Q




渚カヲルは渚カヲルと対面した。

「君が落としたのは金のシンジくん?銀のシンジくん?それとも普通のシンジくん?」

ははーん、カヲルは納得した。これは夢だ。でなければ自分がふたりいるはずがない。
とするとこれは自分が出した問いなわけだ。きっと心底意地の悪い引っかけだろうとカヲルは思った。何故ならシンジがかかっているから。ものすごく考える。すると、

「僕はそんなに待つ気はないよ」

と急かされて、つい、

「ふ、普通のシンジくんだ!」

と答えてしまう。

「何故?」

理由なんてものはなく、ただ、

「金のシンジくんも銀のシンジくんもいないだろう?もし仮に正解でもせいぜいシンジくんを模った金属が渡されるだけだ。だから普通のシンジくん」
「正解!さすがは僕だ」

笑顔で拍手する目の前のカヲル。誇らしげだ。ここにいるカヲルもまんざらでもない。

「さあ、早くシンジくんを返してくれ」
「返す?そんなこと言ったかい?」
「バカな!」

まあそんなことはひと言も聞いていなかったのだけれど。シンジくんはどうなるんだ、カヲルは急に焦りだす。

「正解したら全部のシンジくんが返されるはずだろう?!」
「欲張りだな」
「返してくれ!」
「返すって、シンジくんは君のものなのかい?」

その問いに、戸惑うカヲル。

「…ならシンジくんを渡してくれ」
「君はシンジくんを手に入れてみすみす誰かに渡すなんてことするのかい?」

言われてみれば。相手は自分だ。そんなバカなことするはずがない。

「…せっかく罠に落ちてくれたのに」
「落ちたのは罠だったのか…!」

泉に落ちたとばかり思っていたが、よく考えるとここは自室だし、ふたりは茶でも飲むかのように食卓で向かい合わせだった。

もう何が何だかわからない!

「…君は僕に言ったじゃないか。僕がシンジくんを落としたって」
「そうだね」
「僕が君の罠にシンジくんを落としたって言うのかい?」
「その通り。君は僕だろう?そして僕は君。渚カヲルが渚カヲルの罠にシンジくんを落としたってだけじゃないか」

なんてややこしいんだ。自分だから余計に腹が立つ。ずる賢い顔をしていて。嫌になる。でも待てよ、カヲルは警戒した。

「本当にシンジくんは僕の罠に落ちてしまったのだろうか?」

カヲルは噛み締めるようにもう一度、自分に尋ねた。

「僕はシンジくんをちゃんと落とせたのだろうか?」

目の前のカヲルは動揺した。それは自分と全く同じ顔だった。まるで鏡のようだった。鏡よ鏡、シンジくんが落ちてしまったのは――

「カヲルくん?」

ハッとして視線を投げると自分がいた。けれどそれは洗面所の鏡で、カヲルの横には、

「どうしたの?」

シンジがいた。

「…寝ていたみたいだ」
「ええ!?僕、立ちながら目を開けて寝るひと初めて見たよ!」

驚きと可笑しさが一緒くたの顔をしている。シンジは長いことトイレから出てこないカヲルを心配して見に来たのだ。ふたりはもう大人同士で、ここは夜景の綺麗なレストランで、それはとても幸せな季節で、

「もう。ずっと待ってるんだよ。早く来てよ」

カヲルはポケットにある指輪をさっきからずっといじくっていた。彼はこれから人生最大の賭けをする。それはほとんど決まっているようなもの。けれど彼はもう一度、自分に尋ねる。

「シンジくんはいい返事をくれるかな?」


プラôコン ~ プラチナ・コンプレックス ~
その@ 僕はずっと待ってるんだよ




「ねえ、さっさと終わらせてくれない?」
「な、何を?」
「…君のプロポーズだよ」

渚は驚きすぎてアゴが外れるかと思った。確かにここは夢のテーマパークだけれど、夜の外はものすごく寒いけれど、もうずっとこうしてうろうろしてるけれど。いや、そこじゃない。

「ななななんで知ってるのさ…?!」
「アスカから聞いた。渚から話聞いて即連絡してくれた」
「ハアアア?!」
「僕がいきなり海賊にさらわれて君が一味と闘って宙づりで空飛びながらプロポーズなんて僕が喜ぶはずないだろ。むしろムカついて思わず君の申し出断っちゃいそうだからさ、手短にシンプルにやってよ」

はいどうぞ、なんて真顔で切り出されてしまう。いやいやそんな、いえいえどうぞ、え、じゃやりまーす!なんてなるはずないだろ。なんてことだ。悔しい。悔しすぎる。何日も寝ずに考えた最高のサプライズだったのに!(渚はずっとその海賊キャストたちを待っていたのに!)

「ぼ、僕にだってプライドがあるんだよ!そんな感じでサラッとやれるわけないだろ!」
「…面倒くさいな」
「シンジ君はそれでいいわけ?!テキトーにプロポーズ受けてテキトーに結婚するの?!」
「僕まだ何も返事してないんだけど」

返事?渚は心臓が止まりかけた。確かに口約束なんてしていない。けれど中学の頃からもう10年以上付き合ってきた仲なのだ。付き合うとは恋人という意味だ。キスもセックスもお互いでしかしらない関係。何度も喧嘩してきたけれど、他の誰かを好きになったり別れたりはしなかった。ずっとお互いしかいなかった。だから当然このままゴールインするものだと思っていた。けれど…

「もしかして浮気してる…?」
「どうしてそうなるんだよ」
「僕に冷めちゃったの…?」
「なんでそう飛躍するんだよ」

こんなプロポーズの潰し方…

「怖気づいた?」
「はい?」
「断るのが嫌でわざとこんなことしてるんでしょ?」

渚はあたまが真っ白になる。すごく傷ついた。ショックすぎる。不誠実じゃないか。恋人の自分に隠れて誰かと通じてこんな仕打ちをするなんて。自分の必死で考えたプロポーズをバカにしていたなんて。

「卑怯だよ…」

渚はとうとう堪えきれずに表面張力ギリギリの涙を押さえた。下を向いて肩を落として、泣いてしまった。

あ〜あ、やっぱり泣いちゃった、そうシンジが呟くのが聞こえた。もういっそこのまま殺してくれ、と渚は思った。

そしたら突然、シンジが手を上げて大きくパチンと指を鳴らした。

「お〜そ〜い〜!」

遠くで誰かがそう叫んだ。と思ったら。急に空からパステルカラーの花びらの雨が降ってきて、どこからともなくアンサンブルのロマンティックな音楽が流れてきて、

「渚…」

シンジがひざまずいた。とても真面目な顔をしていた。

「僕はこういうこと一生言わないと思ってたけど…ていうか、もう二度と言わないけど」

既に耳まで真っ赤なシンジがおもむろに両手を差し出した。

「君なしで生きていくなんて…考えられないんだ。へそ曲がりで素直じゃない僕を渚はいつもありのまま受け入れてくれて…言葉にしたことないけどすごく、感謝してる」

手のひらのガラスの靴…のような形のケースから、プラチナの指輪がキラッと顔を出していた。声を震わせて呼吸困難な顔をして、そしてシンジは息を思いきり、吸い込んだ。

「渚カヲル…くん、僕と結婚してください」

!?

渚の返事を待たずにお城から花火がスターマインで打ち上がる。そう、ここはプロポーズの定番のファンシーなお城の前。周りの通行人がいっせいにFoooo!!と歓声を上げて踊り出したから、渚はビクッとして転びそうになってしまった。ふたりは謎のダンサーと管弦楽団と拍手喝采で「おめでとう!」と連呼している観客に囲まれていた。

「ど、どゆこと?」
「君が前に言ってたプロポーズにしてほしいことだろ。全部やってやろうと思って何ヶ月も前から計画してたのに、君が勝手に思いつきで今日プロポーズしようとするから」
「へ?」
「協力してくれてたアスカが慌てて知らせてくれたんだよ。あ〜危なかった。プロポーズくらいちゃんと計画的にしろよな」

一生に一度きりなんだから、そう言ってシンジが照れた顔をした。ちょっとツンと怒った表情。渚はまだ頭がからっぽ、ほわほわわけがわからない。

「ほら、早く受け取れよ」
「…僕、プロポーズにしてほしいことじゃなくてしてあげたいことでそう言ってたんだけど」
「へ?そうなの?」

やっぱりふたりはいつもどこかでちぐはぐになる。

「そうだよ!なのにシンジ君が勝手に取ったんだ!」
「…別にどっちがやったって同じだろ」
「同じじゃない!ずるい!ひどい!」
「僕がいきなりこんなことされたらムカついて君にノーって言うに決まってるだろ」
「…」

けれど、不思議なくらいとびきり相性が良いのだ。

「ほら、受け取るのか受け取らないのか早くしろよ。腕が疲れた」

仕方がないなってためらいがちに半ベソの渚が手を伸ばした。その左手の薬指に華奢なプラチナが輝いたら、側で着ぐるみたちがハイタッチして渚がまたビクッとなった。中にはレイとマリがいたのだ。

「あ〜、もう恥ずかしすぎて死にそうだから早く退散しようよ」

隣にはいつの間にかカボチャの馬車が待機していた。そこで渚はあることを思い出す。不貞腐れている。横でシンジが早くしろよと促した。いやいやそんな、いえいえどうぞ、え、じゃやりまーす!なんて…渚は諦めため息をつく。

「…嫌だよ、魔法の時間はこれからなんだから」
「じゃ、逃げよう、夢の世界へ」

そしてシンジが渚の手を掴んで駆け出した。ふたりで一目散に群衆を掻き分けて、夜の夢のテーマパークへ消えてゆく。「僕がやりたかったのに〜!」と叫ぶ声がこだました。けれど次にはふたりの幸せそうな笑い声が遠くで聞こえたのだった。

総監督のアスカがお城の三角屋根の上、親指を上げて合図した。

「ミッションコンプリート!」


プラôコン ~ プラチナ・コンプレックス ~
そのA 僕は絶対シンデレラ役なんてやらないからな!




「あ〜、ついに僕たちが最後か…」

おじゃまします、泊めてもらってごめんね、なんて敷居をまたぎながら聞こえてきた。けれどそれは何の気兼ねもない、性格上の常套句。ふたりは旧友のトウジとヒカリの結婚式の帰りにカヲルの家に来たのだが、無理をすればシンジは自分の家にも帰れただろう。でもそれをしなかった、そういう関係だった。

「最後って?」
「…けっこん、」
「ハ!?」

ネクタイを緩めていた手が逆に首を締めそうになるカヲル。声が裏返っている。

「どうしたの?」
「いやいやいやいや最後だなんて君が言うから。相田くんは趣味と結婚、式波さんは仕事と結婚、真希波さんは二次元と結婚、綾波さんはまさかの自分と結婚!ほらごらんよ、あのふたり以外誰も結婚していないよ!!」
「…ほんとだ。あはは。なんで僕、みんな結婚してると思ったんだろう」

引き出物をテーブルに置きながらシンジは笑った。カヲルは汗をかいていた。大きな紙袋が倒れると、中から鮮やかなウエディングブーケが顔を出した。

「あ、きっとこれのせいだよ。アスカが言ったんだ。僕たち以外はみんな結婚したからいらないって」

ブーケが何故か自分めがけて一直線に飛んできて、シンジは防御のつもりがちゃんと両手でそれを受け止めてしまった。申し訳なくて横にいたアスカに押しつけたらすごい顔で睨まれて、耳許でそう言い聞かせられたのだ。

「綺麗だね」

冗談めいた響きなのに、それはまるで愛しい想い出のよう。シンジは目を細めてカラーの匂いを嗅いだ。微かに睫毛が震えていた。そして沈黙のあと、シンジは花瓶を探した。カヲルの知らない場所にそれはあって、シンジは一度も迷わずに花ばさみを取り出した。そんなものがあったのか、と、カヲルはその光景を眺めていた。

そしてカヲルが気がついた時にはもう、シンジは部屋着に着替えていてエプロンを身につけていた。酔い覚ましにとお手製ドリンクをお揃いのコップに注いでくれていた。そしてその片方だけが半分減っていて、明日の朝食の用意でもあるのだろうか、シンジはカヲルに背を向けて台所に立っていた。まだネクタイに指をかけたままスーツを着ていたカヲルは驚いて瞬きを深くした。

「でもさ、渚くん、なんで知ってるの?」

カヲルは想いを巡らせてゆく。

「綾波が自分と結婚したって」

その意味不明な言葉の出処へと。


***


先週の日曜日、シンジが急にレイに呼び出されたのだ。大事な話がある、と。

「僕も行くよ」
「どうしてさ、僕が綾波に呼ばれたんだよ」

そう何度も念を押されてカヲルは渋々見送った。下着だけを身につけて立ち尽くすカヲル。寝癖をくしゃっと掴みながら間抜けな自分を呪うのだ。

昨日の夜、カヲルがシンジをデートに誘った時にレイとの約束を聞かされた。カヲルは動揺して嫉妬して、喧嘩腰になってしまった。断ってよ、なんて子供染みたことは言えなくて、でも別の何かでふたり会うのを阻止したくて、結局は子供染みたことを口にする。それはやがて愛を確かめる行為に及ぶ。最中、冷めた顔したシンジがそっぽを向くのでカヲルは急に不安で震えて、シンジの体にしがみついた。裸で抱き合っているのに、寂しい。そう、最近は。シンジはこの二週間で変わってしまった気がした。原因がわからない。

「好きだよ」

心を込めて愛の言葉を囁いてもシンジは目を逸らすだけ。揺れた瞳に自分はどこにも映っていない。

だから朝早くからシンジを監視しようと事後もずっと起きていたのに、朝の鳥のさえずる頃に不意打ちの眠気。飛び起きるとシンジは既に玄関にいた。

カヲルは身支度もそこそこに同じ玄関を飛び出す。尾行?いやいや、ただ恋人のあとをつけるだけだ。

「ほ〜ら、やっぱり!」
「ちんまい男だニャ〜」

そしてマンションを抜け出したとたん自分が拉致されてしまうなんて、カヲルは微塵も思わなかった。


***


「離してくれ!僕は行く場所があるんだ!」

両腕の自由を奪われバンに乗せられ、ファミレスへと連行されたカヲル。その席にはもう、ケンスケ、トウジ、ヒカリが座って待っていた。幸せいっぱいのヒカリがアスカとハイタッチする。

「ちんまい男にはコレでいい?」

マリがドリンクバーから戻ってきて、カヲルにグラスを差し出す。ジュース全種類が混ざっているなんて、とても友好的とは思えない。

「いらないよ!僕は――」
「あーハイハイ。あのバカでしょ?大丈夫よ」
「けれど」
「レイがあいつを呼び出したのはこんな理由よ」


***


『碇くん、大事な話があるの』
『うん…』
『私、自分と結婚したいの。できるかしら?』
『………?????』


***


「まさか!そんなはずないだろう?」
「なら確かめてみたら?隣のファミレスにいるわよ」
「!?」

そして首根っこ掴まれてカヲルは連行された。スパイのようにこっそりと隣のファミレスを覗きにいった。そこにはすごく切羽詰まった顔をして血眼でスマホを駆使し色々調べているシンジがいた。

「ね?だからおとなしくなさい」

また連行されて着席する。困惑したカヲルは取り敢えず落ちつこうと目の前のドリンクを飲んだ。すごくまずかった。

「…どうしてこんなことを」
「あんたのせいよ」
「きっと最後にはお前も俺たちに感謝するよ」

横でイチャつくトウジとヒカリにゲッソリしながらケンスケが頷いた。他の女性陣よりも「俺は男だ、お前の味方だ」という連帯感のある笑顔だったが、アスカに睨まれたとたん、真面目腐った顔に戻った。

「そうそう感謝しなよー。ワンコくんが結婚したら困るだろうと思って姫が一肌脱いでくれたんだからさー」
「…え?」
「ほら、やっぱり知らない。あんたは能天気でいいわね」

そしてカヲルは放心した。

「シンジがお見合いしたことも知らないんでしょ?」

アスカが説明するのはこうだった。シンジは父親と将来のことで何度となく喧嘩をしていた。厳格な父親にシンジはずっとカヲルとの仲を言えなかった。そして先月、その父親が倒れたのだ。命に別状がなかったが、自分のせいだとシンジは自分を責め続けて、とうとう父親の言いなりになった。ただ弱った父親を喜ばせたいだけだった。会わせたい人がいると言われて向かった先には、レイがいた。そしてレイから、これはお見合いらしいと聞かされたのだ。

「…何故?」
「シンジのパパはレイがお気に入りなのよ」
「そうじゃなくて…」

何故の次に続くものがたくさんあって、カヲルは言葉に詰まってしまう。

「まず、その一。ワンコくんはお見合いのあと、ノーの返事はしていない」
「その二。レイはずっとあのバカが好きだったから結婚してもいいって言ってる」
「姫もそうでしょ?」
「うるさいわね!もう違うわよ!その三。このことを知っているのは、わ・た・し・が、シンジに相談されたから」
「その四。ワンコくんは実はずっと結婚したかった」

カヲルは目を見開いた。


***


「アスカ、こっちこっち!」
「何よ〜急に呼び出して」
「ごめん!おごるからさ」

アスカはいきなりシンジに呼び出されて、マリとの遊びをドタキャンしてまでやってきた。大学の頃によく入り浸ったカフェをくぐるとまるで昔に戻ったかのよう。社会人になってからシンジとはめっきり会う機会が減った。それでもカヲルとはよく会っているんだろうなと思うとちょっとスネていた。直接怒ってやろうかと思ったのに、いざその顔を見てしまうと、浮かれてしまう。

「じゃ、これ頼んでやろっと」

ちょっと甘えた声になった自分に内心悪態をつきながら、アスカは楽しそうに鼻歌を鳴らした。そして目の前に特大のパフェが到着してもなかなか本題に入れず悩ましげなシンジを見つけて、その温度差に胸がズキンと痛んだのだ。

「焦れったいわね。早く言いなさいよ」

それから深呼吸ののち、シンジはついに洗いざらい打ち明けたのだった。ずっと誰にも言えなかったことを。最後にはシンジは、泣いていた。アスカはスプーンを動かせずに、てっぺんのアイスが溶けて皿の上にこぼれていた。イチゴが落ちた。その様子を唇を噛み締めながら、ただ眺めていた。

「…あいつは結婚が嫌なわけ?」
「たぶん。いや、きっとそうなんだ。こういう話の時、いつもはぐらかすから」
「はあ?直接聞いてないの?」
「聞けないよ!だって、その…重荷になりたくないんだ」
「どういうことよ?」
「前に言われたんだよ。ずっとこのまま続けばいいって。それだけでいいって。僕もそれで充分だから、それ以上は言えないよ」

ずっとひとりで溜め込んでいたのだろう。シンジは涙も鼻水も止まらなくて、アスカはテーブル脇にある固いナプキンを手渡した。それで鼻を拭いたら先っちょが赤くなってしまうシンジ。ヒリヒリするね、なんて情けなく微笑んだ。そんな頼りなさがたまに無性にアスカの胸を焦がすのだった。

「僕がわがままなんだ。好きな人と一緒にいられるだけでいいのに、父さんにも認められたいって…思っちゃうから…」

けれど、彼女は決して自分の心を口にはしない。シンジの好きな人が揺るがないのを、知っているから。アスカは目の前のこいつのために自分は泣いちゃいけないんだと、溶けてよろけてしまったパフェをぱくぱくと口いっぱいに頬張った。そしてシンジの本音を言える場所が自分だったことを誇りに思うことにした。


***


「ご、誤解だよ!そんなつもりで言ったんじゃなかったんだ!」

無罪だ!そんな風に響く声。意気地なし!甲斐性なし!と非難囂々の嵐を浴びて、カヲルは慌てて付け足した。

「碇くんと一緒にいられるだけで幸せだって意味だったんだ!」
「結婚はしたくないんか?」
「し、したいよ!碇くんがそう望んでくれるなら!」

あんまりどやされるもんだからカヲルは喉が渇いてドリンクをひとくちストローで吸い込んだ。やっぱりすごくまずかった。

「ならあんたがそう言わなきゃシンジは永遠に悲しむわね」

アスカがピンとカヲルを指差して思いっきり睨みつけた。

「でもあんたがのろのろしている間にシンジの気持ちが冷めちゃって、他の誰かと一緒になっちゃう可能性だってあるのよ?」

指先が意地悪にカヲルの額をトンッとつついた。


***


それから一週間が経とうというのに、カヲルはまだシンジに何も言えないままでいた。ファミレスに拉致されたことも、そこで知ってしまったことも言わなかった。

「――なんで?」
「…式の前に綾波さんから聞いたんだよ」
「ふうん」

シンジも同じだった。レイに呼び出されたあと、シンジはカヲルの家に寄らなかった。メールで「どうだった?」とカヲルが聞くと「別に、大丈夫だよ」とだけ返ってきた。お見合いをしたことも、父親に何を催促されてきたかも、シンジは何も言わなかった。

「朝は早めに帰るから」
「え、ゆっくりしていきなよ」
「仕事持って帰って来てるんだよ」
「そっか、残念だ」

まな板の音がする。包丁が刻むのはたまねぎだった。こんな夜中に何を作っているんだろう。料理に疎いカヲルにはわからなかった。ただ、シンジのその立ち姿がとても綺麗だった。結婚式の三次会の帰りでとても疲れているのに、せっせと忙しそうに、ふたりの朝のために立ち向かうシンジ。

「月曜は僕、来られないからね」
「うん」

一緒に暮らしているわけではない。半同棲の曖昧な生活。昔カヲルが「一緒に暮らそうよ」と言って断られて、理由を尋ねたことがある。そこでシンジは呟いた。「ずるずるしたらダメだよ」と。カヲルは意味がわからなかった。「それぞれ違う場所に住んで泊まり合うほうがずるずるしているじゃないか」そう食い下がったら、シンジはもう一度言った。「順序が違うもの」と。「何の順序だい?」と聞いたら、シンジは笑った。もう何も言わなかった。どうして笑うのかと聞いても「なんでもない」としか言わなかった。

たまねぎの香りが部屋をツンとさせてゆく。水分を含んで空気が湿ってゆく。カヲルはずっとシンジの背中を眺めていた。シンジが顔を拭った。辛い汁が目に入ったらしい。痛いのだろうか、俯いた顔を両腕で拭う。小さく肩を震わせて、今にも崩れそうな姿勢で踏ん張って、息も漏らさないように、そっと。シンジは泣いている。カヲルは立ち上がって駆け出した。倒れかけたシンジをカヲルは受け止める。シンジのたまねぎ臭い手が宙を掻く。なんで、なんで、なんで、と聞く。その次に続くものがたくさんあった。それがシンジの涙からちゃんと伝わった。だからカヲルはシンジをきつく抱き締めて、こう言ったのだ。

「結婚しよう」

すべてのための答えを。


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そのB ……はい


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