上弦の弐は栗花落カナヲと嘴平伊之助、そして何より胡蝶しのぶの献身によって遂に塵となった。
代償として失ったものは大きすぎたが、それでもしのぶの姉で花柱だった胡蝶カナエを食った鬼でもある童磨がようやく倒されたのである。

猗窩座との戦いの後しばらく気を失っていた炭治郎は、目覚めてすぐにその知らせを受けた。
彼の傍では未だに出血が止まらない義勇が傷を焼こうと刀を火に当てている。
いくら上弦の弐や参が倒されたからといっても最終目的は無惨であるからして、彼らも怪我を負っていようといつまでも立ち止まっているわけにはいかなかった。

傷の手当てを進めながら、炭治郎はふと思い出したように何も無い部屋の隅を見つめる。
彼は気を失う前そこから猗窩座が消えてゆくのを見送ったのだが、気がかりなことが一つあった。

「猗窩座は、どうして最後に自分自身を破壊したんでしょうか」

頸を切っても滅びることなく、死闘の末にまるで別の生き物になったかのような、更なる高みへ昇っていってしまうかと思われた猗窩座。
しかし驚くべきことに、彼は自らを爆殺し消え去ったのだ。
義勇も炭治郎の視線を追い、目を細めた。

「分からない。だが……誰かが迎えにきたように感じた」
「義勇さんもですか?俺も同じような匂いを感じました」

それはとても温かく、優しい匂いだったと炭治郎は思う。
それに、最後に目が合った猗窩座からは確かに感謝の匂いが感じられたのだ。

「帰りを、待っている人がいたのかもしれないな」

そう呟いた義勇は、ようやく止血が終わったので傍に日輪刀を置く。
体中乾いた血だらけだったが、僅かな休息を得たことで顔色は少し戻ってきていた。
その頬に浮かぶ痣は、今は薄くなっているもののはっきりと見て取れる。

「そうかもしれないですね。いや……きっと、迎えにきてくれたんですよ」
「ああ。だから、あいつは帰らなければならなかったんだな」

待っている人の元へ。
いつまでも一人にしておいては、ずっと悲しませてしまう。
それが誰なのか知る由もないが、きっと猗窩座にとって大切な人だったのだということは二人ともに分かった。

義勇は口を噤み、血や土埃で汚れた手のひらを握りしめる。
炭治郎は、いつも通り無表情のままの義勇を見て微笑んだ。

「義勇さんにも、待っていてくれる人がいるんですよね」

その言葉に義勇は驚いて目を見開いたが、何か言いかけてやめた後すぐにまた無表情に戻る。
それでも、彼の匂いが柔らかいものになったことに炭治郎はすぐに気が付いた。

「絶対に、戻らないといけないですね」
「……分かってる」

微笑む炭治郎には視線をくれず、義勇はそう言って目を閉じる。
彼はまさか自分に出るとは思っていなかったので、痣が出現したことには大層驚いていた。
しかしそのお陰で得られた強大な力は義勇を助け、自分もまだ強くなれる、もっと戦えるのだと気持ちを鼓舞させてくれた。

しかしその一方で、このことを彼女が知ったらどう思うだろうかという懸念も無いことは無い。
お互い覚悟の上とはいえその覚悟の行く末が現実に突きつけられた今、ナマエに与えてしまう悲しみを思うと義勇は胸の奥が苦しくなった。

「大丈夫ですよ、義勇さん」

しかし重苦しい考えに浸りかけた義勇の耳に、明るい炭治郎の声が届く。
見れば、目が合った炭治郎は力強く頷いていた。

皆まで言わなくとも言いたいことは分かる。
炭治郎は義勇から感じる強い意志の匂いから、彼が無惨を倒しナマエの元へ帰ろうと決心している気持ちを汲み取っていた。
そんな義勇をあのミョウジナマエが受け入れないわけがないと思い、炭治郎は兄弟子を安心させたい一心で笑顔を浮かべたのだ。

「行きましょう、義勇さん」

炭治郎が立ち上がると、隊服と羽織に袖を通した義勇は彼を見上げる。
随分と頼もしくなったものだと、改めて炭治郎の成長を感じた義勇も僅かに頬を緩めた。しかしすぐに引き締まった面持ちに変わり、歪なこの異空間を見回す。

「ああ、気を引き締めて行くぞ」

そうして彼らは再び走り出した。
無惨や、まだ残っているであろう上弦を探して。


暁に鳴く 弐拾捌


「蟲柱は、気に食わない奴だが見上げた女だった」

ナマエの隣を歩く愈史郎が呟く。
彼は珠世と薬の共同研究をすることとなったしのぶから鬼への憎悪を感じ、その敵意に酷く腹を立てた。
しかししのぶの知識は珠世の研究に不可欠なもので、その珠世本人が望んだからには諍いを起こすわけにはいかなかったのだ。

「あいつは、自分の体中に藤の花の毒を巡らせていると言っていた。だから自ら上弦の弐に食われたのだろうな」

ナマエたちがしのぶの訃報を受けたのは少し前のことで、そのあと上弦の弐が倒されたという知らせが舞い込んできたばかりだった。
ナマエは愈史郎の言葉に絶句し、柔らかく微笑むしのぶの顔を思い浮かべた。
新人隊士の頃何度も世話になった彼女の姉、カナエの姿と共に。

「蟲柱様、そんな覚悟を……」

艶からは何も聞いていなかったのでナマエもそのことは知らなかった。
なるべく手の内は晒さない方が賢明であるからと、しのぶが自分の鎹鴉にも知らせていなかったのかまでは分からないが。

かつて花柱だった胡蝶カナエが鬼に殺された時、しのぶが葬儀の場で涙を堪え気丈に振る舞っていた場面がナマエの脳裏に浮かぶ。

「……なんとしても、無惨を止めないと」

自分にできることは多くなくとも精一杯戦う。
そんな一人一人の積み重ねが、必ず無惨を追い詰めるのだとナマエは信じていた。

「ナマエ!ヨク聞ケ!」

そこへ舞い込んできたのは三統彦だ。
差し出されたナマエの腕に止まると、彼は広い翼をはためかせる。

「上弦ノ壱撃破!時透無一郎及ビ不死川玄弥死亡!ダガ風柱ト岩柱ハ存命シテイル!」
「なっ……霞柱様と風柱様の弟さんが!?ねぇ、銀子は!?」
「分カラネェ、近クニイル鴉ノ目ニハ映ッテネエミタイダ」
「銀子……お願い無事でいて……」

無一郎の鎹鴉、銀子は主人を溺愛していた。
そんな主を失った銀子が失意のどん底にいることは容易く想像できたし、ナマエは彼女が不安定な精神状態でこの異空間を飛び回っているであろうことを心配した。

しかしその時、ナマエの隣にいたはずの愈史郎が壁に凭れ掛かり膝をつく。
慌てて駆け寄ったナマエが見たものは、肩で息をしながら歯を食いしばり目を見開く愈史郎だった。

「愈史郎君、どうしたの!?」
「……おのれ、無惨!」

愈史郎の指先は畳に食い込み、噛み締めた唇からは血が滴り落ちている。
ナマエが愈史郎の背に手を当てると、彼の身体は恐ろしいくらいに熱かった。

「おい大丈夫か愈史郎!」

後ろから駆けつけた竹内も、愈史郎の異様な雰囲気に気が付いたらしい。
彼が声をかけても、やはり愈史郎は荒い呼吸を繰り返すばかりだった。

「愈史郎君、気を確かに!」

愈史郎の背を摩りながらナマエは懸命に呼び続ける。
彼の様子は明らかに鬼として何かの衝動に耐えているようにしか見えなかった。

愈史郎はこれまで生きた人の血肉を食らったことがないとはいえ、この状態が続くのは危険だろう。
そう判断したナマエは竹内ら他の隊士に辺りを確認するよう頼んでこの場から下がらせた。

「愈史郎君!ねえ、愈史郎君!何があったの!?」
「……珠世、さま……」

肩を叩きながら顔を覗きこめば愈史郎は涙を流している。
それを見たナマエには、最悪の答えが思い浮かんだ。

「まさか珠世さんが……」
「……無惨!殺してやるッ!」

絞り出すような声と震える手。
愈史郎はこれでもかと爪で畳を抉りながら吐き捨てるように言った。
傍で彼の背中を摩りながら、ナマエも奥歯を噛み締める。
無惨への怒りと憎しみは膨れていく一方だった。
どうして、こんなにも沢山の人が命を失わなければならないのだろうかと。

一部始終を見守っていた三統彦は、他の鎹鴉の居場所や本部にいる産屋敷輝利哉からの伝令を確認してから告げた。

「残ル十二鬼月ハ上弦ノ肆ダケダ!」
「上弦の肆って、前に倒されたんじゃなかったの?」
「新シイノガイル。琵琶ヲ弾イテイテ、コノ城ヲ操ッテルノハ多分ソイツダ!」

三統彦の話には、ナマエだけでなく愈史郎も反応を示す。
彼は血走った目で三統彦を見た後、辺りを見回してこの異空間全体の中央に位置する場所を睨みつけた。

「蛇の柱と女の柱が戦ってる」

ナマエはこの場に落ちてきた時のことを思い出す。
あの時聞こえた音は三味線だとばかり思っていたがどうやら琵琶の音色らしかった。
上弦の能力によって操られるこの場所は、その琵琶の音色によって様々に形を変えていたのだ。

「蛇柱様と恋柱様だよね?助太刀しよう!」
「お前は蛇柱の方へ行け。策がある」

目的が決まり、僅かに落ち着きを取り戻した愈史郎が言う。
ナマエは頷き、腕に止まっていた三統彦を無意識の内にぎゅっと抱きしめた。


「甘露寺ッ!」

蛇柱・伊黒小芭内は遙か下へと落ちていく恋柱・甘露寺蜜璃に向けてを伸ばす。
しかしその手が彼女に届くことはない。
琵琶の音色とともに蠢く畳や襖に遮られ、蜜璃の姿を目視することすらできなかった。

「伊黒さん!私は大丈夫だからっ!」

それでも奈落の底から蜜璃の声が聞こえてくるので小芭内はほっと胸を撫で下ろす。
しかし琵琶鬼を倒さなければいつまでも他の仲間と合流出来ず無惨の元に向かうことすらできない。
柱は集結するように伝令の鴉が叫んでいたが、彼らはどうあがいてもこの場から抜けられそうにないのだ。

小芭内はじりじりと体力と精神力を削られ続けるいたちごっこに苛立っていた。
すると、そこへ彼の鎹鴉・夕庵が飛んでくる。

「小芭内!一旦下ガレ!」
「何故だ夕庵?お館様からの命令か?」
「スグ分カル、コッチダ!」

小芭内は羽織の袖を引く鴉の真意が分からず戸惑った。
今にも蜜璃が上がってくるかもしれないからこの場から離れるわけにはいかないと思ったからだ。
しかし夕庵に促されるまま振り返った先に見知った顔を見つけ、話くらいは聞いてやらんでもないと渋々琵琶鬼の死角へと向かった。


空虚な城に、琵琶の音色が響き渡る。
弦が弾かれるたびに部屋の構造が変わり、瞬きひとつしている間に壁が床になり、床が消え、天井と入れ替わった。

それが何度か続いた後、炭治郎と義勇は一人の男と邂逅する。彼らの目の前に現れたのは、他でもない──

「無惨。お前は……存在してはいけない生き物だ」

怒りに震え、冷え切った声音で炭治郎が呟く。
義勇は真っ直ぐに刀の鋒を向け、憎むべき始まりの鬼を睨みつけていた。

 
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