滲むライン


「来たんだ?」

非常口のドアが閉まる。シンジが校舎の屋上で空を見上げた。視線の先、屋上より高い非常口の屋根の上に人影がある。

「危ないよ」

どうしてそんな高いところで寝る必要があるのだろう。渚は寝そべりながらシンジを見下ろした。顔が逆さまで銀髪がパラパラと風に舞う。

「眺めがいいからシンジ君もおいでよ」

どうやって?四方の壁にはハシゴは付いていない。きっと淵のフェンスを足場に、金具に手をかけよじ登ったのだろう。

シンジにはそんな芸当はできなかった。

「実は今授業中だけど」
「君もそうじゃないの?」
「うん、知ってる」
「あは!知ってるならサボリだ」

嬉しそうに両手を空に広げて伸びをする。だらしのない気の抜けた姿勢で。

「共犯みたいに言うな」

僕は気分が悪くて保健室に行ったことになってる、シンジはそう言おうとして、やめた。

「シンジ君もここ来なよ」
「いい」
「そこより気持ちいいよ」
「いい」
「僕のぼるの手伝うからさ」
「いいって」
「ケチ」

渚はピョンとうさぎみたいに跳ね起きて端っこに片膝をついて腰掛けた。

「ねえ、僕たちふたりで授業サボって屋上なんて、疑われるだろうね」
「何が?」
「また噂が広がる」
「噂?」

似たような会話を先日、体育倉庫の中でした。シンジが渚を追って中に入ると「疑われるよ?」と笑われたのだ。嬉しそうに。

「僕たちがホモだって。みんな言ってるじゃん」
「はああああ?」

そんなの初耳だ。ホモって…!シンジは耳の先まで真っ赤になった。

「そ、そんなわけないだろ!!」
「違うの?」
「真に受けてるの?!」
「別に噂だからってわけじゃなくて」

歯切れの悪いセリフの後、一瞬の間。

「ま、君がそう言うなら、いいけど」
「何がいいのさ?!」
「そういうことにしといてあげるってことだよ」
「はあ?!」

声のボリュームが振り切れてるシンジとは対照的に、渚は静かに立ち上がった。それがシンジには少し大人びて見えた。ドキッとした。

いつもそう。シンジには目を閉じて深呼吸して覚悟を決めなきゃ飛び越えられそうにないラインを、渚はポケットに手を突っ込んで顔色も変えずにスタスタ歩いて超えてしまう。

「地平線の先に何があるか知ってる?」
「さあ」
「ここからだと見えるよ」

噂も人の目もまるで気にしない。左右されない。その自由奔放な姿にシンジはとても憧れた。焦って変なテンションになる自分とは大違いだ。

僕もそんな強い人間になりたい。
でもきっと、真似できない。

「自分の目で見てみなよ」
「いい、そんなに知りたくないし」
「怖いんだ?」

怖い。そう、シンジは怖い。屋上の隅にもなるべく行きたくないレベルで高い場所が嫌なのに、そんな一歩間違えたら落下する場所に行けるはずもない。

でも、「怖い」だなんて絶対に言えない。
特に渚の前では。

「僕、もう行く」
「へ?どこに?」
「君には関係ないだろ」

すると突然、空から渚が降ってきた。2メートル以上もある頭上からひとっ飛びでシンジの前に着地する。風が吹く。

「逃げるの?」
「何の話?」
「そんなことしても無駄だよ」

見透かしたような赤い瞳。シンジはわけもわからず自分の嘘がバレたような不安に襲われた。

だから、ただ立ち去ろうとした。そして歩き出した時、非常口の壁と白い両腕の間に挟まれた。

真剣な渚の顔。綺麗で同性でもかっこいいと思う彼が、これでもかと視界いっぱいになる。シンジはそれを、怖いと思った。

「知りたくないの?」

息のかかる程近くで、

「僕は知りたい」

渚は囁く。

「噂なんてつまらないからさ」

急に男の顔をされて、

「既成事実にしちゃおうよ」

シンジは動けない。

渚の影が覆いかぶさる。


僕も君みたいに自由になれたらどんなにいいだろう…


「…ごめん」

そして、渚は壁についた手をそっと離した。

「もうしないから、泣かないでよ」

シンジの膝が震えている。へなへなと地面にしゃがみ込む。渚も同じ目線の高さになる。

バカバカしい。恥ずかしい。自分でもなんで泣いているのかわからない。けれどそれは、渚が見ている景色が見たくてもそこへ行けなかったことと同じような気がした。

「見たい」とも「見せて」とも言えない。見てしまった後が怖いから。
だから、僕は、見られない。

「ごめん。嘘だから」
「……」
「噂なんてないから」
「…は?」
「だってシンジ君が僕を嫌いって言うから」

そう。休み時間にふたりはちょっとした喧嘩をした。シンジはつい売り言葉に買い言葉で渚に「嫌い」とぶつけたら、彼が教室から出て行ってしまった。だから心配したシンジは追いかけてきたのだ。「ごめん」と伝えるために。

「やっぱり、嫌いだ」

でもいつも、こうなってしまう。

「うん、知ってる」

けれど自分の袖をつかむその手に、渚は少し、シンジの「嫌い」の意味を理解したのだった。


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