降り積もった枯葉を踏み締め歩いていくとやがて深い霧が晴れ、木漏れ日が差し込む場所に辿り着く。
目の前に鎮座するのは大きな丸い岩だったが、それは驚くべきことに真っ二つに割れていた。

目を丸くするナマエの横に立ち、義勇はその岩に手を伸ばす。
彼は苔むした岩肌に軽く触れ、これは炭治郎が斬ったのだと呟いた。

「炭治郎くんが、この岩を?」
「藤襲山の選別を受けるために先生が課した」
「すごい……鬼殺隊に入る前からこんなに厳しい鍛錬を積んでいたんですね、鱗滝門下生は」

しみじみと感嘆の言葉を漏らすナマエの横で、義勇はあの懐かしい遠い日々を思い返す。

厳しい訓練に明け暮れる毎日だったものの、その中で生まれたかけがえのない親友や恩師との絆が今の彼を形作ってくれたのだ。
錆兎との思い出は決して悲しいものばかりではないことに気がつけたのは、つい最近のことだった。

岩から少し離れたところには子供の背丈くらいの高さの石を削って作られた墓標が並んでいる。
義勇と並んで一番端の一つの前に立ち、ナマエはそこに刻まれた名を見下ろした。
腰を折り墓標の前に野花で作った花束を手向ける。

頬を撫でる風が、小さな花々を揺らした。

「あの時は、助けてくれてありがとうございました」

きちんと言えなかったお礼の言葉と共に、ナマエは両手を合わせて目を瞑る。
今でも脳裏に鮮やかに浮かび上がるのは、白い着物を靡かせる宍色の髪をした少年の姿だ。

「お前が繋いでくれたものは、これから先も繋がっていくよ」

左手を顔の前に立てて目を瞑り、義勇も同じように墓標に声をかける。

「俺たちが……皆が、繋いでいく」

花を揺らす風は彼のまだ慣れない短い後ろ髪を遊び、毛先でうなじをくすぐった。

「これからは呼吸の型を舞として継承していくらしい」

自分と同じ水の呼吸の使い手だった親友に、義勇は最近決まったばかりの沙汰を報告する。
舞としてそれぞれの型を継承していくことは産屋敷家の提案だったが、勿論誰も異を唱えることはなかった。
呼吸の型は、はじまりの日の呼吸の剣士から何百年と受け継がれてきた、鬼殺隊にとって何よりも大切なものだからだ。

「水の呼吸も、ずっと継承されていくだろう」

義勇は己の左手を見つめながら呟く。

「だが俺はもう利き腕で刀を振るうことができない」
「舞にも刀は使いますが、鬼と戦うわけではないので左腕でも良いのでは?」

すかさず問いかけたナマエに、義勇はあっけらかんと言い放つ。

「水の呼吸にはすごい剣士がいるから大丈夫だろう」
「え?でも炭治郎君には日の呼吸が……」
「炭治郎?」

てっきり同門である竈門炭治郎のことを指しているのかと思ったナマエは、義勇の意外な反応に首を傾げる。
すると義勇は、さも当然かのようにある男の名前を告げた。

「村田がいるだろう」
「村田君ですか!?」

確かに彼は水の呼吸を使う。
しかし、まさか義勇が村田に当代の舞の担い手を託そうとしているとは思わずナマエは驚嘆した。
舞の継承自体が決まったばかりのこととはいえ、もし本当に村田が選ばれているのであれば自分のところに報告と泣きつく内容の手紙の一つでも届きそうなものだと彼女は思案した。

「それって、本人はもう知ってるんですか?」
「近々話すつもりだが?」
「なるほど……卒倒しないと良いんですけど」

長い付き合いになる同期が泡を吹く姿を想像し、ナマエは心の中で彼に声援を送る。
それを知ってか知らずか義勇はまるで自分のことのように胸を張った。
怪我を負い動けなくなった炭治郎を村田に任せたのは、顔見知りだったこと以上にナマエからよく話を聞いていたことによるものなのだが。

「村田は良い奴だからな」
「確かにそうですね……一応、手紙を出しておきましょうか」

予め心の準備をさせておかないと流石に可哀想だと思い、ナマエは苦笑する。
すると義勇はナマエの手を取り首を横に振った。

「いや、手紙は俺が書こう」

ナマエはその手と義勇の顔を交互に見て、彼が存外真面目な表情をしていることに笑みを溢す。

「村田君は本当に良い人ですからね。私の良き友の一人です」

その言い草は明らかに、義勇がやきもちを焼く必要は無いと言いだけだ。
しかし彼本人は全く気がついていない。ナマエの真意も、自分が可愛い程度ではあるが同期に対して嫉妬心を抱いていることにも。

「そのうち同期で集まれたら良いですね。他にも、あの日『彼』に助けられた人は沢山いますし」

何せあの年の選別では『彼』を除いて全ての候補者が生き残り鬼殺隊に入隊したのだ。

ナマエは再び墓碑に向き直り、そこに掘られた名前をしげしげと見つめる。

「義勇さんがあなたのこともみんなに沢山話してくれますよ。みんなきっと、錆兎さんのことを知りたがっているから」
「ああ……そうだな」

錆兎という名が刻まれた石を、義勇は左手でそっと撫でた。

「今度は俺たちが守り、繋いでいくよ」

あの日お前が守ってくれたもの。繋いでくれたものを──。
そう付け加えて、彼は亡き友を偲んだ。

風が吹き、義勇の羽織を揺らす。
陽の光を受けた亀甲柄が、柔らかい風にふわりと靡いた。


暁に鳴く 肆拾


ふと思い出したようにナマエが口を開く。

「炭治郎君が教えてくれたんですけど、痣を持つ剣士の中にも長く生きた方がいたようです」 
それはかの炎柱・煉獄杏寿郎の弟が煉獄家に伝えられてきた書物を読み解き教えてくれたことらしい。
竈門兄妹は時折水柱邸へと顔を出しに来ては、義勇の身体のことを気遣ってくれていた。

「そうなのか……」

まだその身体に変化は無い。
義勇が一番近いとされているものの、明日にでも『期限』とされる二十五歳になるというわけでもなかったから。

「だが、そうだな」

義勇は立ち上がって隣を見下ろす。
どこまでも真摯な深い紺碧の瞳は、ナマエを映して僅かに和らげられた。

「生きる理由があれば、生きながらえる気もする」
「生きる理由、ですか」

同じく立ち上がったナマエは、ただ義勇の言葉を繰り返す。
彼が言わんとしている真意までは汲み取れず、ただ義勇が前向きな気持ちでいることには内心で安堵していた。

義勇はそっと手を伸ばし、向き直ったナマエの髪に触れる。
その手をするりと滑らせ、指先で彼女の頬に触れた。

「お前を理由にさせてほしい」

ナマエの瞳が、みるみる内に丸く大きく開かれていく。
頬に触れる指先は、心なしかいつもより熱を帯びていた。

「……重いか?」

「確かに、重くないとは言えないです。けど……それ以上に嬉しいです」

義勇の指に頬を擦り寄せたナマエは心地良さに目を閉じる。
以前は生きることに希望など持っていなかった彼が、余命数年となった今自分と共に生きることを理由に未来を見据えてくれていることはこの上なく幸せなことだった。

いつまでも悲観的なままではいられない。
煉獄千寿郎が読み解いてくれた『歴代炎柱の書』には、始まりの呼吸の使い手であった侍は齢二十五歳を超えて尚精力的に鬼狩りを続けたと記されていたのだという。

ナマエは義勇の指先にそっと手のひらを重ね、今は見えない彼の頬にあったはずの紋様に想いを馳せる。

あの時義勇に痣が浮かばなければ無惨には勝てなかったかもしれない。
それほどにも僅かな戦力の差で覆ってしまったであろうあの厳しい戦いを思えば、痣など出なければよかったのになどと簡単に考えることはできなかった。

しかしあの辛い日々は終焉を迎え、今はもう痣の力に頼る必要も無い。

「鬼は滅び、千年の時を経て遂に世が大きく変わりました。痣の理だって、もしかしたら……」

重ねられた手を握り返して引き寄せながら、義勇はナマエに歩み寄る。
トンと軽い音を立てて彼の胸に抱かれる形となったナマエがそこに耳をつけると、確かに今この時を生きているのだと分かる鼓動が聞こえてきた。

「不思議だな。ナマエといると希望が湧く」
いつの日からか共に生きたいと願った。その想いは実を結び、こうして寄り添い合うことが出来る。
「短くとも長くとも、この命が続く限り、俺は……」

──これからはお前と、俺自身のために生きたい。

穏やかな笑みを浮かべるナマエに口づけを落とし、義勇は彼女越しに佇む墓標を見る。
揺れる小さな花束の傍には、屈託なく笑う在りし日の親友の姿が見えた気がした。



それから半年の月日が経った。

「ああ、腫れてますね。痛かったでしょう」

小さな懐中電灯と金属の細い板を作業台に置き、ナマエは自分を見上げるつぶらな瞳に笑顔を向ける。
若菜色の羽根を広げ、小さなインコが身体を震わせた。

「薬を出しておきますから、餌に混ぜてください」
「分かりました。ありがとうございます、先生」

指に止まらせたインコを大事そうに撫で、飼い主の女性はナマエに頭を下げて薬を受け取り部屋から出て行った。

入れ替わりに部屋に入ってきたのは所謂書生服姿の義勇で、彼はすれ違う女性に会釈をし、彼女が持つ鳥籠の中を見遣る。

「義勇さん。今ちょうど午前の診察が終わりましたよ」
「懐かしいな」

机に向かったまま顔を向けて迎えるナマエの側まで来ると、義勇は彼女の手元にある書きかけのカルテを覗き込んだ。

「初めて会ったときの事を思い出した」

彼が言うのは、昔体調を崩した寛三郎をナマエのところに連れて行った日のことだ。

初めて会ったはずのナマエに不思議な感覚を覚えたのは、遠い過去の記憶を封じ込めていたせいだった。

「確かに、今の子はあの時の寛三郎と同じような症状でした」
「そうか。まあ、本当はあれが初めてではなかったわけだが」

同期であることはすぐに明かされたが、それでもあんなに懸命に付き添ってくれた彼女のことを覚えていなかった自分に呆れたりしたものだ。
義勇はそこまで思い返して、ふとあの日の帰り道のことを思い出す。

「お前に診てもらった日、寛三郎がやたらナマエを褒めていたな」
「え?そうなんですか?どうしてだろう……」

ナマエは窓の外に目を向け、風に葉を揺らす庭木の枝を眺める。
しかしそこに寛三郎の姿は無かったので、恐らく三統彦と共に屋根から街を見下ろしているか縁側で日向ぼっこをしているのだろうと考えた。

「あの時は何の気無しに聞いていたが、お前の言う通りだったな」

忘れないうちにとカルテの記入を再開したナマエがつらつらと綴っていく文字を目で追いながら、義勇は続ける。

「鴉は嘘をつかない」

それはあの日、ナマエが義勇に教えた彼女の信条だ。

「気立ての良い娘だと。あと、俺が話していて楽しそうに見えたと言われた」

カルテの一番最後に記名してナマエは万年筆を置く。
そして義勇を見上げると、彼の言葉を頭の中で反芻しはにかんだ。

「ね、だから言ったじゃないですか」

照れ隠しと分かるおどけた口調でナマエが返すと、目があった二人は耐えきれなくなって肩を震わせ笑い出す。
まさかあの寛三郎が初めから全て分かっていたとは思わないが、それでもあの日二人を引き合わせたのは他でもない義勇の相棒だった。

鎹鴉が告げたのは鬼の居ない夜明けの知らせだけではなかったらしい。
遠い日に分かたれたはずの二人の物語の新たな始まりは、彼らが共に愛する鴉によって動き始めたのだから。

「そういえば何か御用でしたか?」

仕事場に義勇が入ってくることはあまり多くないので、ナマエはふと気がつき首を傾げる。
首にかけた聴診器を外し壁掛け時計を確認すると、すでに時刻は午後一時を回ったところだった。

「あ、お昼ご飯のこと忘れていましたね!ごめんなさい。急患が立て続けに入ってきたのですっかり抜け落ちていました」

元々この屋敷は水柱の住処として用意されたものだったので、ナマエが仕事場として使っている部屋を除けば義勇とナマエ共有の場所である。
二人は基本的に食事を一緒に取ることにしているので、義勇は今日も午前診療が終わるのを待っていたのだ。

「構わない。それより旨い串焼き屋があるらしいから行かないか」
「良いですね!すぐに片付けます」

忙しなくカルテや薬の調合用品を整頓しはじめるナマエに、義勇は慌てなくて良いと声をかけ片付けを手伝い始める。
とはいえ細かいものの置き場所は分からないのでほとんど役には立たなかったのだが。

「でもどこで知ったんですか?串焼き屋さんなんて、私全然知りませんでした」
「不死川に教えてもらったんだ」
「不死川さんが!?お二人は結構やり取りしてたんですね?」

得意げな義勇に、ナマエは意外なことを知ったと驚いている。
二人は残った柱同士ではあるものの元々の性格からして馴れ合うような仲ではなかったからだ。

すると義勇はいつも通りの真顔で続ける。

「不死川は字が書けないから、手紙の代わりにあいつの鎹鴉が教えてくれたんだ」
「爽籟が?なるほど。ちょっと話が読めました」

恐らく爽籟は実弥が買ってきた串焼きが旨かったので、遊びに来たついでに義勇にその話をしたのだろう。

相変わらず鴉たちは暇を見つけてはナマエに会いにくるのだが、彼女が仕事をしている間は義勇がその相手をすることも少なくなかった。
彼は存外、昔から鴉に対しては友好的なのだ。

「人気の店らしいが多分この時間なら空いているだろう」
「そうですね。でもあんまりもたもたしていると遅くなってしまいます」

脱いだ白衣を椅子の背もたれにかけ、ナマエは義勇の隣に立つ。

「早く行きましょう。私もうお腹が空いちゃって」

それから彼女は義勇の手を取り、軽やかな足取りで玄関先に出る。

「三統彦!寛三郎!」 

外に出てから屋根の上に向かって声をかければ、すぐに二羽の鴉が顔を覗かせた。

「出掛ケンノカ?」
「お昼ご飯を食べてくるから、もし何かあれば呼んでくれる?」

「本当ノ急患ダケナ!後ハ待タセテオク」

頼もしいナマエの鎹鴉は、今でも彼女のかけがえのない相棒だ。
三統彦は義勇から行き先の店の場所を聞き、静かに見守っている寛三郎の隣に舞い戻る。
若い友人と並び、寛三郎が片羽を上げた。

「行ッテオイデ、義勇、ナマエ」
「ああ。行ってくる、寛三郎」

寛三郎に返事をする義勇の隣で、ナマエも屋根の上の寛三郎に手を振ってから扉の前に札を掛けた。

『急患は屋根上の鴉まで。冨岡獣医院』

見慣れた木札を満足そうに見下ろしてから、ナマエは先に歩き出した義勇の後を追った。

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