鎹鴉の訓練所までの道中、二人はしばらくの間無言のままだった。

ナマエの肩に止まったままの三統彦は彼女の頬に身体を寄せ、前を行く男を睨みつけている。
この数日間主が受け流しの稽古に励んでいることは見てきたし、今日も水柱邸の道場に入っていく姿を見送った時には彼女はいつも通りだったはずだ。

夕食を共にすると言うから三統彦は屋敷の周りで待っていたのだが、ナマエがなんだかんだ義勇と上手くやっていけていると思い安堵したのも束の間のことだったらしい。
義勇と共に屋敷から出てきたナマエは思いつめた表情をなんとか隠しているつもりらしかったが、およそ八年の付き合いになる三統彦にはすぐに分かった。
彼女が、なんらかの理由で好いた男への想いを断ち切ろうとしているのだと。

だがその理由まで分かるわけもなく、しかも肝心の「好いた男」本人はいつも通りの雰囲気だから余計に何があったのか見当もつかない。
なので今はとにかくナマエに寄り添っていようと、意気消沈する主に体重をかけて己の存在を感じ取らせることにしたのだ。


暁に鳴く 弐拾参


しばらくして、突然義勇が歩調を緩める。
彼の隣に並ぶこととなったナマエは、鬼の気配でもあったのかと怪訝な表情で日輪刀の柄に触れた。

しかし隣からナマエを見下ろす義勇に逼迫した様子は無い。
彼は視線を前に戻し、決して大きくはない声で問いかけた。

「ミョウジには無いのか?」
「何がですか……?」

おそらくやり残したことの話だろうとはナマエにも推測できる。
しかし義勇には好いた相手へ想いを伝えた方が良いと言ってしまった手前、その話を思い出したくなかったのでナマエは気づかないふりをした。

だが流石の彼もここで話を終わらせるつもりはないらしい。
そもそも義勇は屋敷を発ってからずっとナマエに言われたことを考えていて、抱いた不思議な気持ちについて告げたい気持ちと告げてはならないと思う自戒の念に苛まれていた。
だから、彼はナマエにも聞いてみたいと思ったのだ。
彼女がもし痣者になったとして、現世への心残りになるものは一体何なのだろうと。

彼女に想い人がいれば自分と同じ悩みを抱いているだろうし、そうなれば彼自身は潔く身を引く気でいた。
更に、心残りになるのがそれ以外の事柄だったら自分がその懸念を減らしてやる手助けをしたいとも考えている。

「先程の話だ。もしあと五年も生きられなくなったとしたら、何か心残りになることは?」

しかしナマエは僅かに考え込んでから、小さく首を横に振った。

「鬼殺隊士としての生き方しか知らないので、それ以外を望むことはありません」

元々いつ死ぬかも分からない身だからこそ、鬼を葬り去ることが出来れば良いと思って生きてきた。
ナマエはそう言って、義勇に余計なことを気取られまいとする。
しかし予想外なことに彼は引かなかった。
ナマエが口にした「この生き方しか知らないから」という部分に、違和感を感じたからだった。

「なら鬼が消えたあと、まだ余命があるならどうしたいんだ」
「……難しいことをおっしゃいますね」
「あと四年も鬼舞辻を野放しにしたくはない」

お前はそう思わないのか、と言いたげな視線を向けられてナマエは口籠る。
義勇の言うことは最もだ。
もし柱稽古に励む中で痣を出現させたとして、そのあと悠長にはしていられない。
既に柱の中には二十五を過ぎている者もいるし、他の者だって二十五歳ちょうどまで生きられるかどうか分からないのだ。

無惨との最終決戦が恐らく近いうちに果たされるのだと、近頃は鬼殺隊の誰もが感じ取っていた。

「質問を変える」

それでもナマエが何も思いつかないのならと、義勇なりに考えたらしい。

「もし普通の女として生きていたら、何がしたかった」

まさか義勇にこんなことを聞かれるとは思わず、ナマエは驚きを隠せずにいた。
彼はあまり仮定の話に想いを馳せるような人間ではないと思っていたし、考えても仕方ないことを議論するような人間にも見えなかったからだ。

しかし義勇はそれきりナマエを横目に見下ろすばかりなので、彼女は少し考えてから思ったことを素直に口にする。義勇に対して、嘘はつけそうになかった。

「そう、ですね……普通の人生に、憧れがないと言えば嘘になります」
「誰しも、そうだろう」
「もし普通の人生を送っていたとして、私の歳なら夫や子供がいて当然ですよね」
「……そうだな」

現に自分たちの親はそうだったのだろうと、ナマエは記憶の彼方に仕舞い込んだ両親の顔を思い浮かべる。

「それが今より幸せかは分からないですけど、平凡な……恋なんかはしてみたかったかもしれません」

例え親に決められた相手との結婚だったとしても、幸せでないとは限らない。
自分の両親だってそうだっただろう。
共にいれば自然と相手を愛する気持ちも湧くはずだとナマエは考えた。
それが、例え自分が今目の前の男に抱いているような、苦しいほど熱い恋心とは違ったとしても。

対する義勇はというと、ナマエの口から出た「恋」という単語に刹那の胸の痛みを感じていた。
彼女がもし鬼殺隊に入っていなければ、今頃誰かの妻となり母となっていたというのは事実だろう。
見合いか自由恋愛かは別として、ナマエや義勇の年頃であれば所帯を持つのは当然のことだからだ。

しかし彼女の口から実際にそれを聞いてみると、先ほどまでは「潔く身を引く」などと思っていた気持ちが嘘のように崩れ去っていることに気がついた。
ただ純粋に彼女の願いを知りたくて問うたものの、出てきた答えは義勇の胸にさざなみを立てる。

ありえない仮定の話なのに、彼にはナマエが他の誰かの隣で笑っている光景は思い描くことすら困難だった。
しかし彼女は願ったのだ。そんな、義勇が想像することの出来ない光景を。

「平凡な恋、とは?」

かろうじて捻り出せたのはそんな言葉で。義勇はかつて師から教わった、心に凪いだ水面を思い浮かべるという初歩の初歩を思い出そうとしている。
強く意識しなければその水面が揺らいでしまうことは、過去にも数えるほどしか無かったはずだ。

問われたナマエは、あまり深くは話したくなさそうだった。
心の内を曝け出してしまうことになれば、義勇への想いまで明らかになってしまう恐れがあるからだ。
しかし義勇は黙したまま彼女の返事を待っていたので、ナマエは慎重に言葉を選びながら答え始める。

「例えば、ですが……」
「分かっている」

例えでなくては困るとは言えないものの、義勇は頷き続きを促した。

「好きな人と肩を並べて歩いたり、ですとか」

夜の雑木林には、落ち葉を踏みしめる二人の足音だけがこだまする。
風は、ほとんど吹いていない。

「何気ない話をして、笑い合って……手が触れれば、胸が高鳴ることもあるでしょう」

それは本当にありふれた、小さな幸せの話だった。

「もし想い合える方に抱き締めてもらうことが出来たら、それだけで……って、くだらないですよね。こんなことですみません」

一般的なうわべの話に留めてはいるものの、それでも色恋での願望について話しているうちに段々と気恥ずかしくなりナマエは後頭部を掻いた。

前提として「平凡な恋」をしたとしたらと言い出したのは義勇であるし、例え話だということも伝えてある。
しかしナマエは想い人に向けて語るべき内容ではなかったと、内心で後悔していた。

「あくまで、もし私が普通の女として生きていたらの想像でしかないですからね……?」

だから深く考えてくれるなと、そんなことは無いと思いつつ念を押すナマエ。
しかし彼女が頭の後ろから身体の横へと戻した手は、隣を歩く義勇の手の甲に軽く触れてしまう。

ほんの一瞬のことだったが、勢いよく手を引いたナマエは目を見開いた。
実は彼が意図して少し手を伸ばしたことが原因だったが、慌てふためくナマエが気付くわけもない。

「すっ、すみません」

今しがた自分が語ったことを思い返し、ナマエは重ねた両手を胸に押し当て息を吐いた。
軽く触れただけなのに手の甲は焼けたように熱い。
義勇に触れた箇所を押さえる手のひらまでもが、その熱に侵食されていくような気がした。
胸が高鳴る、どころの話ではない。

思わず立ち止まってしまったナマエの半歩先で同じように足を止め、義勇は彼女に振り返った。
見下ろす視線の先で、ナマエは両手を胸に当て俯いている。

辺り一面は宵闇に包まれており、義勇にも彼女の顔色までは伺えなかった。

「三統彦、悪いが外してくれ」

義勇は、そんなナマエの肩に止まったままこちらに鋭い眼差しを向けてくる鎹鴉を見つめ返す。
三統彦は迷ったが、義勇がこれまでに無いほど真剣な目をしていることは分かっていた。
仕方ないと溜め息を一つこぼし、驚くナマエを尻目に彼女の肩から飛び立つと義勇の目の前で滞空した。

「……泣カセルナヨ」

義勇は視線を逸らし、呟く。

「その時は、頼む」

自分の耳にだけ届いた言葉に、鴉は声を荒げそうになった。
三統彦はふざけるな、そんな心構えならナマエを置いてはいかないぞと続けようとしたが、顔を上げた義勇の表情を見て言葉を紡ぐことが出来なくなってしまう。

義勇は、初めて見るほど真剣な眼差しをしていたのだ。
その瞳の奥には、「男同士」にしか分からないであろう強い意志が篭っている。

「そうならないようにするつもりだ」

三統彦が口をつぐんでしまった代わりに、義勇は一言そう言って僅かに微笑んだ。

「悲シマセルヨウナコト言ッテミロ。モウ会ワセネェカラナ」

辛うじてそれだけ言い返すと、三統彦は翼をはためかせて空へと昇っていく。
近くの木に止まって様子を伺っている寛三郎にも声をかけ、先に行っていようと促した。

義勇は空を見上げて、そこに舞う黒い羽根に向け呟く。

「それは大丈夫だ、三統彦」

それから、彼らが何を話しているのか怪訝な顔で見守っているナマエに視線を向けた。
彼女はまだ、胸に両手を当てたままだ。

「三統彦が何か失礼を働きましたか……?」

何故義勇が三統彦にこの場を外せと言ったのか、それに彼らだけでどんなやり取りをしていたのか分からずナマエは困惑している。

義勇はそんな彼女の前に歩み寄ると、何も言わずに黒い羽織ごとその身体を抱き締めた。
腕の中で、ナマエが息を呑んだのが分かる。

心の赴くままに生きる。
義勇は少しだけ、その言葉に従ってみることに決めた。

「あの……冨岡さん?」
「心残りは無い方がいいのだろう?お前が言ったことだ」
「確かに言いましたけど、例え話と申しました」

ナマエが語ったのは、もし自分が鬼殺の剣士ではなく平凡な恋をしたならというあり得ない想定の話で。
しかし彼女が気恥ずかしそうに述べた、語り合い、手が触れ、胸の高鳴りを覚え、そして抱き締め合うということは決して彼女が鬼殺隊に身を置くことで不可能になることではない。

義勇おずおずと見上げてくるナマエの視線には応えず、彼女を包み込む腕に力を込めた。

「俺たちは、明日をも生き抜けるか分からない」

だからこそ彼はナマエの手に触れ、彼女を抱きしめた。
心残りを、無くすのならばと。

ほとんど衝動だった。
彼女は「想い合う相手と」と述べたのに、一番大事なその部分を飛ばしたことには義勇にも自覚がある。
彼女の反応だって、ただ手が触れ合って驚いただけであろうと理解はしていた。
しかし彼にとってはそれすら愛おしい。ナマエが口にした「平凡な願い」は、いつの間にか義勇の願いになってしまったようだった。

しかしナマエの方はといえば、自分が願ったことを義勇が叶えてくれているのだと捉え彼の腕の中から出ようともがく。
語ったばかりのことを義勇が実践するものだから、そう思うのも当然だろう。

「冨岡さんは、ちゃんとご自分の願う相手にされてください!」

だがどれだけ身を捩っても、身体に回された腕が緩む気配は無い。
それなのに見上げた視線はかち合わず、義勇はどこか遠くを見つめながら小さく呟いた。

「……お前に心配されずとも」

ああやっぱり、とナマエは未だ羽織に忍ばせたままの紙に綴られた言葉を思い出す。
本当なら柱稽古の合間にそっと水柱邸に置いてくるべきだったそれは、結局のところ彼の目を盗む隙が無くまだナマエが持ち歩いていた。

想う相手がいるならば、同情心から優しくしないで欲しいとナマエは強く思う。
そこまで自分は哀れに見えるのだろうかと考え、彼に気を使われてしまったことを後悔した。
くだらない望みなど、口にしなければよかったと。
抱きしめられ早鐘を打つ鼓動さえ、今の彼女には虚しく感じられる。

「冨岡さんこそ、心残りが無いように想いを伝えるべきですよ」

──私なんかではなく、あんなに熱い想いを綴るくらいあなたの心を占める女性に。

そう続けることはできなかった。
言いたかったのに、ナマエの口はそれ以上声を発することができない。
言葉の代わりに、涙が出てきてしまいそうだったから。

対する義勇は、腕の中で黙り込んでしまったナマエを見下ろす。
先程までとは打って変わって、今度は彼女が視線を逸らしたまま戻さなかった。

心残りが無いように。心の赴くままに。

背負った責務の行く末は頭の中から拭い去ることができないものの、それでも彼はこの腕を解きたく無かった。

「……どうしたら、伝わる?」

心の赴くままに伝えたくとも、ただ抱きしめるだけでは伝わらないらしい。
それはナマエの反応を見ていれば分かると、顔を背ける彼女を見つめながら義勇は考えた。

しかし彼の本心を知らないナマエは、そんなことを問われて胸が引き裂かれるような気持ちになる。
どうしたらと言われても、相手も分からないのに聞かれても困ると思ったからだ。
自分に情けをかけている場合ではないだろうとまで考え、次第に悲しみを通り越して苛立ちすら覚えてきた。

だからこそ、嫌でも自棄になってしまうもので。

「今私にしているようにすれば良いのでは?」

視線は合わせない。
本当は義勇の視線から逃れたいくらいだったが、彼の腕に閉じ込められている以上それは難しかった。

「抱きしめて……それに、口付けでもすれば簡単に伝わりましょう」

吐き捨てるように告げ、ナマエは固く目を閉じる。
懸想する男が他の女性を腕に抱き、唇を重ねる姿は想像もしたくない。
けれど彼女は言ってしまったのだ。彼の想いを成就させるための助言になり得る言葉を。

「……そうか」

だが彼は怒るわけでもなく、抱きしめる腕から力を抜いた。
目を瞑ったままのナマエは、彼の気配が離れていくのを感じ拳を握りしめる。
きっと義勇はこれで想い人に気持ちを伝えられるのだろうと思えば、諦めにも似た感情が湧き上がり自嘲の笑みすら浮かび上がった。

しかし、身体が完全に解放されると思った間際、一等強くナマエの身体が抱き締め直される。
苦しいほどの抱擁に、彼女は肺の奥から嫉妬で澱んだ呼気を吐き出し、何が起こったか分からないまま瞠目した。

「俺も、そうしたいと思っていた」

ナマエの耳元に届いたのはそんな囁きで、思わず義勇の顔を確かめようと顔を向けると、彼の濃紺の瞳と視線がかち合った。
真っ直ぐに見つめられたナマエが息を呑んだのと、その唇に義勇の熱が触れたのは、ほぼ同時だった。

見開いたままのナマエの目に映るのは、閉ざされた瞳を縁取る男には勿体ないほど厚い睫毛。
彼の顔にかかる黒い前髪、それから日に焼けているはずなのに白い素肌。
それ以外には、何も見えなかった。

重ねられた唇はまるで燃えているようで、義勇の腕に閉じ込められた身体にまでその熱は広がっていく。
ナマエの背中と腰に回された腕には、彼女を逃すまいと強い力が込められていた。

唇が離れる間際、義勇の瞳が薄く開かれる。
そこには驚き目を丸くしながらも、頬を紅く上気させ濡れた唇を閉ざすこともできないナマエが映っていた。

「……伝わっただろうか」
「何故、私に……?」

ナマエが先程述べたのは、想いを伝えるための手段である。
それを義勇が自身に行ったことは、ナマエを酷く混乱させた。

「ミョウジが言う通り、俺がしたい相手にした」

優しさと熱情を湛えた視線が、真っ直ぐにナマエを見つめている。

「それって……いや、でもどうして」
「何故信じようとしない」

ここまでしてまだ混乱しているナマエにもどかしさを感じ、義勇はむっと眉間に皺を寄せた。
お前があっという間に伝わると言ったでは無いかという文句は、流石に口にしなかったのだが。

するとナマエは戸惑いがちに、黒い羽織の袂に手を入れる。
抱きしめられた腕の中から、彼女は義勇に一枚の紙を差し出した。

「だって、これ……」

ナマエから身体を離し、義勇は受け取った紙を広げる。
そこに書かれている文字も言葉も、彼には十二分に覚えがあった。唖然とし、義勇はナマエに視線を戻す。

「何故ミョウジがこれを持ってる」
「すみません。拾ってしまったんです、この前伺った時に」
「何ということだ……」

義勇は師に送ったはずの手紙の内一枚だけが何故こんなところから出てくるのかと、片手で顔を覆った。
鱗滝からは返事も来ていたし、まさか一番見られて恥ずかしい相手に読まれていたとは、今の今まで夢にも思わなかった。

「本当にごめんなさい。中も、全てではありませんが読んでしまいました」

だからこそナマエは義勇に懸想する相手がいるのだと知り、漠然とした人となりを想像することができたのだ。

義勇は大きな溜め息を吐く。
これは後で寛三郎に問わねばならないと。
しかし今はまず目の前の彼女に、きちんと説明をしなくてはならない。

「読んだのなら何故分からない」
「何がですか……」
「明らかにお前のことだっただろう」
「はいっ!?」

ナマエが、夜の雑木林に響き渡るほど大きな声を上げる。
これが鬼の出る夜であれば、すぐに見つかってしまっただろう。

義勇は何故こんなにも伝わらないのだと、怪訝な表情を浮かべてナマエの眼前に広げた紙を押し付けた。
一度読まれてしまっているなら、今更恥ずかしがっても遅いと思ったからだ。

「この際だからよく読め」
「えっ!いやあの……それは……」

流れる文字を目で追い、すぐにナマエは顔を真っ赤に染め上げた。
一度目に読んだ時に受けた衝撃とはまた違った意味で、驚きを隠せない。

「だって、私はこんな人間じゃないです」
「なら自己分析が足りていないのだろう」 

義勇は本来二枚目であったはずの手紙を畳むと、自分の羽織の袂に仕舞い込んだ。
もう二度と日の目は見せないと誓いつつ。

向かい合ったナマエは狼狽え、視線を泳がせていた。
しかし彼女の顔に浮かんでいるのは少し前までの悲しげな色では無いことは、流石の義勇にも分かる。

「突然抱き締めたりしてすまなかった」

心の赴くままに、心残りが無いようにと行動したものの、彼女を困らせてしまったことは事実だった。
だからこそ義勇は衝動に駆られたことを詫び、せめて嫌いにならないでくれと言おうとしたのだが。

「私は、自惚れてしまって良いのでしょうか……」

俯くナマエの声はか細く消え入りそうだった。
彼女が胸の前で握りしめている両手に向け、ほとんど無意識のうちに義勇は手を伸ばす。
そこを片手で包み込んでやれば、ナマエは戸惑いがちに上目で彼を見上げる。
義勇はその視線に応え、しっかりと頷いた。

「お前を想うと心が落ち着かなくなる」

彼は少し前まで、この気持ちの名前すら知らなかった。
だが今は、確信を持ってその名を告げることが出来る。

「好きだ、ミョウジ」

木立を騒めき立たせるそよ風が、僅かに空いた義勇とナマエの間を吹き抜けていく。
二人の羽織が、宵闇の中で揺れた。

常に凪いでいるはずの義勇の鼓動は、煩いほど早鐘を鳴らす。
彼は片手の中に閉じ込めたナマエの手を取り、自らの胸に引き寄せた。

「この高鳴りが聞こえるだろう」

ナマエは彼の胸板に耳を寄せ、小さく頷く。
それから顔を上げ、僅かの間を置いて告げた。

「私は……ずっと冨岡さんをお慕いしていました」
「……そう、なのか?」

義勇は彼女の反応から、もしかしたら自分と同じ気持ちでいてくれているのではないかと感じ取ってはいた。
しかしそれは今気がついたことで、まさか「ずっと」思われていたなどとは考えもしなかった。

「もう、いつからだったかなんてはっきりと思い出せないです。あなたの優しさと背負ったものに触れて、いつの間にか恋をしていました」
「そうか……そうだったんだな」

恋をした相手と同じ想いをであったことがこれほど幸福な気持ちにさせるとは、義勇もナマエもこれまで知る由も無いことだった。

彼らは少しの間見つめ合い、どちらからともなく顔を寄せ、ナマエが目を瞑ったのを合図に唇を重ねる。
軽く、触れるだけの口付けだった。

鼻先が触れるほどの距離で交錯する視線には愛慕の他に、切なる願いが込められている。

「俺たちには、成すべきことがある」
「はい」

それは義勇もナマエも痛いくらいに承知していた。
近い内に訪れるであろう鬼舞辻無惨との最終決戦。
今は、ひたすらそこに向かって走り続けなければならない。
責務を前にし、明日をも知れぬ身で、生半可な気持ちで添い遂げようなどとは口にできなかった。

義勇はナマエを強く抱き締め、彼女の髪に頬を寄せる。
視界に映り込んだのは、彼が贈った菫青石の髪留めだ。

「ナマエ」

明日を共に生きる約束は出来なくとも、同じ想いを胸に抱き生きていくことは出来る。
口にしなくとも、互いに同じ気持ちだった。

「はい……義勇、さん」
「愛している」

今度はゆっくりと近づき、徐々に深く。

気持ちを確かめるような口づけを交わしながら、二人は強く、互いの存在を感じるために抱き締めあった。

 
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