排他的メランコリイ
「はやく、こっちこっち!」
「ちょっと待って」
「もー、ほらっ」
セカイってけっこう強引に廻ってる。シンジは渚に腕をつかまれてそう思う。君は地球の自転に逆らいたいの?もしかして、公転のほう?ふたりは校舎裏まで一直線に疾走する。腕のせいで手のひらがからっぽで、シンジは小さく唇を噛んだ。
「腕赤くなったんだけど、」
「ごめん、痛かった?」
「痛かった」
「そんなに怒らないでよ」
「痛かった」
2回目の痛かったはちょっと甘えた響き。渚はふっと鼻息をもらした。そんな甘えん坊への処方箋は心得ているつもりだ。
「あと246秒なんだけど」
「するなんて言ってない」
「あと243秒」
「……、」
埃っぽい校舎の外壁を背中に感じて、渚の白い両腕に挟まれたシンジはそっと目を閉じた。渚の顔が近づいて、ふたりは触れるだけのキスをする。
「あ、もうチャイム鳴りそう」
「走るよ!」
渚の手がシンジに向かってまっすぐ伸びる。とっさに指を開くとつかまれた。シンジは手のひらの温もりが嬉しくてドキドキした。
はじめて好きな人ができた。
はじめて想いが通じた。
はじめて付き合うことにした。 ずっと友達だったひと。
「これ、碇くんにって」
黒板を走るチョークの音。しわがれた教師の声を片耳に聞いて、シンジは青い空を見ていた。教室の窓に切り取られているとそれは手の届かないものに感じた。実際、空には届きそうにないけれど、もっと時間まで遠い場所にいるようだった。
手渡されたノートの切れ端。無造作に千切られてくしゃくしゃになるまで畳まれている。丁寧に開いてゆくと、
“ シンジ君のことしか考えられなくて頭に入んない ”
変な言葉が書いてある。ああ、やだな。シンジは思った。心臓が悪足掻き。耳まで真っ赤になってしまう。斜め後ろの誰かの視線を感じて肘をつくフリをした。やっぱり熱くなっていた、耳。振り返りたい。でも振り返らない。
窓の外、手の届かない青空に、驚くくらい白い飛行機雲が見えなくなるまで伸びていた。もしも僕が大人になってもこの景色を覚えているのだろうか。シンジは思った。
ああ、やだな。忘れたくない。
目を見開いて、隅々までちゃんと記憶しようとする。次の休み時間まで覚えていられるだろうか。ちらっと斜め後ろを盗み見ると、渚はつまらなそうにあくびをしていた。だから内緒で返事をする。「僕も」口だけで囁いた。
あ。目が合いそうになってシンジは慌てて前を見る。もう飛行機雲は消えかけていた。驚くくらい白かったのに、もうそれも、曖昧になってしまった。
「ねえ、食べさせあいっこしようよ」
昼休みに屋上でふたりきり。やっと彼氏の顔になれて渚は少し調子に乗る。我慢していた分、抑えきれない。
「やだよ、女の子じゃあるまいし」
「女とか関係ないじゃん」
「男同士でそんなことしない」
胸の蛇口がキュッとひねられた感じ。渚はとりあえず何でも断るシンジの癖が嫌だった。不貞腐れて大きな口でどんどんご飯を飲み込んでゆく。シンジはそれを眺めながら「待って」と心の中で呟く。もう食べ終わりそうな弁当箱を見て、哀しくなる。自分の動かない箸を見て、呪うのだ。
「いつまで隠してるのさ」
「え?」
「付き合ってるって。そろそろ仲いい奴にだけでも言おうよ」
もう何度も渚は言った。隠れてコソコソするのは嫌だと。シンジはそんな渚の自由さに憧れていた。どうしてそんな風になれるんだろう。
僕にはできない。
「嫌だよ」
「なんでさ」
「わざわざ言わなくたって付き合える」
「皆に知られたくないだけだろ」
シンジは片手で隠しながら拳をぎゅっと握り締めた。
「僕と付き合ってることがそんなに恥ずかしいの?」
渚はシンジの言葉を待った。シンジは「ごめん」と言いたかった。言いたかったのに。ただ下を向くことしかできなかった。
―渚、まだ怒ってるんだ…
あれから渚はもう何も言わなかった。キスもしなかった。手にも触れなかった。休み時間にもこっちを見ない。気がついたら教室から姿まで消えていた。
渚のいない教室は淀んだプールの底みたい。だから廊下に出て深呼吸する。さりげなく辺りを見渡す。いない。誰もいないセカイにひとり取り残された気分。
「なあ、碇」
あまり喋ったことのないクラスメイトの声がして、振り返る。
「質問があんだけど」
もったいぶった態度でニヤニヤと笑っている。嫌な予感。数人でつるんでよく廊下で騒いでいる連中。大声で虚勢を張る感じが苦手だった。
「何?」
「渚とお前っていつも一緒にいるよな」
次の言葉が聞こえる前にセカイが足元から崩れていくような気がした。
「デキてんの?」
シンジは固まった。これから一番大事なものを馬鹿にされるのかもしれない。笑われるのかもしれない。ささやかな幸せすら、誰も許してくれないのかもしれない。
そのときだった。
「デキてるかって?」
ふわりとあたたかい風が吹くように。耳許で聞き慣れた声がした。肩の上に顎を置いて背中からシンジを抱き締める、渚。
ああ、もうおしまいだ。
シンジは小さく観念した。でも不思議と怖くはなかった。ただやさしくてあたたかかった。セカイが崩れてゆくのが君のせいなら僕は怖くないのか、そう思うとシンジは笑いたくなった。恋って怖いなぁ。
でも、
「んなわけないだろ」
渚はシンジを抱き締めながら、真逆のことを言葉にした。
「あ、もしかしてキミの彼女が僕にフラれたのがまだ気になる?」
軽快な口ぶり。さっきまでそうしたくないと言っていたことを、している。
シンジは渚を見たかった。どんな顔をしているんだろう。近すぎて見えない顔のかわりにお腹に巻かれた白くて綺麗な指先を見る。微かに力がこもっていた。
「笑い取りたいならもっと面白いこと言えよ」
相手はひるんでもうそれ以上は言わなかった。連中が去ってから、かたちのない想いがシンジを埋め尽くす。溺れそうで、窒息しそうで、廊下を駆け出した。
「シンジ君?」
重い扉を開けて非常階段へ。手すりにしがみついて深呼吸をする。
「どうしたの?」
追いかけてきた渚がシンジを見た。泣きそうな顔をしていた。
胸が苦しい。海みたいだ、と渚は思う。シンジの心がわからない時、いつだって渚は手に負えないほど大きいものの前で立ち尽くしている気がしていた。
「本当は嫌だったの?付き合ってるって言ったほうがよかった?」
「…違う」
「じゃあなんでそんな顔するの?」
「……」
「なんで怒ってるの?」
「怒ってない!」
「なんで…泣いてるの?」
「……、」
シンジの瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれていた。渚は全身がヒリヒリと痛くなる。
「どうすればよかったのさ、」
いつだってシンジを笑顔にしたいのに。そんな時間はあっという間に過ぎてゆく。気がついたらシンジはまた不機嫌で、どんなに頑張っても最後には…喧嘩。喧嘩なんてしたくないのに。
僕にはできない。
「どうして僕はシンジ君にそんな顔させてばっかりなんだろうね」
シンジのにじんだ視界の先に、諦めたように笑う渚がいた。
「…違う、」
シンジはからっぽになった弁当箱を思った。はやく。箸を動かさなきゃ。
「…待って」
気がついたら渚のほうへと一歩を踏み出していた。目の前の肩に涙に濡れた顔を押しつけていた。
「僕は…悔しい」
渚の制服のシャツをクシャクシャに握り締める。
「違う自分になれればいいのにって、思う」
心のままの言葉が見つからない。伝えるってなんて難しいんだろう。
「渚みたいに勇気があったらいいのに…」
そう言い終えて、シンジはからだを震わせてたくさん泣いた。渚はそんなシンジを抱き寄せる。
「何言ってるの」
とってもやさしい声だった。
「君と僕がいるんだから、ひとりが持ってたらそれでいいじゃん。君ができないことは僕にさせてよ」
過呼吸気味の背中をさすると、トクントクンと高鳴る心音に、やっぱり好きだな、と渚は思った。そんなところも、シンジ君の全部が、好き。鏡のようにその想いはシンジの胸を覗き込む。
「…逆は?」
「ん?」
「僕ができて君にできないこと」
頭の上、授業の時間を告げるチャイムが鳴り響く。あ、と母音が宙に浮く。行かなきゃ。渚が一歩を踏み出そうとしたら、
「ダメ」
「へ?」
変な声が聞こえた。
「行くな」
授業サボっちゃうの?渚は妙に焦る。それってどんな展開なのさ。シンジの表情を知りたくても腕の中にいる。近づきすぎてわからない。
「まだ僕ができること、見つかってない」
シンジは一生懸命答えを探す。でも答案用紙は白紙のまま。僕には何ができる?もしかして、何もできない?ふたりの間に永遠のような沈黙が流れる。
その沈黙を破って一歩を踏み出したのは、やっぱり渚からだった。
「何でも断らないで」
「…え」
「とりあえずで嫌だって言わないでよ。僕だって君と同じくらい、勇気出して言ってる。断られるとほんとはつらい。だから、しないで。これは君にしかできないこと」
シンジは渚の顔を見上げた。渚も泣きそうな顔をして、笑っていた。
「ごめん」
だからシンジは、
「もうしない」
勇気を出す。
「渚」
シンジの唇が薄く開いて渚の唇に近づいてゆく。ほんの少しだけ背伸びをして、もう届いてしまいそう。まだ僕はこんなことをするだけで死んでしまいそうだけど。シンジは思う。まずはここから。
ふたりの距離がゼロになる。
「するなんて言ってない」
渚はゆっくり瞼を開けてそう言った。からかっているつもりだろうけど、すごく幸せそうな顔、隠しきれてない。もう君しか見えない、そんな顔。渚はいつもこんな景色を見ているんだ、シンジはちょっとズルいと思った。
「…バカ」
もう一度、キスするシンジ。もっといろんな景色を見せてよ、と愛しい背中に腕を回す。渚は驚いて、もう、我慢できない。触れるだけのキスから一歩、前に進んだ。
熱いからだ。いつもよりきつく抱き締められて、シンジは目眩がした。いつかきっと、もっと死んでしまいそうな背伸びをしなきゃいけないんだ。でも、そのときは僕からがいい。僕からちゃんと、前に進みたい。強引に廻っているセカイに逆らうように、僕は一直線に疾走したい。大好きな君と。
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