V. 残酷な寓話


(in RED)





愛で、ひとりきり、死ぬなら
きっと幸せだろう

けれど
愛に、ひとりきり、生きたら
きっと苦しい

愛に生きるなら、ふたりがいい

もしも
ひとりとひとりなら、どうだろう

幸せと苦しみ
ふたつの間には何があるのだろう





人間に恋をした天使が、最後は人間に堕ちてしまう物語。羽根をもいで、人間に堕ちたいと願う寓話。恋は堕ちるもの。何人たりとも、例えそれが羽根を生やして高い所から見下ろした者でも、純白で何も知らない何も触れた事のない無垢な者でも。堕ちたら、ただひたすら、堕ちてゆくーーー


僕はこの在り来たりらしい話を初めて耳にした時、正直目を見張った。天使でもないのに、天使の話を描く人間の想像力の逞しさ。僕は自分でも抱えきれずに溺れかけている理解不能の難題をいとも簡単に纏め上げられてしまい、妙に辟易して、苦々しいこの胸焼けをどうにか言葉で紡ごうとしている。画策すること、早朝四時、朝焼けが美しい青に染め上げられる少し前。

ーそんなに簡単な事ではない。そんなに美しい事でもないんだ…

ベッドの上で片膝を突いて重たい頭を垂れる。暗さにほんのり深い青が混じり、シーツの皺が陰影を作り複雑に絡み合う。あれから眠れずにのぼせた頭がじわじわと思考を撹乱する。



あれからーーと云うのは先程まで眠っていた彼が見てしまった夢のこと。

随分と古い過去をやり直したみたいな夢。しかも欲望に塗れて生々しい。まだ、彼が、神が抱くような嫋やか愛情で彼の想い人に接していた頃の時代に居た。ピアノの軽やかな音色、極力削ぎ落とされた世界にふたりきりの少年達。優しく包み込み、少年に道標を諭そうとする彼と、世界で唯一優しい彼に心を許し始める少年。それだけだった。

美しく残酷な白昼夢の間に流れるふたりの甘い逃避行。彼と少年とピアノの記憶を彼は密かに良く思い出していた。好きな人と好きな事をする、永い時の隔たりを超えて手に入れた、彼の宝物。彼にはその情景が痺れる程魅惑的で、時を忘れて耽ってしまう事がある。そして待ち侘びたその夢を見たら、急にいつもと違う展開になった。

少年が彼に縋る様に抱きついて、彼の想い願った台詞を云い、その空気は恋人同士のそれの様に甘美だった。今もその時に感じた感触を忘れられずに悶えている。肺が縮まったみたいに息も浅く早くて、酸素が全く足りない。胸を潰された様に苦しい。普段は全くかかない汗が噴き出す。自分の欲望の反映かと思うと焦燥するが、同時にやけに現実味を帯びたやり取りに気分が落ち着かない。まだ冷めない身体中の熱に苦笑する。その笑みは少しだけ先程の少年に向けた照れもあった。

首を摩る。涙に濡れ生温く湿った感覚、声と息との振動に沸き立つ肌の感覚。掌を見る。少年の背中は小さく温かかった。髪は艶やかで愛らしかった。目を合わせると驚いたみたい碧く煌き揺れた漆黒の瞳。か細く可憐な響きを持った、あの声。

ー妙に生々しい夢だったな。君に会っていたみたいで、落ち着かない。ただの夢なのに。

首に添えた手を頭にずらして髪を掻き乱して、くしゃりと掴んだ。

ー僕は、どうしてしまったんだ。僕は…彼と約束をした。自分が望んだ言葉を彼に言わせて、約束をした。こんな夢を見てしまったら、変な期待をするじゃないか!

少年が彼を思い出すと云う、叶わないことへの期待。彼はその願いに浮き沈みを繰り返し振り回される。永い歳月が彼の心を弄び、彼の少年への想いを抱えきれない程の重さにした。


彼はヒトではない、故に彼の抱く愛情はヒトのそれとは違い高潔だった。だった、はず。彼の心は生まれたての雛鳥が初めて見たかたちを母親とみなし愛する様に簡潔なものから、神が迷える子羊を優しく抱擁し導くものへと変貌し、ついには何万年も彼方から人が人を想い夜な夜な甘い溜息と共に身悶えるまでのものに様変わりしていた。今の彼は堕ちると云う言葉の響きのままに拗らせた愛情を処理出来ずにいた。彼はヒトに堕ちたのだ。魂がそれと違っても、心がヒトらしく複雑にこんがらがっていた。

ーシンジ君……シンジ君……

息が上がって妙な気分になった。今度は頭を抱える。

ー違う。違うんだ、ごめん。

独り言なのにわざわざ真心を込めて謝った。苦し紛れに頭を振る。それを止めて長い溜息とつくと、ふと彼と密接した感覚を思い出して、身震いした。またはっとして息を飲む。

ー違うんだ、シンジ君。そんなんじゃないよ…

懲りずにまた苦し紛れに届くはずの無い弁解をした。汗が首筋を伝う。唾を飲み込んで、深呼吸をする。涙が滲んで視界がぼやけた。

ーわからない…僕には理解出来ないんだ。…苦しいんだ、シンジ君…

その名前が胸に刺さって苦しくなる。そして彼は声も無く泣いた。涙が頬に垂れて、唇を噛み締める。そして彼の左手が戸惑いながらもゆっくりとその熱い下半身へと伸ばされた。


かつては無邪気に触れ合い、余裕を持って愛情を示して来た彼の心と身体は、彼の意志に反して身勝手に少年を求めたり欲したりした。持て余した欲望の塊をどうしていいものか解らずに、ここ何年も彼は苦しんでいた。青い海を眺めたり、沈む夕陽に染められたり、月明かりに照らされたりしながら自問自答を繰り返していた。

彼に助言を与える者は居ない。何故なら天使が人に堕ちる苦しみを誰も知らない。堕ちるから苦しいんじゃない。人が複雑な内面を持っているから苦しいんだ。彼は最近にしてそう結論した。そう結論しても、彼は恋の前に降参するしかない。何人たりとも、例外はない。

けれども、彼はあまりに永い歳月をかけてひとりを想い、命まで何度も投げ出しては初めての再会を幾度となく繰り返し想いを遂げて来たので、堕ちたと知った瞬間から深く深く突き堕とされてしまった。ひとつの心にその状況は重すぎたのだ。

彼は何日も充分に眠れずに短く浅い眠りを重ね、恋に対して思い詰めていた。彼が思わず強く呻いて白濁した熱を吐き出した時、迷宮に迷い込んだ彼を、美しく神妙な青が包み込んだ。


ー…シンジ君…君が、好きだよ。

うっとりとそう心の中で囁く。窓から射し込む朝焼けの青い光が今度は彼を恍惚とさせた。片膝を曲げて座る彼の視線の先に、ベッドの際に腰を据えて少しはにかんで此方を覗く青い光を宿した瞳。先程の夢の続きのまま、彼の言葉を聞いて恥ずかしそうに俯いて、ちらっと首を傾げる様にして彼を見ては、また俯く。その瞳は優しく揺れた。

ーおいで、シンジ君。一緒に眠ろう。

少年は小さく頷き、両膝をついてゆっくり彼の右側に移動し、恥じらいながら横になった。そうして彼も横になり肘を突いて自分の頭を支えて、少年の形のいい頭を眺める。そっともう片方の手で髪を梳く。

ーシンジ君…

その声を耳にして少年は彼を見上げる。潤んだ目が朝焼けの青い光を含んで美しかった。彼の全身に痺れが走り、その事を少年に気づかれない様にそっと張り詰めた熱い吐息を漏らした。髪を撫で付ける手をさり気なく背骨から腰に滑らそうかと考えて、その誘惑には従わなかった。そうしたら、唐突に少年の掌が彼の胸に触れた。ひとつとくんと高鳴ったら、じわりと温かい体温で心が溶かされる心地だった。やがてその手はするりとシーツの上に落ちる。

いつの間にか微睡んでいて、仄かに微笑みつつ瞼を閉じた少年の無垢な表情を壊さない様に、顔を近づけた。気配を感じて微睡みの隙間から意識を取り戻した少年が彼を見上げて、青い瞳と赤い瞳がかち合った。彼は持て余している熱に気づかれない様に顔を少年の瞳より少しだけ上に移し、その額に向けておやすみ、と囁いてから口付けた。

甘くてほろ苦い初めてのキスに涙が溢れてしまう。愛で死ぬならキスで死にたい、とぼんやりと思った。そして彼は眠った。明け方の混沌とした頭が描いたこの少年とのやり取りの果てに、やっと心が満たされて眠れたのだ。眠りに落ちるその直前まで彼は少年の幸せを願った。この世界に居る彼を知らない少年が、この朝に目覚める時、頭の先から爪先まで幸せでありますように。


その時、彼が祈りの中で眠った事を、少年は知らなかった。

けれど、少年も彼を想って眠りについた事を、彼もまた知らなかった。



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