寄る足音に知らないふりをした。シンジにしがみつきたくても、指先が動かない。
「…よく、わからないな。」
「それはね、」
『誰かを愛すること。』
「そうでしょ?そんな哀しいことって、ない。」
嗚呼、なんてことだろう。カヲルはもう息ができない。すべてが崩れ去るなんて、認められない。カヲルはシンジをきつくきつく、抱き締めた。いかないで、というように。
「シンジ君…」
言葉を探す。真っ白で、見つけられない。
「ごめん…」
声がかすれて、身体が震える。寒い。とても寒くて寒くて、シンジにしがみつく。さっきまでの分け合った温もりが懐かしかった。この瞬間が、嘘であってほしかった。
ー君を繋ぎ止める言葉がほしい…
「あは。カヲル君、」
けれどシンジはおどけるのだ。もう届かない存在という風に。
「なんで泣いているの?」
だから、カヲルは涙を零しながら、知らないふりをした。そしてまた、笑うのだ。
「ふふ、どうしてだろうね。ねえ、シンジ君…」
「なあに?」
愛してる、なんて言えただろうか。
「まだ夜明けだよ。もう少し、ふたりでこうしていよう。」
「…うん。」
それからふたりは互いを慈しむように抱き合って眠ったのだ。離れがたくて、時を止めてと願うように。
そして、その日の夕方に、カヲルは暗い顔をして、玄関を開ける。誰もいない真っ暗なからっぽの部屋を見渡して、途方に暮れるのだった。
シンジは何も言わずにカヲルから離れていった。カヲルはその時、シンジの哀しみのかけらを理解したような気がした。
彼はまだその時と同じ場所で暮らしている。そこでいつまでもシンジの帰りを待っている。
ずっと、ずっと。
もう真夜中に近づくというのに第三新東京市は祭りのように賑わっていた。黙りこくったロミオとジュリエットに方々から声援が飛ばされる。
「おまえら両想いなんだろ〜!」
「シンちゃん、こんな愛はないよ!」
「もう!結ばれちゃってくださいっ!」
この瞬間、誰もがふたりの幸せを願った。現実に擦り切れたリアリストも、大事なものを忘れたフェミニストも、シンジのようなペシミストも。もしもふたりが結ばれるのなら、きっと明日は何かを信じられる気さえした。まるで全世界がふたりを背中を押しているようだった。
「シンジ君…」
シンジはカヲルの真剣な表情に姿勢を正す。舞台のはじまりのよう、街が月の傾く音が聞こえてきそうなくらい、静かになる。
「…はい。」
いよいよだ。カヲルが深呼吸する。
そして、今世紀最大のプロポーズの幕が上がる。
「僕は君と一番哀しいことがしたい!」
ピンと張り詰めた透明な声で、
「僕は君の哀しみを止めようとはしない!」
力の限り、カヲルは叫ぶ。
「そしてもう、君をひとりでは哀しませない!君が哀しい時、隣には僕がいる!君の哀しみを僕も一緒に哀しむんだ!」
カヲルがとても綺麗に笑う。哀しいほどの、あの、笑顔で。
「だからもう、君は孤独じゃない。」
誰もがシンジの返事を待っていた。そのシンジは涙を瞳に浮かべたまま、ピクリとも動かない。どれくらい経ったのだろう。カヲルは街の生娘を何人も失神させるほど勇ましかったが、彼の膝は震えていた。ここまで言って受け入れてもらえなかったら、残るのは絶望だけだろうか。僕はどうすればいいのだろう。怖くて怖くてたまらなかった。
そして虚しくも、その予想は当たってしまう。しばらくして、シンジは何も告げずに部屋の中へと姿を消した。窓は閉じる。そしてもう、彼は姿を現さなかった。
「行かないでくれよ〜!」
「シンちゃん、そりゃないよっ!」
「こんな結末って…うう…」
すすり泣く音が侘しい雨のように広がって、もう明日なんて来ないような暗く冷たい夜の闇。
「それでも、君を愛してるんだ…」
カヲルはぽつりと呟いた。どんなに絶望が襲ってきても、どんなに苦しくても、その心が揺るがないのを彼は知っているのだ。
何度も諦めようとした。それがシンジのためだと。そうしてシンジを哀しませる過去を恨む日もあった。やり場のない怒りでシンジを忘れようとした日さえもあった。
けれど、
明日はまたやってくる。そしてまた、今度こそは、と立ち上がるのだ。
ふらふらした足取りで家路につくカヲルの背を、疲れてぼろぼろになった人々の祈りがそっと見送った。もう何も信じられないほどの哀しみをそれぞれの胸に忍ばせて。
そう。世の中はうまくいかないことばかり。
すべてを与えてからすべてを奪うこの世界に、何の救いがあるのだろう。
こんな世界、僕の方から願い下げだ。
そうだろう?
だから、これでおしまいにしようかな。
君はそれで納得できる?
君は明日を諦めきれる?
ねえ、哀しみの先に、何が待っているんだろうね。
僕はまだ、それを見てみたいと思ってしまう。
結局は、何度だって、思ってしまう。
何故?
やがて、明日なんて来ないような暗く冷たい夜の闇も明けてゆく。鳥のさえずりが新しい朝を連れてくる。まだ眠たそうな街の空気を颯爽と切って歩く足音。誰も気づかない、その予感。
カヲルはまだ眠っていた。哀しくて哀しくてヤケくそで眠っていた。そんな彼の静謐さえ奪うような玄関のチャイム。君に夢で会えたような気配がする。二度寝してみる。また会いたい。チャイムが鳴る。また…チャイムが鳴る。
「ああ!もう!」
何もかもうまくいかなくて全身が爆発しそう。銀髪も寝癖で既に爆発している。よれよれのカヲルはとても不機嫌そうにもたついて、玄関のドアを開けた。
そこには夢の続きがあった。
「…ただいま。」
荷造りをしたバッグを肩に掛けて、はにかんだシンジがいる。
この手が届くほど、近くに。
「…おかえり。」
そう。哀しみの先に、明日はまたやってくる。
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