僕達はまだ恋をする覚悟も勇気もないただの14歳だった。だから何も知らないことを武器にするしかなかったんだ。恋は、命懸けの闘い。君に好きでいてもらえないと、僕は死んでしまう。



「どうして教えてくれないんだ!」

だから、こんな喧嘩だって、僕達は死ぬ気で互いに立ち向かう。

「知らないよ!カヲル君なんて!」

心は既に瀕死の重傷。血みどろなんだけれど、

「シンジ君!答えておくれよ!」

叫ぶ僕らの前を現実味のないスピードで惨劇は展開されて、

「う、うるさい!カヲル君なんて、嫌いだ!」

気持ちとは違うわけもわからない言葉ばかりが交錯する。もうめちゃくちゃだ。

「…嫌いだ……う、」

直前の声は遠くでくぐもり、発色は目眩の中でずれてゆく、ぐわんぐわんと揺れる世界。涙は重力に逆らおうと震えている。

けれど、

「嫌いならどうして…」

やっぱり涙は想いと重なり心中するんだ。

「…好きだなんて言ったんだい?」

雫はやがて落下してゆく。



shiranai



「ほら、見てみろよ。」

雑誌を丸めて目に当てて、ケンスケが望遠鏡らしきそれで、ある休み時間の教室の風景を円状に切り取っている。横では日直の雑用から戻ってきたばかりのカヲルが日誌を書いていた。いつも彼は親友のシンジと一緒に帰っている。親友を待たせたくはない。

けれどカヲルはぐいぐいと肩を押されてケンスケの粗末な望遠鏡を仕方なしに覗いたのだ。隣の友人は片眉を上げて物言いたげなニヤけ顔。その楕円の中ではシンジとその幼馴染みのアスカが言い合いをしていた。

「で、次はこっち。」

手の中の紙筒がすーっと引っ張られて照準が合った先では、もうひとりの友人トウジと委員長のヒカリが仲良く喧嘩をしている。

「な?春が来たぜ。」

「まだ冬は続くさ。二月には寒波が」

「いやいや、もうすぐバレンタインだって話だよ。」

また目先が最初のふたりへと戻される。アスカが鼻で笑うのを聞いてシンジが大きい手振りで抗議をしている。

「あいつらデキてんじゃねーかって2Bの某Tクンが聞いてきたんだよ。どうやらTはあいつが好きらしい。」

カヲルは半ば驚いて望遠鏡を外した。

「…シンジ君をかい?」

それを聞いてギョッとずれるメガネ。

「プッ、それはそれで面白いけどな。まあ、俺の予想では、碇と綾波をくっつければ式波もTとくっつく。」

「シンジ君と彼女が?何故?」

遠くでは、あんたMだから私に言われて本当は喜んでるんでしょ、そ、そんなの違うよ、ほーら真っ赤じゃない、アスカがSだからって勝手にひとをMにするなよな、と、卵焼きにかけるのは醤油VSケチャップから始まった争いは不毛な局面を迎えていた。

「そりゃあいつらが相思相愛だからだよ。」

そのすぐ側で噂のレイがふたりを文庫本越しに眺めている。その視線の先は、シンジ。ご名答だ。

「…そうは聞いていないけれど、」

「碇は言わないけどよ、皆知ってるぜ。」

キュ、

カヲルはこの瞬間、堪え難い胸の痛みに襲われた。見つめていた親友から目を逸らす。

「でさ、お前に頼みがあんだけど、」

知らない感情に溺れそうな彼を無視して、

「今日は碇と綾波だけで帰らせてくんない?わりーな。」

状況はどんどん変化してゆくのだ。



カヲルは恋というものを意識したことがなかった。ただシンジがとても好きだった。シンジの隣はすこぶる居心地が良かった。だからずっと一緒にいたい。きっと、ずっと、そうしてゆく。そう信じて疑わなかった。

「カヲル君、終わった?」

放課後は気がつけば訪れていた。埃っぽい夕暮れに暗がりがガランと佇む。カヲルは芯まで冷えた指先でもたもたと日誌を閉じた。もう随分前に書き終わっている。書き終わっているけれど…

「……、」

「気分でも悪いの?」

せり上がる胃の不快感を喉元で呑み込んで、小さく首を横に振る。すると、シンジの柔らかい手のひらがカヲルの額にすっと触れた。

「熱…あるのかな?」

自分の額にも手を当ててその温度に悩むシンジ。ふたりしかいない教室は恐ろしいくらい物静かで、ひとつひとつの動作を大袈裟にする。あの休み時間からずっと得体の知れない何かに胸を切り刻まれている具合のカヲルには、それは窒息しそうな感触だった。目が熱く潤んできて、その手を除ける。何でもないという風に。

「…大丈夫だよ。」

「じゃ、帰ろう。僕、職員室までついてくよ。」

“日直の仕事が終わらないから先に帰ってくれないか。”

そう言うつもりでいた。けれど、何故か声に出来ない。ケンスケにそう頼まれた。シンジが彼女を好きならそうするべきだ。なのに、

「…ありがとう。」

カヲルは生きた心地がしないまま、そう返答してしまうのだった。




ふたりの出会いは五年前の鮮やかな色彩溢れる初夏のこと。転校してきたばかりのカヲルは家のベランダから見えるセルリアンブルーの宝石のような湖畔を目指して歩いていた。そこは生い茂った常緑に囲まれていて、ひとりの小学生が遊ぶのには充分に涼しくて静かそうだった。

ひんやりと湿った土の匂い、薫風に揺れる翡翠の葉、その隙間から差す陽光はちらちらと揺れ、時折カヲルの白い肌を透かした。蝉の合唱はまだ第一楽章くらいの勢いで降り注ぎ、小さい彼の頭上はどれも寡黙な木肌の巨人だった。

その垂れ込める暗がりのアーチをくぐり、でこぼこ道を抜けるとやがて視界は開け、一面に広がるセルリアンブルー。夏の日差しが燦々と湖面に転がり流れている。カヲルはしばし見とれ、時を忘れた。すると、

ランラン、ランラン、ランランラン…

軽やかな鈴のような歌声がする。辺りを見渡すと、湖面の桟橋の淵にひとりの男の子が座っていた。つやつやとまるい黒髪、楽しそうな小さな指先。その子がゆっくりと振り返ると、カヲルは秘密の宝物を見つけた。この地球で唯一のもの、ずっと探していたものを見つけた。そう思った。

“僕はあの子とずっと一緒にいるんだ。”

それがカヲルにとってのシンジなのだ。それからの彼の人生は素晴らしかった。カヲルはいつも大切な宝物と並んで歩き、共に笑うことになる。それだけで世界は完璧になる。何故かはわからないけれど、カヲルはシンジが大好きで、もう二度と離れないことはわかっていた。だから、その夏の終わりの夕暮れに、ふたりはあることを誓ったのだ。

「シンジ君。」

「なあに?」

「君とずっと一緒にいたいから、今、君と結婚したい。」

「ケッコンって男と女がするんでしょ?」

「そうとは限らないよ。」

「へえ。ケッコンしたら僕たちずっと一緒なの?」

「うん。永遠にね。結婚はずっと一緒だって約束だから。」

「そうなんだ。じゃ、いいよ。」

しよう、シンジがそう囁いた時の喜びを、カヲルは今でも覚えている。それは他愛のない戯れ言、仮初めの約束だけれど、カヲルがそれを思い出す度に胸の中で知らない何かがトクントクンと高鳴るのだ。けれどそれは、想い出を増やすほどに複雑になってゆき、あの頃の単純明快な一通りの答えを、いつかの無数の木漏れ日の中へと隠してしまう。カヲルは自分でも知らないうちに、その気持ちが何なのかをしかと見えないようにしていた。




“シンジ君は僕の隣にいるべきだ。どんな噂が流れていても、ただの噂だ。現にシンジ君が一緒に帰ろうと言ってくれているんだし、相田君に頼まれたからと言って協力する義理もない。”

くすんだ黄金に染まった廊下をふたりで過ぎ、言うはずだったセリフの代わりにそう理論武装する。するとカヲルは少しだけ安心した。そう、実にその通りだ。何も変なところはない。気づかれぬよう、無言で互いの肩と肩を近づけてゆくカヲル。

しかし、

「綾波、どうしたの?」

そこには見慣れない人影。下駄箱の前でレイがシンジを待っていたのだ。寒くて赤いマフラーに鼻先まで埋もれている。レイはちらっとカヲルを見た。その目に浮かぶ小さな疑問。それは彼女も何らかの段取りを聞かされていたことが伺えた。ここで待てばシンジとふたりで帰れる、とでも言われたのだろう。

「…碇くんと帰ろうと思って。」

チラリとシンジがカヲルを振り返る。それは人を気遣う彼らしい瞳。その透明な思いやりの色を避け、カヲルは目を伏せる。別に咎められているわけでもないのに、彼の全身からは嫌な汗が噴き出した。

「そっか。じゃあ、三人で帰ろう。」

もう一度レイの瞳。微かな非難の色がにじむ。けれどカヲルはその目に気づかないフリをして、下駄箱からハイカットスニーカーを取り出した。そして自分の特等席は決して譲らずに、シンジを挟んで三人で帰ったのだ。もうグラウンドからは部活動の喧噪も聞こえない、職員室と音楽室のおぼろげな蛍光灯しか活気のない、そんな侘しい冬の放課後だった。


三人の足音が夕飯支度の住宅街にこだまする。ずっと俯き加減で黙々とカヲルは歩く。その白い息みたいにもやがかったその心。シンジはその姿に彼は具合が悪いのだろうと思っていた。だから自然とレイとばかり話をすることになる。それはまるでカヲルがいるのを忘れてふたりきりで帰っているよう。シンジとレイはカヲルの予想を裏切って、とても仲睦まじい空気が出来上がっていた。少なくともカヲルの瞳にはそう映った。

「私、こっちの方角だから。」

帰り道はY字路に差し掛かる。レイはここを右折するのだ。カヲルは一刻も早く左折したかった。

「送っていこうか?」

けれどシンジはそうではないらしい。その瞬間、カヲルの中で何かが音もなく崩れた。目を閉じて深呼吸する。立ちこめる冷たい白。

「…送って行くといい。僕は帰るよ。」

「カヲル君?」

「さよなら。」

それだけ呟きカヲルは帰路へとついたのだった。早歩きで、でも、いつものようにシンジがとことことついてくるのを期待して。しかし、その期待は空しく終わる。後ろ耳でシンジがレイと右折するのが遠くに聞こえた。

「……、」

もうそれだけでカヲルは泣きたかった。けれど、涙は涸れているようだ。彼にも理解が出来ないのだが、今まで信じていたものは消えて、何もかもがからっぽになってしまったらしい。だから歩いていても重力すら感じない。ここが何処かもわからない。もしかしたら自分の影も煙のよう消えてしまったのかもしれない、そう思って茜色のアスファルトを見たら、影は二重に重なっていた。




「なあ、お前と碇、もしかして喧嘩中?」

「さあ。」

「さあじゃないでしょ。」

次の日の一限目後の休み時間。朝から違和感を覚えたケンスケは隣の席のカヲルにそれとなく聞いてみた。けれどもはぐらかされてしまう。試しに、おーい碇、と呼んでみるとその黒髪は振り返り、カヲルの視線を見つけるとプイッと横を向いてしまった。

「…もしかして昨日の」

「相田君のせいではないよ。」

ほっと胸を撫で下ろすケンスケ。メガネをくいっと上げてひと息。

「ふーん。お前らでも喧嘩すんのな。」

するとカヲルは不意に立ち上がって歩き出した。机に突っ伏しているシンジに声を掛けている。シンジはピクリと驚いて、カヲルと目も合わせないで今度は窓の方へと向いてしまう。その赤い耳許へとしなだれて、親密そうに囁くカヲル。それを振り払うシンジ。いつになく熱っぽく火照った表情のふたり。その仕草はどこか異性を口説いているように見えて、ケンスケはドキドキした。

「あいつら、なーにやってんのや。」

トウジもその様子に気づき、ケンスケの机に肘をついて物珍しそうに眺め始めた。




「カヲル君…」

カヲルがひとりで帰り道を歩いていると自分を呼ぶ声がした。そして振り返る。するとシンジが息を切らして立っていたのだ。どうやらここまで駆けてきたらしい。足音にも気づかなかった自分に驚きを隠せないカヲル。

「…彼女を送って行ったんじゃ?」

「やっぱりカヲル君が心配だったから。家まで送ってくよ。」

嬉しさと苛立ちと、そして掻き立てられる何か。カヲルはシンジのその優しさを残酷だと感じた。胸が苦しい。

「別に僕に気を遣わなくてもいいんだよ。彼女と帰りたかったんだろう?」

「綾波は女の子だから、暗いから送ってあげようと思ったんだ。」

それを聞いてカヲルはふっと歪んだ笑みを浮かべた。

「急に男らしくなったね、シンジ君。」

するとシンジはカヲルの異変に気づき、不安げにカヲルの顔を覗き込む。

「…どうしたの?」

少し怯えたような響き。カヲルのささぐれ立った心が煽られてゆく。

「それは僕のセリフだよ。彼女に良いところを見せたいからかもしれないけれど、」

「そんなつもりじゃ、」

「ふふ。そう。君はか弱い。無理に男らしくしても似合わないよ。」

「どうしてそんな意地悪を言うのさ?」

シンジは青ざめていた。初めて見るカヲルの激怒した態度。まっさらな瞳でその彼を見上げている。乾いた唇をひと舐めして緊張に震えている。その仕草にカヲルはひどく興奮した。

「僕、カヲル君に何かしちゃった?」

いつも味方でいてくれたカヲルが突然、別人のようになってしまい、シンジは途方に暮れている。その姿が胸に刺さり痛いけれど、一方でカヲルの身体は哀しいくらいに疼くのだ。

「ねえ、カヲル君?」

かすれた声。ああ、もう目の前のシンジは涙が零れそうだ。けれど暗に男らしくないと言われたばかりで、それを必死に堪えている。だからカヲルも謝りたくなってきた。やさしくしてあげたい。けれど、喉がつっかえて、何も言えない。

「何か言ってよ…カヲル、く…ん、」

つうっとまろい雫が垂れる。シンジは曖昧に微笑おうとして失敗したのだ。他のひとになら、傷ついてないと微笑みながら諦めて背を向けてしまうだろう。しかし、カヲルはシンジにとって生まれて初めて自分を曝け出せたひとなのだ。だからそんな壁をつくろうとしても、もうどうしたらいいのかもわからない。素直に泣いてしまう自分を、男なのに甘えている、と声もなく罵った。カヲル君の言う通りだ、と。

そして、ある知らないもうひとつの感情も、彼を止め処なく泣かせてゆく。




次の休み時間もカヲルとシンジは窓際の端でひそひそと、何かを言い争っていた。見物人はケンスケ、トウジ、ヒカリ、そして、

「ナニ騒いでんのかしらね。みっともない。」

アスカも普段いじめているシンジが取り込み中でこの輪に加わったのだった。

「センセ取られて寂しそうやな〜。」

「うっさい、たこ焼き。」

アスカとトウジの火花が散る頃、ケンスケは雑誌の望遠鏡を構えた。楕円の中で喧嘩をするふたり。それはなんだか…

「春一番だったりしてな。」

奇妙な芽吹きの予感を孕んでいたのだった。カヲルがシンジの腕を掴んで何かを訴える。首を振ってそれを振りほどこうとするシンジ。後退すると束ねてあるカーテンが揺れた。カヲルの頬は彼らしくなくひどく紅潮している。眉を苦しそうに寄せてシンジを窓に当たるくらいに追いつめて。カヲルがまた何かを囁きかけるとシンジは真っ赤になって怒った。カヲルはまだ諦めずにシンジを見つめて熱く何かを語っている。するとシンジは困り果てて俯き加減でぽつぽつとそれに答え始めた。何とも言えないその官能。ここでチャイムが鳴って、その続きはどうやら昼休みまで持ち越しらしい。

「何やってんだよ、いちゃいちゃと。」

カヲルが着席すると間髪入れずにケンスケが冷やかした。けれどカヲルは既に心ここに在らず。その瞳は昨日の夜空を映していた。




「……、」

もう日も暮れてしまった。ピンと張り詰めた夜空には冬の星座が寡黙に瞬いている。街灯も届かないモノクロの色をした舗道ではふたりの重なった影すらもう見当たらない。シンジは一歩後ろへ下がり、ブロック塀と電信柱の隅に隠れて静かに泣いていた。恥ずかしそうに顔をこすってもこすっても、顎からはぽたぽたとスニーカーへ旅立つものがある。カヲルは初めてシンジを泣かせてしまった衝撃に立ち尽くしていた。苛立ちと哀しみと興奮と疼きと…支離滅裂な感情が彼の内側で、その泣き姿に更に掻き混ぜられてゆく。その激しさにもう何も、考えられない。

カヲルは心のままに何も言わず、一歩前へと歩み出た。シンジは恐がり肩をすくめて縮こまる。その肩をやさしく撫でて、強張って濡れた指先をほぐし、無防備なシンジをその隅へと追いやって、ふたりきりで夜の闇へと隠れてしまう。そして、そのあどけなく濡れた顔を指先で確かめて、そこへ自らの顔を寄せて、そっと、臆病なくらいにそっと、キスをした。

ちゅっ、

密やかなそれはじいんと鼓膜を伝う。淡い温度は重なり溶けてゆく。ずっとこうしたかった。唇を合わせた時、カヲルは自分をようやく理解した。シンジの隣にいたいわけを。シンジと彼女が仲良くすることへの気がふれそうなそのわけを。

不思議なくらいシンジは抵抗しなかった。身をゆだねて、ふたりの唇ははじめからそうあるべきだったとでも言うように、ぴったりと重なっている。それは燐の燃える熱を帯びて、骨の髄まで痺れさせてゆく。

“そりゃあいつらが相思相愛だからだよ。”

カヲルの腕がシンジを骨が軋むほど囲い、ふたつの心音が寄り添って、

“碇は言わないけどよ、皆知ってるぜ。”

シンジがその強さに堪らず指先を握り締める。全身が燃えてゆく。けれど、

“綾波は女の子だから、暗いから送ってあげようと思ったんだ。”

その燃えるような痺れはすぐに凍てつく痛みへと、変わってゆくのだ。


「…ごめん。」

唇を離して荒れた息を整えて、喉を鳴らすカヲル。その顔はひどく取り乱していた。そして具合が悪そうな呼吸のまま、絶望の色合いの表情で、ポツリとこう告げたのだ。

「忘れてくれ…」

シンジの夢見心地の顔も途端に血の気が引き、同じ色を帯びてゆく。

「わ、忘れられるわけないじゃないか…!」

辺りに響き渡るかすれた声色。カヲルは焦ってシンジから遠ざかった。触れられないくらいの距離で。

「…なんでキスしたの?」

「ごめん、」

「なんで、謝るの?」

シンジは何かが始まる予感がしたのだ。今まで怖くてはっきりとさせなかった何か。けれど、カヲルは目も合わせない。だから、混乱して息も出来ない。

続く沈黙。散らかった哀しみはやがてふつふつと怒りに変わってゆく。まるでからかわれたような、バカにされたような…とにかくシンジは腹を立てるしかなかった。駄々をこねるようにして。反発するようにして。だからカヲルから顔を背けた。激しい感情にまかせてつかつかと帰ろうとするシンジ。カヲルは慌てて後を追う。

「なんでついてくるのさ。」

「君が心配だから…」

鈍く点滅する壊れかけの街灯を横切って、

「もういいよ!ほっといてよ!」

「よくないよ、シンジ君、」

誰かの捨てた空き缶がコロンと靴先に蹴られたのもお構いなしで、

「来ないでよ!ひとりになりたいんだ!」

戸惑うカヲル。その気配を察知して、シンジは無我夢中で駆け出した。




あの初夏からシンジの全ては変わってしまった。カヲルが変えてしまったのだ。読書をする時も、天体の図鑑の横には独語の古書、音楽を奏でる時も、チェロの横にはヴァイオリン、時に穏やかに、時に美しく、時間はいつだってふたり分並んで流れていた。それは初めて互いを見つけた時から当たり前になっていた。

「これでずっと一緒だね。」

ふたつの小指が絡まって揺れている。夏の終わり、燃えるような夕暮れのこと。あの誓い合ったものをあの時の僕らは何と呼んでいたのだろう。たまに眠れない夜に、シンジはそう考える。
あの誓いをシンジもずっと覚えていた。その情景は醒めない夢のように彼をどこまでも安心させた。目を閉じてその景色の中へゆくとシンジは永遠を感じられたのだ。
でも、そんなこと、カヲルには伝えられなかった。あれから背も伸びて笑い方も変わったふたり。そんな子供騙しを今もひとり大切にしているなんて、とてもじゃないが言えなかった。

「僕はシンジ君に会うために生まれたんだ。」

夕暮れの湖畔、一面が朱に染まり、まるでそこはカヲルとシンジのふたりきりの世界だった。そこで互いに見つめ合う。水鳥だけがひっそりとそれを眺めていた。

「僕もカヲル君に会うために生まれたんだ。」

誓いを交わすように言葉のひとつひとつをしっかりと発音した。この想いが届きますように、と。はにかんでそう伝えると、刹那、カヲルはシンジを抱き締めた。何も言わずにありったけの心を込めて。シンジもその肩に埋もれて、自分よりも少しだけ大きな背中をぎゅっと抱き寄せる。すると世界はゆっくりと廻るのだ。全ての色がほうっと命を燃やし、星が巡るように、ふたりの世界も廻ってゆく。

“あったかい…”

ただ抱き締める。もう離れないようにと、強く、強く、抱き締める。

“ずっとこうしていたい…”

それは記憶の仕立てた幻想なのかもしれない。けれどそれでもよかった。言葉を超えた真実がそこにはあったから。もう今のシンジが怖くて直視出来ないもの。

そして、決して知ってはいけなかったもの。




「待って!」

人生は舞台よりも不親切だ。予行演習もないままに勝手に次のシークエンスへと進んでゆく。そこで何かを掴めないと、次のシーンがまるで変わってしまう。

「待ってくれ!」

カヲルはただ、何も知らない14歳だったのだ。シンジだってそう。けれど、世界はふたりの背中を無理矢理に押してゆく。たとえそれが断崖絶壁だとしても。

「君を今、ひとりにさせたくない!僕らはいつも一緒の約束だろう!」

そう、ふたりはそうしていつも一緒に歩いてきた。

「君のせいで泣いてるのに!」

だから今もカヲルはそうやって乗り越えたい。たとえ自分の好意が実らないとしても、それが彼の特等席。決して失いたくはない。

「わかっているよ!」

「わかってないよ!」

走りながら腕を伸ばす。カヲルはどうにかシンジの腕を掴んだ。そして逃がさないように後ろから抱き締める。シンジに触れると確かな想いの芽生えを確信して、カヲルは死ぬほど苦しかった。

「…嫌だったかい?」

唇を噛み締める。もう氷みたいだ。きっと嫌だったから逃げたのだろう、そう思うと死んでしまいたかった。カヲルの思考回路はもう、めちゃくちゃだった。

「君が嫌ならもうしないよ。」

首筋に顔を埋めて許しを求める。ひたすらに虚しくて、

「もう…しないの?」

全てが、痛い。

「……ああ。」

恋をすると、ひとは見当違いに臆病になる。

「今日の僕はどうかしていたよ。だから、無かったことにしよう。明日からはいつも通りだ。」

その響きの途方もない寂しさにシンジは深く肩を落とした。数分前が無かったことになろうとしている。あの、まるで夢のような高鳴りも、幸せな感触も。

“それで本当にいいの?”

「……君が好きだから泣いているんだ、」

絞り出すようにしてヤケクソに、囁かれたソレ。え、とカヲルは聞き返した。けれど、

「カヲル君のわからずや!」

シンジはカヲルの腕の中からすり抜けてしまう。飽和状態の彼にはそれが精一杯だった。シンジの全速力にその時のカヲルは敵わなかった。生まれる前に殺されようとする種を抱えて必死で守るように、その時のシンジはとても速かったのだ。

残ったのは寒さに白む息と同様、広がっては消えてゆく、綯い交ぜの心だけ。
何も心の準備が出来ていなかった。あまりにも近すぎて気づくのは唇を重ねてからだった。そうしてやっと気づいたのにすり抜けて呆気なく消えてしまった。星が流れるくらい一瞬で。

“……君が好きだから泣いているんだ、”

宇宙の深淵の謎を残して。
見上げると、一面の星空。澄み切っている。なんでこんなに美しいんだろう。カヲルはその美しさが哀しくて、泣いたのだった。




「まーたやってるよ。」

昼休みはランチを食べる時間だということをカヲルとシンジは忘れているらしい。シンジが歩き出すのを身体を呈して阻むカヲル。たまらないという顔で何かを訴える。擦れるほどに額を寄せて躍起に囁き続けるカヲルを避けようとするけれど、そのまま胸にぶつかり腕の中に抱き留められてしまうシンジ。しどろもどろとした調子でふたりの耳は朱に染まる。

「あちゃー…なんやあれは。」

「喧嘩するほど仲が良い?」

気遣うように触れてくるその手をやんわりとシンジは避ける。手を上げて困り果ててカヲルは目を泳がせる。それからたどたどしく言葉を交わし、シンジが意固地に首を振るとカヲルは大きな声を出した。どうして、と。それを聞こえないようにシンジが前へ進むともう一度、どうして、と、白い手が離れてゆこうとする指先を掴む。そこは、教壇だった。

「何を話しているのかしら。」

集まってきた見物人。そのメンツにレイも加わっている。何故なら寸劇に聞く耳を立てるために彼らが彼女の机の周りに集まったからだ。教壇前の立地はやはり鮮明に事の次第を伝えてくれた。


「どうして教えてくれないんだ!」

それはまるで劇を演じているようだった。

「知らないよ!カヲル君なんて!」

ふたりは教壇で互いに向かい合い、身振り手振りで心の底から何かを叫んでいる。

「シンジ君!答えておくれよ!」

カヲルがシンジの両肩を掴んだ。そして、瞳を合わせる。その危うい距離感に観客が息を詰める。

「う、うるさい!カヲル君なんて、嫌いだ!」

慌てて振りほどこうとしても逃れられず、揺さぶられて前髪をふりふりと、やがてシンジの口はわなわなと震えて、俯いてしまう。

「…嫌いだ……う、」

顔を歪めて泣き始めるシンジ。観客はどよめいた。

「嫌いならどうして…」

そのどよめきはやがてしんと静まる。

「…好きだなんて言ったんだい?」

教室中が水を打ったよう。カヲルの頬にもシンジと同じものが伝っていた。それは誰もが目を疑う光景だった。カヲルはシンジを教卓へと押し倒す。

「君の“好き”の意味を教えてくれないと、僕は昨日の続きをする。」

シンジが逃れようと身じろいで制服の擦れる音がする。卓上に上体を預けたシンジに荒々しく覆い被さるカヲル。腰を重ねて、肘をつき、唇すれすれに顔を近づける様は、

「皆に僕とのキスを見られてしまってもいいのかい?」

まるで恋人同士のよう。潤んだ声で耳許で囁かれて、シンジは身体の奥がきゅっとしなるのを感じた。それを見つからないように思わず手をぐっと伸ばして突っぱねる。

「…ん、その手には乗らないよ、」

「僕が冗談を言っているように見えるかい?」

その瞳はしっぽりと欲に濡れていて、シンジの心臓はバクバクと昂った。視線で愛撫をされているみたいで、息が上がってゆく。


ゆっくりと、顔を寄せるカヲル。
どの角度で口づけようかと見定めながら唇を舐めている。
火照る頬に冷たい白の指が這う。

“本当は君に伝えたい。”

そうして鼻息が頬に掛かる距離まで近づいてしまうふたり。
目の前には物欲しそうな美しい顔。

“でも、素直になれないんだ。”

触れそうで触れない距離。
その唇が震えている、その近さに痺れてゆく。

“どうしたら言葉にできるの?”

好きの意味を探して瞬く睫毛。
溢れそうな気持ちは涙になり頬と手を濡らす。
揺れる瞳。その奥の光がかち合う。

“ねえ、君に、届いてよ。”

迫る唇。
あと、もう少し…


「好きだ…」

ポタリ、頬に弾ける温い涙。カヲルは喧嘩に自ら負けた。そして愛を乞うようにして、そう、囁いたのだ。

「僕も、おんなじ“好き”…だよ。」

シンジもそれを見つけて一緒になって白状する。眉を下げ、微笑みまじりでそう伝える。 
すると、カヲルもシンジも満ち足りた春のように万遍の笑みを咲かせるのだ。

口にしてみれば、何とも自然で完璧な響き。二文字に全てが詰まっている。
一番心地の好いひと。その関係に友情と愛情の境目なんて要らない。
好きは好きでいいじゃないか。

すき。

スキ。


「一応言っておくけど、ココ、教室よ?」

気分の悪そうな声で、あきれ顔をしたアスカがそれを遮ってみる。その後ろには怪訝な目がぞろぞろと。

けれど、

それを横目で見てニヤリ、挑発的に片眉を上げるカヲル。そして長い睫毛を下ろして、目の前の唇へと、熱烈なキスをした。

チュパッ、

味わうように滑らかに、舌が唇を舐め上げる。仰天したシンジはもぞもぞと抵抗して、

「お、教えたらしないって言ったじゃないか!」

「教えてくれないとすると言ったんだよ。」

蒸発しそうな赤い顔をして、熱っぽく瞳を潤ませて、

“シンジ君は僕のものさ。”

けれど、そう言われた気がしてシンジはへらっと笑ってしまう。それは、なんだかとても、嬉しい。すると、シンジのそんな無防備な笑顔は初めてで、カヲルはこの上なく照れてしまう。そして無性に興奮してしまうのだった。教室のど真ん中で。

「これが、春か…」

芽吹いたつぼみはもう咲くことしかできない。氷河期に漂流する教室と南の島のバカンスのようなふたり。この温度差。恋には理屈も予想も通用しないらしい。

恋はひとをバカにする。バカになって知らないことを少しずつ覚えてゆく。


「ん、なんか変なのが見えた…」

なんだこの情景は。ケンスケが望遠鏡を外して目をしばしばと青ざめていると、

「何よ、」

アスカがそれを奪って覗く。

「ただのバカしか見えないじゃない!」

スコーンと手のもので彼の頭を殴り、勢いよくメガネが吹っ飛ぶ。そしてまたがやがやと喧騒は始まった。そして、レイが机に投げ出された雑誌を丸めてさっきと同じ方向を覗いてみると…

「春が見えるわ。」


新しい季節を知らせる色がある。薄く色づく桜の花弁がセルリアンブルーを埋め尽くし、春告鳥が空を渡る。恋の歌をさえずりながら。
こんな幸せな季節にも世界はゆっくりと廻ってゆく。ふたりの周りを巡ってゆく。

その瞬間をあの望遠鏡は捉えたのだった。



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