禰󠄀豆子は走っていた。
自我を取り戻してからはそれまでとは比べ物にならないほど身体が重く、走る速度は遅くなっている。
舗装されていない小石が転がる畦道を駆け続けた足は痛み、これほどまでに全力疾走し続けたことが無い彼女の肺は悲鳴をあげていた。

それでも禰󠄀豆子は止まらない。
彼女の兄で、今では唯一となってしまった肉親の炭治郎に呼ばれているからだ。
どれだけ離れていても、確かにその声は禰󠄀豆子に届いていた。

──ただ、一緒に帰りたい。

炭治郎の願いは、兄妹が育った我が家に二人で帰りたいというささやかなものだ。
かつて雪の日に無惨に家族を殺され、禰󠄀豆子が鬼にされてからというものそんな些細や夢すら叶わず今日という日を迎えた彼ら。
だからこそ、禰󠄀豆子は痛む足に鞭打って走り続ける。

しかし、気合だけで長時間全力疾走し続けられる人間などいない。
ふらつきながら走っていた禰󠄀豆子は、やがて小さな小石に躓き遂に転んでしまった。
砂利に塗れ、打ちつけた膝がじんじんと痛む。
それでも禰󠄀豆子は必死に顔を上げた。

「お兄ちゃん、待っててね……!」

すると道の向こうから走ってくる人影が見えてくる。
禰󠄀豆子が目を凝らすと、それは黒い羽織を靡かせる女だということが分かった。

「禰󠄀豆子ジャ!ナマエ、禰󠄀豆子ガオルゾ!」

黒い羽織の女の頭上を飛ぶ鴉に名を呼ばれ、禰󠄀豆子は驚き起き上がることも忘れて彼らの姿を凝視する。
ようやく目の前までやってくると、女の方が禰󠄀豆子の前に屈み込んだ。

「竈門禰󠄀豆子さんね?私は鬼殺隊の
ミョウジナマエ」
「ミョウジナマエ、さん?」

聞き覚えの無い名に禰󠄀豆子が首を傾げると、その隣に舞い降りた鴉が一歩前に出た。

「ワシハ冨岡義勇ノ鎹鴉ジャ」
「冨岡義勇……あ、義勇さんって、鱗滝さんの!」

禰󠄀豆子は鬼になっていた間の記憶が曖昧ではあったが、それでも鬼になってすぐの頃義勇と対峙したことは朧げに覚えている。
更には鱗滝から何度も彼の愛弟子の話を聞いていたので、その名は信頼のおける人物のものだと分かっていたのだ。

「炭治郎ガ待ッテオルヨ」
「お兄ちゃんの居場所、分かるんですね!?」

禰󠄀豆子は寛三郎とナマエの顔を交互に見て、縋るような気持ちでナマエの羽織の裾を掴む。
そこは羽織の布地とは思えないほど硬く、握りしめた禰󠄀豆子の手からは乾いた血の塊がポロポロと剥がれ落ちた。

「危険な状態だと思う。一刻も早く、一緒に行きましょう!」

深刻な表情のナマエ自身も傷だらけで、禰󠄀豆子はこれから向かう先で起こっているであろう事態を想像する。
しかし、何が待ち受けていようとも兄の元へ向かわねばならないという気持ちは変わらなかった。

ナマエの手を借りて立ち上がった禰󠄀豆子は、土埃で汚れた着物の裾を払う。
するとナマエが彼女の前に背中を見せてしゃがみ込んだ。

「乗って?足、痛むでしょう」

しかし禰󠄀豆子はナマエの横に立ち、今度は逆に自分が手を差し伸べる側となった。

「まだ走れます。それに、ナマエさんだって怪我されてますよね?」
「私は訓練を受けてるから平気だよ」
「自分の足で向かいたいんです。お兄ちゃんのところへ」

そう言ってから禰󠄀豆子は数歩だけ駆けてみせる。
振り向いた彼女の瞳に浮かぶ意志の強さを感じ、ナマエはかつて鎹鴉選定の命令書に書かれていた炭治郎の評価を思い出した。

「さすが、兄妹なんだね」

なんと真っ直ぐで意志のしっかりとした子供達なのだろうか。
いつか言葉を交わした炭治郎の姿を思い描きながら、ナマエは禰󠄀豆子を先導するため走り出した。


暁に鳴く 参拾弐


「あっミョウジさん!ってまさか!?」

市街地の街並みが見えてくると、ナマエと顔見知りの隠が駆けてきた。
彼はナマエの後ろについてきた禰󠄀豆子を見て目を丸くする。

「状況は?」

鎹鴉たちがつけていた愈史郎の『目』は血鬼術で出来ていたため、陽光に晒され既に消えてしまった。
寛三郎が首から下げていたものも同様だったので、ナマエは鬼殺隊が太陽の元歓声を上げていたことだけしか分からないでいた。

しかし禰󠄀豆子に気がついて駆けつけた隠たちは皆逼迫した様子だ。
決して無惨の死に歓喜しているようには見えなかった。

「それが大変なことになっていて!」
「炭治郎がまるで鬼みたいになっちゃったんです!」
「もう日が出てるのに!」

涙を流しながら口々に現状を報告する隠たち。
ナマエと禰󠄀豆子は顔を見合わせ、一刻でも早く炭治郎の元へ向かうため走り出した。

「お兄ちゃん待ってて!今行くから!」

炭治郎の居場所を案内するためナマエたちを誘導すのは古株の隠だったが、彼も焦りを隠せない様子だ。

「今は水柱様たちが必死で食い止めようとしてるんだ」
「義勇さんが……」

ナマエはそれを聞き苦しさで胸がいっぱいになった。
恐らく無惨の仕業で炭治郎が鬼にされてしまったであろうことは想像に容易い。
そんな炭治郎を止めるために兄弟子の義勇が剣を取ることも容易に想像できたが、そんな彼の心中を推し量ればこれ以上辛いことはないだろうとさえ思える。

「寛三郎はここで待ってて!」
「気ヲツケルンジャゾ……!」

年老いた寛三郎を連れていくのは危険だと判断し、ナマエは彼に別れを告げる。
寛三郎にとっても訓練士の命令は絶対なので、彼はナマエを送り出すためカァカァとひと鳴きした。
すると呼応するように周囲にいた鎹鴉たちも声を上げ、ナマエたちは背中を押されたような気持ちになり勇気づけられたのだった。


「ミョウジさん、竈門妹!炭治郎はこっちだ!」

隠の案内を受け、ナマエと禰󠄀豆子は間も無く市街地の中心に辿り着く。
開けた場所に出た途端、その一角で戦いを繰り広げる隊士たちが見えた。

「半々羽織だぞ!仲間だぞ!」

猪の頭を被った隊士が叫んでいる。
彼の後ろに這い蹲る片身替わりの羽織が目に入り、ナマエは目を見開いた。

「炭治郎!」

更に向こう側からは明るい髪色の隊士が隠に支えられながらも声を張り上げている。
それはナマエも見知った顔で、無限城で上弦の陸を退けた我妻善逸であった。

善逸の視線の先、猪頭を被った嘴平伊之助が剣を向けている相手こそが炭治郎だ。
しかし彼の眼光は鋭く、瞳孔は無惨を始めとする鬼と同様縦に伸びている。
そして口からは、確かに牙が覗いていた。

「お兄ちゃん!」
「あっ、駄目よ禰󠄀豆子さん危ない!」

兄の姿を見つけた禰󠄀豆子は残る力を振り絞ってがむしゃらに炭治郎の元へと向かう。
ナマエが彼女を止めようと伸ばした腕は空を切り、体の平衡を失った彼女は転ばないようその場に踏みとどまった。
禰󠄀豆子の声にも気づかず、炭治郎は今にも伊之助に襲い掛からんとしている。

「禰󠄀豆子さんっ!」

ナマエだけではなく、後ろからついてきていた隠たちも皆が彼女の名前を叫んだ。
そして地面に這い蹲る義勇も隠の手を借り辛うじて立っている善逸も、炭治郎の爪先が眼前に迫った伊之助すら誰もが一瞬時が止まったかのように、駆け抜ける桃色の着物を捉えて刮目する。

「お兄ちゃん……っ、ごめんね」

炭治郎が向かい合った伊之助に鋭い爪を立て飛び掛かろうとした瞬間、二人の合間に割って入った禰󠄀豆子が兄に抱きついた。

必死で炭治郎に呼びかける禰󠄀豆子。
彼女はこれまでずっと守ってくれていた兄に、鬼になどならないで一緒に家に帰ろうと語りかける。
それでも炭治郎は自我を取り戻すことはなく、咆哮しながら彼を止めようとする仲間たちを振り払うように衝撃波を放った。

何とか炭治郎を離すまいと縋り付く禰󠄀豆子に、炭治郎の鋭い牙が刺さる。
禰󠄀豆子からは血が流れ、その場にいた誰もが絶望に打ちひしがれた。
せめて、人を殺す前に炭治郎を殺さねばならない。
炭治郎が鬼として目覚めてからずっと彼を止めるために刃を向け続けてきた義勇はそう決意し息を吸い込む。

「水の呼吸、肆ノ型……打ち潮!」

義勇の刃が、すんでのところで善逸に向けられた攻撃を逸らした。
それでも、片腕な上満身創痍の彼にはとても炭治郎に深傷を負わせることなど出来そうにない。

「誰も殺さないで!お兄ちゃん!」

人の血の味を知り、一層鬼の本能を目覚めさせていく炭治郎の眼前に禰󠄀豆子が手を翳した。
炭治郎はその腕にも牙を立て、彼の隊服までもが妹の血で染まっていく。

その一方で、必死で攻撃を繰り出す義勇には一つの疑問が浮かんでいた。
炭治郎はすぐにでも禰󠄀豆子を食い殺すことが出来るはずなのに、彼がその衝動に抗っているように見えたからだ。

もし、あの日の禰󠄀豆子と同じならば。
そして何とか炭治郎の自我を取り戻すことができれば──。

そう思いながらもどうするべきか分からず、義勇はひたすらに向けられる攻撃の手をかわすことしか出来ないでいた。
炭治郎は無惨と同様に、背中から生えた伸縮する腕のようなものを鞭のようにしならせる。

次の瞬間、手当てを受ける暇もなく長時間動き続けた義勇が失血により僅かに足元をふらつかせた。
目の前まで炭治郎の攻撃が迫り来るも義勇には身構える余裕はない。
彼が弟弟子による死を覚悟したその時、伸びてくる鋭利な腕が翡翠の煌めきとぶつかり合った。

鋭い金属音が鳴り響き、何が起こったのか分からず驚いた義勇の眼前にはためくのは黒い羽織。
しかしそれも刹那のことで、炭治郎が腕を振り上げた衝撃で黒づくめの身体が宙を舞った。

「……ナマエ!?」

砂利を散らしながら勢いよく地面に叩きつけられるナマエ。
彼女の髪から滑り落ちた菫青石の髪留めが、義勇の目の前まで転げてきた。

「ナマエ!しっかりしろっ!」

義勇は慌てて髪留めを拾うと、なんとか立ち上がり彼女の元へと駆け寄る。 彼は目を閉じ呻き声を上げるナマエの前に立ちはだかり、睨みつけてくる炭治郎に刃を向けた。

「炭治郎、目を覚ませ!」

しかし炭治郎から返ってくるのは人のものではない悍ましい唸り声だけ。
気を失っているナマエを攻撃させないよう、炭治郎が腕を振りかぶるよりも速く義勇は日輪刀を薙ぎ払った。

義勇の繰り出した波飛沫をかわし、炭治郎が間合いを取る。
その間も禰󠄀豆子は兄の身体にしがみついたまま、決死の思いで彼を食い止めようとしていた。

と、そこへ割って入ってきたのは義勇にも見覚えがある少女だ。

栗花落カナヲ。
蟲柱・胡蝶しのぶの継子であり炭治郎と同期入隊の彼女は、花の呼吸を使う剣士である。
卓越した視神経を持つカナヲは、その眼を赤く染め上げながら極限まで動体視力を上げる技を使っていた。

しのぶからカナヲに託されていた鬼を人間に戻す薬は残り一つ。
義勇へ意識を向けている炭治郎の懐へと飛び込んだカナヲが、攻撃の合間を縫ってその薬を彼の身体に打ち込んだ。

相討ちとなったカナヲが血を流しながら地面に転げ落ちる。
しかし、炭治郎が追い討ちをかけることはなかった。

どさりと音を立て、炭治郎がその場に倒れる。
そこへ解放された禰󠄀豆子と義勇、建物の影で固唾を飲んで彼らを見守っていた隠たちが駆け寄ってきた。
軽症の隊士たちや、彼らに支えられた善逸や伊之助も遅れてその輪に加わる。
その中には意識を取り戻したナマエの姿もあった。

「禰󠄀豆子さん!」
「ナマエさん!お兄ちゃん、きっと今戦ってるんです……!」

善逸と挟み込むようにして禰󠄀豆子の横に寄り添い、ナマエは固く眼を閉ざした炭治郎の顔を覗き込む。
苦しげに歪められた眉や口元から、彼が今薬の力を借りて無惨の残穢と闘っていることが窺えた。

「炭治郎、負けるな……!」

ナマエの向かい側に座り込んだ義勇が炭治郎の胸に左手を当てる。
確かに伝わってくる鼓動に僅かな希望を見出し、義勇はなんとか彼の意識を取り戻そうと炭治郎に語りかけた。

「禰󠄀豆子も、我妻も、嘴平も、お前を待っている……」

決して多くを語ることが得意ではない彼だったが、師を同じくした大切な弟弟子を失うまいと懸命に呼び続ける。

「ナマエも……、俺だって……っ!だから無惨に打ち勝て!炭治郎、戻って来い!」
「炭治郎!禰󠄀豆子ちゃんだって人間に戻ったんだ!絶対負けるな!」
「子分が親分を先置いて死ぬんじゃねえっ!俺たちはお前の夢の中にはいねぇんだ!お前の帰る場所はこっちだ炭治郎!」

義勇に続けて善逸と伊之助も泣きながら呼びかける。
ナマエも頬を伝う涙を拭いもせず、禰󠄀豆子の背中に腕を回す。
そんなナマエの肩には、ずっとこの場を見守りながら近づくことが出来なかった炭治郎の鎹鴉が舞い降りてきた。

「炭治郎くん、松右衛門も待ってるよ。帰っておいで」
「オイ!ナマエガ呼ンデルンタカラ起キヤガレ……ッ」

漆黒の羽毛に涙が染み込むことも厭わず、松右衛門はナマエの頬に頭を擦り付ける。
そこに自分の涙も混ざっていることに、松右衛門自身は気が付いていなかった。

「お兄ちゃんっ!」

禰󠄀豆子の瞳から、炭治郎の顔に大粒の涙が落ちる。

「帰ろう、うちに帰ろう……」

その時、この場にあるはずのない藤の花の香りを誰もが感じ取る。
一瞬だけ風に乗って香ってきたそれが去った後、遂に炭治郎がゆっくりと目を開けた。

「お兄ちゃん」

炭治郎の瞳に、泣き腫らした妹の顔が映り込む。
先程はまるで明るみの中にいる猫のように細長かった瞳孔は、元通りに戻っていた。

虚ろな意識の中でも自分の行いを認識していた炭治郎は、自分自身も涙を流しながら禰󠄀豆子に語りかける。

「ごめん……怪我……、大丈夫か」

刹那の静寂のあと炭治郎を囲っていた隊士や隠たちがどよめき、そして口々に歓声をあげた。
彼が人間に戻ったことにこの場にいるすべての者たちが喜び、そして今度こそ本当に無惨を葬り去ったのだと確信する。

ふと、ナマエは炭治郎を挟んで向かい側にいる義勇を見遣った。
すると安堵の溜息をついていた彼も、彼女の視線に気づいて顔を上げる。

目が合い、互いの健闘と生還を視線だけで称え合った二人は共に隠から手当てを受けているので動くことはできない。
だが血と涙に塗れ見たこともないほど汚れた互いの顔に気づき、可笑しさが込み上げてきた彼らは同時に笑みを零したのだった。

しかし目の前で笑う愛しい女の名を呼ぼうとした瞬間、義勇はプツリと周りの音が途絶えたように感じ、その視界は一気に暗転する。

「義勇さんっ!」

無音になった真っ暗闇の中でも、不思議とその声だけが心地良く彼の頭に響き渡った。

──心配するな、ナマエ。お前を泣かせないと、俺は三統彦と約束したんだ。

隠の抑制を振り払って立ち上がり、倒れ込む義勇の身体を受け止めに駆け寄るナマエ。
その温もりを感じながら、夜通し誰よりも前線で戦い続けた男はゆっくりと意識を手放したのだった。

 
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