蝶屋敷の前まで来ると、義勇はこの後『先生』が訪ねてくるから迎えに行ってくると告げ出て行った。 ナマエは彼の荷物を纏めるため、一足先に義勇の病室へと向かう。 すると廊下の向こうから見覚えのある男が歩いてきたので、ナマエは彼がこちらに気がつくと同時に立ち止まって会釈した。 「退院おめでとうございます、風柱様」 「元だァ。お前ンとこの唐変木も同じだろォ」 義勇より先に鬼殺隊本部から蝶屋敷に戻ってきていた実弥は、そう言ってナマエの前で足を止める。 目が合い、決して笑いかけられはしないものの無碍に通り過ぎるわけでもない実弥にナマエは内心胸を撫で下ろした。 いくらあの戦いを経て関係性が少し変わったからと言って、実弥は元々義勇とあまり仲が良くなかったことを知っていたからだ。 ちなみにそんな噂があったことは、今でも義勇本人だけが知らない。 「あの時はありがとうございました。不死川様が言ってくださったこと、忘れません」 ナマエの脳裏に浮かび上がるのは、無惨との戦いの中で実弥がかけてくれた言葉だ。 実弥も彼女と言葉を交わしたことは殆どなかったので、ナマエが言っているのがいつのことなのかはすぐに分かった。 『さっきの風、悪く無かったぜェ』 実弥が言ったのはそんな一言だけだったが、同じ風の呼吸の使い手として、その最高峰である風柱が認めてくれたという事実はナマエを存分に勇気づけてくれた。 もう振るうことはないであろうけ剣技だが、積み重ねてきたものは確かにナマエの中に残っている。 「当代の風柱が貴方様であったこと、風の呼吸の隊士として本当に誇らしく思います」 誰よりも疾く、誰よりも鋭く。 暴風の如く戦場を駆け抜け鬼を斬ってきた最後の風柱は、真っ直ぐに見上げてくるナマエの視線から逃れるように明後日の方を向いた。 「よせェ。俺は戦うことしか知らねェからもう役目御免なんだァ。でも、お前は違うだろォ」 真っ直ぐな尊敬の視線を送られることはあまり得意ではなかったが、実弥は居心地の悪さを感じながらも決して無碍にすることはない。 ミョウジナマエという隊士について、無知という訳ではなかったからだ。 実弥も例に漏れず、鬼殺隊に入隊して以来の相棒から時折彼女の話は聞いていた。 「爽籟のこと、今までありがとなァ」 実弥の鎹鴉も他の柱の鴉たちと同様に、暇を出そうとも彼の側から決して離れようとしなかった。そんな相棒を育てた訓練士を見下ろし、実弥は鋭い眼差しを和らげる。 「あの子はこれからもお役に立ちましょう。これまで爽籟のことを可愛がって下さって、本当にありがとうございます」 ナマエが深々と頭を下げたので、実弥は顔を上げろとぶっきらぼうに言い放つ。 しかし言葉とは裏腹にくしゃりと笑い、歩き出すとナマエの肩をすれ違い様に叩いた。 「鴉じゃなくて、これからはあの唐変木をもっと教育してやれェ」 「風柱様……!?」 振り返りもせず向け去っていく『殺』の字に向け、ナマエは素っ頓狂な声を出す。 実弥と義勇の微妙な距離を知っていたので、遠回しではあるものの彼との仲を応援するようなことを言われると思わなかったのだ。 「不死川様も、よろしければ義勇さんと仲良くしてあげてください」 だがナマエが思わずかけた声は、鬱陶しそうな実弥の手に振り払われてしまった。 「あのおとぼけ野郎は俺の手にゃ負えねェ」 そう言って廊下の角を曲がっていった実弥の声は明るい。 触れる者全てを切り刻むような鋭さはなりを潜め、代わりに頬を撫でる空っ風のような心地よさがあった。 ナマエは誰もいなくなった廊下をしばらく見つめ、最後にもう一度頭を下げる。 たった二人生き残った元柱の片割れ。義勇と同様に痣者として生きていくこととなった実弥の足音が聞こえなくなるまで、ナマエはそこに立ち続けていた。 暁に鳴く 参拾玖 その後は蝶屋敷を発つまで怒涛の慌ただしさが続いた。 特筆すべきは義勇の育手である鱗滝左近次の来訪で、出会うなり天狗の面をつけた老人はナマエの手を取り固い握手を求めてきた。 「義勇をよろしく頼みます」 そう言って頭を下げたかつての水柱は、決して見せることのない仮面の下で自分の視界に薄い膜が張られていくのに気がつき頬を緩めた。 長い間心を閉ざしていた愛弟子がようやく前を向けるようになれたと聞いたのは少し前のことだ。 その一端を担った一人は例の不可解に話の内容が飛ぶ手紙に綴られていた人物であると思っていたが、義勇に紹介されたナマエがすぐにその女子だと分かり、鱗滝は熱くなる目頭を押さえることができなかった。 慌てて駆け寄りその背中に手を這わしたナマエと、見たことのない師の姿に驚く義勇。 二人に囲まれた鱗滝は、必ず近い内に狭霧山にも行くからという愛弟子の言葉もあって遂には天狗の面の下から大粒の涙を滴らせた。 「私も錆兎さんに助けられたんです。だから、お礼を言いに行かせてください」 そう語ったナマエに、鱗滝は大きく何度も頷き返す。 「ああ、待っておるよ」 命を賭して繋いだものが結びつき、未来を切り開いたことにはあの子もきっと喜ぶはずだ。 そんな思いを胸に秘め、鱗滝は泣きながら義勇とナマエの髪に手を伸ばしてくしゃりと撫でるのだった。 鱗滝がもう一人の愛弟子である炭治郎達の病室に向かった後、義勇はナマエと共にアオイから退院後の生活について指導を受けた。 既に片腕での生活に慣れるため蝶屋敷にいる間にも基本的な動作は練習していたので、話の内容といえば今後はもう無茶をするなという一点張りであった。 「もうここには常備薬の補充以外の目的で戻ってこないでくださいね!」と息巻くアオイに、義勇たちは確かにこの屋敷を取り仕切っていた女主人の面影を見たのだった。 怪我や体調不良が無ければここに来てはいけないという決まりはない。 むしろ彼女たちの手を煩わせることがない時に、若い女子が喜びそうなハイカラな手土産でも持って遊びに来ようと、診察室を出たナマエと義勇は話し合った。 病室に戻り、義勇は整頓された部屋と敷布団が畳まれたベッドを眺める。 このほとんどはナマエがしてくれたもので、彼はというとせいぜい着替えの類を畳んで旅行鞄に突っ込んだぐらいであった。 殺風景な部屋には、換気のために開け放たれた窓から心地よい風が吹き込んでくる。 「ようやくご自宅に帰れますね」 「ああ。何ヶ月ぶりだ……?」 確か最後に自宅を発ったのは実弥と手合わせをし、炭治郎が割って入ってきた日だったと義勇は回想する。 手合わせはうやむやに終わったが、不死川実弥の好物がおはぎであるということが分かったのもこの時のことだった。 そしてその日の夜産屋敷家が当主によって爆破され、無惨との最終決戦に雪崩れ込んだのだ。 思い返せば、もう大分昔のことのようである。 「義勇さんのお宅は隠の方たちが掃除をしてくれたと聞きました。私も行けたらと思ったのですが、皆さん義勇さんに救われたから今回は自分たちだけで恩返しをしたいと」 その話を聞いた時胸に浮かんだ温かい気持ち思い出し、ナマエはにこにこと笑いながら荷物を手に取る。義勇は自分で持てると言い張ったが病み上がりの身。 ナマエは自分も身体を鍛えていたのだから気にすることはないと鞄を譲らなかった。 「帰ってすぐ大掃除することにならなくて良かったですね」 「そうだったんだな。助かった」 「今までがあったからこそですよ」 決して愛想は良くなかったものの、義勇の任務に向き合う真摯な姿勢を見てきた隠たちだからこそ彼を敬愛していたのだ。 義勇は心の中で隠たちに感謝し、それから改めて自邸の姿形を想像する。 自分にはこの狭い病室でちょうど良いくらいだと思い始めて、もう何日も経っていた。 忘れ物が無いかどうか点検し、さあ出ましょうとナマエが振り返る。 すると部屋の入り口の前で立っていた義勇が予想外に真摯な表情で見つめてくるので、彼女は立ち止まるしかなかった。 「ナマエ」 口を真一文字に結んでいた義勇が決心したように名前を呼ぶ。 自然と、呼ばれた方も背筋を正した。 「一緒に、暮らしてくれないか」 夜明け前の湖畔の水面のような瞳が、わずかに揺れる。 緊張の面持ちを隠すことも出来ないでいる義勇は、それでも視線を逸らさずナマエを見据えた。 「お前が居なくなって、家が寂しくなった」 とっくに思い出となってしまったあの日々は、今思えば義勇にとって掛け替えの無い大切な時間だった。 鬼殺の任務から無事に帰ることの尊さや、僅かながらに与えられた日常の穏やかさを肌身で感じることが出来たのは、他でも無いナマエのおかげだった。 「寛三郎も喜ぶ」 「……断る理由が見当たりません」 駄目押しの一言によって決めたわけではないものの、ナマエは窓の外からこちらの様子を伺っている二羽の鴉の姿を認めて笑う。 そして彼女も、三統彦は「爺サント同居カヨ」なんて言いながらきっと内心では喜んで受け入れてくれるだろうと考えた。 事実、後からこのことを聞かされた三統彦は「仕方ネェ。コレカラハ暇ダカラ、話シ相手グライニハナッテヤル」と苦笑するのだった。 「しばらくの間は鴉たちの世話をしに行き来するとは思いますが」 全ての鴉たちを巣立たせるまでにはまだ少しかかりそうだ。 しかし幸いなことにナマエも義勇もそんな生活には慣れていた。 ひょんなことから義勇が申し出てくれて始まったあの奇妙な同居生活が、月日を経て再開されるとはあの頃にはまだ互いに思いもしなかったことだ。 「是非、よろしくお願いします」 義勇の鞄を抱えてナマエが頭を下げる。 彼女が頭を上げると、柔らかく微笑んだ義勇と目が合った。 「お前の夢も叶えられるだろう」 何せあの家は広い。 義勇一人と寛三郎一羽では広すぎるくらいに。 今までのように鍛錬に使うことも無くなっていくであろう道場も、ナマエならば有効に使うことができるだろうと義勇は考えていた。 その時、義勇に言われたことでぼんやりと将来の像を思い描いていたナマエがあっと小さな声をあげる。 「けど冨岡さんって、あまり動物がお好きじゃないのでは?」 「まあ……そうだな」 幼い頃犬に噛まれてからどうにも苦手意識があった。 とは言え触れないわけではないし、近くにいれば構いたいと思うこともある。何より今の彼には、心強い味方がいるのだから。 「お前がいれば大丈夫だ」 自然と告げられた言葉に、ナマエは目を丸くしたもののすぐに笑顔に変わる。 飾らない言葉だからこそ、義勇の言霊には不思議な力があるとナマエは常々感じていた。 「では、まずはカラスからですね」 鳥類なら私も少し知識がありますし、と続けたナマエに義勇が大きく頷いてみせる。 「それなら得意だ」 そう言い放って胸を張る義勇が可笑しくて、ナマエは蝶屋敷の廊下に漏れ聞こえるほど声をあげて笑った。 [back] ×
|