雪よ
もっと降り注げ
この世界を凍らせて
僕たちがもう何処へも行けないように



「寒い…」

真っ白な稜線に囲まれた一面の雪原。僕がこの地へと降り立ったのは二度目だ。木々はひとつ残らず葉を落として枝分かれした白を纏う。僕はシャクシャクと足跡を刻んでそこを縫うように歩いていた。まっさらな雪は柔らかくて思ったよりも歩きやすい。洗い立てのような純度の高い空気を肺一杯に吸う。きっと昨日、降ったんだ。

「変わらないな…」

森の奥、一頭の石像が眠っている。翼の欠けたまま天を見上げる哀しい天使。ここは君と僕との秘密の場所。あれからもう十年も経ってしまった。そう、僕はもうここへは来ないはずだったのだ。

「君も寂しかったかな…」

石の肌を撫でるとその色と同じく雪のように冷たい。心は過去と重なってゆく。手には一枚の写真、並ぶふたつの笑顔。君と僕を結びつける、角度を変えたら様々に輝く想い出の結晶。その結晶をこの雪原へと葬り去ってしまえば僕はきっと新しくなれる。時の止まった僕の心は前へと進む。だから君を葬るために今一度、君へと最後の別れを告げよう。


僕は天使に恋をした。氷細工のように透明で、粉雪のようにやさしいひとだった。




中学二年の冬休み、僕は友達四人と山岳地帯へ小旅行に出掛けた。ウィンタースポーツを目的にした二泊三日の遠出。僕たちは早朝から電車を乗り継いでやっと日の高い時分にバスで目的地への向かっていた。雪に覆われた曲がりくねった山道を登ってゆく。その時僕は、初めての友達だけの旅行に緊張のあまり何でも予備を持ってきて、幼馴染みのアスカに、シンジは気が小さいわね、とひどく笑われてしまっていた。目前の雪化粧の渓谷の美しさに車内の会話は弾んでゆく。その時、僕はこんなことを耳にしたのだ。

「なあ、知ってるか?この土地って変な神話があるんだぜ。」

それはクラスメイトの何でも知っているケンスケからだった。

「この土地には雪の天使がいるらしい。」

「雪の精じゃないんか?」

これはもうひとりの友人、トウジ。

「天使なんだよ。雪のように白い使徒タブリスが翼を落として飛べないままあの森を彷徨っている。そしてその姿を見つけた子供はそいつに心臓を奪われて凍らされてしまう…ってさ。」

「天使なのに悪いことをするの?」

「翼がないなら堕天使よ。」

綾波は的を得たことしか言わない口数の少ない子だった。

「神話ってそれだけ?」

「続きはあるぜ。それからその子供は天使と一緒にあの森を永遠に彷徨うことになるらしい。」

「タダの都市伝説でしょ?それにそんな自分の翼を落とすバカな天使に目をつけられるやつなんて、歯ブラシ二つも持ってきちゃうバカシンジくらいよ。」

「もー、うるさいな!」

そうした幼馴染みのからかいに慣れっ子の僕はその時は何も考えずにやり過ごした。けれど、僕は彼女の勘が鋭いことをすっかり忘れていた。

僕らの選んだスキー場は流行りの煌びやかで賑わったゲレンデとは違って静かな穴場だった。中学生の貯金では道具をレンタルするとしてもペンションでの連泊朝食付きがやっとこさだったのだ。僕らが山麓でバスを降りて地図通りに十五分ほど歩いていると、くすんだ白樺の壁に氷柱のびっしりと生えた赤い屋根のロッジが見えた。そこは夫婦で営んでいるこじんまりとした隠れ家みたいなペンションで、レンガ造りの薪ストーブと自家製コーヒーが自慢らしく、僕らはそれに当たりながら顔を顰めてその苦さを味わったのだった。

外はというと初心者にはちょうどいい緩やかな傾斜で、期待していたリフトなんてものはなく、平地の向こうには何処までも続くほの暗い森があった。

「君たち中学生は悪知恵だけは一丁前だからな。やる前に言っとくぞ。絶対にあの森には入るなよ。絶対、なんて言われると入りたくなるだろう?でもな、地元民でも迷子になっちまう深い森だ。野生動物だっている。遭難して動物の夕飯になりたくなかったらおとなしく俺のペンションに戻ってこいよ。」

「俺たち、でしょ。」

ペンションのオーナーの加持夫妻はとても気さくな人たちだった。僕らは旦那の加持さんにスキーもスノーボードも手ほどきしてもらい、二日目にはどうにか全員が転ばずに滑れるようになった。奥さんのミサトさんに夢中なトウジとケンスケはたまにゲレンデを抜け出して彼女を口説いたりしていた。

「シンジ、どっちが速いか競争よ!」

アスカは昔から何でも習得が早かった。僕に挑戦状を叩き付けては若干フライング気味で優雅に滑走し、大差で勝利しては負けた僕に色々な罰ゲームを要求してきた。

「じゃあさ、碇が森に散歩に行くってのはどうだ?」

「そんで熊の食卓の上でランチになってこいや。」

「熊は冬には冬眠するわ。」

「その前に遭難しちゃうよ!」

「あら、大丈夫よ。雪の天使さまが守ってくださるから。それとも、もしかして、怖いの?」

バカにしたように半笑いで聞いてくる幼馴染み。その時僕は彼女の鼻を明かしてやりたかった。

「いいよ!行けばいいんだろ!」

そうして僕がスキー板を脱いだから皆が急にひっそりと慌てだす。それを横目で確認し、僕は一歩、また一歩と真っ白な木々の向こうへと消えたのだった。


その森は不思議な魅力に満ちていた。さっきまでの苛立ちが雪が解けるようにいつの間にか無くなっていた。外から見るよりも明るくて、裸の枝は青い空を透かしている。誰も踏みならしていない雪は気持ちいいくらい足取りが軽くて、結晶化した雲の上を歩いているようだった。

「あれ?」

もうそろそろ引き返そうと思ったところで僕は立ち止まる。目の前に足跡が横切っていたのだ。この森には僕しかいない。すると、僕は知らず知らずのうちに自分の歩いた道へと辿り着いてしまったらしい。

帰り道はどっちだろう?

やや悩んでから、僕は後ろに進んでもまたこの場所に辿り着くだろうと踏んで、横切っている足跡をそのつま先と反対方向へ進んだのだった。

しばらく歩いてゆくと、僕はペンションのオーナーの忠告の理由を知ることになる。ずらりと並んだ木はどれも見分けがつかないくらいそっくりなのだ。まっすぐに伸びた幹の途中から幾重にも枝が天を突いている。僕は目の前の木をついさっき見た気さえしてきたのだ。歩いても歩いても同じ景観で、僕は踵を返すまでの時間よりも長く帰り道を歩いているように感じていた。

「誰かいませんか?」

小さな声で聞いてみる。心臓が早鐘を打って大きい声が出てこない。僕は怖くて怖くてたまらなくなってきた。こんなところで遭難したら。その先は考えたくない。

「あの、誰か……」

その時だった。僕は目の前に人影を見た気がした。藁をも掴む思いで歩を速める。するとそこには予想外のものが待ち受けていた。

そびえ立つ白い石像。折れた翼を悼むように両手を胸で交わして跪き天を仰いでいる哀しい顔。僕はその美しさに息をするのも忘れて近づいた。思わず手でその肌に触れてみる。すると、

「何してるんだい?」

驚いて後ろを振り返る。僕の来た場所に銀髪に赤い瞳の真っ白な少年が立っていた。

「えっと、君は?」

「渚カヲル。」

僕は、君は何をしているの、と聞いたつもりだったけれど。

「僕は碇シンジ。」

それは彼にふさわしい美しい名前だった。けれど僕は一目見た時から理解したのだ。彼はあの天使、タブリスだ。こんな美しいひと、人間ではない。

「シンジ君はこの森で何をしてるんだい?」

「ちょっと入るつもりが迷っちゃったんだ。」

「そう。加持さんの処から来たのかい?」

「うん。」

「じゃ、案内しよう。」

僕の方へと歩いてきては、僕の手を取り歩き出す。振り向いて微笑むその顔に僕は、彼は僕を助けるために人の姿になって現れたんだと思った。それとも僕は、このまま心臓を奪われてしまうのだろうか。

「ねえ、君、僕に悪いことする?」

「まさか。君は食べてしまいたいくらい愛らしいけれど、悪いことはしないさ。」

ドキッとして僕が頬を赤くすると、彼はおかしそうに笑った。けれど僕はやっぱり彼を信じることにしたのだ。僕は彼といるととても心地が好かった。僕らはすぐに打ち解けて、並んで歩きながら懐かしい親友のよう自然と会話を楽しんでいた。

そうして僕がもうずっとこのまま森を彷徨いたいと思っていると、木々の何層か先にあの喧噪のゲレンデの気配が漂ってきた。あんなに切望していた場所なのに、僕はとても残念に感じて、足を止めたのだ。

ねえ、もうちょっと散歩しよう。

僕はそう言いたかった。

「シンジなの?」

けれど僕の気持ちはおかまいなしに、僕らは幼馴染みに見つかってしまった。だから僕は慌てて隣の彼に自分のゴーグルと帽子を被せたのだ。僕の天使が見つかってしまわないように。僕らがそうしていると、ずっと探していたらしい、残りの皆が息を切らせて走ってきた。

「誰?」

「僕は渚カヲル。」

綾波が怪訝な顔をして聞いてきてヒヤリとしたが、どうやら天使だとはバレていないらしい。彼もゴーグルをつけたまま動揺もせずに人らしく振る舞っている。だから僕は軽く皆と彼を引き合わせて、六人で遊ぼうと皆を誘ったのだった。


「スタート!」

それから僕らはまず雪合戦をした。トウジ、ケンスケ、アスカと綾波、カヲル君、僕との二チームに別れた戦いは次第に白熱してくる。

「シンジ君、危ない!」

僕を狙ったアスカの大きな雪玉をカヲル君の雪玉が弾き返した。

「大丈夫かい?」

「ちょっとそこ、いちゃいちゃしてんじゃないわよ!」

またアスカの直球が僕らをめがけてやってきて、カヲル君が僕を抱えて地面に伏せる。そのあまりの近さに僕は固まっているとカヲル君は微笑んで僕の顔に掛かった雪をやさしく払う。そしてすぐさま忍び寄ってきたトウジへと弾丸を命中させるのだ。

そんなカヲル君のファインプレーの連続で僕らのチームが勝利すると、へそを曲げたアスカが自分の得意なスノーボードで対決すると息巻いた。

「ひょー!スゲーな!」

そこでもカヲル君は水上を舞うトビウオみたいに華麗な曲線を描いて滑り、誰よりも速いのだ。

「カヲル君、すごいや!」

「シンジ君が応援してくれたからだよ。」

僕は今までアスカを負かすひとを見たことがなかった。カヲル君は人じゃないから当然かもしれないけれど、彼は自分の凄さをひけらかすことなく、とても自然に皆と接するのだ。そんな彼に僕は知らず知らず惹かれていった。

斜面をジグザグと流れてゆくカヲル君。僕は彼と一緒にゴールしたくてずっと前に滑り出したのに、いつだって追いつけない。たどたどしい僕の横を通り過ぎるその一瞬、透明な翼を得た天使を見つけて僕の心臓はうるさいくらいに跳ね上がった。キラキラと日に照らされた雪の飛沫が彼の後を羽根のように舞ってゆく。


「シンジ君。」

それはソリ滑りの時だった。カヲル君が僕を後ろから抱き締めてソリに乗り、僕らは身体を重ねていた。一緒に同じ手綱を握り合い、少しでも動くとコツンとふたりの靴が鳴る。

「なに。」

かすれる声。ウェアー越しでも心音が聞こえてしまうような気がして、僕は密かに深呼吸をしていた。

「僕は君に会うために生まれてきたんだ。」

え、と僕が聞き返そうとしたら遠くの綾波が合図して、僕らは同時に大地を蹴った。僕とカヲル君はとても相性がいい。息もぴったりに白い傾斜を滑り降りてゆく。ふたりでする動作の全てがなめらかで、まるで心まで重なっているみたいだった。

だから今、僕は思う。あの時僕が君に同じ言葉を返す勇気があったのなら、と。

「どうしたんだい?」

僕が休憩中を装ってさっきの言葉について考えていると、ゴーグルを外したカヲル君が耳許で囁いた。明るい空の下で見るとその美しい顔は、透き通るくらい白くて眩しい。かち合う瞳に、僕はさりげなく熱くなった耳たぶを帽子で隠した。けれど次の瞬間、カヲル君が感嘆の溜め息を吐く。

「見てご覧よ。」

彼が微笑んで見ているその指先の向こうには、

「すごい!」

ふわふわの雪玉みたいなうさぎのつがいが森の入り口からこちらを覗いていたのだ。

「耳が小さいからユキウサギだ。珍しい。」

息を潜めて肩を寄せ合う二頭を眺めていると、僕らの距離も縮まった。不思議なことにカヲル君とそうしている自分がとても懐かしく思えて僕は、今まで足りなかったものがやっと満たされたように穏やかだった。ふたつの手袋が触れ合って、そっと、絡まってゆく。

「スキあり!」

そんな僕らに悪友がシャッターを切る。

カヲル君が仲間に入ったことで僕ら全員がいきいきと夢中になってこのひと時を楽しめた。僕らはずっと笑っていた。気がつくと冬の早い日暮れはすぐそこだった。


「シンジ君。」

それは競走もひと通り終わり、明日へ悔いを残さないよう思い思いにスキーを滑っている時だった。

「散歩をしよう。」

カヲル君はそう言うとふたりのスキー板を外して僕の手を取り、また森の中へと僕を連れて歩き出した。

さっきまで一番星しか見えなかった茜空もすっかり暮れて、見上げると木立の間は満天の星空に変わっていた。

「どこへ行くの?」

カヲル君はスキー道具を借りる時に用意していたのだろう、懐中電灯の明かりを頼りに黙々と歩いていた。そして僕はふたりきりになったら彼が正体を明かしてくれるだろうと淡い期待にドキドキしていた。けれど彼は何も言わない。だから僕はもどかしかった。心の中でこう思っていた。

僕はこのまま君に心臓を取られてしまってもかまわないんだ。でもその前に僕に秘密を打ち明けてほしい。君が天使でも僕は驚かない。君が何かくれというのなら僕は君に何でもあげる。だから、誰もいない僕らふたりだけの場所で、そっと僕にだけ、君のことを教えてよ。僕には君を隠さないで。

それからやがて僕らはあの天使像へと辿り着いた。カヲル君はその像の台座を照らし指でなぞり、僕にこう言った。

「Wer nicht mehr liebt und nicht mehr irrt,Der lasse sich begraben…これを彫ったひとの好きな一節でね、愛することも迷うこともしない者は埋葬された方がいい、と言っているんだ。僕はずっとこの意味がわからなかった。君に会うまでは。」

僕には彼の言葉がよくわからなかった。でも、彼が何か大事なことを告げていることだけはわかった。

「だからこの像は哀しい顔をしているけれどとても幸せなんだ。僕はそれが知れて本当によかった。」

君がその時どんな顔をしていたのか、灯された光に慣れてしまったこの目ではわからなかった。

それからふたりで石像の横に寝そべって遥か彼方の夜空を眺めていた。冬の正座が枝の影と戯れていて、夢のようだった。

「綺麗だね。」

君の声が静謐な闇にすうっとなじむ。その白い指先は天へと伸びてゆく。僕は君の横顔を見つめていた。僕は今思い出してもそれを一瞬とは思えない。彼が天を指差した刹那、時が凍って結晶の中に閉じ込められてしまったよう星空の下、何もかもが美しかった。そしてこのまま天へと吸い込まれそうな彼の美しさに、僕は静かに哀しくなっていたのだった。




あの時、僕はどうして哀しくなったのだろう。密かにふたりの結末を予期していたのだろうか。

時を経ても悲哀を抱いた天使像は僕には幸せには見えなかった。彼の見上げる空はどんよりと雲が垂れ込めていて、また白がこの地に舞い降りそうだ。

僕らはあの後さよならも無く別れたのだった。僕は、またね、と言うカヲル君に明日帰ることを伝えられなかった。だって僕は心臓をあげる覚悟だったのだから、君が去った後のことなんてちっとも考えていなかった。そうして仕方なく肩を落として帰った僕は心配してくれたらしい幼馴染みに強烈なビンタを喰らったのだった。皆から顰蹙を買った僕はそれから一歩も外へは出してもらえなかった。

その後のことはよく覚えていない。ただ、小心者の僕はひとり居残ることも出来ずに帰りのバスで寝たふりをして密かに泣いていたことだけは覚えている。胸が痛くて痛くて、きっと身体から心臓が千切れてあの森に置いてきてしまったんだなと思った。

それから暫くして冬休みが終わって、ケンスケがくれた写真の中に一枚だけ、カヲル君が映っているものがあった。僕とカヲル君の幸せそうな笑顔。ケンスケは彼の容姿について何も言わなかった。

僕はその写真を毎日眺めていた。来る日も来る日もカヲル君のことで頭がいっぱいだった。それが原因で成績が下がって父さんに怒られたくらいだ。その時僕はもう一度、彼に会いに行こうと決めていた。

しかし運命の悪戯だろうか。それから間もなく僕はその写真を失くしてしまった。引っ越しの際、大事に仕舞ってあったはずのそれはいくら探しても何処にも見つからなかった。その時の僕の落ち込みは凄かった。天使と結ばれてはいけないと神様から言われている気がして、何日も寝込んで涙に暮れたのだった。僕はカヲル君のことを誰にも言えなかった。口にしてはいけないと思った。そして僕は彼を忘れようと必死になった。

けれどあれから十年経ち、僕は最近になって嘘のような場所からその写真を見つけたのだ。恋も仕事も煮え切らない僕は、自分を探すために真夜中に日記の整理をしていた。すると、ノートからひらりと真っ白な封筒が足元へと落ちてきたのだ。拾って中身を開けた時、僕は心臓が凍るかと思った。その中では色褪せずにあの日のふたりが寄り添い微笑っていた。だから僕は泣いたのだ。

その頃には彼への想いだけが僕の胸のぽっかりとした穴となり、彼は遠く儚い夢のひとになっていた。もっと彼の存在を信じていれば。僕はこんな大人になるまでこんな場所にはいなかっただろう。僕は悔しさでその場にくずおれた。そう、僕はきっともう彼には会えない。雪の天使は子供の心臓しか奪わない。

だから僕は引きずった想いを断ち切るためにここまで来た。彼に会えなければこの気持ちに諦めがつくだろう、と。


手のひらで雪を結ぶ。小さな雪玉を転がして両手くらいの大きさにする。それをふたつ、石像の横に並べて、道の途中で拾った枯葉を上に飾る。

「ほら、雪うさぎ。」

そうして雪のつがいの横に、ふたりの笑顔を立て掛けた。

「僕は出来れば君に心臓をあげたかったんだ。」

僕らはほんのひと時しか一緒に過ごせなかった。けれど、僕にとっての運命は、君だけだった。

「カヲル君、今までありがとう。」

それでも僕は生きてゆかなければならない。

「さようなら、タブリス…」

涙が冷たい頬を伝う。すると、一陣の風が僕の背中から天へとすうっと、舞い上がった。


「シンジ君!」

僕は反射的に振り返る。

「シンジ君なんだね!」

そこには僕の天使がいた。成長してずっと格好良くなった彼が駆け出して、骨が折れるくらいに僕を抱き締めている。

「…どうしてここに?」

僕はもう大人なのに。

「加持さんが連絡をくれたんだ。もしも君が来たらと思って君とのことを話しておいたんだ。」

「天使なのに加持さんとも話せるの?」

「僕の小さい頃のあだ名を知っているのかい?」

「…天使って大きくなるんだね。」

「君も見違えるくらい綺麗だよ!」

ちょっと話がちぐはぐになってきた。

「えっと……君、タブリスだよね?」

「ふふ、タブリスは彼だよ。」

カヲル君は僕を放してから愛おしそうに頬を撫でて、横の石像に目を移した。

「君、人間なの!?」

こんなに美しいひとが人間の筈がない。

「僕をタブリスだと思っていたのかい?」

カヲル君は冗談混じりでそう聞いた。けれど僕が真顔で頷くと、目を見開いて呆れたように額に手を当てた。

「まさか、君が祖父の作り話を信じていたなんて…!」

彼の言うにはこうだった。彼は両親を亡くし、この近くの村に隠居していた彫刻家の祖父に引き取られたが、アルビノだったことから不気味がられ、子供たちによく虐められた。それで森の中で遊ぶようになった彼を心配して、彼の祖父は自分の創造物、使徒タブリスの創作における背景を神話として子供たちに広め、いじめっ子が孫に近寄らないようにした。

「じゃ、カヲル君はずっと最初から人間だったんだ!」

十年も叶わぬ恋に苦しんだ僕は一体何だったのか。

「シンジ君はとても純粋なんだね。」

そんな僕をカヲル君はうっとりと見つめていた。喜びが僕の全てを支配する。天から羽根のような雪がふたりへと音もなく、舞い降りてきた。

「ずっと君を待っていたよ。」

銀色の睫毛の間、その赤に吸い込まれてゆく。僕はその時、その澄み渡った赤い瞳の中に永遠に住んでいたいと、心から願った。

「さあ、行こう。」

君が僕へと手を伸ばす。迷うことなんで何もない。だって僕はずっとこの瞬間を夢見ていたのだから。僕はもう、どこへ行くの、とは聞かなかった。


君と一緒なら、それだけで僕は幸せだから。



使徒タブリスは愛も悩みも知らない自由な天使だった。
何処へでも行ける翼は彼を思いのままに運んでくれた。

けれど彼はひとりの少年と出会い、恋に落ちた。
彼の心は愛を含んで重くなり、彼の翼は悩みを含んで脆くなった。

そんなある日、彼の翼はその重さに耐え切れずに折れてしまう。
タブリスはひとり地上へと墜落したのだ。

翼の折れた彼はついに何処へも行けなくなってしまった。
その時散った羽根のかけらが彼の上に雪となっていつまでも降り注いだ。

彼はそれからずっとその少年を待ち続けている。
少年がこの森に迷い、彼の前へと現れるのを。





忘れない白を想う

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