永醒-千夜一夜星巡り-



「いい天気だ。」

病室のカーテンは春風に揺れている。季節は巡り、あの僕らの夏は過ぎ去って、秋を通り冬を越えた。この第三新東京市には十五年ぶりに雪が降り、人々は感嘆の溜め息を吐いたのはつい先月。君にも見せたかった。

「シンジは?」

横目で覗くと赤毛の彼女が立っていた。セカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレー。

「もう、しっかりしなさいよ!」

彼女が振り上げた手を止めるのは僕の役目らしい。シンジ君へと向けられた手は戸惑いに宙に揺れる。それを無言で掴むと彼女は涙を溜めた目で僕を睨み部屋を後にした。もう何度そうしたことか。時を重ねて、僕は打てないのに手を伸ばす彼女の心を少しずつ理解していた。

彼女は激しい罪悪感に苛まれていたのだ。シンジ君がこうして病室のベッドに抜け殻のように眠っているのは、端的に言うと彼女に身代わりになったせいだ。
第十五使徒アラエルに襲われるのはシナリオでは彼女だった。しかし彼女があの禍々しい光線を浴びようとするその時、事は起こった。弐号機を庇って両手を広げ立ちはだかる初号機。シンジ君は父親でもある司令官の命に背き、自力で初号機を覚醒させたのだった。彼女は助かった。シンジ君は犠牲になった。


「…碇君。」

振り返るまでもない。いつもこの時間には決まって彼女はそう囁く。ファーストチルドレン、綾波レイ。

「また来るわ。」

僕の反対側からシンジ君をしばし見つめた後、彼女は微かに残念そうな抑揚でぽつりと呟く。起きている僕への言葉ではないのを知っているので、僕は何も言わずシンジ君の手に手を重ねた。指先が冷たかったので立ち上がり、窓をやや閉める。遠くでは絶滅を心配された春告鳥が鳴いている。そして、要塞都市を縫うようにちらほらと色づく淡い桜。

精神汚染を受けて寝たきりのサードチルドレンの代わりとして、僕はシナリオを繰り上げてフィフスチルドレンとしてネルフへと召集された。そして第十六使徒アルミサエルによって起きる悲劇を回避したのだ。
ファーストチルドレンは自爆せずに済んだ。シンジ君と初めて出会ったあの湖をつくらなかった。けれど、彼女はあの日以来、少しずつ変化している。それを一番に感じたのは、戦略自衛隊がネルフへと攻め立ててきた時だ。


彼女はシンジ君を守ろうとして、隔離されていた僕に助けを求めにやって来た。僕は第十七使徒タブリスである事を知られて赤い水槽に幽閉されていたのだ。そこは彼女もよく見知った場所だった。

「助けて。」

シンジ君を背負った彼女が震えた声でそう告げた。人形のようにだらんと肢体を引きずったシンジ君は検査着がはだけ、彼女の脇腹からは止め処なく鮮血が流れていた。すると彼女はぽろりと涙を零したのだ。痛いからではないと僕にはわかった。彼を守りきれない自分の不甲斐なさと彼を失う事への恐怖。僕と同じだ。

LCLに浸かって麻痺された虚ろな僕を全力で引き上げる彼女は、非力に打ち震えながらも「碇君をよろしく。」と掠れた声で囁いた。そして僕をどうにか床に放ると意識を失った。まだ身体の動かない僕の目の前には、儚く眠り続けるシンジ君。僕は必死で手を伸ばそうとする。指先に力が入らない。遠くから轟く騒音に、終わりの時は近いと悟る。その時だった。

「カヲル君。」

僕はそう呼ばれた気がした。そして次の瞬間、僕は自分でもわからない光に包まれて、力を解き放ったのだった。気がつくと僕は知らない天井を見上げていて、データ上、僕がネルフの危機を救った事になっていた。戦略自衛隊の暴走の隠蔽と引き換えに僕の使徒だという事実は闇に葬られ、僕がネルフ側につくとゼーレは間もなく鎮圧された。ゼーレの不在で碇ゲンドウが何かを企むかと思われたが、息子が意識を取り戻さないという事実が彼を無気力にして、やがて表舞台から彼の影を退けた。


そして今、平和になった世界が着実に息をしている。
はじめの一年、疎開した人々が街へ戻り、復興に沸いた。シンジ君のクラスメイト達も戻ってきた。
次の年、地球の地軸がセカンドインパクト以前の傾きに修復されつつある事が観測されて、常夏の日本に秋風が混じり始めた。
そしてその次の年、それは穏やかに変化しやがて、四季となった。エヴァンゲリオンは半永久的に凍結され、ネルフは事実上、都市再建の特務に就いた。
僕は意識を取り戻してからずっと、シンジ君にその世界の移ろいを伝えた。彼が世界を救ったのに、彼だけがそれを知らないなんて、耐えられなかった。

「おっと、ファーストがまた置き土産をしたらしい。」

僕がぼんやりと物思いに耽っていたら、彼女は既に消えていた。そして僕の握って温かくなり始めた手のもう片方、シンジ君の手のひらには、手折られたひと房の桜の枝が握らされていた。彼女はよく、季節らしいものをそっと、彼へと贈る。それもまた僕と同じ気持ちなのだろう。僕はそのしっとりとした春のつぼみを見て、あることを思い出す。

「葛城副司令…君には葛城三佐だね。彼女は婚約したよ。君も知っている、あの加持リョウジとね。」

興味があるだろうと話しかけるけれど、すやすやと寝息ばかりが聞こえてくる。彼女は毎月シンジ君へと賑やかな葉書を送ってくる。写真の彼女は彼を誘うよういつも満遍なく笑っていた。

「昨日、君の元クラスメイトだという相田君からまたビデオレターを受け取ったよ。」

もう積み上げると結構な高さになる。そんな彼も今年は大学受験らしい。それでなかなか来られないかもしれないと、多めにビデオを渡してきた。それらを僕はベッド脇の引き出しにしまう。そこには文庫本や折り鶴、葉書なども一緒にぎっしり納められていて、まだシンジ君には届いていない。

「君はこんなに、愛されている。」

早く君にそう知らせたいのに。天井に吊るされている幾何学であしらわれた美しいモビールが、僕の声に反応するようにキラキラと揺らめいた。これだって君の大切な人からの贈り物なのだ。
僕はシンジ君の手を強く握り締めた。力無くて折れてしまいそうなくらい、頼りない君の手を。


けれども、無力な僕は奇跡を起こせない。今日も無情に夕暮れは燃え、夜は街の影をも呑み込む。その上に輝く星座は静かに巡り、止まらない時を数える。

「まだ、はじめましても言っていないじゃないか。」

そう。僕らはまだこの世界では出会っていない。まだ君は僕の名も知らない。

「シンジ君が見つけてくれないと、僕は寂しい。」

何度も世界をやり直した。そして僕は何度も君を置き去りにした。これはその罰なのだろうか。

数刻前に赤木博士が往診に来た。机の上の白猫の置物は彼女からだ。博士はルーティン化した診察を顔色ひとつ変えずにこなし、けれど今日は珍しく、ひと言だけ言い残した。

「目覚めたくないのかしらね。」

確かに精神汚染は彼を蝕んだが、致命傷には至らなかったのだ。数日後には目覚めてもおかしくなかった。けれど、そうはならなかった。だから原因を探るために総力をあげて様々な検査をしたが結果は全て、正常。シンジ君はただ眠っていた。目覚める事を忘れてしまったのかもしれない。

「あとは君が目覚めるだけなんだよ。」

やさしく君の耳許に囁いてみる。世界でこの部屋だけが呪われた時の中にいた。世界中が時計の針を廻して、かつての不遇の時代を乗り越えようと遠くに追いやり忘れてゆく。シンジ君の苦しみも献身も彼自身でさえ、過去のものにする。それが許せない者が、この部屋で彼に呼びかけ続けるのだ。僕らはきっと、シンジ君が取り残されて絶望してしまうのではないかと、そう感じていた。

「さあ、今日は何を話そうかな。」

だから僕は君に届くまで、語り続けよう。千度目の物語を君は気に入ってくれるだろうか。



「今日はここまでにしよう。」

夜も深まり、僕はそっと本を閉じるようにして、そう告げた。

ふたりの少年が星の数ほどに巡り合い、世界をやり直す物語。いつかふたり、同じ世界で生きてゆこうと祈りながら。

「君はきっと、どうしてなのかと聞きたいだろうね。」

眠ったままの色のない頬を撫でる。冷たすぎて胸騒ぎがする。

「運命だったのさ。僕は君に会うために生まれてきたんだ。」

もう魂がすり抜けてしまったようで、僕は心細さに君の前髪を梳いた。額を撫で上げ、もう一度それを整える。あどけない寝顔がまるで遥か彼方にあるようだ。

君は徒花となってしまうのだろうか。人生の幸せも知らず、実を結ぶ喜びも見ず、散ってしまうのだろうか。

「シンジ君…」

指先で唇をなぞると乾いていた。もう命は枯れ果ててしまったとでも言うように。

「シンジ君…」

千度の君のいない夜が僕に孤独を教えた。目の前にいる君に決して届かない悔しさが僕を変えた。どの世界よりも側にいられるのに、どうして僕は君に何もできないのだろう。

「…また会おうって約束しただろう?」

そしてついに千度の哀しみが僕の瞳で結晶となる。温い涙がシーツに落ちる。僕は自分が泣けると初めて知った。けれどそんな事はどうでもよかった。

僕はとにかく君を潤したかった。渇いた花に水を差すように、君が萎れないための処置をしたかった。

だから僕は涙に濡れた唇を、君の乾いた唇へと押しつけたのだ。君に起きてほしいのに、君を起こさないようにそっと、口づけだ。


けれど、奇跡は起きなかった。シンジ君は永久の眠りについたように微動だにしなかった。


僕はそれからすぐに部屋を追い出された。けたたましいブザー音が鳴り響き、モニターの並行した波が起伏を無くしてしまったから。僕がその意味を咀嚼する前に白衣を着た医師達が駆けつけて、僕らを力で引き離した。ひとりは、何をしたのかと僕に叫んだ。僕は言葉を失くした。息も出来なかった。シンジ君にキスをしたから彼の心肺が停止したなんて、とても認められなかった。

君を呪っているのは僕なのかもしれない。君は僕のせいで、この世界から一番遠い場所へ行ってしまう。

僕は病室の前で怯えて膝を抱えた。君から離れてしまえば、僕は何処へも行く宛のない迷い子なのだ。僕はもう、君を知らなかった自由な僕へは戻れない。


やがて僕がおそるおそる足を踏み入れると、規則正しい点滴のリズムが未明の病室に静かに流れていた。

あれから一命をとりとめたシンジ君は適正な処置を受けた。そして安定を見計らって、医師達は部屋を後にしたのだ。彼らは僕に事態は原因不明だと言い残した。

薄暗い部屋は仄かに青い光に満ちていた。夜が朝に移ろう静寂。疲れ果てた僕は、このままずっとふたりでこの静止した時にいたいと思った。朝は来ないでほしかった。

君とふたりでいられるならもう何も望まない。だからこれ以上僕から遠くへ行かないでほしい。僕の前から去らないでほしい。

これは君の味わった苦しみなのか、そう思うと僕の胸は空っぽになった。僕はもう、怖くて君に触れられない。触れたら君は壊れてしまいそうだから。

俯くと、桜のつぼみが無造作にリノリウムの床に転がっていた。さっきの騒動で手のひらから落ちたのだろう。それを拾い、備え付けの蛇口を捻り水にさらす。濡れた箇所が色濃くなる。そして適当なグラスに水を汲み、それを挿した。僕はその手折られた花が咲かずに朽ちるのが嫌だった。

「きっと、朝には綺麗な花が咲いているだろう。」

それはほとんど祈りだった。

「シンジ君…」

僕はずっと君の側にいるよ、そう伝える事も許されないのかもしれない。そう思い、僕は時のない部屋で脱力した。ベッドの隅、シーツに額を擦り付けて涙も涸れて叫ぶ事も出来ず、ただ、君に会いたい、それだけを想っていた。



「カヲル君?」

あれからどれだけ経ったのだろう。僕は深い眠りから目覚めた気がした。しかし、辺りはまだ夜明け前。一瞬の微睡みから現実に引き戻されたようだ。

「カヲル君…」

けれど、僕の沈んだ頭を確かめるように撫でる、温かな手の感触。懐かしい感覚が、痛いくらいに僕を満たす。顔を上げるとそこには、

「僕、また失敗しちゃった?」

シンジ君が微笑んでいた。僕は目の前の情景が信じられない。呆然としていると、目を覚ましたシンジ君がまるで日常の調子で僕に状況を聞いた。だから僕は、世界は守られて再び動き始めたのだと伝えた。そして千日が過ぎた事も。

「そっか…なら、うまくいったんだ。」

安堵したシンジ君が僕へとふわりと笑いかけた。とても幸せそうな顔だ。僕は何か違和感をずっと感じていたが、ようやくそれが何かと気づいた。

「シンジ君は、僕が誰だか知っているのかい?」

「うん、カヲル君でしょ。」

シンジ君は僕を知っていた。

「…以前に何処かで会っていたかな?」

僕は頭が混乱した。まさかそんなはずはない。ない、けれど。

「何度も会ってるじゃないか。君のお話のふたりみたいに。」

シンジ君は穏やかにそう告げた。何故繰り返されたシナリオからこの世界は外れたのか。僕はようやく理解した。そしてもうひとつ。

「聞いてくれていたんだね。」

どうやら届いていたらしい。千夜紡いだ、君と僕との長い長い昔話を。

「また会えたね。」

「そうだね。」

約束は果たされた。君が叶えた。

「はじめまして、渚カヲル君。」

「はじめまして、碇シンジ君。」

地平線が朝の色に染まってゆく。風のない病室にモビールが緩やかに流線を描いてたなびく。瞼を開かない彼を憂いてこっそりとその父親がそれを掛けたのを僕は知っていた。息子がいつか目覚めた時、その目に映るものが美しくあるために。希望があるために。

「綺麗…」

仄かに煌めく美しい天井に向かって君が手を伸ばす。僕はその手にそっと触れた。もう離れないように、そう指先を絡めると、僕は嬉しくても涙は流れるものだと知った。

もうすぐ此処にも朝が来る。時は息を吹き返し、待ちわびた人々はこの部屋で明るい笑顔を咲かせるだろう。その片隅ではきっと、朝の陽射しにグラスの中の淡い桜も咲いている。ほらもう、つぼみが綻び始めている。



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