Case.7 玉虫色の白鳥へ贈る
好意を伴う行為。贈る。それは心を形にする伝達手段。自己愛と虚栄に満ちた自慰の体現。そう、思っていた。君が教えてくれるまで。何を形にするのかを、君が教えてくれるまで。贈る。それは、溢れ出る熱情の臨界点。
「僕たちの噂、広まらなかったね。」
「ああ、そのようだね。」
広まってしまえば良かったのに、心の中でそう呟く。
あれからシンジ君に恋をした彼女は、律儀にも彼に想いは届かなくとも彼に誠実な行動をとった。誰にも言わず、密やかに彼の幸せを願う。つい先日、僕等と廊下ですれ違った時もただ穏やかに彼を眺め見送った。シンジ君は僕に気を遣い何も告げずに彼女にはにかみながら小さく会釈していた。僕にはそれはとても奇妙に心に響いた。密やかに日常の隅に流れてゆく交感のその清らかさの意味を僕はまだ知る事が出来ずにいる。けれど、僕を悩まし続ける色欲や激情などとは対岸にありそうなそれに僕は小さな嫉妬を覚えた。
ー僕はシンジ君の全てを理解したい。僕の知らない君の事を他の誰かが先に理解してしまうのも、嫌だ。
それは僕の触れられない君の一部。一部はきっと抱えきれない程に点在する。でもそれに瞳を閉じて僕は君の全てを手に入れようと、いつまでも見果てぬ夢を見る。
君と僕のふたりきりの部屋は冬支度を始めた。ふたりで寄り添うにはやや広過ぎるこのリビングでは、食卓に充てがわれた小さなテーブルに、二人用のソファに、そしてあらかじめ備わっていたダブルベッドが僕たちの寛ぐ場所で、それ以外はただの冷たいフローリングでしかなかった。けれど、寒い季節にはその持て余した空間が僕には気になって、大きめのアイボリーのふわふわな毛並みのラグを敷いてみる事にしたのだ。その提案に君はとても喜んでいたので、聞いてみれば君はそんな冬らしいスペースが欲しかったと言う。だから、言ってくれればすぐ用意したと僕が言うと、カヲル君の部屋だからそんな事は言えないよ、なんて返ってきた。その台詞の淋しさに胸がずきずきしても僕は何故かそれを隠して笑いながら君との冬支度の為の買い物デートの約束を取り付けたのだ。これが、リリンのまどろっこしい切なさなんだとその時初めて僕は知った。
僕はかつて目にした沢山のレトリックの意味を理解してゆく。愛の文面の美しさだけではない、その中身の内臓や血管のような生々しさを身につけてゆく。
乳白色の羽根を綿々と敷き詰めたようなラグにふたりで寝転びながら、君の作った焼きマシュマロ入りの白ココアを口に含む。ほんの少量振り掛けられたシナモンが君の言葉のようにさりげなくぴりりと香りを撒き散らして僕を刺激する。ふと反射光が目の端にちらついて、視線を傾けると君の手にはいつか君の話してくれた幼馴染みと何故かお揃いらしい銀色の小さな笛が紐に繋がれてぶら下がり揺れていた。
「前に言ってた銀の笛、僕がアスカに渡したみたいなんだ。」
「君が?覚えていなかったのかい?」
「それが、四歳の頃だったからすっかり忘れてたんだ。」
それはまるで運命の男女を描いた現代の御伽噺のようで、僕を激しく混乱させた。
ーーーーー…
幼い頃から僕の部屋の片隅で息を潜めていた、銀色の小さな友達。それは僕がチェロを始めるまでの僕の奏でられた唯一の楽器で、唯一の心の声だった。言葉を発して想いを伝えることの苦手だった僕は、喉笛の代わりにその銀色に口を付けて、澄んだ風のような音色で喜びや哀しみを伝えようとした。それはひとりきりの部屋だったり、道端だったりしたけれど、僕はその声が届かなくてもいつかきっと伝わるような気がして、それだけで満足していた。僕にとってはそれが山を超えて海を超えて空を超えて、たとえ月へまででも届くような神秘の力を持った秘密道具だった。だから僕は何故かとても寂しい夜は窓から僕を見守る月に向かって、掠れる程に小さい息をその銀色に送って微かな透明な音を奏でた。その言葉のない祈りは僕の想いを連れて風のように月まで旅する。目を閉じてその風が月面着陸するのを見届けてからゆっくり瞼を開くと、さっきと同じ姿の月が、けれども、さっきよりも一層輝いて僕に微笑んでいた。僕の瞳にはそう映ったんだ。今僕の側でいつも微笑んでくれる月の光のような銀髪の彼の、それのように。
僕はようやくその行動の意味を知った。記憶のない幼い自分の、魂の声の意味を。その魂が探した誰かの魂を。そしてその誰かを。
ーーカヲル君に、逢いたい…
懐かしさと愛おしさが僕に畳み掛けるようにして茜空をより朱く染め上げる。僕は帰路を銀髪の彼と別れて、久々の我が家に居る。すっかり居住者を失った一軒家は埃っぽく廃れていて、なんだか寂しそうだった。重く淀んだ空気を換気して、簡単な掃除を済ませる。母曰くしばらくこの家はほっぽり出されてしまうようなので、冷蔵庫の残り少ない食料を整理して、ふたり暮らしに必要なものだけを紙袋に詰めた。冷蔵庫の電気を消した途端に、もう後戻りはできないんじゃないかと思う。愛しい人と腰を一度据えてしまったら、きっともう普通の中学生には帰れない。僕の胸をすんと突く、郷愁に似た巣から旅立つ若鳥の心地が僕を夕暮れまで足止めさせていた。特に約束はない。けれど、僕には心配してくれる人がいる。待っていてくれる人がいる。その事実がこの家の中では遠い夢のように響いてしまうので、僕はもしもそれが夢だとしてももう醒めないように願いながら、最後に自分の部屋まで駆けて、急いでボストンバッグに段々と少なくなった残りの衣類を詰め込んだ。
ふと、なんとなく忘れ物がないか開いた抽斗から顔を覗かせる黒い小箱。開くとそこには相方を無くして少し寂しそうな銀色の笛。そして僕は幼い自分の魂の声の正体を知ったのだった。
けれど、もうひとつ疼く小さな影。遠くから僕を叫びながら呼ぶように。僕はもう一度その銀色の笛を吹いてみた。
ーあのときはありがとう!
ーきみは、もしかして、あのときの、おんなのこ?
甲高い澄んだ音色。その瞳のように明るくて力強い声ーーー
「アスカ……」
僕は記憶の洪水を泳ぎきった。そして溢れてくる小さな女の子のシークエンス。モザイクがゲシュタルトを構築して今の世界の女の子と男の子の物語を紡いでゆく。
この銀の小さな笛の片割れは、僕の幼馴染みの手元に大事にされていた。だって、今でもそれは僕の笛のようにひっそりしまわれることなく、彼女の側で共に歩んでいるのだから。でも、どうしてだろう。どうしてアスカは今でもそれを持っていてくれるんだろう。
ーーーーー…
「…だから、アスカにはちゃんと言おうと思うんだ。思い出したって。あと、持っていてくれて嬉しいって。」
「…嬉しいのかい?」
僕は取り残された気分だった。男の子と女の子の物語の脇役に成り下がった僕は、恋人の背中を見つめていた。君はすっかり空になったカップを手に立ち上がる。
「それは、嬉しいよ。だってアスカは僕の分までずっと僕らの出会いを覚えていてくれて、僕のあげた物をずっと持っていてくれたんだから。」
ーそう、彼女は十年間も君の渡した銀色のそれを肌身離さず持っていたんだろう。君を想って、その想いがいつか実るように祈りながら。そして再会を果たしてその想いを強めているんだ…僕のように。
「カヲル君も新しいの飲む?もう十時過ぎたから、ハーブティーでも入れようか?」
ーそして、ふたりの出会いを思い出したと君が告げたら彼女は喜び、きっと君への想いを深く募らせる…今の僕のように。
「カヲル君?どうしたの?」
「…いや……じゃあ、お願いするよ。」
取り繕うように君から目を背けて寝そべった身体を起き上がらせる。膝を突いて側に置いたカップに手を延ばして振り返り君に渡す。一瞬僕らの指先が触れてから、離れた。
「うん。今日はカモミールにするね。」
君は無邪気ににこりと優しく微笑んでからまた振り返って、僕から離れようとする。台所へと続く動線、だけれど…
一歩、君が前へ進もうと踵を上げた。
「カ、カヲル君?」
気がついたら、膝を突いたまま君を抱き締めていた。君の腰から腹へ腕を回して顔をその腰に埋める。
「どうしたの?カヲル君…」
「………」
「あ、危ないよ…」
君の指に引っ掛けられたふたつのカップがかちりと繊細な音を立てた。
「…彼女に言わないでほしい。」
「え?」
「彼女に、君が思い出した事を黙っていてほしい。」
「ど、どうして?」
「………」
言葉に出来ずに君を掴まえた腕に力を込める。
「…カヲル君?」
「お願いだよ、シンジ君…」
僕は堪らずに君の腰に口付けた。布越しに僕の唇を感じて君の身体がぴくりと跳ねる。
「…カヲル君……」
困り果てたような君の声にはっと我に返る。僕の胸はずきずきからじくじくするような膿んだ痛みに変わっていた。どろどろと胸の中の虚無へと流れ落ちる、凍った様に冷たい痛み。
「…ごめん、シンジ君。また君を困らせてしまったね。」
「そんな…困ってないよ。ただ、心配しただけだよ。」
「…心配?」
「うん、カヲル君が辛そうだったから。それにどうして辛そうなのか僕にはわからなかったから。」
君の誠実な言葉が、優しく僕を責め立てる。
「君はとても優しいね。君は…僕には勿体無いよ。」
「それは僕のセリフだよ。カヲル君は、僕を甘やかしすぎだよ。」
君が照れ臭そうに小さく笑った。
「…君が好きだよ、シンジ君…」
ゆっくり息を吸い込むと君の匂いが肺を満たす。甘い、春の木漏れ日の様な優しい香り。
「僕も、カヲル君が、好きだよ。」
「…セカンドよりも、好きかい?」
僕の声は消え入りそうだった。頭で考えるよりも先に心が言葉になる。
「好きの種類が違うから比べられないよ。でも……」
君が気まずそうな空白を紡ぐ。
「…僕はカヲル君が世界で一番好き、だから…アスカよりも、好きだよ…」
その言葉が嬉しい。嬉しい、けれど……
君が優しく僕の回した腕を解いて振り返り、膝を突いて僕に向き直った。かちゃりとふたつのカップは床に無造作に置かれる。そして、君のその黒曜石の瞳は青を煌めかせて僕だけを見つめた。
「カヲル君、最近辛そうだね。よかったら、僕に話してよ。君の力になりたいんだ。」
君の両手が僕の両手を掴んで柔らかく握り締める。
「いつも僕は、カヲル君に助けられてばかりだから、たまには…僕を頼ってほしいよ。」
「…シンジ君……」
静寂が辺りに響き渡る。僕の身体は全身で脈を打つ様に、僕の瞳は君に吸い込まれる様に、僕は君という揺り籠に身を預けて、弱々しく白状する。ひとつ、深呼吸をした。
「僕は…心を持たない方が良かったのかもしれない。」
「どうして?」
「…苦しいんだ。僕は君を幸せにしたい。いつだってそれは僕の願いだ。けれど、心を持ってから、頭では君の幸せを一番に考えても、心ではいつも独り善がりに君を求めてしまう。」
僕は羞恥の余り俯いた。
「君を独り占めしたい。誰の目にも映したくない。僕だけの君であってほしい…君を他の誰にも届かない処へ、隠してしまいたい…」
僕は消えてしまいたい程怯えて、指先が震えていた。
「…酷いだろう?君の恋人は君の思っている様な綺麗な奴じゃない。僕は、今のままではきっと…君を幸せに出来ない…」
「そんなこと、ないよ…」
「もういっそ、君の為にもこんな心なんて無くなってしまえばいいんだ…!」
「そんなことない!」
ぐいっと君が僕の手を引いて、僕は前のめりに倒れた。すぐ側の君の胸が僕を受け止めて、その腕が僕を掻き抱く。僕らはそのままの勢いで優しい白の柔い絨毯に倒れ込んだ。君の胸に抱かれている。君の手が僕をあやす様に頭を撫でている。束の間の沈黙。その抱擁に僕の瞳が熱くなり、ぽろりと透明な涙が零れた。
「カヲル君、ヒトはね…きっとみんなそう思うよ。」
僕は意味が分からず瞬きをした。
「みんなね、好きな人ができたら、きっとそう思う。僕だってそうだよ。君を独り占めしたい。でも、それはできないから苦しくても折り合いをつけたり、諦めたりするんだ。みんなそういうものだと思うから、ヒトはそれを悪いことだとも思わないよ。カヲル君みたいに綺麗な自由な心のヒトは、なかなかいないもの。」
「綺麗な自由な心…?」
ー君はいつもこんな僕を何故、綺麗、と言うのだろう?
「僕の幸せを一番に考えてくれて、自分の幸せや願いを後回しにしようと悩むなんて、カヲル君の心はとても綺麗だよ。それに君は自分で考えて答えを出すから、とても自由だから僕は羨ましい。」
「……羨ましい?」
「うん。星の王子さまと一緒だよ。」
物事の常識に囚われない純粋な子供の心を持った、小惑星から地球へとやって来た小さな王子。
「サン=テグジュペリの言葉でね、愛するとは互いに見つめ合うことではなく、一緒に同じ方向を見つめることだってのがあるんだ。」
美しい言葉が僕の鼓膜を優しく擽る。
「君がヒトの心で僕を想ってくれるから、今度の僕らは一緒に同じ方向を見つめることができるよ。」
「…今までの僕らは互いが違いすぎて互いを知ろうと見つめ合うばかりだったね。」
「うん。でも、カヲル君が僕を見ていてくれたから、僕はここまで来れたんだよ。」
「シンジ君がいてくれたから、僕は見つめるという事を知れたんだ。そして、愛するという事を、知れた。」
ふたりの温もりが溶けてしまう様に合わさって、心をひとつにする。
「…ねえ、王子は赤い薔薇に会えたかな?ふたりは幸せになれたかな?」
「きっと、ふたりは同じ星で幸せに暮らしているよ。僕等の様にね。」
「…うん。そうだよね。」
君は安心した様に深く息を吐いた。
「僕はこんな綺麗な心でカヲル君から愛してもらえて、幸せだよ。」
「僕も、君がこんなに僕の側に居てくれて、君にこうして愛してもらえて、幸せだ。」
静謐の中で安堵した心は微睡む。君に抱かれる揺り籠の中で。
僕は自分でも知らないうちに恋をしていた。けれども、恋というものを知らずに、ただ大切に、君が傷つかない事を祈りながら、硝子で覆う様にして君を愛する事しか出来なかった。僕の視線の先には常に君が居たけれど、君の視線の先には何があるのだろうと考えても、決してそれを感じる事は出来なかった。僕は君の痛みを感じる事は出来ずに、それを端的に想像しては、君への処方を考えて、血も肉も無い極めて論理的な未来を紡ごうとした。今思えばその整然とした残酷な審判は、君にとって幸せではなかったのだろう。僕の考えつく幸せにはこうして全てを赦そうとする君の様な愛情は無かったのだから。
僕等はこれからも心から傷ついたり涙したりするだろうけれど、ふたりならきっと乗り越えられる。同じ指標を見据えて射抜く、ふたりの心があるから。
ふたり、それは遠い昔に君が教えてくれた、永久の魔法。
ーーーーー…
「アスカ!」
ふたりきりで話したくて、なかなか機会が持てなかった。そしてようやくほんのり橙が差し掛かる放課後に、声を掛けた。僕らは誰もいない閑散とした廊下で対面した。僕は少しだけ様子を見計らって彼女を待ち伏せしたのだ。
「バカシンジ!アンタ、あのナルシスホモに置いてかれたの?めっずらし〜。」
驚いた表情がすぐにニヤッと意地悪な顔に変わる。
「ち、違うよ。先に帰ってもらったんだよ。」
「はあ?なんでよ。」
「これ…」
僕は今日ずっとポケットに入れたままですっかり温まった銀の小さな笛を取り出した。明るい夕陽に照らされて存在を示すようにきらりと光を反射するそれ。
「思い出したんだ。僕、すっかり忘れてた。ごめん。」
アスカが急に真顔になって、明るい夏の海のような瞳を微かに揺らした。
「あの時は、ありがとう。色々悲しい事が続いてたから、引越しの日に僕と同じ笛の音が聴けて嬉しかったんだ。アスカが隣に住んでたの知らなくて、笛の音を聞いて初めてずっとあの女の子が隣にいたんだって思って…だからあの時、僕のことを僕以外の誰かが見ていてくれてたのかなって思えて、少しホッとしたんだ。」
思い出してからずっと言いたかったことを一気に吐き出した。でも、アスカは呆気に取られた顔のまま、ひとつ瞬きをしただけだった。アスカらしくない、キョトンとした女の子らしい可愛らしい姿で、ただ僕を見ていた。
「…ずっと、持っていてくれたんだよね。ありがとう。僕もずっと部屋に置いてたんだ。暫く忘れてたけど。この前アスカの笛を見てから引っ張り出して吹いてみたんだ。そしたら全部思い出したよ。僕、アスカみたいに頭良くないから思い出すまで一週間もかかっちゃった。」
アスカがあんまり無言で僕を見つめたままだから、少し怖くなって言葉の続く限り捲し立ててしまう。僕の長い言葉が途切れたら、ふとアスカがスカートのポケットに手を突っ込んで引き出すと、そこには僕の手にしているのと全く同じ銀色のそれがキラキラと夕焼けの空気の間で紐にぶら下がって揺れていた。
アスカがおもむろに僕の前にそれを持ち上げるから、僕もそれに従って手を伸ばして隣でかざすと、銀色の塊たちがやっとつがいを見つけたかのように呼応する仕草で触れ合い、カランと小さく鳴った。そして、僕らは長い長い沈黙のまま、立ち尽くしていた。
「……アスカ…」
「アンタも意外とバカじゃないのね。」
「は?」
「バカシンジくせに…」
「な、なんだよそれ…」
アスカは吐かれるセリフに似合わず淡々とそう言った。彼女の顔は毒が抜けたかのようにすっきりとして、女の子らしい柔らかな表情をしていて、僕は思わずどきりとした。こんな彼女を見たのは遠い遠い過去を見通しても初めてのことだった。
「ありがとう。」
耳を疑うような素直な言葉に僕が目を見開くと、彼女は本当に綺麗に笑った。生まれて初めて息をしたような清々しくて落ち着いた笑顔に、僕はやっと本当の彼女の姿を見つけたような気がした。
「…一緒に帰ろっか?」
「ふん、調子に乗るんじゃないわよ…まあ、ひっさびさだし一緒に帰ってやってもいいわよ。」
「アスカは相変わらず可愛くないなあ。」
「はあ?忘れてたアンタが悪いんだから、罰として今度クレープ奢りね。」
「嫌だよ!アスカ一番高いヤツ頼む気だろ?」
「あったり前でしょ。アレが一番美味しいんだから!」
僕らはそんな他愛のない会話をしながら久々に一緒に帰路についた。一見何も変わらない僕らは少しだけふたりして成長した気がした。もう無理に背伸びをしなくても空気のように互いがそこにいるように思えた。燃えるような朱に晒されて、ふたりの影が長く伸びる。触れそうで触れない淡く黒いふたつのフォルム。そしてふたりのそれぞれのポケットにはやっと互いを見つけたような銀色が僕らの歩調に合わせていつまでも揺れていた。
ーーーーー…
僕がふたりの家に帰る頃にはもうほとんど夕闇に近づいていた。まだ部屋に灯りは灯らずに、僕の恋人がいるのかもわからない程ひっそりとしていた。
「カヲル君…?」
「シンジ君、待っていたよ。」
君は窓から夕陽を眺めていたのか、僕の声を聞いて振り返ると、両手には見慣れないものが掴まれていた。
「…無事に、言えたかい?」
「あ、うん。伝えたよ。アスカ、優しい顔してた。けど、いつも通りの調子で一緒に帰ったんだ。」
「ふふ、彼女らしい。」
カヲル君はあの夜に、アスカに告げてもいいと言ってくれた。僕を信じるからと言ってくれた。けれど、その顔は淡く苦しそうで、カヲル君は僕の為に自分に言い聞かせてそう言ってくれてるんだともわかった。僕はそれを知りながらもアスカに告げようと決めた。そしてカヲル君は邪魔しないようにとひとりで先に家に帰っててくれたのだ。
「…カヲル君、ありがとう。」
「感謝される事はしてないよ。」
「そんなことないよ。だって、カヲル君、嫌だったのに我慢してくれたんだから。」
「…僕にも、君の時間を少しくれないかい?」
「え?あ…」
カヲル君が両手を僕に見せるように掲げると、そこには程よくくたっとしていて艶々とした深い飴色のヴァイオリンがあった。
「カヲル君、ヴァイオリンも弾けるの?」
「ああ、せっかくのドイツだったからね。嗜んだよ。君を想いながらよく弾いていた。」
僕はその事実に心臓が爆発しそうに弾けて眩暈がする程だった。その姿を想像するだけで胸が苦しくて肺が潰れてしまいそうで、僕の渇いた喉からはもう言葉が紡げない。
「…君に曲を捧げたい。いいかい?」
僕は返事の代わりに首を縦に振って大きく頷いた。君はそれを見て少し微笑むと、俯いてすっとヴァイオリンを身構える。少し長めの前髪を軽く振ってその隙間から僕を上目がちに見据えた。いつになく引き締まった真剣な赤の眼差しに僕の全身が悲鳴を上げる。あまりの格好良さに、腰が抜けないようにひっそり足を踏み締めて、息を呑み込んだ。
ひと息置いてから奏でられる美しい旋律。艶のある音色は切ないくらいに優しく震えて、夕闇を特別な情景に変える。サン=サーンスの白鳥のたゆたうような流れに、まるで心の内側で愛を叫ぶような高音が響き渡り、君が少し切なそうに眉を寄せて弓を引いて身を傾けると、それはスローモーションのように僕の瞳に煌めきを映して、静かに時を止めた。魂が揺さぶられる、その共鳴する感覚に僕の全てが音の粒のように弾けて、僕は崇高な瞬間にどこまでも浸される。夕闇の光と影が命の輝きを集約して僕たちを包み込む。この時を忘れない、僕はただそう想った。君と僕との、この瞬間を決して、僕は、忘れないだろう。
旋律の最後の残響が闇に消えて、君と僕はただふたり、暗がりの部屋に浮き彫りになった。
「…伝わったかい?君に…」
遠慮がちに紡がれた言葉にぴくりと瞬きをする。僕はどれくらい長くそこに立ち尽くしていたのか。気がつくと頭がのぼせて意識がぼんやりとしたまま押し黙っていたようだった。
「…うん。僕は…」
夢見心地のようなあえかな声で僕は打ちのめされたままに小さく口を動かした。
「…僕は、何度でも君に恋をするんだって、わかった…」
するとカヲル君は驚いたように瞬きをして、急に頬を染めて緊張したように唇をまっすぐ結んだ。それは、僕にしか決して見せない幼さのほんのり残った君の動揺のおもて。
僕がゆっくり君の元へと動き出すと、君は瞳を細かく揺らして僕の動線を追った。僕が近づくにつれて君はヒトらしい、この世界の君らしい、激しい鼓動の昂まりを呑み込むような表情を強めてゆく。君に触れそうなほど目の前で、足を止めた。
「カヲル君…」
「なんだい?シンジ君…」
君の声が微かに掠れて震える。
「僕、この贈り物が一番好きだ。物よりもずっと、好き。」
「気に入ってもらえたみたいで、よかった。」
「僕、また君を好きになった…」
僕はふやけた頭のまま、君を見上げて見つめると、君の瞳が緊張のままに潤んで僕を見下ろしていた。
「君が心配する必要なんてないくらい、僕は君に夢中なんだよ、カヲル君…」
「…シンジ君……」
僕は夕闇が宵に変わる頃の闇の中で、世界から隠れてしまったような静寂に後押しされて、上の空で大胆に言葉を繋げてゆく。僕は頭の中で響き渡る白鳥の旋律に酔いしれたまま、瞳を熱く潤ませていた。
「また、弾いてくれる?カヲル君…」
「勿論だよ。何度でも君に贈るよ。」
「…ありがとう。」
僕はそう言うと、ささやかな感謝の印に弓を持つカヲル君の腕を手にとって、少し袖を捲り上げてから、筋肉質できめ細やかな白肌の腕にそっと軽いキスをした。内側の肌は思ったよりも柔らかくしっとりしていて僕の唇に吸い付くようだった。名残惜しそうに唇を離して、君を見上げると、君は暗がりでもわかるくらいにますます耳まで熱く染め上げていた。
「…何度でも恋をしてしまうのは僕の方だよ、シンジ君…」
その言葉が零れ落ちるのと同じ速度で君の顔が僕に舞い降りてきたので、僕は君に身を委ねるようにして瞳を閉じた。
白鳥は美しい純白を身に纏い、涼しい顔で優雅なままに泳いでいるけれど、水面下では藻掻くようにじたばたと足を必死で動かしている。その泳ぐ姿を君に重ねる。君がその全てに余裕を持ち合わせて達観したような綺麗なおもての下で、僕を想って藻掻きながら心を玉虫色にばたつかせてくれているなら、僕はやっぱり嬉しい。僕はヒトだから、君の苦悩が僕だけのものなら、やっぱり嬉しいんだ。
「ねえ、今度は二重奏を奏でよう、ふたりで。」
「…それって、ベッドの上での話かい?」
「ち、違うよ!ヴァイオリンとチェロでだよ!カヲル君のエッチ!」
君はとろけるような長いキスの後、潤みきった綺麗な顔のまま、僕の誘いに真面目くさってそんなことを言う。白鳥のように純白な、ひたむきな感性で、また僕を虜にするんだ。
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