Tropical Lies
嘘にまつわる7つの物語




秘密じゃない暗号


その2:つき通せない嘘ならつかない方が良い。



ふたりの瞳が互いを小さくその中に映す。それはクローズアップされて、

「渚も碇も何やってんだよ。いくぞ。」

すぐに離されてしまう。

一度知ってしまったことを完全に忘れてしまうことなんてできない。カヲルとシンジはキスをした。たとえそれが演技という名目でも、片想いの相手に気持ちを告げる前に先へと進んでしまったことには変わりがないのだ。

「碇君。」

「何、渚君。」

ケンスケに呼ばれてふたりは校庭へと向かう。体操服にはとっくに着替え終わっているのに、なんとなく教室に居残ってしまっていた。

「今日はちょっと用事があって、」

「また?」

「…ごめん。」

並んで歩くカヲルとシンジ。ふたりの距離には他人行儀の風が吹く。それは日を追うごとに広がってゆく。まっすぐ前を向いたまま、ちらとも目も合わせない。

「謝らないでよ。そんな気がしてたから…今日は綾波と帰ろうと思ってたんだ。」

え?カヲルはシンジへと振り返る。その横顔を見つめても、振り返ってはこなかった。


最近、カヲルはシンジと一緒に登下校しない。しかもいつも微妙に下手な嘘ばかり。忘れ物をして、職員室に呼び出されてて、はまだ可愛い。ちょっと法事で、と言われてハ?となるのを抑えるのは大変だった。

シンジはカヲルに避けられていると悟った。でも、理由はわからない。わからないから、シンジもカヲルを避けるようになった。仕返しに距離をあける。それと反比例するかのように、

「綾波、絵上手になったね。」

当てつけに、レイと仲良くしてみたりする。レイはフィルム同好会の美術の経験がこうじて絵を描くようになった。さっきからシンジとレイは同じノートに落書きをしている。

「何よアレ。」

「お似合いのカップルじゃ〜ん。ね、王子?」

カヲルはさっきから文庫本を読むふりをして落書きでイチャついてるふたりを観察していた。マリに話を振られて慌てて5分かけて読んだページを一枚めくった。

「人のことを陰で言うもんじゃないだろう。」

抑えきれない。その綺麗な眉が歪む。カヲルは席を立って廊下へと出た。

「器用なやっちゃ。」

分厚い文庫は机に垂直に置かれていた。


非常階段に座ると、春から初夏へと渡る風が彼の銀髪をやさしく揺らした。遠くには青空。緑はあの屋上で撮影をした時から随分と濃くなった気がする。

カヲルはシンジのことを想う。屋上の床に押し倒されて照れる笑顔。早い鼓動。唇の味を思い出す。キュンとなる。さっき見たレイと楽しそうにしている姿。胸が苦しくて、深呼吸。

彼は自分でもどうしたらいいのかさっぱりわからなかった。少し前まではそう考えることもなく、ただ一緒にいられればよかったのに。あのキスで何もかもが変わってしまった。

シンジの側にいると体が疼く。それを隠そうとするとぎこちなくなる。会話なんて上の空で、どうしたの、なんて聞かれる始末。言葉が見つからないでいると、いつの間にかシンジはカヲルの横では笑わなくなった。

避けているつもりはない。ただ、ちゃんと頭を整理して、向かい合わなければと思った。そのために遠くから眺めていた。

シンジへの好意をどうしてゆきたいのか。きっと答えは最初からあって、でもカヲルはまだそれを認める勇気がない。午前の体育の時間、シンジを見て短パンからすらりと伸びた綺麗な腿に触ってみたいと思ってしまった。大切な親友をいやらしい目で見てしまった自分が恥ずかしくて、カヲルはコンクリートの階段の隅で小さく小さく膝を抱えた。

友情が大切だから、一歩を、踏み出せない。曖昧な境界線を超えられない。


「それ、渚くんと同じね。」

シンジはノートに青ペンで点線を引いていた。レイは赤線。今まで気にも留めなかった。大事な箇所はカヲルもそうしていたから皆そうしていると思っていた。

「それにコレも。あんたたち双子?」

アスカが指差す先。トウジに借りた漫画本を机の上に直立させている。

「だってこっちの方が取りやすいし、」

遠くの机を横目で確認すると、見事にそっくりな姿勢で文庫本が放置されていた。

「ミラーリング効果って知ってるぅ?」

マリが乱入。ほくそ笑んで赤い眼鏡を賢そうに指で上げる。

「何よ。さっさと言いなさいよ。」

「好きな人に無意識に似ちゃう現象〜!」

「や、やめろよそういうこと言うの!」

「ちなみに嘘つく時の高速瞬きも鼻歌の調子っ外れのメロディも靴ひも結ぶ時に小指が立っちゃうのも――」

「アイツ小指立っちゃってんの!?」

「いいかげんにしろよ!人のことを陰で言うもんじゃないだろ!」

真っ赤になったシンジが廊下へと退散する。ちょっと前に見たような光景だった。

「デッジャヴ〜!」

「ミラーリング効果炸裂!」

「見て。碇くんと共作。」

「なになに?」

ノートの角を曲げて指をスライドさせる、そこにはパラパラマンガが完成していた。傘の上に飴が降り積もってゆく。


昼休み、なんだか居心地が悪くなってシンジは屋上でひとりで食べることにした。それまで一緒に食べていたカヲルとも変な空気で、レイと食べたくてもアスカとマリがセットになる。シンジはカヲルのことでからかわれるのは我慢できなかった。

陽射しが眩しい。後頭部が熱くなる。本当は非常階段で食べたかった。休み時間、そこを避難先にしたら先客がいたのだ。ドアを開けたら目の前にドアノブを掴み損ねたカヲルと見事に鉢合わせ。ビリッと電気が走るみたいに緊張した。だからもう、ここへ一目散に逃げ込むしかなかった。

屋上は嫌でもあの日のキスを思い出してしまうから来ないようにしていた。思い返すと曖昧な感情の洪水がシンジを襲った。シンジはカヲルが好きだ。けれど、どんなかたちの好きなのか、深く考えないようにしていた。カヲルとのキスシーンの撮影も楽しみだった。それを認めても、それは渚君は綺麗だしふたりとも思春期で性への好奇心もあるから、という逃げ道も用意していた。何より、好きだからどうこうしたいというわけじゃなかった。

でもキスをしたら、世界の全てが変わってしまった。同性の自分がカヲルのことを異性のように意識していることを知ってしまった。カヲルに女の子のように抱き締められたい、と想像している自分が気持ち悪くなった。シンジは大人と子どもが混ざったような内側に渦巻く欲求を汚いと感じていた。

「わけわかんないや…」

弁当箱を片付ける。食欲が湧かない。

そして教室に戻る途中、廊下の窓から校舎裏を眺めた。カヲルが木陰で知らない女子と向かい合っていた。シンジは立ち尽くす。小さく震えた唇を噛む。

それからシンジはカヲルに冷たく当たるようになった。



突然のことだった。カヲルはどんなにシンジを見つめても視線を受けることすらなくなった。彼が戸惑っている間にシンジは遠くへと行ってしまった。カヲルの居場所は完全にレイに奪われていた。ふたりが並んで帰る姿はまるでカップル。たちまちそんな噂がクラス中に広まった。

「王子かわいそー。」

カヲルは今でも熱っぽい目でずっとシンジを眺めている。レイと一緒に今度は教科書の隅に交互に何かを描いているらしい。ふたりがページをめくって笑う度にカヲルは唇を噛み締める。ポケットに両手を突っ込み、イライラと長い足を貧乏ゆすり。明らかな嫉妬の表情にアスカは笑った。

「露骨すぎてウケるわ。」

「これでよかったんだよ。アイツらがホモまっしぐらなんてなったら、BL路線に切り替えた俺の責任になっちまうだろ。」

「カヲシンお似合いだったのにー。」

「オエッ!やめなさいよ!」

「薔薇がダメなら百合でも咲かす?姫、マリアスでどうかニャ?」

「だからやめなさいよッ!」

そんな外野の騒がしい声も今のカヲルには届かない。頭の中がシンジだらけ。一触即発オーラのカヲルに誰も近寄っちゃいけない気がした。

「あの、渚クン…」

違うクラスの女子を除いて。教室のドアに貼りついて萌え袖のゆるふわ先輩がカヲルに声をかけていた。

カヲルが気づくかわりにシンジが彼女へと振り返り、そのままチラッとカヲルを見た。カヲルはシンジしか見ていなかったからその視線に射抜かれ、自分に用かと立ち上がる。けれどもう一度、先輩が大声で呼ぶもんだからよそ見をすると、もういくら見てもシンジと目が合うことはなかった。碇君、と呼びかけたい。なのに何故かそれができない。カヲルの胸はじくじくに傷口が悪化。もう息をするのも痛い。


午後の体育の授業中、シンジはカヲルに呼びかけていた謎の美少女の存在を考えていた。それはきっと前に見た校舎裏にいた子。どういう関係なんだろう。気になってしょうがない。気になってしょうがないのに、次の瞬間、シンジはカヲルに怒りを露にするのだった。

どういう関係?決まってるじゃないか。

ボールが足元に転がってきた。手に取ろうとすると、それの来た先にカヲルがほんのり期待の表情で待ち構えていた。だから爪先がボールを蹴飛ばす。間違えちゃったという風に。

怒りにまかせてカヲルに冷たくするシンジ。一緒に帰ろうと言われてもレイがいるからと断る。話がしたいと言われても僕はないからと顔を背ける。心の中で、なんで今更、最初にしてきたのはそっちじゃないか、なんて憎しみをむき出しにした。カヲルの横にいるだけで嬉しくて仕方がなかった頃とはまるで別人。シンジは自分がこんなに酷いこともできるんだと知った。

「全部渚君のせいだ…」

シンジは教師に言われてラインカーを取りに行く。なんで僕なんだ。校庭に白線なんていらないって皆が言わないのは渚君のせいだ。つまずいた。運が悪いのは渚君のせいだ。野外の体育倉庫はずっと向こうの校庭の端。こんな立地も渚君のせい。ひとりでトラックを対角線上に横切ったらギラギラした陽射しにやられてもうダルい。渚君のせい。女子は体育館でうらやましいとぼんやり思ったらそれも渚君のせい。

溜め息を吐いて埃っぽい倉庫を開けると、掃き溜めのように道具が所狭しと置かれていた。ごつくて大きくて土のついたものばかり。薄暗くてラインカーが見つからない。跳び箱やカートを掻き分け、陸上競技コーナーの奥にようやく目的のブツを見つける。そうして手を伸ばした時、引き戸に縁取られた外の光がガラガラと細くなった。振り返ると、カヲルが後ろ手でドアを閉めていた。

「何してるの?」

シンジは声が震えないよう細心の注意を払う。ほとんど明かりのない場所でふたりきり。奇妙な興奮や緊張が全身を支配していた。

「ごめん。話がしたかったんだ。」

「僕はしたくない。」

「誤解を解きたい。」

何の誤解、と聞こうとする。校舎裏の木陰が頭をかすめて、聞きたくない、と心が叫ぶ。

「ラインカー取るから開けてくれない?よく見えないよ。」

澄ました声で、冷たく言い放つ。

「無視しないでおくれよ。」

目が慣れてきたらすぐ側にカヲルの顔があることに気づいた。身を乗り出してシンジの腕を掴もうとしていた。

「触らないでよ!」

咄嗟に手を引っ込めた。まるで菌を嫌がるような仕草になってしまい、胸にチクッと針が刺さる。やりすぎたかな。カヲルが息を詰めたのを聞いた気がした。

「僕に触られるのが嫌なのかい?」

穏やかな声だった。それがとても悲痛だった。

「僕が気持ち悪い?碇君。」

カヲルの呼吸が早くなる。

「だから僕を避けてるのかい?」

「君から避け始めたんじゃないか!」

シンジは不当を訴えるような声を出した。弁明にも聞こえた。

「避けてたんじゃないよ。時間が欲しかったんだ。」

「そうだろうね。でも、ちゃんと言えば良かったんだ。」

彼女ができたって。シンジは思った。

「どういう意味だい?」

あの日、廊下の窓から校舎裏を眺めた時にシンジの中で点と点は繋がっていた。彼は恋心を自覚した時に、恋の花を蹴散らされてしまったのだ。

「どうって、そういう意味だよ。」

とても勇気のいることだった。でも、自分ばかりがあの夕暮れのキスを意識していた。そう思うと馬鹿にされて裏切られたような苦しさがこみ上げる。

「それじゃわからないよ。教えてよ、碇君。」

あれから毎日毎日、一秒ごとに、シンジはその気持ちに気づかなかったと自分に嘘をつき続ける。それがいつの日か本当になるようにと。

「…僕はもう、君とは友達じゃない。」

そう。失恋相手に冷静に、友達のふりなんてできない。

もうやめにしよう、そう首を振ってシンジは倉庫の入り口へと歩いてゆく。カヲルの横を通り過ぎて、ためらいもなく目の前のドアに手を伸ばす。

すると、カヲルはいきなりシンジを掴み、無理矢理壁へと押しつけた。その衝撃でバラバラと走り高跳びの器材が崩れる。驚いたシンジは防御するよう身を縮めた。殴られると思ったのだ。

けれど違った。カヲルはその体をぎゅっときつく抱き締める。シンジが慌てて抵抗するとうわ言のように碇君、碇君と耳許で囁いていた。嫌だと言ってもシンジの名以外言葉を知らない獣のように覆い被さる。いくらシンジが突っぱねても叩いてもカヲルはやめなかった。ただ彼の息づかいだけがその感情の激しさを表していた。

その時だ。コンコン。ドアをノックする音が倉庫内にこだました。一瞬、カヲルとシンジは硬直する。そしてその隙にシンジはふたつの腕をすり抜けて、倉庫から命からがら逃げ出したのだった。

「ありゃ?王子たちか。こりゃ失敬。」

そしてマリが体育館の倉庫になかった備品の話をしている間、カヲルは宙を見つめて放心していた。あの硬直した瞬間、カヲルは見てしまったのだ。シンジがくしゃくしゃになって泣いていたのを。自分のせいで。

「あの体操服姿じゃムラッときちゃうよねん。カヲシン体育倉庫エッチかぁ。見かけによらず大胆。ムフ!」

「は?」

「しらばっくれてもム〜ダ!君のパンツの中でおっきしてるのを早く諌めなさい。」

口に手を添えてニヤけて笑うマリ。その注目する先を見る。そこでやっとカヲルは自分が勃起しているのに気づいた。

「今すぐここから消えてくれ!」

それからカヲルは本当に体育倉庫に用があったシンジとマリを手ぶらで帰し、股間が言うことを聞いてくれるまで黴臭い倉庫の中に自身を埋葬した。絶望に膝を抱えて点と点を結んでゆく。

「碇君だって感じたはずなのに…」

カヲルは毎日思い出す。敏感になったシンジの体温。あのキスで、確かにシンジは興奮していた。半径ゼロセンチでそれを手に取るようにわかった。それなのに。

「まるで汚いもののように扱うんだね…」

涙がにじむ。シンジの味を知ってからカヲルは自信が持てなかった。好きな気持ちが暴走してしまいそうになる。もしもコントロールできなくなってしまったら。どうなってしまうんだろう。カヲルはただ、昂る感情や性衝動でシンジを傷つけることが怖かった。だから嘘を重ねて彼を遠ざけることにした。時間が解決してくれることを期待したのだ。

けれどどうすればいいかわからなくなっているうちに、自分の居場所がレイのものになっていた。慌ててシンジを引き寄せようとしても、もう手遅れ。シンジはカヲルの話を聞いてくれない。その瞳で見てもくれない。それが寂しくて苦しくて、気が変になりそうで、取り戻したくてもがいても、事態はこじれてゆくばかり。そうして結局、こうなった。シンジを傷つけてしまった。

「僕はどうすればよかったんだ…」

カヲルはチャンスが欲しかった。シンジの隣が自分の居場所だと許してほしかった。だから、もう一度、僕を見て。そう言いたくても声が出なくて、必死に離れられないとしがみついた。

でも行動は言葉と等しく誤解を生む。考えてみればマリの指摘は一方で正しい。襲っている、そう見られてもおかしくなかった。それにカヲルは今となっては密室の暗がりでシンジを押さえつけてから自分が何をしたかったのかわからない。だって、シンジと触れた箇所が今でもこんなに灼けるみたいに痛い。ずっと触れたかったから嬉しくて目眩がしていた。理性なんてそこにはなかった。

カヲルは自分の体から抜け出したかった。そうしたらシンジとずっと一緒にいられるかもしれない。そう思うほど、もうそれが永遠に叶わない夢のように感じてしまう。



恋は世界のパースペクティブを崩壊させる。
均衡を失くした世界の果てにどこまでも墜ちてゆく僕たち。
僕たちは恋を目の前にしたら哀しいくらい無力になる。



1Aの教室は静かだった。机に突っ伏して死んでいるメンバー2名を傍観するフィルム同好会一同。ふたりにピントを合わせて交互に見やる。

「シンクロ率400%だねぇ。」

同時に寝返りを打つ、カヲルとシンジ。

「まーた何かあったのかしら。」

マリは体操服のランデヴーをちゃんと秘密にしてあげていた。

「あ、閃いた!カントク、青春ドキュメンタリーってのはどう?」

「だから俺は、友達をホモに――」

「“僕たちのリアル”はシナリオ通りにはいかないよ?あのふたりだって。」

マリの言葉にケンスケは蒙を啓かれてゆく。

「ドキュメンタリーなら編集すればどうとでもなるな!」

「ニャー!」

やっぱりちょっと違った。

「なんのこっちゃ。」

「わぁすごい!鈴原見て見て。」

ヒカリがトウジの袖を引っ張る。トウジの耳が赤くなる。ふたりの目の前ではレイが教科書をパラパラとめくる。手のひらの上、くるくる回るハートが飛んでゆく。辿り着くのはもうひとつの、誰かの手のひら。


放課後までの記憶がなかった。カヲルは虚ろな目で非常口のドアノブを回す。

屋上に来るのは久しぶりだった。見渡せば何も変わっていない。でも確実に時は過ぎ去っていた。春の残響。思いたくないのに、あの日に帰りたいとつい思ってしまう。このままドアを閉めようか。でも、非常階段には変な先輩が自分を待ち伏せしていて、ここしか宛てはなかった。まだ家に帰りたくない。今のカヲルにとって学校はシンジとの唯一の共通項。微かな可能性を感じていたかったのだ。

けれど、神様は容赦なく悪戯をする。

「あ…」

入り口では見えなかった。屋上の一角、ちょうどあの日ふたりが寝そべった場所で、シンジが横になっていた。耳にはイヤフォン。お気に入りのSDATで音楽を聴いている。

足をすくませながらゆっくりとカヲルが近づいてゆく。けれど反応はない。シンジは眠っていた。よく見ると片耳からイヤフォンが抜け落ちて転がっていた。

彼を起こさないようにそっとカヲルは側でしゃがみこむ。自分の影で目覚めないように首を傾げた。こんなに近くでシンジを隅々と眺めるのは久しぶりだった。少し疲れているように見えた。そして、

「……、」

頬に涙跡。さっきもここで泣いていたのだろう。カヲルは恐る恐る指で触れないように涙を拭う仕草をした。拭えないのがもどかしくて、胸が痛い。

誰かに奪われるくらいなら自分で壊せばよかったんだろうか。

もしも最初からその覚悟でシンジに想いを告げていたら。ふたりはどうなっていた?曖昧に友達を続けられた?もっと早くに絶交していた?それとも…

瞳がその中に想いを映す。点と点は線よりも先へ、アステリズムを描いてゆく。それはクローズアップされてゆく。暗号は解かれてゆく。

―――碇君、

「僕らはもう、友達じゃなかった。」

カヲルはそっと囁いた。

そう。キスをした時にはもう、わかっていたんだ。だから帰り道、僕らは少しだけ距離をあけた。互いに意識したんだ。それは、確かに、

―――渚君?

恋だった。

あの日から季節は巡る。伸びた陽の長さがまだ夕焼けを連れて来ない。そのかわり名前のない色をした空の下、ふたりはもう一度、キスをした。


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テーマ「人外ファンタジー」
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