静かな雑木林には、降り積もった落ち葉がざくりざくりと踏みしめられる音だけが響く。

並んで歩くふたつの影。
少しして小さい方が歩調を緩めた。

「どうした?」

隣を歩くナマエの様子に義勇が首を傾げる。
すると彼女は、少し前に彼の背中に回していた自分の手のひらを見つめて呟いた。

「……まだ信じられなくて」
「何を?」
「それ、言わないとだめですか?」

ナマエは一度義勇を見上げてから顔を逸らす。その仕草に疑問符を浮かべながら、義勇は彼女が顔の前に持ち上げたままだった片手を取った。
ナマエは思わず足を止め、繋がれた手を見つめる。

「何か不快な思いをさせたなら謝る」

本気で分かっていない義勇がそう言うと、ナマエは困ったように眉根を下げつつも頬を緩めた。

「違います!でも、夢を見てるのではないかと思えてしまって」
「夢?」
「だって……ずっとお慕いしていた方が私を好いていてくれたなんて、夢でないと思う方が難しいですよ」

僅かに目を見張った義勇は、掴んだ手を引くと歩調を速める。
彼は、今ナマエの顔を直視してしまうと動けなくなってしまいそうだと感じていた。
彼女を無事に送り届けることが、今の彼の責務である。

「まごうことなき現実だろう」
「……はい」

ぶっきらぼうに言い放たれた台詞に、ナマエはくすりと笑みを溢す。
ようやく二人の想いが通じ合ったのは、今から半刻ほど前のことだった。


暁に鳴く 弐拾肆


「でも本当に驚いたんですからね」

ナマエは少し前の出来事を思い返し、頬を赤く染める。
手を引かれる速度に合わせるため早足にさせられているものの、それすら義勇の心境が伝わってくるようで愛おしかった。

「すまなかった。上手く言葉に出来なかったから」

義勇が言っているのは突然抱きしめて口づけをしたことだ。
ナマエはそれ以上に彼から好意を寄せられていたことに対して驚いていたのだが。

「俺は喋るのが得意ではないから、行動で示す方が伝わると思った」

衝動で動いたものの結果として彼の想いはナマエに伝わったのだから、義勇の言うことは正しかった。
言葉足らずと言われ続けてきたからこそ、義勇自身にもその自覚はあったのだ。

彼が言っているのが何のことか理解し、ナマエは再び頬を赤く染める。
身体中の血液が沸騰してしまうのではないかと思うくらいだった。

「初めての接吻があのような形になってしまったことは謝る」

突然のことで心の準備も何も無かっただろうと、義勇は茹で蛸のようになってしまったナマエを見下ろす。
しかしナマエは何度か口籠る素振りを見せてから、気まずそうに彼を見上げた。

「実は……初めてではないのです」
「……は?」

それはお前が別の男と接吻したということかと義勇は問いたかったのだが、すぐには言葉に出せない。
そんな権利がないと分かっているからに他ならないが、指先から痺れたような感覚が駆け上る。
だが彼が思わず顔を顰めた瞬間、ナマエが続けた。

「以前、冨岡さんがお酒に酔って帰ってこられたことがあったと思うんですけど」
「それがどうした?」
「その時に、ですね……」

怪訝な顔の義勇に対し、相変わらず恥ずかしそうに視線を泳がせるナマエ。
彼女の言いたいことがまだ分からず、義勇はもどかしさを感じながらも言葉の続きを待った。

「かなり酔われていたからだと思いますし、実際覚えてないようなので胸の内にしまっておくつもりだったんですが」
「言え。何があった」
「……先程のように、その……冨岡さんが私に……」

辿々しく紡がれる言葉とナマエの恥じらう態度を見て、義勇には一つの答えが浮かび上がる。
あの日の記憶は断片的なまま思い出すことができずにいるが、抜け落ちた部分に無意識で自分が起こした行動が含まれていたのだとしたら。
義勇はそこまで考えると、またしても口篭ってしまったナマエの手を引き立ち止まった。

「まさか俺はお前に無理矢理口付けたとでも言うのか?」

釣られて足を止めたナマエは、少しの間を置いてから小さく頷く。

「……おっしゃる通りです」
「なんだと!?」

義勇は唖然とした。
あの頃にはまだナマエを親しい仲間と認識していたはずだし、いくら酩酊していたからと言って強引に彼女の唇を奪ってしまったのは不覚という言葉では片付けられないことだ。

彼は頭を垂れ、向かい合うナマエに謝罪の意を示す。

「すまなかった……」

本当なら翌日にでも非難されるべきことなのに、ナマエが今までひた隠しにしてきた理由が義勇には分からなかった。
嫁入り前の女性にとっては由々しき出来事だったはずなのに、と。

「顔を上げてください。決して、嫌ではありませんでしたから」

ナマエはそう言って義勇の手を引く。
彼がゆっくりと頭を上げると、そこには困ったように眉根を下げつつも頬を緩めるナマエがいた。

「そりゃあ驚きましたよ。冨岡さんは酔ってるのに押し返しても全然びくともしませんでしたし」
「俺はお前を押し倒したのか?」
「まあ……そんな感じです」

組み敷かれ情熱のままに唇を貪られた記憶は、今でも思い返せば簡単にナマエの身体中を熱くさせる。
彼女は詳細を語らなかったが、却ってナマエが口にするのも憚られるような事があったのだと義勇に気付かせた。

「怖かっただろう……本当に申し訳ない」
「良いんですよ。嫌ではなかったと言いましたよね?」
「だが……」
「私、あの頃からもうあなたをお慕いしていましたから」

予想外の告白に義勇は目を丸くする。
ナマエが自分を好いてくれていたことは先ほど知ったばかりだが、彼女が自分の家に夜間滞在していた頃からとは思いもよらなかったのだ。
そもそも彼は、いつから好かれていたのかなどまでを考えるに至っていなかった。

「すみません。お宅にお邪魔していた頃からそんな風にあなたを見ていたなんて、気色悪いですよね……」
「そんなことはない」
「……ありがとう、ございます」
「お前の方こそ、よく嫌いにならないでくれた」

下心が全く無かったのかと問われればはっきり否定することはできないだろう。
それでも純粋に義勇の助けになろうとしていたナマエではあったが、やはり顔を合わせれば胸が躍ったし共に食卓を囲めば幸せな気持ちでいっぱいになった。

あの日だって困惑はしたし、もしあれ以上のことが起こってしまえば義勇との関係に深い溝が入ってしまうと思い怖かった面もある。
だが嫌悪感など一つも湧かなかった。
それは、あの時にはもう既にナマエが彼を愛してしまっていたからだった。

「そんなことで嫌いになるわけないですよ。心臓は破裂するかと思いましたけど」
「それは困る」

即答する義勇を見て、ナマエは小さく笑みを溢す。
そして彼の手の甲に、握られているのとは反対の手を重ねた。

「それなら、もうあまり驚かせないでくださいね」

はにかんだ笑みを浮かべたナマエに見上げられ、義勇は僅かに瞠目する。
身体中の血が、鬼と戦っている時とはまた違った意味で沸き立つような気がしたからだ。

彼は空いている手をナマエの背中に回し優しく抱き寄せる。
衝動的に力強く抱きしめるのとはまた違った、大切なものを包み込むような抱擁だった。

「冨岡さん?」
「……俺は過去の自分に腹を立てている」
「え?」

夜の湖のような濃紺の瞳がナマエを捉え、小首を傾げる彼女を写す。
重ねた手のひらごと持ち上げてナマエの頬を包むと、義勇は彼女の鼻先に唇を寄せた。

「その時俺は何度お前に口付けた?」

軽い口付けを落とした義勇の眉間に皺が寄るのを見て、ナマエはあの日の夜のことを回想する。
手首を掴まれ、もし俺が女だったらお前は抵抗できるはずだと押しやられ、床に磔にされた後唇を奪われた。
思い出すだけで目眩がするほどの羞恥心に襲われたが、それでも忘れることはできなかった記憶を順を追って辿る。

しかし彼女がなかなか答えを口にしなかったので、もどかしく思った義勇は俯きがちなナマエの顔を覗き込んだ。

「忘れてしまったか?」
「……そんなの……」
「ナマエ?」
「一度や二度とはっきり申し上げられるようなものじゃありませんでした!」

半ば自棄になって言い放ったナマエは、湯当たりしたのではないかと思うほど赤い顔をしている。
それもそのはず。あの夜酔った義勇は執拗に口付けを繰り返し、更にはナマエの鎖骨に鬱血痕を残し、その末彼女の首筋に顔を埋めて眠ってしまったのだ。
ナマエの剣幕に面食らった義勇ではあったものの、自分の行いなのに他人がしたことのように感じて面白くない。

おそらくあの頃から自分は深層心理で彼女を求めていたのだろうと思えば、気づかないうちにその欲を満たしていた自分自身に酷く苛立った。
要するに、彼は過去の自分に嫉妬したのだ。

「上回るだけすれば消えるか?」

そう言ったかと思えば唖然とするナマエの唇を塞ぐ。
義勇はナマエの背中に回した腕に力を込め、そんなことは出来るはずもないのに彼女が逃げ出さぬようしっかりと抱きしめた。

身じろぎも出来ないナマエの歯列を割り、熱を帯びた義勇の舌先が彼女の口蓋をなぞる。
舌を絡めればナマエが引こうとするので、逃さまいと一層深く口付けた。

合間に一瞬だけ唇を離し、酸素を得ればまた重ねる。
触れ合ったままの彼の手をナマエが握りしめ、義勇も応えるように指を絡めた。

「くるしいです……!」

もはや何度目かは分からないものの、義勇が僅かに顔を離した瞬間ナマエはそう絞り出すように告げて顔を背ける。

「流石に死んでしまいますって……」
「こんなことでは死なない」
「冨岡さんはそうかもしれませんけど!」

まだ止める気のなかった義勇は若干の不満を顔に出したが、ナマエはそっぽを向いたままで取り合おうとしない。
今度は彼女の方が、義勇の顔を直視出来そうに無かったのだ。

「……あまり驚かせないでくださいとお願いしたのに」

頬を赤らめたまま口を尖らせるナマエの横顔に、義勇の中で燻っていたはずの熱もあっという間に霧散していく。
彼は腕の中からナマエを解放し、代わりに絡ませた指先に力を込めた。

「……すまない。少し箍が外れてしまった」

いくら上書きしても過去の行いが消えるわけではない。
そんなことは義勇も分かっていたし、子供じみた嫉妬の相手が自分自身というのも馬鹿馬鹿しいと思っていた。
だが、ナマエへの想いは簡単に止められるものではない。

「しかしこれで、今の俺が勝ったはずだ」
「勝った、って何にですか」
「今はしらふだからな」

ナマエは義勇の言わんとするところを理解し、ようやく彼と視線を合わせると呆れたようにくすりと笑った。
まさか義勇が記憶に無い「酔っ払いの自分」へ対抗心を燃やしていたなど、今まで気がつかなかったからだ。

「……私からしたら、どちらも冨岡さんですけどね」
「名前」
「名前?」

今度は義勇の方が口を尖らせるので、ナマエは何事かと鸚鵡返しをする。
名前、というのは彼のものか自分のものか、はたまた別の何かかすら分からなかった。

「何故戻ったんだ」

しかし続く言葉にナマエは合点する。
確かに、一度彼に名前を呼ばれた際にナマエも彼のことを名前で呼んだのだ。
彼がそのことを言っているのだろうと分かれば、元の呼び方に戻って拗ねていると気がつく。

「お呼びしても良いんですか?」

自然と上がる口角は照れ臭そうに顔を背ける彼を愛おしいと思っているから。
ナマエは視線を合わせてくれなくなってしまった義勇の顔を、仕返しとばかりに覗き込んだ。

「義勇さん」
「……なんだ」
「私も、呼んでいただきたいです」

自分が名前で呼べと言い出したくせに言葉を詰まらせながら、義勇は再びナマエに顔を向ける。
彼女はやはり、はにかみながら彼を見上げていた。

義勇は切れ長の目元を和らげ、小さく息を吸い込む。

「ナマエ」

交差する視線。
今度は、二人とも頬を緩めて笑いあうことができた。


義勇はナマエを送り届け、戸口で彼女の手を離す。
二人はここまで、ずっと指を絡め肩を並べて歩いてきたのだった。

「わざわざここまできてくださってありがとうございました」
「当然だ」

視線を合わせ頷いてから、義勇はナマエに背を向ける。
当番ではないが、夜間外に出たので帰りは夜回りがてら周りの地域を見て回ることにしていた。
ひとときの平穏を守りたいからこそ、少しの火種も潰しておきたかったのだ。

しかし彼が一歩踏み出したところで、ナマエが消え入りそうな声で呟く。

「義勇さん……すみません」

同時に、赤錆色の羽織の袖が引かれた。
義勇が振り向くと、ナマエは気まずそうに視線を泳がせている。

「どうした、ナマエ」

彼女に何か困ることがあるのかと義勇がその表情を窺っていると、ナマエは片方の拳を握りしめて意を決したように口を開いた。

「はしたないこととは承知なのですが、一つだけお願いしても良いですか?」
「なんだ?」
「その……最後に、もう一度だけ抱きしめていただけないでしょうか」

義勇は僅かに目を見開いた。
まさかナマエからそんなことを言ってくるとは思わなかったからだ。

しかし拒否する理由は無く、それどころか彼女が望むならいくらでもしてやりたいと思えた。
何故なら、義勇自身いつまでもナマエを腕の中に抱き留めておきたいと思っていたからだ。

彼が無言のまま腕を広げれば、ナマエはおずおずと義勇の胸に歩み寄る。
彼女がそこに収まったことを確認し、彼は両腕でしっかりとナマエを抱きしめた。

ナマエは義勇の胸元に耳を当て、彼の鼓動や体温を感じている。
今ここで生きて向かい合っていられることの尊さは、鬼殺隊士だからこそ身につまされて感じられた。

遠くから、鴉の鳴き声が一度だけ聞こえてくる。
若い鴉が夜更かしをしているのか、それとも大きな寝言なのかはナマエにも分からなかったが。

「まだ、明烏が鳴くには早いですね」
「明烏がどうした?」

それは夜明けに鳴く烏のことではあるが、時刻はまだ真夜中というにも早すぎる。
義勇はナマエを見下ろした。
彼女は遠くまで広がる木立を見つめ、ぽつぽつと話し始める。

「平安の時代、夜明けを告げる明烏は恋人たちの逢瀬に終わりを告げる無粋なものに喩えられていたそうです」

千年前の人々は、まだ空が明るくなる前から辺りに響き渡る烏の鳴き声をそれは恨めしく思ったことだろう。
その時代の恋人同士の時間といえば夜半のことで、朝になれば男は女の元から去っていくことが多かったという。
だからこそ一夜の終わりを急かすような明烏は、平安歌人によって「おおをそ鳥」──非常にそそっかしい鳥──と詠われたのだろう。

「でも私は、それだけじゃないと思うんです」

ナマエは、じっと話を聞いてくれている義勇の濃紺の瞳を見つ返す。

「鴉は古来より神の使いと言い伝えられています。だから、そんな彼らが夜明けを知らせる声には特別な力があると思うんです」

夜風が吹き抜け、枯葉が擦れてざわめき立った。
揺れる木々にはこの時間も見張り役を買っている鎹鴉が止まっている。
実は三統彦もその中に混ざっており、息を潜めて主人を見守っていた。
寛三郎がうっかり二人の前に出て行かないように、細心の注意を払いながら。

「確かに別れの時を知らせる合図でもあるかもしれませんけど、私たちにとっては長い夜の終わり……暁を告げる希望の声だと思っています」
「日の出は、鬼殺隊にとって何よりの希望だからな」

義勇が神妙に頷くと、ナマエは顔を綻ばせる。
言いたかったことが伝わったこと、彼が同意してくれることはナマエにとって何よりも嬉しいことだった。

彼女は義勇の背中に両手を回し、強く抱き締める。
それから黒い隊服に顔を埋め、その温もりを全身で感じながら目を閉じた。

「……ずっとこうしていたいけど、一日でも早く私たちの夜明けを迎えるためにも戦わないといけませんね」

義勇も瞳を閉じて、ナマエの髪に口元を埋める。

「ああ。鴉たちが本当の暁を告げてくれるように」

最後に固く抱き合ってから、彼らはゆっくりと身体を離した。
義勇は見送るナマエに背を向け、まだ夜明けには程遠い空を見上げる。

彼女と肩を並べ、鬼の居ぬ暁を迎えたい。
全て片付いた後に昇る陽の光を浴びたナマエは、どんな顔で笑うのだろうか。
義勇の脳裏にはそんな思いと共にこれまで彼が押し殺してきた願いが湧き上がる。

──生きたい。ナマエと共に。

そんな自身の変化に、義勇は落ち葉を踏み締めながら一人驚きを隠せずにいた。


そして次の夜。
全ての鬼殺隊を震撼させる知らせが、義勇やナマエの元にも伝えられる。

産屋敷家襲撃。

鎹鴉達がけたたましく叫ぶその言葉に、ナマエは信じられないとばかりに立ち尽くした。

 
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