お題:『月が綺麗だね』庵カヲシン
不思議の国のシンジくん
「ハロー、こちら異常なし。目的地に向かいます」
目の前では地球の夜明け。薄灰の地平線から顔を出す。僕はその眩しい青さに目を細めた。
訓練ではあんなに重かった宇宙服がやさしい感触で足跡を残す。さらさらとした月面の砂にさざ波模様を残していく。僕は振り返りはるか遠い地球に視線でバイバイする。分厚いヘルメットの中、ほんのり震えた深呼吸の音がする。
火星で地球外生命体が発見された。エイリアンと言うには拍子抜けするしょっぱくてかわいい微生物。そういうわけだけど世界中が熱狂した。火星人グッズが飛ぶように売れて火星のゆるキャラは大フィーバー。そんな矢先に日本のアマチュア無線家・相田さんが月から不思議なシグナルをキャッチした。
「月には月人が住んでるらしいよ」
現在、月は火星よりも超ホット。巷で話題を独占しているのが月人説。月は鈴のように中が空洞なのは周知の事実、だけどその中に何があるのかはまだ観測できていない。
「へえ、今観測中なんですか」
それは僕が特務機関ネルフで定期検診を受けている時だった。コントロールルームが異様な熱気に包まれていたので顔を出してみたのだ。
「そうなのよ。みんな半信半疑なんだけど」
指揮官のミサトさんが視線を投げるほう、アマチュア無線家がチューニングを合わせている。その横で不思議そうに僕と同じパイロットの綾波が首を傾げていた。
「おっかしいなぁ。確かに聞こえたんスよ。怨霊の祟りみたいのが」
怨霊?一抹の不安が部屋に広がる。綾波が僕を見つけてふたり一緒に首を傾げる。そしたらノイズがすっと和らぎ――
『………ジクッ……ンジ…クッ……シンジクンッ!……』
「ほらね!」
全員が僕へと振り返る。「え?僕?」と僕は驚く。全員がうなずく。「知りませんよ」と首を振る。なのに、
「なんで僕が月まで来なくちゃならなかったんだろう」
葛城調査隊・月空洞内調査の役目は僕に白羽の矢が立ったのだ。ぐっさりと。僕は宇宙飛行士じゃなくてパイロットなんだけどね。
「これから第53番ホールの中へ降りていきます」
地下水跡の洞窟へと続く縦穴が無数に続く月の裏側の地区。ここからは電波が悪くなるらしい。僕は最後の通信をしてから無線をいったんオフにした。
「真っ暗じゃないか…」
鈴には玉や石が入っているから鳴る。月にはきっと何かある。それがネルフの見解だ。なら僕はそれに従わなければならない。でも人類未踏の地なんて本当はめちゃくちゃ怖いんだぞ。
「綾波〜…やっぱり月にうさぎはいなさそうだよ〜…」
あまりの怖さに独り言。地球を発つ前に聞いた彼女の言葉を思い出す。
『月にはうさぎが住んでいるらしいわ』
ならこれはうさぎの巣穴なんだろうか。
もう僕は覚悟を決めた。初号機から引いてきたケーブルを腰につなげて巨大な洞穴をどこまでも降りてゆく。どこまでも…どこまでも…すると固い岩盤に着地した。ストン。そこには不思議な扉がついていた。キョロキョロ。震えるヘルメットの空気。僕は早まる深呼吸をおさえられない。これは夢じゃないだろうか。でも誰にも相談なんてできないし。とりあえず知的好奇心のままに扉を開いてみることにした。
ギイッ―――――
チカチカ眩しくて目が慣れるまでにちょっとかかった。真っ白な時間。瞬きをすると…目の前に広がっていたのは住み心地よさそうなあったかい部屋だった。そろそろと中へ入る。
すると、
「やあシンジくん!」
パジャマ姿の知らない少年が立っていた。
「やっと来てくれたんだね!」
銀色の寝癖をピョンピョン跳ねさせて満遍の笑み。とても綺麗な白い肌のヒト科に類似した何か。
「待ちくたびれたよ」
僕は衝撃で顎が外れそうだった。
「さっきまでずっと待っていたんだけれど…十徹を過ぎたらついに睡魔がきてね、昼寝してしまったよ」
月時間で今はお昼なんだ。お漏らししそうになりながら僕はぼんやりとそう思った。
「シンジく〜〜ん?」
「わっ!」
顔を覗き込まれてとっさに飛び退く。宇宙服ごと帽子掛けにぶつかった。
「…僕のこと知ってるの?」
「もちろんさ。僕は月に住むうさぎ。だから何でも知ってるんだ」
「わああ!」
銀髪の中からニョキッと長くて白い耳が出現する。尻餅をついて後ずさりしたら、彼はニッコリ笑ってからそれをはずした。
「ふふ、冗談だよ。素敵なリアクションをありがとう」
「脅かさないでよ!」
「これから月の穴に案内してあげるよ、不思議の国のシンジくん」
ころんだ僕に手を差し出して起こしてくれた月の住人。
「ああ、自己紹介を忘れていたね」
瞳の色はうさぎと同じで赤かった。
「僕は渚カヲル。君の運命の相手だよ。カヲルって呼んでね」
部屋はまるで地球にいると錯覚するくらいだった。整った家具、やさしい壁紙、あたたかい雰囲気の内装。そしてひと際目立つのは壁に備え付けてある大きな暖炉。その中を覗くとどこまでも果てしない穴が広がっていた。
「準備はいいかい?」
いつの間にかパジャマからチョッキに着替えているカヲルくん。手には懐中時計を持っていた。チクタクと規則正しい音がする。
「さあ、いくよ」
「いくってどこに?」
「君の行きたかったところにさ」
そして僕はカヲルくんにされるがまま。抱きかかえられ「せーの」で一緒に思いっきりジャンプした。はるばると月の空洞へ。いつまでも終わらない急降下に、ああもう死ぬかも、と思ったらカヲルくんは嬉しそうにチョッキから傘を取り出した。広がる傘。ふわふわとふたりは落下。
そこは―――――
数日後、僕は地球に帰還した。記者会見で発表した通り、月の空洞の調査結果は公式には「何もナシ」――月には月人なんていなかった。綾波にも「月にうさぎはいなかったよ」と報告した。けれど実際は…
ネルフの報告会の帰り道、住宅地の道路の真ん中、僕は懐中時計を眺めている。月の光を煮詰めたみたいな金色の表面が煌めいた。夜空には大きな満月が見えた。
「月が綺麗だね」
僕は熱に浮かされてそんなことを囁いてしまう。プルルルル。ポケットから着信の音がする。
「もしもし?」
『やあシンジくん、地球はどうだい?』
「まあまあだよ。カヲルくんは?」
『君がいない月はからっぽさ』
僕はいわゆる月人と連絡先を交換していた。
「僕がいてもからっぽだったでしょ」
月は空洞だもの。
『からっぽではないだろう?』
でもその中には…
『ちゃんと愛が詰まってただろう?』
カヲルくんが僕と暮らすための新居を建ててくれていたのだった。秘密基地みたいな縦穴には愛情いっぱいのイルミネーション。浮かぶ月色ハートのランタン、ふわふわの蜜月ベッドにふかふかの月影ソファ、それに一面いっぱいの月に関するポエムの本棚。不思議の国が詰まっていた。カヲルくんはそれを『ふたりの愛の巣』と呼んでいたんだ。
月の住人カヲルくんは地球にふらっと散歩に来て僕に一目惚れしたらしい。
「う〜〜ん」
『まだ決めかねているのかい?』
「そんなに簡単に決められないよ」
僕は今、月での同棲を猛烈に勧められてる。でもそんなことって難しいよ。実家は地球だし。
「うさぎは寂しいと死んでしまうよ」
画面越しじゃない声が聞こえた気がした。見上げると月のうさぎ・カヲルくんがゆらゆら宙に浮かんでいた。彼は飛べるうさぎなんだ。
「もう答えは出ているんだろう?」
「え」
宙返りをして逆さまになって降りてくるカヲルくん。
「月が綺麗だねと囁く君の横顔は」
銀色の髪が垂れて本当にうさぎ耳みたい。
「ちゃんと僕に恋してたよ」
僕は懐中時計を握り締めた。中には月の石がついたエンゲージリングが入っていたんだ。
月人は何をするにもせっかちですばしっこい。月光を浴びながら近づいてきたその顔に、僕はそっと目を閉じた。
end.
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