T. いつの日も天気雨


(in RED)





永い歳月の中で生まれた願い
それはきっと叶わない

けれど、世界には
砂漠に咲く一輪の花もあるよ

救いようのない星にも
奇跡が
散りばめてられているんだよ





さざ波が聞こえる。耳のもとまで。心のもとから。とても安らかな音色は染み渡る様に広がりゆく。広がりゆくけれど、其処に居るのは少年ただひとり。彼を残して消えた営みの喧騒、最果ての波打ち際の様な異国の端の端。


ー…君は僕を見つけてくれるだろうか。

立ち止まる足元は白い砂浜に重さを刻む。瞳の先には静かに佇む壮大な海が息をしていた。何度目かの変貌の果てに優しい青に染まった母なる水の塊は、かつての様に包容力を纏い大らかに寄せては返す。揺蕩うリズムで爪先を小突いたのも束の間、さっと元の場所に還ってゆく。

ー僕は君をすぐに見つけられるけれどね…

薄っすら自嘲して弧を描く唇は少しだけ開き、小さな音と合わせて息を吸った。密かに張り詰めた響きだった。

ーやっと君の色に染まったね。やっぱり海はこの色がいい。

爽やかな群青のグラデーション。その色は遥か彼方の街に住む、あの彼の瞳まで染め上げているのだろうか。

ーこうして離れ離れでも此処に来れば、君が僕を見ているみたいで…

ふと、時が沈黙する。呑み込んだ息が喉を鳴らし、紅い光が揺れる。最後まで紡がれずに潰えた科白は彼を動揺させた。きまりが悪そうに俯く姿は目を逸らす仕草に似ていて、誰かと対面している様な物腰だった。彼はもう笑っていない。視線の先の白の足指が透ける程瑞々しく、プリズムの雫を塗していた。

ー君が、僕を見ている、か。


青を見ると決まって「君」を連想した。彼が初めての出逢いから想いを寄せるその少年は十年と少し前に生を受けた。そして彼とその少年はまだ一度も出逢っていない…この世界では。

その少年は青色に似た静かで穏やかな雰囲気を纏っていた。青味を帯びた海や空の様に大きく深く澄んだ心を持ち、それ故に苦しみや哀しみをひとり抱えていた。何より彼の漆黒の瞳が意志を持って何かを見据える時に、微かに碧い焔が煌めくのだ。まるで夜空に瞬く青い星のように。

脳裏に蒼い星がちらつく。そして心の無い穏やかさを纏っていた彼の仮面は剥がされた。その下から表れた暗く厳しい顔でまた青と対面する赤。その顔は青の持ち主には決して見せる事のない、哀しく歪んだ表情をしていた。潮風が頬を撫で、さらさらと流れる彼の銀髪までが悲哀になびいていた。



何度目かの世界のやり直しを経て彼は月で生まれた。甘い悪夢から揺り起こされて、浮かない顔をしたまま上体を上げて瞳に映ったのは、研ぎ澄まされた様に蒼い星だった。

驚いた彼は暫くしてその星に降り立って、世界が今までの中で最良の形に創られた事を知る。けれど、完璧ではない。それは彼が月で生まれたから。宿敵の運命は紡がれたまま。

ー仕上げが必要なんだね。



だからきっと僕はこうして此処に居る、そう残りを心の内で呟いて彼は海の先へと意識を飛ばした。遠くの君が望む最後の結末は何なのだろう、そればかり自問してはこの波打ち際へと足を運ぶ。浜辺に水の襞が揺れて心地良い音を奏でても、彼にはもうその息吹を楽しめなかった。

ー君の答えを知りたい。けれど、それが怖くもあるよ。

溜息に憂いが混じる。彼の睫毛は震えて、ゆっくりと紅を閉じ込めた。

ー君が望んで僕がまた生まれたとしても、君はいつも僕を覚えていないからね。

ーきっとまた君は忘れてしまったんだ。酷く取り残された気分だよ。酷く…

責めてる訳じゃない、と誰にも聞かれていない科白の弁解を添える。美しい銀髪を揺らしていた風が凪ぎ、彼は静止した。それは帰り道を見失った迷子の様に小さく悲痛な後ろ姿だった。


刹那に頬に雫が弾けて、その冷たさを白い指先で拭う。ふと頭上を仰げば、そこには果てしない蒼穹。けれども耳元にはぱらぱらと小さく弾ける打音が足取りを早めていた。

そして唐突に晴天の空から恵みの雨が降る。

容赦なく力を増して打ちつける水滴の洗礼を、呆然と立ち尽くして全身で受け止める。身を捧げるように力無く、天と向かい合う双眸を閉じた姿は、祈りに全てを投げ出した天の遣いの様に儚げだった。水気を含んだ空気は生暖かく湧き立ち、光を集めて震えていた。やがて辺りに輝きを撒き散らして世界の境界をぼやかすので、その少年は本当に消えてしまいそうだった。神の御許へ還るような輪郭。

ー君が忘れてしまっても、僕は忘れない。

濡らされて透ける程白い肌に半透明になった白いシャツが貼り付き、その危うげな儚さを駆り立てていた。水浸しの顔を伝う水滴は、例えそれが彼の閉じた双眸から流れたものだとしても、もう誰にもわからなかった。ふと辺りの空気が少しだけ柔らいで叩きつける音色が明るくなり始めた頃、少年は瞳をうっすらと開いた。それは眉を連れて小さく歪んだ。

ーなのに君はもう、僕を、知らない!

震える瞼は眩しそうで、けれども紅い瞳は何も探していなかった。微かに力を宿した右手をゆっくりと掲げて、光の放つ方へと掴むように掌を開けば、彼の瞳にはヒトの腕の形に切り取られた影が映る。そして、確かめる様に指先をひとつずつゆっくりと折り込み、宙を掴んだ。行き先を無くし力無く差し出されたままの虚しい腕。

ーそれに僕達の事を、何も知らない…

天候は彼の心を描写していた。言葉のない世界でどしゃぶりに降り続ける想いの雨。生温かく冷たく、光を集め陰を生む。混沌として溢れ出る様は、暴力的に美しかった。彼の首を優しく包み、ゆっくりと締め上げる。時を深めるにつれ、息を奪った、噎せ返る様な天気雨を神は描く。そして彼は心の内を見透かされた敗北感からか、内面の静かな抵抗を諦めて情景に同化し、身体を預けて無言の独白した。誰にも気付かれず、もちろん想いを傾ける相手には決して届く事のない慟哭。

独りきりで想い出を抱えるのは慣れていた筈なのに。彼はこの無慈悲な明るい雨を恨んだ。

ーいつまでも降り続けばいい…そして、嘲笑えばいい。


願いにしがみつく、この心を
奇跡を期待する、この心を


濡れた彼の儚げな肩が小刻みに震えていた。周りには潮の香りと潤んで濃くなった繁茂する緑の香りが湿気て白んだ空間を媒介して立ち込めていた。鼻をつく生命の匂いが脳を痺れさせて、彼のモノローグは加速する。

ーずっと、心の何処かで期待していた。君が僕を想い続けてくれる事を。でも、君は巡り会う度にまっさらだった…だから、いつも君と過ごす時の中で、君の魂が僕を記憶し続けてくれる様に悪足掻きをしていた。同じ言葉や同じ仕草に託して君を試した。それなのに…

雫の氾濫は弱まり、勢いを失ったそれは光のシャワーの様な温かさを孕む。彼の永久に隠し通す筈だった心は照らされて、逃げ場を無くした。

ー君は僕を憶えていない。仕方の無いことなのに、途方も無く苦しい…

叫び出しそうな心は止まらないまま、迷走する。彼はもう、息が出来ない。

ー君を想えば想う程、この心に深く穴が空き、闇へと繋がるみたいだ。やがてその穴から悪魔が覗いて、僕に囁く。想う事をやめれば苦しくなくなる、と。

ーけれど、そうしたら…僕は何の為に在るんだ?


僕は君に恋するべきではないのか?


恋する。
秘めた言葉を吐き出した心は途方に暮れる。強張っていた肩の力が抜けてゆく。肺を握り潰すまでの息苦しさは萎え、いつの間にか噛み締めていた唇も力を緩めて形をつくる。だいぶ雨脚は緩んでぱらぱらと後れ毛のような名残になった。陽の光が存在を強めて掌をやんわりと熱する。彼は手を胸まで下ろし掌を覗いてみた。指先は力無く形を崩している。

ー君の幸せ。それが僕の存在する意味だったのに、いつから僕は、こんなに狡く歪んでしまったのだろう。僕がかつて愛しさに包みながらも軽蔑していたリリンの性。醜いヒトの欲望。

想い、想われたい気持ち。同じように愛してほしい、神の無償の愛とは対になる心。彼に芽生えたヒトの心。僕を認めてほしい、と心が叫ぶ。

ぎこちなく指を開いては閉じてみた。


…本当に醜いのだろうか。



いつの間にか最後の一滴は砂に馴染み、辺りは晴れ渡っていた。足元に吸われた水気が陽に照らされて蒸発し、ゆらゆらと空気に混ざって昇ってゆく。

ずぶ濡れの身体は重く怠さを含んでいたが、髪先や薄い顎、指先から滴ることでいくらか彼を軽くした。今目醒めたかの様な瞬きをした睫毛は小さな水分を拡散する。そして現れた紅く澄んだ瞳は輝きを強くして、前を見据えている。

ゆっくりと歩き出した足は、引き摺るような出だしだけれども、段々と綺麗な形の足跡を白い砂浜に残して、やがてひとつの言葉を残して消えた。


「僕は君に恋に堕ちてしまったんだ。」



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