U. かけら


(in BLUE)





君は誰

僕は君を探しているのに

君はいない

傍にいると感じても

君に会えない

知らない君に

会いたいのに

会いたいのに





美しい人が居た。海を見ていた。悲しそうだった。波打ち際にひとりきりだった。

僕はその人の前に立ってみた。踝まで波にさらわれて、ひんやりする。僕のこと、見えないのかな。あ、目を瞑ってしまった。どうしよう。僕はこの人をちゃんと覚えなきゃと思った。まじまじと顔を見つめる。君は誰なんだろう。僕らしくないけれど、つい頬に触れてみた。とたんにバケツをひっくり返したような雨が降って、全身が濡れた。晴れているのに。

僕は何故ここに居るんだろう。始まりを覚えていない。けれど、きっとその人に向かい合うためにそこにいるんだ。それくらいにその人は辛そうだった。苦しそうだったんだ。謝らなければいけない気がした。でも、どうしてかわからなかった。どうにかしてあげたかった。どうすればいいのかな。

次の瞬間、僕はもう僕じゃないみたいに、その人を抱きしめていた。誰にもこんな事をしたことないのに、不思議なくらいに、自然だった。温かい気持ちに満たされていたから、その全てをあげたくて、包み込むように、伝わるように、まごころを込めた。

どれくらいそうしてたんだろう。気づいたら雨は止んでいた。明るい空には虹が掛かり始まっている。何もかも綺麗だった。ふと、僕は思い出した。探していたんだ、この腕の中の人を。心待ちにしてたんだ。顔を見たくてゆっくりと体を離すと、ちらっと赤い光とかち合った。その時ーーー


僕は海辺の夢から目を覚ました。



幼い頃から僕は変わっていた。僕には何か使命があって、探しものを見つけなければならないと信じていた。それによく鮮明な夢を見ていて、よく夢の内容を覚えていた。それは特別な力だと思い込んで真剣に夢と向き合った。寝る前は必ず、夢の中で夢とわかること、朝目を覚ましてもちゃんと夢で起こったことを記憶しておくこと、と夢の扉を開くその瞬間まで僕は頭の中で唱えていた。



ーーーーー…

蝉のざわめく夕暮れがひどく懐かしくて、胸がきゅっとなる。熱の名残りは夏の盛りだった。なんだか虚しくて寂しくて消えてしまいたい気持ち。なのにどうしようもなく何かへと昂まる予感。心が混じったみたいでそわそわした。

辺りを見渡すと、街が水溜りに沈んだようにいびつな湖と世界の終わりみたいな退廃の都市が朱く陽に染められていた。燃えてるみたいにひたすら赤い世界が、僕を空っぽにしてくれた。言葉ばかりで責め立てられた頭が真白になって夕焼け色のインクを滲ませていく。気持ちいい。

何か聞こえる。鼻歌だ。誰か居るのかな。こんなに悲しい景色なのに。そう思いながら、さっきの予感の答えがあるから、必死に目を凝らして探さなきゃいけない気がした。あれ、首のない天使みたいな像の上に誰かが居る。誰だろう。何故か胸が苦しい。誰だろう。あ、霞んでいく。嫌だな、これは夢なんだ。しかも覚めそうじゃないか。歌声が遠くで聞こえる。聞きたいのに、遠すぎる。嫌だよ、離れたくない。答えを知りたいんだ。答えをーーー


「君は誰なの?」



力いっぱい誰かに叫んだのに、遅かった。しかも消えそうなくらいの囁きがベッドの中で漏れただけだった。なんだかすごく悲しいな、夢なのに。気づいたら寝汗をかいたシャツが貼りついてたから、寝返りをうってみる。窓に切り取られた夜空の中、満月が僕を照らして眩しい。満月ってこんなに明るいんだ。

はっとした。忘れる前に反復しなくちゃ。夕日、変な湖、壊れた街、首のない像、天使だった、それに、誰かいて…鼻歌、なんだっけあの歌…僕話しかけられた気がしたのに、遠すぎてわからなかった。残念だな。ため息が漏れる。見落としがないか何度も思い出す。段々それが見た夢なのか妄想かわからないくらいまで考えて、ずっと鼻歌を頭の中に流した。

「男の人なのかな…」

声の感じ、女の子じゃない。ちょっと驚いた。何度も夢の中で探しているうちに、人を探してると気づいて、それは運命の相手なんだと思ってた。おとぎ話みたいな王子様とお姫様、SFのヒーローとヒロイン。勝手な思い込みだったんだ。でも、なんで彼を探しているんだろう。彼は、僕にとって何なのだろう。



僕の幼少期は暗かった。変わった子だけど両親に愛されていた幼児から一転、母が消えて父が別人になって取り残された小学生になった。父が、母さんは大丈夫だ、いつか連れて帰ってくる…とだけ言って、僕に背を向けた。僕は状況を飲み込めずに泣いて怯えてまた泣いて怯えて、繰り返すうちに性格が捻くれた。父と僕の距離が離れすぎた頃、僕は先生に預けられた。先生は、君のお父さんはお母さんを救うために研究に専念するんだよ、家族の、君の、為なんだ、と慎重に言葉を選んで言ってくれたけど、僕の内心は、訳がわからないし、信じられない、だった。僕は考えた。僕は捨てられた。学校では何とかおとなしい子でやり過ごし、ひとりの時はずっとずっと考えていた。僕は要らない子だ。気が狂うくらいまで考えて、ある時糸がぷつっと切れた。死のうと思った。



ーーーーー…

綺麗な音。すごく穏やかで、落ちつく。ピアノの音だ。誰が弾いてるのかな。あれ、僕が弾いてる。すごいや、こんなに上手かったなんて、知らなかった。でも僕だけじゃない、肩が誰かに当たって温かい。横を盗み見た。

心臓が飛び出そうだった。とても綺麗な人が、僕の探している彼が、僕を見つめていた。ふと、音色が止んだ。

「どうしたんだい?」

すごく優しい声だった。今まで聞いた声の中で一番優しい声だった。僕は、やっと息が出来るみたいに深く息を吸った。赤い目が僕を見て微笑んでる。愛おしいって、笑ってくれている。僕は、僕はーーー


ピアノから指を離して彼の体に腕を回した。遠慮がちにゆっくりそっと抱き締めると、彼は少し驚いたみたいにびくっと跳ねて、でもすぐに抱きしめ返してくれた。力を入れて引き寄せて、甘えるように首筋に顔を埋めた。

彼は僕の背中と頭に添えた掌で僕を優しく撫でてくれた。彼も僕の頭と体を更に引き寄せて、耳元に彼の息がかかる。温かくてくすぐったい。僕の鼻は彼の匂いを嗅いで、ひどく安心した。

「シンジ君…」

耳元で名前を呼ばれて、全身が痺れる。こんなに優しく名前を呼ばれたことなんてなくて、目が熱くなる。彼が愛おしい、そう思った。たまらなく、そう思った。鼓動が早くなる。全身で脈打つ。触れ合っている箇所から彼を感じる。彼も脈々と早くて、熱いくらい、温かい。背中に添えられた彼の手もじんわり温かくて、僕の胸を締め付ける。想いが溢れてゆく。


「僕は…僕は…死にたかったんだ…でも、君が、君が僕に会いに来てくれるって約束してくれたら、僕は、これからも、君を探し続けるよ。本当はずっと君を探してたんだ。僕は君に会いたい。君を誰だか、知りたいんだ…僕は君を思い出したいんだ。」

まとまらない台詞。涙が彼の肩を濡らす。震えて小さく泣く僕。彼の喉が鳴る。髪を梳くように撫でていた指が髪の間に埋まる。そして僕はより強く抱き締められた。息が出来ないくらいに。僕の腰が反るくらい強く掻き抱いた彼の体が熱かった。吐息も熱かった。

「…君は、ひとりじゃない。僕はずっと君を見ているよ。僕はずっと…君を想ってる。」

また、喉が鳴った。泣いているみたいに潤んだ音だった。

「約束するよ。僕は必ず君に会いに行く。だから、僕を探し続けてくれないかい。僕を誰だか思い出してくれないかい。僕の為にも、君には生きていてほしい。僕には君しかいないんだよ…君が必要なんだ。」

最後の声は掠れていた。僕はその言葉だけで充分だった。心が満たされて、膨らんで、零れているかもしれない。それくらいの充足感。僕は何かを思い出そうとしてた。頭がぼやけている何かをはっきりかたち作ろうとして、それを掴んだ。咄嗟にーーー


「カヲ…ーーー」



彼の名前を呼んだ。呼んだ、気がする。呼び終わる前、思い出す直前に夢から覚めるなんて…

ベッドの上に横たわる体。もう一度、目を閉じて夢に沈もうとした。そして何度目かに諦めた。僕は興奮して眠れなかった。胸がどきどきしてる。呼吸が早くて汗が滲む。堪らなくて体を横向きにして小さく丸めて自分の体を抱いた。月明かりに照らされて、今まで感じたことない変な気持ちになる。

僕は、彼を抱き締めた。
僕は、彼に抱き締め返された。
僕は、彼に名前を呼ばれた。
僕は、彼と約束した。
彼は、僕に…

言ってくれた言葉をひとつも忘れないように何度も反復する。反復しては、胸が苦しくなるし、体が痺れるしで、僕は月明かりから体を隠すように布団に潜り込む。顔が熱い。そっと耳朶に触れた。彼の熱い吐息の感覚を思い出して、全身が粟立つ。自分の吐息まで熱くて布団の中が蒸れて、目尻から涙が垂れた。涙がもう片方の耳元を濡らしてくすぐったい。

彼の名前を思い出した途端に忘れてしまった。彼に思い出してほしいと言われたのに。頭が混乱する。彼の言葉…僕らは知り合いみたいだ。知り合いと言うより…顔が緩んでしまうのを両手で覆って隠した。恥ずかしくて、脈が早くなる。同性に対してそんな風に思うなんて、僕はどうしてしまったんだ。未知に不安が渦巻いてゆく。けれど、そんなことは些細な心配だと感じるくらいに、彼の存在が大きかった。彼とピアノの音色、ふたりの時間が幸せで、彼が手に入るならどんなことでもしたいと思った。抱き締めた感触を思い出す。体が疼く。


幸せーーー布団に入る前、死のうとしてベランダの前にいた。誰も助けに来てくれるはずがないのに、何かを待った。長い長い時間だった。足が震えて指先が冷たく汗ばんだ。体に力が入らない。

怖い。高い所は嫌だ。怖い。死ぬのは痛いのかな。怖い。死んだら父さんは悲しんでくれるかな。ーー。死んだ僕を抱き締めて泣くのかな。ーー。遠い頭上から死んだ少年に覆い被さり後悔して泣き叫ぶ父親を見下ろして、僕は…やっと、笑うんだ。

心臓が変な動きをして、生きてる心地がしない。ああ、僕には出来ないんだ。弱虫だから。怖いのは嫌なんだ。死にたいけど、怖いのは本当に嫌なんだ。生きる。死ぬ。生きるために死ぬ。死んだように生きる。きっと同じなんだ。怖いのも痛いのも嫌なら、死んだように生きればいいんだ。


そう決心して、全てを諦めて眠ったはずなのに、目覚めた僕は幸せだった。少し前の優しい時を思い出して、生きるために生きようとしていた。まだ名前もわからないのに、恋しくて恋しくてたまらなくて、恋に降参した。僕は恋している。君に、恋している。


目を閉じて体を横向きのまま、力を抜いた。想像した。彼が僕に向かい合って横になっている。愛おしく細められた瞳。あやすように髪を梳く掌。僕の名前を呼ぶ声。それに続く熱い吐息。僕も彼の名前を呼べたらどんなに幸せだろう。呼べない代わりに彼の胸にそっと掌を置いた。温かい。彼を見上げたら、彼の顔がすぐ側にあって、瞳が合った。胸が高鳴る。おやすみ、彼の囁く声が額にかかり、そこに唇が落ちた。切ないくらいに甘くて優しい初めてのキスだった。

僕は、彼の幸せを願った。僕に幸せをくれた彼にも幸せをあげたいーー




早朝にいきなり先生に呼ばれて飛び起きた。わけもわからず慌てて下の階まで駆け降りた。玄関で気配がする。妙に体が浮くような気分になる。足に力が入らない。恐る恐る玄関を覗くと、先生が振り向いて、笑ってる。いや、笑いながら泣いている。

玄関扉の先に人が居た。父さんと…母さんだった。

母さんは僕を見つけて僕の名前を叫んだ。駆け寄って、焦ったそうに靴を脱いで、玄関前の廊下で放心して立ち尽くす僕に飛びついて、抱き締めた。

「ごめんね。ごめんね、シンジ。寂しかったでしょう。もう大丈夫よ。お母さんはもうどこにも行かないわ。ずっと一緒よ、シンジ。」

母の言葉、母の温もり。

ー母さん…


母さんが居る!
本当に父さんが連れて帰って来たんだ!

突然に状況を把握して僕は、小さな子供のように大声を上げて泣いた。今まで溜め込んだ泣き声が弾けたみたいに、泣いた。つられて母さんもはばからずに泣き出した。全身で叫ぶように泣きじゃくる僕達を遠くで見ていた父さんが、ふと俯いて顔を擦った。父さんも静かに泣いていた。


この時、僕は十歳だった。



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