真っ暗な闇の中、それまで無音だったはずの空間に微かな声が聞こえてくる。 辺りにはほのかな光が差し、どこか聞き覚えのある声が響き渡った。 しかし、その声が何と言っているかまでは聞き取れない。 彼はまるで、朧月が照らす夜の真ん中にいるような気持ちだった。 (誰だ?母さんか?いや、姉さん?) 義勇はふと、額にぬくもりを感じて目を閉じる。 目を開けていても暗闇ばかりで、瞑っていた方がまだ少し落ち着く気がした。 (いや、違うな。この声と手のひらの感触は……) 母や姉のものではない。 聞き慣れた、心を落ち着かせてくれるものという点では同じだったが、それ以外に浮かぶ感情は家族に対するものと少し違っていた。 その心地良さに、再び彼の意識は微睡の海へと揺蕩っていく。 ずっとこうしているのもまた幸せなのだろう。 そう感じつつも、ずっとこのままでは嫌だという感情も湧いてくる。 もっとこの声が紡ぐ言葉を間近で聞き、この手に自ら触れたい。 そう思いながらも微睡には抗えず、義勇は再び底知れぬ暗闇へと沈んでいった。 暁に鳴く 参拾肆 抜け落ちた鳥の羽根が舞い散る中、ナマエは血飛沫を浴びながら呆然と迫りくる影を見上げる。 目の前に振りかざされた鋭い爪には、もう家族の誰のものとも分からなくなった血に染まる着物の破れた布地が絡まっていた。 この場は生まれ育った我が家と思えないほどに荒らし尽くされ、足元に広がる血溜まりは辺りに転がる家族だったはずの塊から止めどなく流れる血に繋がる。 臭いは、最早するのかどうかすら分からなくなっていた。 遂に最後に残った自分も死ぬのだろうと、ナマエは最早涙が枯れ果てた瞳を固く瞑る。 だが、彼女が痛みを感じることはなかった。 「ギャァァァァァ!」 腹の底から身体中を震え上がらせるような悍ましい叫び声が響き、ナマエは硬く瞑った目を僅かに開ける。 すると彼女に襲いかかろうとした異形の者は、顔を掻きむしりながら悶絶しているではないか。 「オノレェェェェェ!」 足元にはナマエが可愛がっていた一羽の鳥が 翼を折られて蹲っていた。 その色は、媚茶色と灰色、それから白が混じっている。 庇ってくれたのだと、ナマエは一瞬にして悟った。雛の頃から側にいた、彼女にとって姉弟のような大鷹だった。 枯れたはずの涙が、堰を切ったように溢れ出てくる。 一方で顔を歪めて叫ぶ異形は、目から血を流していた。 しかし攻撃の手は止まってはくれず、またしても長い爪の光る手が振り上げられる。 (ああ、もうすぐまたみんなに会える) 今度こそとナマエが死を覚悟した瞬間、どこからともなく激しい風が吹いてきて、辺りに散った鷹の羽が舞い上がった。 「玖ノ型、韋駄天台風!」 「ガアアアアアアアアアアアッ!」 ナマエが刮目し瞬きの一つも出来ないでいる間に、突風を伴って現れた人物は深碧色の刀身を薙ぎ払う。 凄まじい断末魔が上がったかと思えば、ごとりと音をたててうねった角の生える頭から床に落ちた。 現れた剣士が刀を鞘に収める。 鍔の音が鳴ると同時に、落ちた首もその首があったはずの胴体も、脆く崩れ去って塵となった。 (私だけ……生き残ったの?) 「生きるんだ。生きて、風のように駆け抜けろ」 剣士が振り返り、座り込んだナマエに手を差し伸べる。 「憎むべきのは鬼だ。生き残った自分自身じゃない」 そう言い放った剣士は、俯いたままのナマエが考えていることが分かったのだろう。 しかしナマエがその顔を見上げようとした瞬間、急に景色が速巻きになりぐにゃりと歪んだ。 (あれ?どうして……) あの時自分は差し出された手を掴んだはず。 一人だけのうのうと生きることに迷いもしたが、叱咤し剣士への道を示してくれたこの恩人のことを忘れるはずがない。 ナマエはそう思案し、ようやくこれが過去の記憶だと理解する。 ということは夢でも見ているのだろうかと、途切れ途切れに浮かぶ情景に目を凝らした。 異形の者は『鬼』と呼ばれており、助けてくれた剣士は『鬼殺隊』と呼ばれる組織の『柱』という階級に就く歴戦の勇士だった。 当時の風柱は天涯孤独となったナマエにこの先の人生への希望を問うたが、全てを失ったナマエは命を助けてくれた鬼殺隊に恩を返したいと答えた。 厳しい道であることは諭されたが、それでもナマエは自分に少しでも役立てる場所があるならと譲らなかった。 なので風柱は知り合いの育手に知らせを送り、ナマエを鬼殺の剣士に育て上げるよう頼んでくれたのだった。 それからは血反吐を吐くような鍛錬の日々が続いたが、それでもナマエは剣を振り続けた。他に帰る場所もなく、鬼への恨みだけが生きる原動力であった。 育手は厳しくも優しくナマエを見守ってくれたので、彼女は折れることなく無事に風の呼吸を習得し藤襲山の選別を受けるまでに至ったのである。 藤の花が狂い咲く山に足を踏み入れたのは、朧月が淡い光を放つ静かな夜だった。 満を持して挑んだはずではあったが、試練は早々に訪れる。 鬼と対峙している最中に、もう一匹別の鬼が横から飛び込んできてナマエを弾き飛ばしたのだ。 地面に叩きつけられ刀を手から離してしまったナマエは、人生で二度目の死の覚悟する瞬間を迎える。 しかしその時、ナマエの目の前に白い羽織がはためいた。 袖の下から覗く着物は、梔子色や花萌葱色が散らされた亀甲柄だ。 狐面を被ったその剣士が、華麗な身のこなしと流麗な剣技で鬼に斬りかかる。 青く光る刀身からは水飛沫が沸き起こり、地面に這いつくばったナマエは目を見開いた。 (なんて美しい水の軌道……) そして、ナマエはその水飛沫に見覚えがあることに気がつく。 だが思考に靄がかかったように、それが誰のものであったかすぐには思い出せなかった。 二体の鬼はあっという間に崩れさり、ナマエの前に降り立った狐面の剣士が横目で見下ろしてくる。 「あ、ありがとう」 身体を起こしながらナマエはなんとか礼を述べるも、このあと彼がすぐに立ち去ってしまうことは「知っている」。 何故ならこれはまたしてもナマエの過去に起こった事柄だから。 彼女の遠い記憶の中では、白い羽織を靡かせた少年は無言のまま闇夜に消えていってしまうのだ。 しかしナマエの予想とは違い、少年は顔につけた狐面に手を伸ばした。 ゆっくりと外された面の下からは、頬に入った大きな傷跡が覗く。 そうして、遂に仮面の下の素顔が全貌を表した。 「あなたは……」 驚き目を見張るナマエを、宍色の髪を夜風に靡かせたその少年が見つめる。 彼は僅かに眉根を下げ、悲しそうにも困ったようにも見えるどこか憂いを帯びた笑みを浮かべた。 「頼んだからな」 「なに、を……?」 しかし、ナマエの問いに彼が答えることはない。 少年は再び狐面をつけると、今度こそ颯爽と木々の合間を縫って走り去ってしまった。 (待って!錆兎さんっ!) 名前を名乗られはしなかった。 だが、ナマエは勿論彼の名前を知っている。 だからそう叫んだはずだったが、その言葉が音になることはない。 そしてまたしても景色が歪んだかと思えば、その後の出来事は瞬きする間に過ぎていってしまった。 ようやく景色が定まると、ナマエの目の前で一人の少年が俯いている。 赤錆色の着物を纏った背中は丸く、その少年はずっと布団の上で身体を縮こまらせていた。 共にこの場に居たはずのもう一人の少年は、食事を取るため少し前から席を外している。 献身的に付き添っていた彼の代わりに、今はナマエが赤錆色の着物の少年の側についていた。 目を離せば、彼がどこかへ行ってしまいそうだとナマエたちは考えたのだ。 ちょうど場面はナマエが軟膏を指に取り、俯き続ける少年の頬に手を伸ばしたところだった。 まだ塞がりきっていない瘡蓋に手を伸ばし、ゆっくりと軟膏を乗せる。 その指先は、ナマエ自身が見知った大人としての自分のものより随分と細く短かった。 「はやく良くなりますように」 傷が痛まないよう、そっと薬を伸していく。 しかし少年は無言のまま、膝元に置いた拳を強く握りしめるだけだった。 ナマエは手を引いてから、彼にどう声をかけてやるのが良いか分からず悲しげに顔を歪める。 (そうだ。この時はまだ私も未熟で、なんて言ってあげれば良いのか分からなかった) しかし、今は違う。 (今なら、この時のあなたの苦しみや悲しみがどれだけのものだったか分かるから) 気がつくと、視線は随分と高くなっていた。 下を向くと映り込んだ自身の手は先ほどよりも大きく、よく見知ったものと寸分も変わりもない。 ナマエは両腕を広げ、丸くなっている背中をそっと包み込んだ。 「大丈夫だよ。生きて、良いんだよ」 抱きしめた小さな身体は熱を帯びており、目の前にある彼の頭に巻かれた包帯は痛々しい。 「けどまた俺だけ生き残って……っ」 ナマエの記憶の中でも、確かに彼はそう言って泣いていた。 だが記憶と違うのは、今その彼をナマエが抱きしめているということ。 「でもそんなあなたが生きてくれたお陰で、沢山の人の命が明日へと繋がれたんだよ」 あの時はそんな言葉をかけてやることすら出来なかった。 しかし今なら──と、ナマエは一人自責の念に身を焼かれる少年、冨岡義勇の長い黒髪を優しく撫でる。 「あなたは一人じゃないよ」 驚き息を呑んだ少年は、それでもナマエの腕を解くようなことはしなかった。 「大人になったあなたの周りには、あなたを待っている人が沢山いるから」 勿論、私も。 そう続けたナマエは、ようやく泣き止んだ少年の身体をもう一度抱き締めた。 「だから、待ってるね……義勇さん」 ナマエには、腕の中の少年が小さく頷いてくれたような気がしていた。 [back] ×
|