義勇が対峙している鬼舞辻無惨は、鬼の始祖というだけあり圧倒的な強さを誇っていた。
これまで対峙してきたどんな鬼よりも、それこそ少し前に戦った猗窩座とも比べ物にならない。
更には、小芭内と蜜璃が残っていた上弦によって殺されてしまったという衝撃的な事実が無惨の口から語られたばかりだった。

残る柱はあと三人。
しかし鬼殺隊は大幅に削がれてしまった戦力で無惨を地上に引き摺り出し、朝まで留め置かなければならない。
この機会を逃せれば、今代での無惨討伐は不可能になってしまうだろうと誰もが感じていた。

二対一と数では勝っていても義勇と炭治郎は無惨に押され続けている。
そして二人の立ち位置は分断され、遂に炭治郎の方が追い詰められてしまった。
壁に激突しふらついた炭治郎目掛けて無惨の伸縮する腕が迫る。

「炭治郎ーーーっ!」

義勇は渾身の想いで叫ぶも炭治郎の元へは間に合わない。
だが絶体絶命というまさにその瞬間、無惨の背後に躍り出た桃色の影があった。


暁に鳴く 弐拾玖


「やめなさいよーっ!」

無惨に攻撃を繰り出しながら飛び込んできたのは、なんと恋柱の甘露寺蜜璃だった。
死んだはずの彼女の登場に目を見張る義勇の視界に、炭治郎を抱える蛇柱・伊黒小芭内の姿が映り込んだ。

そして更に驚くべきことにその傍らには、鎹鴉を肩に乗せ翡翠の刀を構える女隊士の姿があった。

「ナマエ!?」
「……義勇さん!」

一瞬だけ視線がかち合う。
目の奥が熱くなり、互いに今すぐ駆け寄りたい衝動を抑えていた。

しかし義勇の頬に浮かぶ痣を見つけ、驚いたナマエは刮目する。
彼女の反応に気がついた義勇は一度目を伏せたが、すぐにナマエを見つめ直した。
その瞳に込められた強い決意と彼の命運を思ってナマエが眉を下げると、義勇は彼女に向けて小さく頷いてみせる。

──心配するな。

言葉にせずとも伝わってくる想いを受け止め、やがてナマエも決心したように頷き返す。
それから二人は共に無惨を見据えた。

時間にして、僅か数秒の出来事だ。
念願叶った再開とはいえ感動に打ちひしがられている場合ではない。
柱二人の登場に無惨の気が逸れたとはいえ、今この場では僅かな気の緩みも命取りなのだ。

「何をしている!鳴女!」

苛立った様子の無惨が部下の名を叫ぶ。
彼には、確かに上弦の肆・鳴女から蛇柱と恋柱を殺したという情景が送られてきていた。
しかし目の前に現れた存命の二人に状況の理解が追いついていない。
そしてこの無限城を操る鳴女に呼びかけるも、彼女からの返答は無かった。

この間も何度か弾かれる琵琶の弦。
その音に合わせて無惨達の足場が次々と変わっていく。
隊士達は皆迫りくる移動圧に耐えながら無惨との距離を保っていた。

無惨が鳴女と意思疎通が上手く出来ないのにも、城の中がこれほどにも移動するのにも訳がある。
それは鳴女の脳を愈史郎が操っているからだった。
だからこそ無惨には偽の映像を見せ、柱二人が死んだと見せかけることができたのだ。

「珠世の鬼か。いい度胸だ殺してやる!」

愈史郎の存在に感づいた無惨が尖った牙を向き出しにして叫ぶ。
それを聞いた蜜璃や小芭内、ナマエはそれぞれが無惨の視界に入るよう動くため地面を蹴った。

ナマエの肩から舞い上がった三統彦は、この場を俯瞰するように弧を描きながら飛び回る。
三人の柱が無惨と対峙している今、三統彦はこの状況を本部や他の鴉と詳細に共有するための要だった。

鳴女を操る愈史郎と、その鳴女を介して愈史郎を殺そうとする無惨の戦いが始まる。
無惨の気を引きつけ少しでも愈史郎から意識を逸させるため、蜜璃と小芭内、そしてナマエは散り散りとなって動きはじめた。
それを見た義勇と炭治郎も彼らの意図するところを理解し、後に続く。

この場にいる中でいえば、ナマエの実力は正直なところ他の隊士より劣っていた。
だがそれでもなんとか無惨の攻撃を避け撹乱するための助けとなれているのは、水柱の柱稽古による成果に他ならない。

次々と繰り出される伸縮自在の腕からの苛烈な攻撃をすんでのところで受け流し、絶妙な間合いを取る。
決して無惨を傷つけるような攻撃は出来なくとも、敵の意識を一瞬引きつけることが出来る人間は一人でも多く必要だった。

ほんの僅かに無惨の視線が向けられただけでも足がすくみそうになり、ナマエは深く呼吸し四肢を奮い立たせる。
鞭のようにしなる無惨の腕を日輪刀でいなし後ろへ跳んだナマエの前に、すかさず飛び込んできたのは義勇だった。
片身替わりの羽織の、亀甲柄がナマエの目の前で揺らめいている。

「水の呼吸、肆ノ型打潮!」

義勇が振り払った日輪刀から大波が繰り出されて水飛沫を上げた。
向かい側からは小芭内も技を繰り出し無惨を挟み撃ちにしている。
再びナマエの前に着地した義勇は、無惨を睨みつけながら顔を少し後ろに傾けた。

「義勇さんっ!」
「ナマエ、無事で良かった」

血や埃で汚れたその頬にもはっきりと見て取れる波のような紋様を間近で確認し、ナマエは込み上げてくる複雑な感情をなんとか嚥下する。

「痣……出たんですね」
「……ああ」

二人はたったそれだけしか言葉を交わすことができなかった。
だが、互いに言いたいことは痛いくらいに分かっている。
義勇は、左の頬に重苦しいような鈍い痛みを感じていた。

しかしすぐにまた無惨の攻撃が飛んできたので、二人は左右に分かれてその場から退く。
ナマエは日輪刀の柄を強く握りしめ無惨の攻撃を捌きながら、無事で良かったと告げた義勇の優しい声音を繰り返し思い浮かべた。

柱三人がかりの猛攻に苛立った無惨は、愈史郎に向けていた殺意を無意識のうちに弱めていたようだ。
押され気味だった愈史郎はこれが好機だと一気に畳み掛け、無惨を地上に引きずり出そうとする。
しかしこれ以上彼女を操られては堪らないという危機を感じた無惨より遂に鳴女は殺されてしまい、操っていた主を失った城中が音を立てて軋み始めた。

「マズイ!崩壊スルゾ!」

三統彦が叫んだのと同時にナマエたちの身体に凄まじい重力がかかる。
足場が上昇していくのを感じ、ナマエはよろけながらもなんとか両足に力を込めて自分を支えた。

「三統彦、みんなは!?」
「爺サント松ハ上ニイル!後ハ散リ散リダ!」
「お願い、みんな無事でいて……」

その願い事は誰の耳に届く訳でもない。
だがナマエはそれぞれ主のため必死にこの場に着いてきた鎹鴉達を思わずにいられなかった。

やがて轟音と共に天井が割れ、煤や砕けた木片がパラパラと降ってくる。
壁や床が音を立てて崩壊し、激しい揺れにより柱三人を含めた全員がその場から投げ出された。

無惨から距離を取っていた義勇は、宙を舞いながら必死で目を凝らす。

「くっ、ナマエ……っ!」

黒い羽織を必死に探すも大量のちりや埃が舞う中では視界が悪い。
しかし、やがて訪れるであろう衝撃のために身構えた彼の目に一瞬きらりと光る物が映った。
それは、青とも藍とも浅葱とも取れる輝きで。

義勇は決して届かないことを理解しつつ、菫青石の輝きに向けて虚空に手を伸ばし続けた。


「……外に、出たの?」

なんとか瓦礫の山から這いずり出ると、ナマエは隊服の土埃を払って辺りを見回す。
空はまだ暗く、夜明けまで半刻以上はありそうだった。

状況から、どうやら無惨の城が地面を突き破って市街地に出てきたらしいことだけが分かる。

「誰か、誰かいませんか!」

ナマエは無惨の気配が近くに無いことを確認してから、生存者を探すため声を張り上げた。すると視線の先に動くものを認め、目を凝らすとそれが薄い青磁をしていたので慌てて駆け寄った。

「愈史郎君!」

そこにいたのは愈史郎だったが、瓦礫の中から上半身だけが覗いている状態だ。
彼は苦しそうに呻きながらもゆっくりと顔を上げた。

「無事だったのか。この瓦礫をどかしてくれ」
「待ってて。今助けるから」

ナマエは愈史郎の上に積み重なった木片や瓦などを掻き分けていく。
しかしあまりに物量が多くなかなか愈史郎が抜け出せるだけの重さにはならなかった。
そこへ、空からバサバサという音が聞こえてくる。

「ナマエ!ココニイタノカ!」
「三統彦!愈史郎君が埋もれているの!」
「待ッテロ、近クニイル隊士ヲ連レテクル!」

現れたばかりの三統彦は旋回し、また上空へと昇っていった。
その間もナマエは必死に手を動かし瓦礫を避けていく。

「クソ、無惨の奴思っていたよりも早く琵琶鬼を殺しやがって!」
「愈史郎君のおかげで私たち外に出られたんだよ。無惨だって今きっと日の出に怯えてるはず」

完全には作戦通りにいかなかったという悔しさに歯噛みする愈史郎。
だが自身も鬼なのにこうして味方をしてくれる彼に向け、ナマエはその健闘を讃えた。

「ミョウジさーん!愈史郎ー!」

そこへ駆けつけたのは竹内だ。先導する三統彦がナマエの元へと舞い降りてくる。そして、その後ろからはもう一人ナマエを安堵させる顔が追いかけてきた。

「ナマエ!無事だったんだな!」
「村田君!良かった……」
「愈史郎も今助けるからな!」

男手が二人分増えたことで、間も無く愈史郎は瓦礫の山の中から救い出される。

「ありがとう二人とも。愈史郎くん、大丈夫そう?」
「俺を誰だと思ってるんだ」

愈史郎は身体についた破片を払いながら顔を歪めた。
すると、村田が愈史郎に向き直って彼の手首を掴む。

「頼む愈史郎! 炭治郎を助けてくれ!」
「炭治郎?」
「アイツ、大怪我して息もしてなくて……でも、絶対まだ生きてるんだ!」

その言葉には愈史郎だけでなくナマエも息を呑む。

「俺には何も出来なくて……お前なら、なんとか出来るかもしれないだろ!?」

村田は俯いて、震える声で続けた。

「冨岡に頼まれたんだ……あいつの為にも、炭治郎を助けたい」
「村田君、義勇さんに会ったの!?」
「ああ、無惨と戦ってる。愈史郎が動けそうなら一緒に炭治郎の所に来てほしいんだが」

義勇が既に無惨と対峙していることを知り、ナマエは無意識のうちに胸元を押さえた。
すぐにでも彼とともに戦いにいきたい気持ちもあるが、炭治郎のことも気掛かりだ。
それが義勇の頼みであるならば尚更のこと。
炭治郎が義勇の大切な弟弟子であることは、ナマエにもよく分かっていた。

「待て、薬の入った鞄がその辺に落ちてないか」

愈史郎は辺りを見回しながら言う。彼が背負っていたはずの木製の鞄には手当てに必要なあらゆる薬品が入っていたので、ナマエたちも手分けして探すことにした。

「なあ、ミョウジ」

鞄を探しながら、村田がナマエに声をかけてきた。彼は隣で瓦礫の下を漁るナマエにだけ聞こえるように言う。

「俺、冨岡に名前覚えててもらえたなんて思ってなくてさ。俺たち同期なのに、あいつは柱で俺はずっと下っ端のままだろ?お前みたいに特別な役割も貰ってないし」

村田は薄々ナマエが義勇と親しいことには気がついていた。
尤も、彼女が鎹鴉の訓練士だから何かしらの接点があるのだろうとしか思っていなかったのだが。

「そんなことないよ、村田君」

ナマエは緩く首を振る。

「村田君だから竈門君のことを頼んだんだと思う」
「何でそう思うんだ……?」
「彼はちゃんと『あの時』のこと覚えてたよ。辛すぎる記憶だからうろ覚えだったけど、村田君がずっと側に居てくれたことは忘れてなかった」

それは、義勇が親友を亡くし失意のどん底に叩き落とされた七日間の話だ。

「村田君だから、大事な弟弟子を任せられるって、信頼してるんだよ」

そう語るナマエの眼差しの優しさと確信めいた口調を目の当たりにして、村田に一つの答えが浮かぶ。
内心、彼女がいつの間にか彼のことを名前で呼んでいたことも気に掛かっていたのだ。

「ミョウジさ、お前もしかして冨岡と……」

しかし村田は彼女の顔を見て口を噤む。
ナマエはただ曖昧に微笑むばかりで、その問いには答えを返さなかった。

やがて、共に鞄を探していた三統彦がカァカァと声を上げる。

「見ツケタゾ!潰レテナイカラ中身ハ無事ソウダ!」
「でかした!さすがミョウジの鴉だな」

村田に褒められ、三統彦は当然だとばかりに鼻息荒く胸を張った。

「俺も行く!ほら、鞄持つから」
「手早く終わらせるから早く案内しろ」

鞄から薬品を出して自身への手当を終えた愈史郎を連れ、竹内も村田の横に並んだ。
愈史郎も面倒くさそうな顔をしているが、炭治郎を助けたいという気持ちは他の仲間たちと同じようだった。

ナマエは彼らの顔を見回してから、三統彦に告げる。

「三統彦もみんなについていってくれる?お館様に状況を伝えて!私は他にも怪我人がいないか探すよ」
「了解!炭治郎ノ手当ガ終ワッタラスグ戻ル」
「救護が必要な者も山ほどいるだろう。隠だけじゃ見きれない」

村田も頷き、ナマエの肩を叩いた。

「冨岡たちはあっちの方で無惨と戦ってたんだ。もしかしたら、無惨のせいで怪我人が出てるかもしれない」
「ありがとう村田くん、行ってみるよ。竈門君のこと、私からもよろしく頼むね」
「ああ。あいつは、絶対に助ける」

二人は固く握手を交わし合って互いに背を向ける。
思えば藤襲山の選別の時から何かと縁がある仲で、彼らは性別や階級、立場を問わず長年親しく付き合ってきたかけがえのない友人だった。

それぞれ目指す場所へと駆け出したナマエと村田。
だが奇しくもあの日狐面を抱きしめ泣き続けていた少年の姿を、二人共に思い浮かべていた。

 
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