シンジは一目散に走り出した。心はあるひとつのことでいっぱいだ。どくんどくんと心音が煩いくらいに跳ね回る。

「ねえカヲル君!ちょっと話があるんだけど!」

休み時間の教室はクラスメイトでざわめき立つ。カヲルはシンジを待ち惚けて、冴えない顔でシンジの机に腰掛けていた。

「話って何だい?」

「内緒話なんだ。」

カヲルはゆっくりと床に着地する。ようやく現れたシンジに赤い瞳は嬉しそうに綻んで、数秒前とは別人のよう。けれどもその動きはやや鈍い。彼の頭の中にもあるひとつの事柄が不発弾の如くさっきから燻っているのだ。

「耳を貸して。」

そしてカヲルの耳にシンジの掌がピタリと添えられた時、シンジの口からとんでもない言葉が囁かれた。


「カヲル君、付き合って欲しいんだ。」

その言葉はカヲルのてっぺんからつま先までを通り抜ける。

カヲルの頭の中にある事柄というのはまさに、目の前にいる蒼碧の瞳をたたえる黒髪の少年のことである。
そのシンジから、今なんと言われたのか。
カヲルはゆっくりと頭の中で彼が自分に向けて囁いた言葉を復唱した。


付き合って欲しい。シンジ君はそう言った。付き合って欲しい。僕の名前を呼んで、付き合って欲しいって…。
頭が熱に浮かされたようにぼうっとして、よく回らない。現実のこととは思えない。あまりにも現実味がない。

「シンジ君、今の言葉、本当に…―」

「お願い。ちょっとだけだから!」

カヲルが口を開いた途端、シンジはカヲルの腕を思い切り引っぱって駆け出した。あぁ、付き合ってって、そういう―…。なかばお約束なシチュエーションに肩を落としつつも、つかまれた腕の、指先が触れた箇所がじんわりと心地よく、今度は体全体にむずがゆい熱を広げていく。
カヲルは道中、前を走るシンジのつむじをじっと眺めた。かわいい。優しく指で押して触れたい。

やがて中庭を抜け人気のない校舎裏へ行き着くと、シンジはカヲルの腕を離して勢いよく振り返った。潤んだ瞳にかち合い、カヲルは思わず息をのんだ。

「僕、僕ね…。できちゃったみたいなんだ。」

“できちゃった”? カヲルは目を見開いた。つと距離をとり、まじまじとシンジを見つめ返す。その顔は今の今まで走り続けていたために赤く染まり熱っぽかった。息を切らせ、呼吸に合わせて肩が上下している。

できちゃったって…。カヲルは脳裏に一瞬浮かんだ不埒な映像を、頭を振り払って打ち消した。今まさに、お約束なシチュエーションに引っかかったばかりじゃないか。それに目の前の彼は、とてもジョークを言おうとしているようには見えない。

「…何ができてしまったのかな?」

いまだ呼吸の荒いシンジをなだめるように、努めて穏やかな笑顔を見せた。
青春の象徴のニキビとか? それにしては、相変わらずつい触れてしまいたくなるような滑らかな肌をしているけれど。
微笑ましい気持ちで続きを促すと…

―…次の瞬間、奈落の底に突き落とされた。

「彼女。」

「え?」

「僕、彼女ができちゃったみたい。」

「…」


シンジがたどたどしい口調で説明するにはこうだった。シンジが朝学校に来てみたらすれ違う度にこう言われるのだ。

おめでとう、碇!
おめでとね、碇君!

皆揃いも揃って二度目の春が来たような笑顔である。あまり祝福されるのに慣れていないシンジは取り敢えず曖昧に微笑んで、即席でありがとうとだけ告げて歩いた。二年A組の教室への道のりで知らない生徒にまでそんな事を言われて、彼なりにその理由を考えた。

ー僕、期末テスト、凄かったのかも!

ところが授業が始まるなり返却された答案用紙は76点。そりゃそうだ。一夜漬けした割には、まあまあの出来。けれどこれくらいで全校生徒に祝ってもらうレベルで自分は馬鹿じゃない。だから一緒に職員室へとプリントを届ける道中、ケンスケにそれとなく聞いてみた。

「…ねえ、皆僕の何を祝ってくれてるの?」

「とぼけんなよ碇!聞いたぞ。お前ら付き合ってるんだってな。」

「…付き合ってる?」

「はは、照れんなよ。お前がもうすぐ脱童貞なんて俺は嬉しいよ。その時は報告しろよな、色々と。感想を。」

含みのあるそのいやらしい微笑みにすら、シンジは盛大に“ハテナ”?である。

付き合ってる?

誰と?


誰と?!


「ねえカヲル君、僕一体誰と付き合ってるの?!」


知るか! アスカがいれば突っ込みそうなセリフだったが、呆然とするカヲルにそれは不可能だった。混乱するシンジの横で、一見冷静にも見えるカヲルの心中は荒波の如く穏やかでない。

付き合う? 誰と誰が…。誰が…僕のシンジ君と!

そんなのは初耳だ!

「君は本当に心当たりはないの…?」

「あるわけないじゃないか。だいたい僕は学校にいるとき、たいていカヲル君と一緒だし…。…ねぇカヲル君、なんだか顔が怖いんだけど。」

それやめてよ、というシンジの言葉に今のカヲルは従うことができなかった。自分でも目つきが鋭くなっていくのを止められない。

そうだ。シンジ君が学校にいるときは、ほとんど僕がそばにいる。ファーストやセカンドだって、この頃じゃ僕たちの間に割って入ってくることは滅多にない。他のクラスメイトは言わずもがなだ。それは僕のシンジ君へ向ける眼差しと、その他すべての事象に対する等しく公平に無慈悲な態度によるものだとも理解している。それでよかった。

(…だけど完璧じゃない。)

四六時中そばにいたって…それこそこんな耳障りな噂にも気づけないほどなのだから、どこかしらに“穴”はあるのだ。自分の預かり知らぬところで誰かが接触したとしても…。

(シンジ君が無自覚なだけで、既成事実がある可能性すらなくはない…。)

カヲルがポケットに手を突っ込んで踵を返すと、シンジの不安げな声がそれを追った。

「どこに行くの。」

「…相田君のところだよ。彼は何か知っているんだろう?」

噂好きの彼なら本人よりも事の真相を把握しているだろう。一刻も早く確かめたかった。シンジがどこの馬の骨ともわからない女と、あろうことか脱ど……ありえない!


「噂の真相を知っているかい?」

シンジと共に教室に戻ったカヲルはケンスケの机へと近づき、問い掛けた。

「噂?」

怪訝な表情でメガネを光らせる友人。カヲルの後ろに隠れていたシンジが顔を突き出して抗議した。

「ケンスケさっき言ったじゃないか。僕に、かっかっ彼女が…! っ、付き合ってるって!」

「おい碇。俺は一言も“彼女”なんて言った覚えないぜ。」

はん、それで渚はご機嫌ナナメってわけか、とケンスケは物分かり顔で頷き、カヲルに向けて、

「安心しろって、君の大事な碇君は無事だよ。二人でどこまでもお幸せに。ごちそーさん。」

いやーんなカンジーと椅子の上で体を回転させ、プラモデルいじりを再開した。ひらひらと後ろ手に手をふるケンスケをシンジとカヲルはぽかんと見つめた。

やがて二人の顔がみるみる対照的な変化をみせる。すべてを赦し受け入れるような、慈愛に満ちた微笑みをたたえるカヲル。いつもとは種類の違うその笑みに、周りの女子の目が釘付けになる。
かたや一方、隣では、少年の小さな肩がわなわなと小刻みに震え始めた。

「なんだよそれ…」

次の瞬間、

「やめてよ! 迷惑だ!!」

顔面蒼白で叫ぶシンジに、周囲はぎょっと固まった。騒がしかった教室が一瞬しんとする。
額にうっすら青筋を浮かべたシンジを見て、カヲルの白い顔からは完全に血の気が失せた。



―…気まずい帰り道、不自然に距離をとって歩く二人は、会話らしい会話もないまま、すでに十数分経っていた。

「…カヲル君。」

口を開いたのはシンジからだった。頼りない声につられてカヲルが目線をあげると、変わらず暗いシンジの横顔。その瞳が今にも涙をこぼしそうなのが不思議だった。泣きたいのはこちらの方なのに。

「僕のこと、嫌いになった?」

「…ならないよ。」

「でも気持ち悪いって思ったでしょ?」

カヲルは歩みを止めた。改めて向き合うとシンジは目をそらし、苦虫を噛み潰した顔で忌々しげに唇を歪めた。

「なぜそんなふうに?」

「……男同士であんな噂が立つなんて、普通じゃあり得ないからだよ。カヲル君はすごく人気がある。だから、一緒にいる僕へのあてつけに決まってるんだ。僕のせいだよ。なのに僕は、彼女ができたなんて一人で勝手に騒いで…。」

今朝浴びた数々の「おめでとう」が、今はまったく違った印象としてシンジの頭に響いていた。

「シンジ君。君のせいなんかじゃないよ。気持ち悪くもないよ。だから…」

カヲルが言葉を続ける前にシンジは口早に言う。

「ごめんね、カヲル君も迷惑だよね。僕、もう、もう君とは一緒にいないようにするよ…じゃあねカヲル君。」

そう一方的にシンジは告げて、カヲルに背を向けて走り出した。

「シンジ君!」

カヲルが呼んでいるのも聞かずに、シンジは走っていく。

みんなして僕をからかってたんだ!カヲル君といつも一緒にいるからって!
それを勘違いして受け止めていた自分に腹が立つ。

先刻、少し手を伸ばしてしまえば届いてしまう距離で魅了していた愛しいつむじが、どんどん遠くなる。腕を引いていた彼の華奢な手のひら、そこから伝わって頬の力を抜いてしまう温かな気持ち。

「シンジ君…」

シンジの姿が完全に見えなくなった頃、カヲルはシンジの名を呼んだ。


シンジ本人に伝えた事はないが、カヲルはシンジの事が好きだ。好きだからこそ一緒にいた。一緒にいられて嬉しかった。
それなのに、シンジは明日から一緒にいないようにすると言っていた。

何故こうなってしまったのだろう。


きっと誰よりも、愛おしく思っている。
カヲル君、と呼ぶ声は星屑の囁きのように美しく、目を合わせばたちまち顔を夕日色に染め上げ、頬に柔らかな睫毛の影を落とすその仕草が、胸の中を熱くする。こちらに触れようとして伸ばした手が空を切る瞬間を見るたび、何度指をそのしなやかな手に絡めて抱き寄せようと思ったことか。
誰であっても。この想いの強さに敵うものなどいないとカヲルは思う。
そしてシンジの想いが、どのように重いものでも捻じ曲がったものであったとしても、一身に受けていたいと、乞い願っている。
浅はかでも、驕りでも構わない。それが出来るのは自分だけだ。
(シンジ君、君を離すことなんて今更出来やしないよ)
カヲルは悲しみに震える心を拳に宿し、誓いを立てるように、強く握り締めた。


次の日。
カヲルは見事な程、シンジに避けられていた。
靴箱の前で鉢合わせ、朝の挨拶しても返事すらそぞろで、いつもなら肩を並べて歩く廊下をシンジは一人で颯爽と歩いて行ってしまう。孤独と絶望で心臓が駆け足になれば、自然とカヲルの足も速くなる。
カヲルよりも一足早く席に着いていたシンジに何か話しかけようと試みても、ふと思い付いたように席を立ち、普段は会話すら交わさないようなクラスメイトに話しかける。話しかけられた人間は明らかな違和感に動揺し、ちらちらとシンジとカヲルの顔を伺ってきた。
完全な拒絶。存在を知ってなお、拒まれるということは、カヲルの存在自体をシンジに否定されているようで、きりきりと胸が痛む。
だってカヲルはシンジのことを知り、シンジはカヲルのことを知っている。今更、無に戻るだなんて出来やしない。
もし時間を巻き戻せたとして、無の時代になれたなら、カヲルの心はこれほど苦しめられることはなかっただろうが、巻き戻すだなんてそれこそカヲルには無理だった。
優しい記憶の狭間に刻んだシンジの存在が、愛おしくてたまらないのだから。

「シンジ君。」

「っ、痛!」

気付けばカヲルは、クラスメイトと話し続けるシンジの小さな肩を掴んでいた。振り返ったシンジは、肩の痛みに目を細め、怯えたようにカヲルを見上げてくる。
今日、初めてだ。シンジと目が合ったのは。

「来て…。」

そのまま引きずるようにして廊下まで出ると、シンジはギクシャクと固い動作で脇をすり抜けようとする。が、不満気に眉をひそめたカヲルによって阻まれた。ぐいっと腕をひかれたかと思うと、勢いで倒れ込んだシンジは正面からカヲルに抱きしめられた。

「っ、カヲル君!」

慌てたシンジがジタバタと暴れ、もがけばもがくほど、カヲルは腕の力を強めて一層きつく抱きしめる。
…しばらくその攻防が続いたが、やがて耳元でくぐもった声が辛そうに「さみしい。」と漏らすと、抵抗を諦めたシンジは体の力を抜いて、その腕をカヲルの背中にそっと回した。

「ねぇ…こういうことするから僕たち誤解されるんじゃないの。」

ため息をつくシンジの手のひらがポンポン、とカヲルの背を優しく叩くと、カヲルも今度はいたわるようにぎゅっ、と柔らかく腕に力をこめて、シンジの首筋に頬をすり寄せた。ふふっ、と笑いかけた吐息が耳元にあたり、そのくすぐったさにシンジの心臓がはね上がる。

「…君は男同士で噂になるなんて、普通じゃないって言ったね。それが君のせいだとも。」

「うん…。」

「原因が僕にあるとは思わないのかい?」

「カヲル君に?」

シンジは思わずカヲルの胸を押し返し、目を瞬いた。改めて間近にするカヲルの顔は、心なしか疲れて見える。寝ていないのかもしれない。

「カヲル君が…あの噂を流したの?」

「…いいや。でも似たようなものさ。目は口ほどにものを言う、という言葉もあるしね。君に対する僕の態度は直接的すぎたのかもしれない。」

「……君が何を言っているのかわからないよ、カヲル君。」

「こういうことさ。」

言うなり、カヲルはガバっとシンジに覆いかぶさり、キスをした。
有無を言わせぬ勢いのそれは、友達同士ではありえない非常に濃厚な―…恋人たちのキスだった。

途端に、キャーッ! と周囲からいくつもの悲鳴が沸き起こる。そうだ…ここは教室の目の前で、全校生徒の通り道、公衆の面前でいったい…

「なっ…! に…をっ。」

シンジがカヲルの胸を叩いて無理やり体を離すと、カヲルは物足りなそうに眉尻をさげ、甘えた声で、

「既成事実がほしいね。シンジ君。」

「カヲル君、何言って…」

その時、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

「あっ…も、もう戻らなきゃ…」

シンジはカヲルから逃げるように教室の中へと入ってしまった。


授業など耳に入ったものではない。
カヲル君に、キ、ス、された… 。頭の芯から熱を出し髪の生え際からは汗を出し、クラスメイトの目ばかりが気にかかって、顔を下に向けてじりじりと時間をやり過ごす。それでも思い出してしまう、カヲルの、こんにゃくゼリーのように柔らかく信じられない程官能的にぬめる唇が、自分のカチコチに固くなった口をゆっくりと食む、優しさ。シンジは、下を向いたまま目を閉じて反芻しそうになってはその度にはっとし、慌てて自分を叱咤しながら、教室の後方にいるはずのカヲルの視線を、感じていた。


授業が終わると、シンジは教室を飛び出す。クラスメイトの、カヲルの視線から逃げるように。後を追うように、カヲルが教室を出た事にも気付かずに。

シンジは人気のない場所と屋上に逃げ込んでみたが、所詮一時しのぎだと扉を背に座り込んだ。

ーガタン

背後から音が聞こえ、シンジはドアから離れる。立ち上がろうとするが、慌てていた為にバランスを崩してしまう。

転ぶ!

衝撃に耐えるかのようにぎゅっと目を閉じる。しかし、その衝撃が訪れる事はなかった。

シンジはふわりと包まれていた。先ほども感じた、暖かくて柔らかいその腕に。

「大丈夫かい?シンジ君。」

後ろから聞こえた声にシンジは閉じた目を驚きと共に開く。

「か、カヲル君!?」

倒れそうになったシンジをカヲルが受け止めてくれていた。
どうしてここに、と続けようとしたシンジをカヲルは後ろからぎゅうっと抱きしめる。
こんなに抱きしめられたらどうしても先ほどのカヲルとのキスを思い出してしまう。
ドキドキと動悸が高まるシンジをよそにカヲルは言う。

「君にあんな風に逃げられて、僕がそのままでいると思うかい?」

その声があまりにも切なく、何かを懇願するようで思わず振り返ってカヲルの顔を見てしまった。
カヲルの目は細められていて、とても悲しそうに見えた。
僕の方が悲しいくらいなのに、どうしてそんな顔をするの。

これ以上カヲルの悲しそうな顔を見たくなくて、高まる動悸をカヲルに感じ取られたくなくて、シンジはカヲルの腕から離れようと突っぱねる。

「カヲル君、もういいから、離してよ…」

「嫌だ。」

普段聞かないカヲルからの拒絶の言葉。

「嫌だ、君をもう、離したくない。」

カヲルはシンジを抱きしめる腕に力をこめる。
まるでシンジが拒絶することを拒むように。
シンジが逃げていかないように。

そしてシンジの温かく鼓動する身体がカヲルの不発弾に火を点けた。彼は我慢の緒が切れたように、ひそかに朝からずっと頭を支配していたことを腕の中のシンジに向けて、話し出す。カヲルの表情はシンジから見えないけれど、耳元にかかる声、吐息の熱が、彼の微妙な心の震えさえダイレクトに伝える。
もともと優雅なカヲルをやや怠そうにし美しい瞳にかげを差し、悩ましげな色気を朝っぱらから道々にまき散らせていたこと。

「シンジ君。僕は毎晩、夢を見る。君の夢だ。夢の中で君は…とても素敵だ。そこでは君は僕のことしか考えない。僕のことで頭がいっぱいなんだ…。学校やクラスの連中…君がいつも気にかけている他のありとあらゆる全てがそこでは意味を成さない。僕はそれがすごく嬉しいんだ。嬉しいんだよシンジ君。」

シンジが身じろぐと、カヲルはおもむろに彼の顎に手を伸ばした。穏やかだが強引な手つきだった。再びぶつかった視線の先で、シンジの唇は震えていた。
その頼りなさに何かたまらないものがあった。カヲルは目の前のふっくらとした淡色の輪郭を、親指の爪先でつ…とたどった。次いで、中心のふくらみを指の腹でやんわりと押した。

「柔らかいね…。」

目を細めるカヲルに、シンジは全身総毛立つ。
なんだ…!? なんだか変な気分だ…

「僕の…友達だったカヲル君は…?」

カヲルが崩れ落ちそうなシンジの手をとった。そのままお互いの指を絡ませ合い、徐々に体重をかけていく。

「いま、君の目の前にいるのが僕だよ。僕そのものだ。君のそばで、僕がずっと君のことを…どんな目で見ていたか。」

“君ももう、気づき始めているんだろう?” カヲルの言葉に、シンジの目尻はぴくりと痙攣する。

「果たしてこれは…君への裏切りだろうか? …やはり君は傷つくのだろうか。シンジ君。教えておくれ。」

「カヲル君…。」

カヲルがなんだか嬉しそうな、悲しそうな顔で笑いかけたとき、シンジはその体にもうすっかり押し倒されていた。

「昨日の夜は、夢で君に慰めてもらう気分にはなれなかったよ。」

「カヲル君…」

シンジを見つめるカヲルは辛く苦しそうで。そんなカヲルを見るのはシンジにとって初めての事で。カヲルの言動に戸惑い、今自分が置かれいる状況を気にする余裕などなかった。

夢で慰める…カヲルははっきりそう言った。
そして、甦るのは「既成事実」の熱いキス。あのとき以来の距離まで、カヲルの深紅の瞳が寄り添っていた。
一番の友達だったカヲル君。廊下で悲鳴を上げた女子、話しかけたクラスメイトの戸惑い、付き合っているという噂。全てが走馬灯のように駆け巡り、この瞬間はなにか決定的なことなのだと頭のどこか片隅で明瞭に理解できている。
学校生活…、いや、きっと僕の人生を変えてしまうんだ。
だけど、真剣な眼差しのカヲルの腕がしっかりと支えてくれて気持ちがいいし、押された唇がじんじんして反芻をもう止めようともしていない。

シンジの中でカヲルの存在が変わり初めたのだ。きっかけはあの、教室前でのキスだったのか。それとも先ほどの抱擁だったのか。
一つだけ確実なのは、カヲルが友達から特別な存在へと変わったという事。
必要以上に触れるたびに、敏感に拒絶していたシンジの小さな変化を、カヲルは見逃さなかった。
さっきから腕の中で居心地悪そうに身じろぎしていたシンジは、固く緊張させていた全身から力を抜き、床に押さえつけ強引に絡ませられた手のひらを、カヲルの指につかまるかのようにふんわりと丸めている。
語りかけた言葉への答えを探したくて至近距離で覗き込めば、即座に逸らされてしまうはずのうるうるのつぶらな瞳が自分を見返してくる。

「ねぇ…。」

繋いだ片方の手を口元に寄せて、シンジが囁いた。その声音に明確な意志を感じてカヲルは目を瞠る。

「…もういっかい…してほしいんだ。さっきの、」

キ、ス…。恥ずかしさに目を伏せるシンジの頬がにじむような赤だ。
戸惑いを感じつつ、抗えない誘惑にカヲルはごくりと喉を鳴らして、そろそろと気配を近づける。
ーさきほどとは打って変わって慎重な口づけだった。

今度こそシンジが怯えないように、一度だけ。
…それから優しく、優しく、ひたすら触れるだけのキスを、何度も。
……シンジが抵抗せず受け入れるので、次第に熱っぽく、大胆に…より深く。そしてカヲルの歯止めは効かなくなった。

(…知らなかった。カヲル君が、こんな…。)

いつだって爽やかで、綺麗で優しい、穏やかな目をした僕の友達。…僕の憧れ。
これまでのカヲル、少なくとも昨日まで友人として接してきた彼の姿からは、想像できなかった。
…こんなにも夢中になって、自分の唇を求める姿なんて。

なんて情熱的なんだろう。しつこくて、少しわがままで、それでいて…いやらしくて…

「…っ、んぁっ…。」

シンジの口からこらえきれずに声が溢れた。途端にはっとしたようにカヲルが顔をあげた。見つめられてシンジの顔がまたほんのりと染まる。

「やはり本物の君は…夢なんか比べ物にならないね。…ずっといい。」

感慨深げに息を吐くカヲルの顔がとろけ落ちそうだ。

なんだろう。なにかすごく安心する。すごく。気持ちがよくてふわふわして、このままこの腕の中で眠れたならどんなにかいいだろう。それに、それにー…。
カヲルの素直な気持ちを受けて、シンジの頭はこれまでにないくらい言葉と感情がシンプルに直結しそうだった。

あ…愛おしいって、こういうことなのかな。

「僕、なんだかいま…すごく幸せ。」

思ったことをそのまま言葉にしたら、

「シンジくん…。僕は幸せという概念が今、初めて理解出来た。君を幸せにすることは、僕がこの世に生を受けた目的だということも。」


シンジの頬から首、鎖骨まで手をすべらせながら、カヲルはまるで高らかに叫び出しそうなのを抑制するかのように、どこか自分に言い聞かせるように、一言ずつ確認しながら囁いた。危ういほどの歓喜の光を放つ瞳。低くかすれた声と繰り返される呼吸に、シンジは思わず具合の悪い人を連想してしまう。


シンジはカヲルの言葉に、澄み冴え渡った眼に、人生を駆ける深く熱い想いを知って幸福だった。
彼の腕の中で素直になったまま、生まれたてのこころを、言葉でお返ししたかった。

「カヲルくん、僕だって生まれて初めてなんだ、そんな事を言ってもらうの。だから、何て言ったらいいのか分からないけど…その……。
って、カヲル君?何だかすごく辛そうだけど…大丈夫?」

カヲルは、シンジの襟元に差し掛かって時々ぴくりと震える手を、シンジと繋いだままの反対側の手で押さえつけていた。

「はぁ。…っ…、シンジ君、何でもない。…済まない、君の大事な話を折ってしまったね。」

「ほ、ほんとうに?」

カヲルは震える体を少し起こしながら、シンジの手を自分の両手で支え、そっと口づけて、息を整えていた。

「もう大丈夫、心配してくれてありがとう…。
僕は必ず君を、大切にするんだ…大切に…。」


「えへへ。
…噂が本当になっちゃった、ね…?」

「…シンジ君…?」

「ねぇ。
僕って、もう…君の恋人、ってこと?」

「今はまだ違うよ。」

まだ、とはどういう事なのか。
カヲルを愛しいと思い、幸せだと思った。そんな気持ちが次第に小さくなっていく。

「どう、して?」


カヲルは無言のまま、手にしていたシンジの手を再び床に倒すと、上半身に思い切り圧をかけて口付けた。
カヲルにはもはや繊細なシンジの問いに答える心の余裕は無くなった。初めて見るシンジの甘く懇願するような態度は、非現実的で、そのうえ夢の中よりも可愛かったのだ。
口付けは、何度も繰り返されながら耳もとに、首すじに降りてゆく。
カヲルのそれは潤滑すぎて、シンジが把握するときには唇が触れる場所はどんどん移動している。体のちいさな一箇所だけに神経が集中し、脳も肢体も麻酔をされたみたいにじんじんして、指一本思うように動かせない。

「コイビトに、なろう。シンジくん。」
いつの間にか制服のボタンは全部外され、インナーの上からカヲルの手が胸や肋骨を愛でている。
めくれたカッターシャツのスキマから、まだつるりとした脇の下へ唇を忍び込ませると、びくっと腕が降りてカヲルの頭を抱くような形になってしまう。

「シンジくん、シンジくん。」
夢で何度も抱いたシンジが腕の中にいる。
カヲルの心とカラダは、興奮し切って準備万端だった。

ところが、巧妙にベルトを解きファスナーを降ろしたカヲルの手が下着ごしのシンジに触れたとき、ずうっとふわふわ夢見心地でされっ放しだったシンジは、急激に現実に引き戻される。
誰かに触られるなんて想像できていなかった場所。
まして男性同士で、これ以上どうなってしまうんだろう…? 
待って、待って…

「待ってよ、カヲル君…!」

この時、カヲルは彼に似合わないほど冷静を欠いていた。
想い人の下着を見てしまい、全霊で釘付けになっていた。
薄い布一枚。
それはあまりにも無防備で、吸い寄せられてキスを落とす。
鼻と唇と…歯と舌を使って、愛撫する。

有り得ない領域への侵入に、シンジの頭は緊急事態のベルを鳴らした。目の前のカヲルの顔を夢中でつかみ引き離す。

「やめてよ、カヲル君っ…!!!」

シンジはありったけの力でカヲルを突き放すと、ごろんと二人の形勢が逆転し、彼の上に乗っかった。

今、二人は直に分かってしまった。カヲルのモノががっちりと張り詰めていることも。シンジが少しだけブリーフにしみをつくってしまったことも。

高ぶって息を上げたまま、カヲルはぼーっとシンジを見ていた。その真っ赤な瞳に、新たな感情が滲みはじめる。期待、慈しみ、哀しみ…、後悔。

「…!ごめん、シンジくん…!」

シンジはすでに服を直しながら、ふるふると頭を振っていた。いま言葉を発したら、涙があふれて止まらなくなりそうだ。
自分で自分の感情をコントロール出来ないまま、カヲルと目を合わせないままシャツをズボンに仕舞い、シンジは逃げるように屋上から去って行ってしまった。

ぽつんととり残されたカヲルは、生きる目的が自分の腕からすり抜けてゆくのを眺めてから、力の入らない体を投げ出した。
カヲルが重い体を引きずり教室に戻ると、午後の最後の授業が既に始まっていた。
品行方正なカヲルは咎められもせず席に着くよう言われたが、シンジの席に目を走らせると、机しか無かった。
シンジは早退していた。

……………


翌朝。

カヲルは一睡もせず、誰よりも早く登校していた。

シンジに謝り、許しを請わねばならない。
そして、彼を幸せにしてゆく資格を請わなければ。

と言っても、教室で話すのは不可能だ。
?付き合ってるって噂?でケンスケの席で叫ばれ、しばらく避けられてしまっていたのだから、愛撫のことを教室で話題に出すなどほとんど自殺行為である。
どうあっても、シンジを人目のないところへ連れ出さなければならない。
だが、シンジ君はついて来てくれるだろうか…。僕の荒ぶる欲で、強引に聖域を侵した後で。
少しでもリラックスさせるために、通学路で待ちぶせしたり、ほぼ一人暮らしのアパートを訪ねることは却下した。
昨日コンクリートの床に這い、下を向いて涙を殺していたシンジ。
手を小さく震わせながら、大急ぎでシャツのボタンを留めていた…一刻も早く屋上から、僕から離れるために。

カヲルは、奥ゆかしく繊細なシンジの気持ちに本人以上に敏感だった。毎日間近で、大好きな彼の一挙一動だけを見ていたのだから。
それなのに、僕は性急にあんな屋外で下着を咥えたりして、シンジ君の心のひびを修復出来なかったら一体どうするつもりだったんだ…?

キスを受け入れて、赤い頬で、幸せと言ったシンジ。
真心をこめて謝って、洗いざらい話したら、あるいはあのシンジにもう一度会えるかもしれない。

今朝顔を合わせたら、彼はまず反射的に目をそらすだろう。自分がつけたシンジの心の傷が手に取るように想像できる。分かりすぎるほど分かっていても、その瞬間に自分の心がどこまで押しつぶされるか想像し、カヲルは冷たい汗をやり過ごしながら苦しい心臓を押さえるのだった。


早朝からずっと待っていたが、いつまでもシンジは現れなかった。シンジは毎日早起きなのに。学校を休むほど傷つけたのだろうか?
廊下の壁にもたれ、かすれた呻き声をもらすカヲルに、行き交う女子が次々と失神しそうになっている。

始業開始直前、ようやく登校して来た丸い黒髪を見つけた。ごった返す制服の中でも間違えるはずがない愛しい輪郭。

紅い瞳で切なく見とれたとき、碧色を秘めた眼と出会った。その瞬間。

ーシンジは、動揺もあらわに目を伏せた。

予想通りにやって来る胸の鈍痛を押さえつけながら、カヲルが足を踏み出した時、後ろから走り寄ったケンスケがシンジの肩を元気に叩く。
…彼のいる時では、間が悪い。

彼らが昨日の早退について問答していると、無情なチャイムが鳴り響く。教員に追い立てられて、カヲルも席に着くより無かった。

授業中、カヲルの頭の中はシンジの事で埋め尽くされていた。
休み時間になったらシンジの席へ行き、話があると伝えよう。昨日のあの場所ならば、二人っきりになれる。二人っきりになったら昨日の事を謝ろう。そして、どんなにシンジの事が好きなのか伝えよう。たとえそれが言い訳にしか聞こえなくても、自分が心惹かれる相手はシンジしかいないのだから。

カヲルは頭の中でこれからの事をシュミレーションしながら授業が終わるのを待った。


長い一限が終わって、カヲルはシンジを目で探す。
空っぽの席に、シンジがいないと気づき立ち上がりかけた時、

「カヲルくん…、」

弾かれたように振り向くと、カヲルの机のそばにシンジが来て、緊張した面持ちでこちらを伺っていた。
愛しさが止められない。

「シンジくん、昨日はごめん…!」

いきなり本題に突入したカヲル。
珍しい彼の大きな声に、周りの人間が何事かと振り返る。

「や、やめて…言わないで…!」


ー教室では、自殺行為…。




…………

昨夜のこと。シンジは一人ぼっちで官能的なやり切れない夜を過ごしていた。
カヲルの優しい言葉の後が何だったのか分からず、その行為がどこへ向かうか考えられなくて、怖かった。
それなのに、一心不乱に自分を慰めるのを止められなかった。
思い出すのは、見たことのないわがままなカヲルの姿。体にまで口づけ、どんどん服を剥いて下着までたどり着いた、ねちっこい手。愛おしげに僕を見つめると思ったら、ぎらぎらと赤く、僕の声が届かなくなってしまった目つき。それから彼がしたコト…
その全てがシンジを震わせた。
自分も男だから、泣きたいくらい嫌だったのに、かっこよくて。彼の固さを触れてしまった面積ではっきり思い出したら、シンジはもう、だめだった…。
恥ずかしい。恥ずかし過ぎて明日の朝カヲルに会ったら死んでしまいそうだ。
でも、クラスで顔を合わせながらうやむやにするのは更なる恥だった。
…………

何やら険悪らしい雰囲気の二人の周囲では、このあいだ気安く祝福などしてしまった者も含めて、遠まきに気づかうようにして会話が紡ぎ直されていく。


カヲルの耳にがやがやとした雑音がやけに響いて、心臓も肺も痛くて苦しい。
甘く甘くキスを許してくれた昨日のシンジまでの距離が、ひどく遠い。

どうやって話をしたら、彼は受け入れてくれるだろう。
落ち着いて、よく考えるんだ…。


下を向いたままのシンジが、きっぱりとカヲルに言った。

「耳を貸して。」

驚いて、びくっと見返すカヲルから、シンジの表情は見えない。

ふいにシンジの手がカヲルの耳もとにピタリと添えられる。

内緒話の距離で、シンジがちいさく息を吸い込む。
一拍ためらって言い淀んでしまって、もう一度繰り返される呼吸。
そのひそやかな音で、ガンガンと鳴っていた聴覚が戻ってくる。萎縮していた心臓に、とくとくと温かな血が流れ始める…


"ーカヲルくん、
僕たち、もう恋人だから!"


上気して真っ赤な頬で告げたシンジは、昨日のカヲルをとがめるように涙の多い瞳でぎゅっと睨んでいたが、恥ずかしさに耐えられなくなって、ついに笑顔をこぼした。

胸が高鳴り何も言えないカヲルを置いて、つむじを見せて、シンジは一目散に駆け出した。
心はカヲルのことでいっぱいだ。



恋耳パラドックス

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