Tropical Lies
嘘にまつわる7つの物語




なまロク 〜何度リテイクしても、君の一度きりの映画だから〜


その3:嘘はいつかバレてしまう。



映画を観てよかったと思うのが、まずコレだ。たとえ映画の世界が終わってもこっちは痛くも痒くもない。

だからいくらカヲルがやつれていっても、シンジが神経質になっていっても、それを観察している傍観者たちにとってそれは娯楽。めくるめく青春のビタースウィート、ただのスクリーン越しのワンショットだ。

「あのバカ、最近、変よね。」

まあ何事にも例外は潜んでいるものだ。

「やーん、姫、心配しちゃう?」

「ち、違うわよ!アイツらしくないっていうか…調子狂うのよ。」

そう。アスカはちゃんと気づいていた。シンジは無理して笑っている。その空元気をごまかすためにレイの側でべったり楽しいフリをしている。そんな利用のされ方まっぴら御免だわ、なんて思っていた。その配役がもしも自分だったならまた感じ方は違ったが、今はレイを同情する。女子による女子のための同盟において。

「ヒカリも変わったわね。」

フンッと鼻を鳴らすアスカ。トウジとイチャついてばかりの彼女の頭上に見えないハッシュタグが点滅。“#Verräter! ”裏切り者と言いたいらしい。マリは舌打ちするアスカに生理かニャ?と首を傾げる。そしてとりあえず、前の席で空気が抜けたみたいにへたり込んでいるケンスケの、伸びすぎた髪を三つ編みにしてシュシュをつけた。

「もう文化祭まで時間無いのにな…」

無抵抗のまま魂の抜けた声だけが浮かんで消えた。監督は半ば諦めモード。フォルム同好会は彼の手に負えずに空中分解している最中。青春ドキュメンタリーを撮ろうという提案は最初いけそうな気がしたが、一晩寝て起きてみたらもう全然イメージできないのだ。俺、何撮ればいいの?背後で駄作の女神が微笑んでいる。ノリ気がしない。いや、例え自分だけがノッていても仕方ないのだ。

「あいつら元に戻ってくれねーかな。」

仲間がいなければ。と、その時、珍しい光景にケンスケの虚ろなメガネがキラリと日を反射する。後ろで奇抜な髪型の自分が撮影されているとは露知らず。


「あの…渚君?」

「な、なんだい?」

「…どうしてそんなに、近いの?」

「ごっっっめん…!」

カヲルが長い足で一歩、後ろに下がると今度は「遠すぎだよ」と聞こえてきた。すると黒板消しが落ちて、二人一緒にしゃがんで額をゴツンとぶつけて頭を抱える。思わずふたりしてクスッと笑う、が、それは一瞬の出来事。ほんわかした笑顔は初夏の蒸し暑い風が連れ去ってゆく。よそよそしさだけが残った。

日直のシンジは黒板を消していた。けれど上の隅に書かれた文字がなかなかの強敵なのだ。爪先立ちになったりジャンプしてやっとの思いで届いても、背の高くて筆圧の強い強面教師の二次関数が呪いのように消えてくれない。そこでそんなシンジの姿に我慢できずおずおずと、カヲルがやってきたのだった。

昨日までならそんなカヲルをシンジは無視しただろう。けれど今、ピンボケの距離にいるカヲルについ声をかけていた。手を伸ばしてさらっとチョークを消した後もずっとそこにいるカヲルに、シンジはふと嬉しさを隠せなかった。そうして、席に戻るカヲルの背中を見つめながら、言えなかったありがとうを唇だけで伝えるシンジ。

「あいつらどうなってんだ?」

ケンスケはメガネを外して拭いてみた。マイルドに見えたのはメガネの汚れのせいだろうか。

シンジはあの屋上で起こったことをずっと考えていた。頭が真っ白になるとはこのことなんだろう。自分がどうしてあそこにたどり着いたのか何をしていてどうやって帰ったのか、まるで覚えていない。ただ、カヲルとキスしたことだけをはっきりと覚えているのだ。

わけがわからなかった。まるでリピート再生の止まらない妄想みたい。ただの夢じゃないかとも疑った。そして思い出しながら何度も自分にそれは願望だと言い聞かせても、ある可能性はしとしととシンジの胸に沁みてゆく。好きじゃない相手にキスなんてするだろうか?

そうやって悶々と考え続けて、結局カヲルに聞くしかないと思い立つ。でもいざ本人を目の前にするとどうしていいかわからない。振り回されてイライラするのに、堪らなく恋しいなんて。聞きたい、でも、聞けない。カヲルが背を向けた時だけのそんな葛藤。カヲルは気づくはずがなかった。けれど、

「王子〜!」

ひとり、ほんのり気づきはじめている傍観者もいた。マリの声にぼんやりしたカヲルが目線だけを向けた。

「ゆるふわ先輩、追っ払っといたよ!」

久しぶりにシンジとまともな会話ができた。あんなに近くで、一瞬だけれど、確かにシンジは笑っていた。夢みたいだ。喜びのリフレインで体中がいっぱいになる。

「ありがとう。また来たのか。」

そして、彼は思ったのだ。

「何度も断っているんだけれどね…僕には好きなひとがいるからって。」

クラスの女子がハッとアンテナを張るのが聞こえた気がした。けれどその注目には目もくれず、カヲルはシンジだけを見つめていた。シンジが少しでも気にかけるかもしれない、と射抜くような熱い視線。その予想は見事に的中。シンジはカヲルの視線を感じて焼かれるように頬を火照らす。そして汗をかきながら、ノートを読むフリをして、暴れ出した心臓をどうにかして飲み込むのだ。

好きなひと?どうして僕を見ているの?見てはいけないとわかっているのについ誘惑に負けてしまう。目の端にぼやけて見える白い顔。瞳を揺らして確認して、シンジの心臓は射抜かれた。無意識に唇を舐めていたカヲル。そして視線がかち合ったとたん、それを止めた。シンジは何故か、カヲルが昨日の屋上のキスを思い出してそれを見つからないように隠したと、そう感じた。

早すぎる鼓動で死んでしまいそうになりながら、アステリズムの謎をひとつずつ答え合わせしてゆくシンジ。そして迷いに迷った挙げ句、彼は決心したのだった。「どうして僕にキスしたの?」そうカヲルに聞いてみようと。



放課後、マリの提案でフィルム同好会は集まった。

「諸君〜!このままだとカントクが無念で地縛霊になるよ〜!」

第壱高には顧問がちゃんといる映画部というものがある。そこでの反りが合わずに退部したケンスケは、実はこの同好会に賭けていた。いい映画を作って自身の名誉を挽回したい。他のメンバーはそれを応援してただ集まっただけなのだ。なのでケンスケ以外はさほど映画を作ることには興味ない。自主性もない。映画にすら興味がない者だっている。

「こんな中途半端なままでいいの〜?」

けれど実際、仲間で何かひとつの目標に向かって頑張るのは楽しい。でも自分から張り切っちゃうのは恥ずかしい。そんな年頃。だからこういう機会を内心みんなで待っていたのだ。

「別に、やるならやるけど…」

一番待っていたアスカは頬杖をつきながらも言い訳っぽい口調になった。

「そうだよね…ごめん。任せきりになっちゃってて、」

そしてシンジがそう合わせれば、

「僕も他のことに夢中で疎かになってしまってたよ。」

と、カヲルがシンジを見ながら呟く。視線を感じて伏し目がちになるシンジ。カヲルは手応えを感じてより積極的になっていた。

「うんうん。じゃ、作戦会議始めるよ!」

会議と言っても机に座っていたり壁に寄りかかっていたり、てんでばらばらな状態だ。けれどこうして集まる時、カヲルとシンジは必ず一緒に並んで椅子に座った。今はシンジを挟んでもう一人、レイが横に並んでいた。レイは描きかけのパラパラ漫画に夢中でなんとなく共作しているシンジの隣に座っただけだが、数センチだけレイ寄りのシンジの椅子がカヲルは非常に気になった。

「まず、映画をどうしたいか決めようよ。」

「今まで撮ったヤツはどうなったんや。」

それ言う?アスカがすごい目をしてトウジを睨む。

「んまあ、それもうまく再利用できるドキュメンタリーはどうかニャと、思ってるんだよね。」

「嫌よ。ショートフィルムでいいから新しいのにしたい。」

その意見に生理二日目で苛ついたアスカが噛み付いた。もしかしたらいつものアスカかもしれないが。そこから見えない場所では、カヲルの上履きがシンジにコツンとちょっかいを出す。絡みそうな足の動きにドキドキしながら、シンジは気づかないフリをした。

「やっぱり同性愛をモチーフにするのは難しいわよ。所詮みんな二次元や夢の世界でなら憧れても、現実だとしたら戸惑うでしょ?」

同性愛という言葉にドキッとする他メンバー。なのに当人たちだけが違うところに意識が向かう。シンジは足をレイ側へと少しずつ傾けた。

「だからやる意味があるんだろ?」

「アンタはカウンター精神とか言っちゃって結局、注目浴びたいだけでしょーが。」

「上辺ばっかりじゃない!」そう語気を強めてケンスケに吐き捨てて、アスカはシンジを横目で見た。彼女はシンジにわかってほしいと心の底から声を上げた。

「この世界は綺麗ごとなんて通用しないの!性差別やいじめだって存在するんだから。そういうとこを無視して気持ちだけでいいこと言っちゃったってしょーがないじゃない!」

だからシンジ気づいてよ、ともう一度、視線を投げる。そんな彼女なりの思いやりをスルーして水面下では、カヲルが足だけじゃ物足りず、密かに机の下、手まで伸ばしてシンジの気を引こうとしていた。こんな大真面目な時にそんなことしないでよ、シンジは困った顔をして椅子をレイへとぐっと寄せた。すると、するり。もうシンジに指先は届かない。その横顔の先にはもう一つ、あの横顔が。カヲルは自分とシンジの世界にレイが入り込むのが本当に嫌だった。

一方、自分の純然たる気持ちとは裏腹に、肝心なシンジが話を聞いていないとアスカにはわかったのだ。椅子を引く音、レイの落書きを覗くフリしたシンジのその先で、カヲルが不服そうにシンジばかりを見つめていた。女の直感がアスカに知らせた。このふたり、ただならぬ状況だぞ、と。

「異論ないでしょ?ロミオ?」

アスカの拳が握られている。心ここに在らずのカヲルが呼ばれたのは自分かと、目だけでアスカを見上げていた。アスカは立ち上がっていた。見下ろすその明るい青の瞳は殺気立って震えていた。

「姫、ちょっと…」

そこで察したマリが間に入ろうとしたが、

「だからアンタじゃなくってレイがシンジと組めばいいって言ってんのよ!勘違いしてめんどくさいわね!」

導火線が短すぎて間に合わない。「あー気持ち悪ッ!」と吐き捨てるアスカ。嗚呼またこのふたりのつば迫り合いかと、誰もが思った。けれど。爆発の火花は思わぬところに降りかかる。

「あんな根暗な子がどうやって演技するんだい?」

まるで軽蔑でもするように、視線を投げる。レイはパラパラと教科書の隅を捲っていた。集中し過ぎて何も聞こえていないらしい。それはまるでテトリスの予想外の連鎖反応。誰もが口をあんぐり、唖然とした。

「ひ、ひどいこと言うなよ!」

そこでそれは更に続く。そんなカヲルが誰よりも信じられなかったのはシンジだった。あの渚君が誰かの悪口を言うなんて。あの、誰よりも優しい渚君が!

「綾波は根暗なんかじゃない!」

シンジはカヲルにというよりもカヲルらしくないものに反発したつもりだった。彼は何も悪くない。けれど、レイを庇うシンジを見つめるカヲルの瞳に、シンジはまるで自分が悪いことをしている後ろめたさに襲われた。シンジは自分ではなくレイを選んだ、と、その瞳は悲しく揺れた。その裏切りに表情が痛いくらい引き攣っていた。決して、そういう訳じゃないのに。



「むしろ今の現状でカメラ回しちゃえばいっか。」

それから間もなく、ケンスケとマリはふたりで廊下を歩いていた。あれから仲間は散り散りに解散したのだ。トウジとヒカリは相変わらずで、アスカはレイを相手に誰かさんへの悪口大会、カヲルとシンジには今誰も近寄れない。

「導入はさ、今の殺伐としたふたりにして、起承転結の起で映画の前半部分とオフショットの仲良いふたり、承で後半部分のアレなふたり、転でまた今に戻って結では結局うまくいかなくて元に戻っちまうふたり。青い春の記録、真のドキュメンタリー。なかなかキレイにまとまったかな。」

誰かの閉め忘れた窓からはいつもより涼しい風邪が吹いた気がした。もうすぐ夏が来るというのに。水で薄めたような雲、青空を気の抜けた炭酸みたいにゆるくしている。やだな、マリは思った。足を止めた。

「カントク、経験ある?」

「ん?」

ケンスケが振り返る。

「レンアイ。」

ガム飲み込んじゃったみたいなケンスケ。

「いや〜ん、童貞?」

うるせーな、と猫背になってまた歩き出す。マリは朗らかな表情だった。けれど、立ち止まっていた。

「監督は何を伝えたいの?」

ケンスケはつまらなそうにまた振り返る。そして驚いた。マリは見たこともないような顔をしていた。

「君の映画を観た子はどうなっちゃうの?恋を全うする前に諦めちゃうような、そんな青春過ごせって?」

その顔は、まるで嵐に立ち向かうようで、

「どうしてまだわからないことを、」

澄んだ眼差しでまっすぐ前を向いていて、

「ふたりの未来を、勝手に決めちゃうのさ。」

とても勇敢に、ケンスケには見えたのだった。


それからその気の抜けた炭酸は少しずつ色を変えていった。クラスメイトのざわめきも遠い昔のような放課後の教室。グラウンドの部活動のかけ声ももう聞こえない、そんな時間。

ふと、時計の針の音に混じって上履きが床を擦る音が聞こえた。そこには日直の仕事を終えたシンジが立っていた。こちらを見ていたのにすぐに目を伏せたと、振り向いたカヲルにはちゃんとわかった。


カヲルはあの場でシンジに怒鳴られ黙りこくった。シンジはその後も応戦しないカヲルにますます声を荒げた。

『渚君ってそんな人だったんだね!』

傷つくことを言えば何か言ってくる、そう思ったのだ。止められなかった。

『見損なったよ!』

でも、カヲルは何も言い返さなかった。ただひたすらシンジを見ていた。シンジだけを見つめていた。その姿に、彼を酷く傷つけてしまった、とシンジは思った。


気まずさが足音をつたって聞こえてきた。消えそうなほどとぼとぼと、やがて消える。シンジはうろうろして仕方なく着席して、机の中の物をまとめた。でもカヲルは知っていた。几帳面なシンジはとっくに帰りの支度を済ませている。なのにどうして?カヲルは静かに混乱する。

シンジはカヲルの言葉を待っていた。その為にこんな時間まで居残っていたのではないか、と。でもそれから学校鞄を肩に下げても空気は何も振動せずにそこにあった。遠くでは蝉の声がひらほら聞こえた。何も聞こえないカヲルは、そんな夏音よりも、遠かった。

遠くからシンジを眺めるだけのカヲル。内臓がバラバラのちぐはぐで、人体模型の幽霊になった心地がした。体育倉庫で僕を気持ち悪がった、僕を見損なったと言っていた…呪いの地鳴りが全身を覆い尽くす。嫌われたんだ、そうカヲルには“わかって”いた。全部僕の勘違いだ!諦めなければ…!そういくら自分に言い聞かせても、シンジへの想いは反比例して募る一方。あんなことがあってすぐにでも家に帰りたかった、それなのに。シンジが学校にいると思ったらもう、帰ることすらできないのだ。カヲルは息を吸うだけでもとても苦しかったというのに。

そして何も言えないまま、時の止まったような時間なのにそう都合よく止まるはずもなく、空は白み、桃色がかる。もうヤケクソだ、一緒に帰ろうと誘ってきっぱりフラれてしまおう、そう自分を奮い起こして立ち上がったカヲルだけれど、それと同時に立ち上がり、顔を上げて「またね…」と言ってしまったシンジ。あと一秒早ければ。そう残念そうなカヲルに後ろ髪を引かれたまま、けれどシンジはそれを振り払うようにして自分の言葉に従った。そしてカヲルが見えなくなるまで我慢して、ひとり廊下を駆けたのだった。

その切ない後ろ姿を見送ったのは偶然にもマリだった。煮え切らない監督が屋上でぼんやりカメラをいじっているのを見送ったばかりだった。そして教室に戻れば、そう、もうひとり。

立ち尽くしているカヲルの背中。シンジの机にそっと、指先で触れていた。彼がいるのにまるでからっぽの教室は、驚くくらい桃色の光が注ぐ。そこでハッと、マリは気づいた。今日というもう二度とない日の空は今までで一番の桃色なんだ、と。この空は今しか見ることができないんだ、と。

シンジは机の上に忘れ物をしていた。青いペン。彼らしくない。カヲルが微かに微笑んだ。これはカヲルとシンジが友達になりたての頃、初めてお揃いで買ったものだ。別に特別な意味もなく同じ物を選んでいた。あの何でもないようなふたりの日々が懐かしい。想い出が水面みたいに反射してカヲルの顔を照らしていた。そして、カヲルはマリが見ているとも知らず、そのペンを手に取って目を閉じて、とても大切そうにキスをしたのだ。マリはそれを見て、かけがえのない本当の美しさだ、と鳥肌を立てたのだった。

「好きなんでしょ?」

カヲルが慌てて振り返る。ペンが床に転がった。

「…君か。」

何でもないというフリをして、それを拾った。

「ワンコくんが大好きなんでしょ?」

「だとしても…それだけさ。」

普段はそこで平行線になるふたりだが、

「それだけって、なに?」

今日は違う。マリの配役はエキストラAでもなければトリックスターでもない。

「君はそれで本当に後悔しない?」

今日のマリは勇者なのだ。

「君の恋ってそんなにすぐ諦められちゃうくらいのものだったの?」

水面から雫が垂れるよう、マリの頬に一粒の夕陽色が煌めいた。

「他人とかどうでもいいじゃん!ほっとけ!」

変に震えた声が出てマリは自分が泣いていると気がついた。ちょっとウケた。ウケたらもう、全力で、爆発するだけ。

「僕らのテイクはやり直しのきかない現実で、夢物語なんかじゃない。でもさ、一度きりなんだよ?一度きりの人生で、どうしても大好きなものが見つかったんなら、しっかり手を伸ばさなきゃダメだよ!ちゃんと掴まなきゃダメなんだよ!」

マリは大きく息を吸った。

「渚カヲル!!しっかりしろよ!!」

気持ちいいくらいスペクタクルな大絶叫。5.1サラウンド超えのすごい迫力で、カヲルは目をパチクリした。そして悪夢から覚めたような清々しさが彼を襲う。嘘みたいに爽快だ。カヲルはたった今、理解したのだ。彼はこの物語の主人公。ハッピーエンドになるかどうかは、彼次第。


ここから物語は自分の意志で動き出す。


「ありがとう…真希波さん。」

ロミオはメロスになったらしい。カヲルは弾けるような猛スピードで教室を飛び出した。マリも「よしっ!」と頷いて、始まりの場所へ。屋上を彷徨うカメラが非常口のドアに何かがぶつかった爆音に、ひっくり返る。

「行くよ!ホンモノが撮りたいなら!」

「…ハイ?」

それからケンスケは訳も分からずマリに腕を掴まれて連行された。引きずられながら驚くメガネが桃色の空を仰ぐ。ついでにツインテールも仰ぐ。綺麗だ、と彼は思った。



その頃、カヲルは全速力で通学路を走っていた。シンジの通る道はちゃんと知っている。自分の推理が正しいなら、シンジはこの歩道橋を右に曲がるするはず。シンジが父親と喧嘩して落ち込んでいた時にふたりで道草したこの路地裏へ。カヲルは未知の自信があった。僕が間違えるはずがない。右折して線路沿いにまっすぐ進み、また右折。そして駆けつけた先、交差点が見えた頃にはもう、あの丸い後頭部。

「碇君!」

寂しそうな肩がバネみたいに跳ね上がって、振り返る。もう二度と会えないオバケに会ったみたいな顔のシンジがいた。信じられなくて、嬉しくて、指先まで痺れていたのだ。

《 Take.1 》

「渚君…どうしたの?」

かすれた声でシンジは聞く。本当は「さっき、君に言ったことは嘘だから!」と言いたかった。シンジはカヲルを見損なってなんかいない。少し冷静になって考えればわかることだった。自分だって逆の立場だったら同じだったかもしれない。レイにヤキモチをやくだろう。「君が君らしくなかった理由を僕は知っているんだ!」頭の中のシンジはそんな感動のシーンを演じていた。

「用がないなら…」

なのに外側のシンジはツンツンと怒ったフリを続けていた。本当に怒っている気もした。

「あ!これ…忘れ物だよ。」

だから、そうじゃないだろ、そう当てつけのようにそっぽを向く。

「…ありがとう。」

手渡されたペンを乱暴にひったくってまた、歩き出す。

《 Take.2 》

「ちょっと待って!」

またシンジは足を止めた。そう、そう来なくっちゃ。シンジは背中に投げかけられる声を待つ。

「一緒に、帰ろう。」

それはまた期待はずれの言葉だった。暴走しそうになったけれど、やっと首を縦に振った。

《 Take.3 》

「久しぶりだね。」

一緒に帰るのは。沈黙をどうにかしようと、隣のカヲルが遠慮がちに呟いた。返事はなかった。もじもじと悩ましげに横顔を窺う彼はさっきと同じ人物だろうか。シンジは思った。ドキドキして僕は損したの?

《 Take.4 》

「あー、いい天気だ。」

違うよ、渚君!深呼吸なんていつでもできるだろ!両手を広げたカヲルにシンジは心の声でダメ出しをする。溜め息が出た。

《 Take.5 》

「そうだ。もうすぐ夏休みだね。」

そうじゃないだろ、NGばかりでだんだん腹が立ってきたシンジ。歯ぎしりをする。

《 Take.6 》

「…忘れ物なんて珍しいね。」

「わざと忘れたんだよ。」

「え?」

聞き間違えだろうか。カヲルがシンジを見つめても、すいすいと先に進んでしまう冷たいシンジ。カヲルの緊張で固まった脳ミソはその意味がわからない。クエスションマークがふわふわと雲になって、桃色の空へと浮かんでから消えた。

早送り >>>

《 Take.9 》

「ちゃんと顔を見て話したい、碇君。」

それからふたりはしばらく無言でアスファルトの上を歩いた。日が少しずつ傾いて色を増してゆく。帰り道がずっと続くわけじゃない。あの踏切までにはこの状況をどうにかしなければ。焦り出したカヲルは、顔も見ようとしないシンジの肩を優しく引いた。

「待ってよ。」

「…うん。」

ずっと止めたかった足を止めて、シンジはカヲルへと振り向いた。表情を崩さないように慎重に。カヲルは既にオバケがもう一度死にそうな顔をしていた。

だからシンジは今度こそ来るぞと思った。

「ごめん…」

なのに、やっぱり、来なかった。

「どうして謝るの?」

欲しい言葉とは違うのだ。

「綾波さんにひどいことを言ってしまって…」

「それは綾波に謝ればいいじゃないか。」

「そうだね、そうだけれど…」

説明しよう。風を切って颯爽とやってきた彼はノープランだった。見切り発車のアドリブはベクトルを完全に見失う。

「君が…綾波さんのことを、好きだから…」

「へえ。僕は綾波のことが好きなんだ?」

いざ声に出されたら内臓が飛び散るくらいの破壊力。瀕死のカヲルはゴクンと喉を鳴らしてみせた。が、声が出ない。

「僕が綾波のことが好きだから謝るんだ?」

もうやめて!カヲルくん息してないよ!客席からそんな悲鳴が聞こえてきそうだが、何せ始めたのはカヲルなのだ。本人はもう何を言っているのかさえわかっていないようだけれど。

「僕は君が幸せならそれでいいんだ…」

自分が何言ってるのかもわからずに、一生懸命、カヲルは笑う演技をした。

「そうだ、僕は君を応援してるんだ…うん。それで…仲直りしようよ、碇君。」

そして吐きそうになりながら、ついでに仲直りの握手を求める演技もした。

最後の最後でいつもこうだ。レビューにはこう書かれるだろう。どうしてそうなる!こうやって、互いを失うことが怖くって、ふたりして最高のエンディングが怖くって、下手な嘘で塗り固めたまあまあハッピーなエンドに落ち着こうとする。同じ気持ちなのに同じ場所を堂々巡り。なんだよそれ!遠くで誰かが――そう、まるで、このふたりの物語の監督が、臆病なふたりにメガホンをしっかり持って遠くで叫んでいる気がした。カット!そうじゃないだろ!と。お前らの本当のハッピーエンドはそんな生ぬるいもんじゃないだろ!と。シンジは確かに、そんな声を遠くで聞いた。

――最高のエンディングは自分でちゃんと掴み取れよ!!

そしてそんな監督の熱血指導はシンジの心に火をつけた。

「嘘つき…」

「ん?」

――それじゃ、いくぜ。

シンジは鞄のショルダーベルトをクシャッと握り潰しながら、すうっと肺いっぱい息を吸い込んだ。


――レディ?ロール!…アァークションッ!


「じゃあなんで!寝てる僕に!キスなんかしたんだよ…!!」

「エエ!?」

意外な展開に飛び上がるカヲル。目の前で本日2度目の5.1サラウンド超え、差し出した手を思いきり引っぱたかれて、すごい速さで一目散に逃げられた。ドーユーコトダイ!?イカリクン!?素っ頓狂な声を上げたカヲル。取るものも取り敢えず逃げるシンジを追いかける。そして一歩先で、まるで仕組まれたかのように踏切がカヲルの行く手を遮断する。

「碇君!」

電車が視界を塗り替えてゆく。そのラッシュにモンタージュの流れが変わる。無慈悲な遮断機のカチンコが幕を上げると、もうそこにはもう、シンジの姿は髪の毛一本見当たらない。

「碇君!」

それでもカヲルは迷うことなく走り出した。

―僕はなんて意気地なしなんだ…

格好悪い主人公のモノローグが世界を彼だけのフィルムの色に染め上げてゆく。

―僕が不甲斐ないから碇君は怒ったんだ…

坂道を下り、常緑に包まれた桜の木を左へ曲がる。春にふたりで浴びたあのひとひらが頬をかすめたように感じた。

―そう、映画のように君を守れるほど僕は強くないかもしれない…

路地裏に飛び込んで、暗く湿ったトンネルを抜けたらそこには眩しいパノラマが広がった。日に焼けた石畳の階段を息を切らして駆け上がる。

―けれど誰よりも僕は君を想っているんだ…!

ひらけた視界は一面の土手。夏の始まりの夕風が、伸びきった葦にさざ波を描く。それは舞い上がりカヲルの銀髪をなびかせて、彼に伝える。雑草たちが指差す方へ。郊外の川が、霞む街が、夕暮れの鳥が、指差す方へ。その先、小道に揺れる影は…

「碇君!」

自分のずるさに涙を流す、小さく悲しい後ろ姿。意地を張って、怒ってばかりで、なのに自分から想いを伝えられない。嫌気がさして、川に飛び込みたいと本気で思いはじめたシンジ。走る力もなくなって、鉛の体を引きずっていた。

―君は僕の運命の相手なんだ!

そんなシンジを救いにゆくようにカヲルはまた駆け出した。届くまで、諦めない。絶対に、諦めない。

「君はもうひとりの主人公なんだ…!」

力強い突風がその叫び声を乗せて一直線に駆け出した。そしてパシャン!体当たりしたそれはシンジの鼓膜を震わせて、ふわり、腕を引く。向かい合ったふたりがついに立ち止まる。やっと声が届く距離で。


「碇君!」

そこで振り返ったシンジは思い知ったのだ。

「僕は君が好きだ!!」

僕は知らないうちに映画の主人公になっていた、と。

「大好きだ!世界一君が大好きなんだ!!」

だってこれは、シンジの描いた最高のシナリオを、

「君の言う通りだよ!」

もっと最高にしようと誰かが悪戯に書き直した、

「僕は嘘つきだ!」

夢のような――ワンシーン。

「本当は君を誰にも渡したくない!」

そのシーンでカヲルが声の限り叫んでいた。

「君の一番でいたいんだ!君の隣にはいつも僕じゃなきゃ嫌なんだ!」

全身全霊で叫んでいた。

「僕は君に会うために生まれてきたんだよ!碇君!」

嘘みたいに綺麗な桃色の空の下、ずっと待ち侘びていた言葉をシンジに向かって、ひたすらに伝えるのだ。

「好きだ!!」

もしもこの世界に永遠があるのなら、きっと今なんだ。シンジは思った。

「僕も…」

全部投げ出したっていい。僕はこの瞬間のために生まれてきたんだ。シンジの心が、そう叫ぶ。

「僕も!!」

それはほとんど泣き声のようだった。そして映画よりも映画らしく、シンジはカヲルへと駆け出した。カヲルも同じように駆け出した。これならようやくOKが出るだろう。やっとふたりはつけない嘘をつかないことにしたのだから。



夕焼けをバックに近づいてゆくふたつの影。望遠レンズで切り抜きのようなふたりだけれど誰にだってわかる。ふたりがどんな顔して見つめ合っているかなんて。

「うひょーなんだこりゃ…」

名演技に監督が思わず声を漏らした。少年たちの繊細なシルエット、その向こうで水面がキラキラ光を転がしていた。

「真実は映画よりも奇なり、かニャ?」

その瞬間、名画の名シーンのよう。色褪せない輝きが降り注ぐ。ケンスケはカメラを構えて初めて感動を味わった。この世のものじゃないくらい、奇跡のように、綺麗だった。

でも、遠巻き過ぎて何を囁き合っているかはわからない。

「行こ!カントク!」

フェンスの上でカメラと双眼鏡でその情景を眺めていたマリとケンスケ。勢いよく飛び降りてからほふく前進。土手の斜面をよじ登った。

「ボクハソノママノキミガスキダヨ…わーお!」

そしてふたつの頭がひょっこり姿を現した時、双眼鏡で口の動きを読みながらマリにははっきりと見えたのだ。カヲルがシンジの頬にキスしてアハハえへへとだらしのない顔で照れている。そんなカヲルに「もう!」なんてたしなめるシンジだけれど、なんてとろけそうな笑顔なんだ。カヲルが表情筋が緩みっぱなしの酔っぱらいみたいな顔で不気味に笑い続けていると、ちゅっ!なんて、可愛い音の聞こえてきそうなキスの仕返し。見事にカヲルの唇を奪ったシンジ。「お返しだよ!」なんて言われて、またしても嬉しさにフニャフニャ気絶しそうなカヲル。よろけながら湯気を出して溶けそうだ。気絶するのはこっちだよ、と言いたいこちら側である。

「こ、これどうするんだよ…!」

気がつけば汗まみれ泥まみれのふたりをこの映画の作り手を置いて、映画の主人公たちは歩き出した。並んで寄り添って、しまいには手まで繋いで、まるでこの世界にはふたりしかいないと言うようにしれっと華麗にフェイドアウト。

「ありゃ?このマーク、なに?」

「え?…嘘だろ!?」

けれど現実は思い通りにいかないことばかりなのだ。ケンスケは「電・池・切・れ…!」と声を押し殺して絶叫して、そのまま力なく土手を逆さに転がり落ちた。そんなオーバーリアクションを真似て「わーい!」とマリも転がり落ちて、ちょこっとパンツもお披露目された。そして草むらの中、同じように大の字で寝そべるふたり。息切れの音がどんどん桃色を橙に、そして紫に変えてゆく。

「すごい画撮れたって本気で思ったんだぜ?」

「うん。」

悔しそうな、でも清々しい声だった。

「ゲスい意味じゃなくって、ただ、綺麗だったんだ…」

「うん。」

ケンスケのグロッキーなメガネがずれて紫の空に染まっていた。でもその奥ではあの水面がキラキラ光を転がしていた。夢のような色を湛えて世界のすべてを肯定していた、あの情景。

「だからさ、」

そこにはすべてが詰まっていたのだ。

「それを誰かに見せたかった…」

ケンスケは心からそう思った。

「だいじょーぶ、かもよ?」

その時だった。マリがおもむろに立ち上がった。不穏なBGMが似合いそうな逆光の彼女。携帯を構えてニヤリ、悪戯っぽく笑っている。

「青春だニャー!カントク!」

そしてケンスケは目を細めて数秒後、このシークエンスの意味をやっと理解した。

「少年よ、君はいつだって君の映画の主人公なのだ!えっへん!」

実はずっとみんなの青春ドキュメンタリーを撮影していたマリ。そう、この映画の真の監督がついにここに登場したのだ。



つづく


top



「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -