──ひとつだけ言えることがある。お前の抱いている想いが世間ではまさしく、愛情という名で呼ばれるものであるということだ。 師からの文は翌日に届けられ、時候の挨拶や益々の研鑽を讃える文句の後にはそのように綴られていた。 手紙はさらに続く。 ──そしてお前はその愛情の中に、仲間や友人に向けるものとは違う何かを感じているだろう。 確かにそうだ、と義勇は小さく頷く。 そして最後の一文までを目で追うと、見慣れた筆跡で書かれている言葉を読み上げた。 「大切なものを作ることを恐れるな……か」 義勇の過去を知っていて、ずっと見守ってきた育手だからこそ言える言葉でもある。 手紙は、その一言で締めくくられていた。 義勇は手紙を広げたまま自室の窓の外を眺める。 鱗滝は他に、義勇は自分の心の赴くままに生きて良いとも記していた。 これまではずっと内罰的な気持ちに従って生きてきたから、義勇には心の赴くままに生きるということがまだよく分からない。 しかし尊敬する師の言葉は彼の心にすっと沁み入って、胸の奥を温かくさせてくれた。 天涯孤独の身である義勇にとって、鱗滝左近次は唯一の身寄りに近い。 「先生、ありがとうございます」 畳んだ文を胸に抱き、義勇はここからは見えるはずがない狭霧山を想った。 炭治郎のことといい鱗滝には甘えてばかりだと義勇は苦笑いを溢す。 そして、久しく顔を見せていないのでそのうちに会いに行かねばと思うのだった。 それもまた、良い意味で彼の心境が変わったからである。 しかし寛三郎の足に括り付けたはずの手紙が解け、老鴉が拾い忘れた一枚が師に届いていないことなど、この時の義勇には思いつきもしなかった。 暁に鳴く 弐拾弐 「もう俺が教えることはない」 木刀を下ろし、義勇は対峙するナマエに告げた。初日と比べればという程度だが、彼の額にはうっすらと汗が滲んでいる。 「本当ですか!やった……!」 向かい合ったナマエは、流れる汗を隊服の袖で拭ってから顔を綻ばせた。 彼女はこれまで散々いなされ続けた木刀を、先程遂に義勇の身体に叩き込んだばかりだ。 淡い想いを寄せる相手。 しかも彼には懸想する相手が居ると分かった上とはいえ、それとこれとは話が別である。 義勇があれこれ手解きをしてくれたことを、ナマエは忠実に守り鍛錬を続けてきたのだ。 「ありがとうございました、冨岡さん!相手の剣を受け流す動きも、その隙をついて一閃お見舞いする間合いもだいぶ分かるようになりました!」 「初日とは見違えるようになったな」 「冨岡さんのご指導のおかげです。柱稽古に参加してくださって、本当にありがとうございます」 「俺は責務を果たしたまでだ」 つい先ほどまで身体を動かしていたこともあり、頬を潮紅させたナマエは義勇を見上げて満面の笑みを浮かべている。 それを見下ろしながら、義勇はふと鱗滝からの手紙を思い出した。 『愛情の中にある、仲間や友人に向けるものとは違う何か』は確実に、彼の胸の奥に広がっている。それは義勇の心に細波を立て、焦燥と安堵という相反する二つの感覚を同時に湧き上がらせた。 「あ、そうでした」 ぱん、と軽くではあったがナマエが手を叩いた音で義勇は我に返る。 彼が思考に耽ってしまっている間に、ナマエは汗を拭い去って少し落ち着いたようだった。 「お約束は……どうしましょう」 「……そうだったな」 ナマエとしては約束を果たすつもりではいたものの、義勇には意中の女性がいるわけだから自分が彼のために厨に立たずとも良くなったのではと懸念していた。 対する義勇は忘れているわけはなかったが、前のめりになるのもなんとなく恥ずかしかったので虚空を見上げて思い出す仕草を見せる。 しかし断る理由が無いどころか彼は内心ナマエの約束を楽しみにしていたので、勿体ぶって咳払いをしてからしみじみと頷いてみせたのだった。 「約束は、約束だからな」 「分かりました、お任せください」 彼が好物の鮭大根に目が無いことは分かっていたので、ナマエはなんとなくこうなる予感がしていたのも事実だった。 なので余計な下心は忘れて、誠心誠意約束を果たそうと腹を括る。 一方義勇は先ほどまでの稽古とは打って変わって浮き足だった心を落ち着けようと必死だった。 鱗滝からの手紙が返ってきたばかりの時にナマエと二人過ごすことになり、稽古が終わった今いつも凪いているはずの彼の心の水面には波紋が広がっている。 ナマエはそんな彼の本心に気づく様子も無く、義勇の分までてきぱきと木刀を片付けはじめた。 彼女は稽古を重ねていくうちに、大分この道場の勝手を覚えたようだ。 やはり彼女がここにいてくれると屋敷が明るくなる。 心を落ち着けつつ義勇がそんなことを思いながらナマエの後ろ姿を眺めていると、視線に気が付いたらしい彼女が振り返った。 「そういえば、鮭と大根はありますか?」 「……いや、無いな」 今日か明日にはナマエへの稽古は終わる算段だったが、食材がなければ調理ができないという簡単なことをすっかり忘れていた義勇だった。 ナマエが鎹鴉たちの元へ帰ってから彼は元通りの生活に戻っていたので、買い物に行くくらいなら食事を取りにいってしまっていたのだ。 「ではまずはお買い物に行ってきます」 「荷物は俺が持とう」 ナマエは義勇の申し出に目を丸くしたが、やがて嬉しそうに微笑見返す。 義勇は無意識のうちに頬が緩むのを感じ、これでは締まりがないではないかと心の中で己を叱咤した。 「おう!久しいなぁ」 ナマエが一人魚屋に入ると、すぐに奥から出てきた店主が声をかけてくる。 彼女は目的の物を探す視線を店主に向け、覚えてくれていたくれたことへの感謝を笑顔で表した。 「はい、ご無沙汰しておりました」 「今日は何にするか決まってんのかい?」 「生鮭の切り身をお願いします。この前とても美味しかったので」 「あいよ!そいつぁ嬉しいね」 江戸の生まれなのだろうか、店主はこざっぱりとした口調の気持ちが良い男だった。 ナマエが種類を告げただけなのに、彼は大きな鮭の切り身を三切れ笹の葉に包む。 「よく分かりましたね、私が三切れ欲しかったと」 「二人分だろ?そんで、旦那の方は一切れじゃ物足りねぇと見た」 「旦那……」 御名答だろうと言いたげに白い歯を見せた店主に、ナマエはまるで火がついてしまったのかというくらい顔を赤らめた。 実は以前この魚屋に来た時にも同じようなことを言われて気まずかったので、適当な理由をつけて義勇には店の外で待ってもらっていたのだ。 しかし店主は店の前に佇む彼の姿を見てもいないだろうに、何故そう思ったのかとナマエは不思議な気持ちになった。 「あん?なんで分かったかって?」 ナマエから代金を受け取りながら、店主はにやりと笑ってみせる。 「アンタの顔見てれば分かるよ。俺ぁ仕事柄新婚さんなんて毎日のように見てるからな!」 「新婚じゃないんですってば!それどころか……」 「そう恥ずかしがるなって。ほら、こいつも持ってきな」 店主は狼狽えるナマエを照れているのだろうと解釈し、大声で笑いながら鮭と共にまたしてもおまけを渡してくれた。 「流石に悪いですよ。この前も多くいただいちゃったのに」 「良いんだよ貰っとけ!汁物にするもよし、湯通しして柑橘と醤油をかけても美味いぞ」 「茹でるものですか?これ、なんです?」 小さな包みに入っているので、渡された品が何かまでは外から見ても分からない。 「ん?鮭の白子だよ。あんたたちみたいな若い夫婦におあつらえ向きだろ!」 ナマエは絶句し、品物を受け取ったまま硬直した。 しかし店主は気にするそぶりもなく話し続ける。 「あの涼しい顔の旦那に食わせてやれい。まあ、あんたをわざわざ迎えにくるような奴だから俺もそんなに心配してねぇ……って、噂をしてりゃあ」 「買い物は終わったのか?」 「ひえっ!び、びっくりした……」 突然後ろから義勇が顔を出したので、ナマエは思わず鮭の入った包みを取り落とすところだった。 しかし宙を舞った包みはナマエの手に戻ることも地面に落ちることもなく、義勇の手に攫われると彼が持ってきた籠の中へと大事そうに入れられた。 「おう、旦那。しっかしあんたは本当に心配性みてぇなだぁ」 「……絡まれていやしないかと思っただけだ」 義勇は愛想も無く淡々と告げると、店主の手に残ったままの小さな包みに注目する。 「鮭の他にも何か買ったのか?」 「いえ、おまけしてくださるそうなんですけど……」 「ほらよ。あんたに渡しとく」 義勇は店主に言われるがまま手を伸ばし、疑問符を浮かべたまま堤を受け取った。 店主はこの無表情の夫も妻を心配して毎回店に迎えにくるのだから驚きだと内心で舌を巻いていた。 もっとも、その半分以上が彼の思い違いな訳だったが。 義勇は中身が分からないままであったが貰ったものはありがたく持って帰ろうと、その包みも籠に入れる。 それから、踵を返して店の引き戸に手をかけた。 「用が終わったなら行くぞ」 「あっ、はい!大将、ありがとうございました」 「まいどあり!」 ナマエは店主に頭を下げると義勇の後を追う。 満面の笑みを浮かべる店主には悪気が全くなさそうではあるし、白子は確かに栄養豊富な食べ物であることに間違いないので、鍛錬に励む義勇には丁度良いのかもしれないと思うことにした。 兎に角、魚の質は良いので贔屓にはしたいものの、この店に来る時には気をつけないといけないとナマエは肝に銘ずるのであった。 だがナマエは、この間も義勇の綴った「愛おしい彼女」について記憶から拭い去ることはできなかった。 しかし、今日の約束を果たすまでは一度頭から追いやることに決めていた。 気にしてしまえば、今すぐ彼の前から消えてしまたいとすら願ってしまう。 気にしないよう振舞っているからこそ、今まで以上に笑顔でいるよう気をつけているのだった。 「美味かった……」 肺の奥底から絞り出すような声。 それは普段の水柱を知る鬼殺隊士なら須く全員が耳を疑うほどうっとりとした響きを伴っていた。 「鮭大根は勿論だが、この白子の味噌汁も初めてだったがとても美味だった。また食べたい」 「お粗末様でした」 「粗末なことがあるか」 「あ、ありがとうございます。恐縮です」 ナマエは謝辞を述べながら身を縮こまらせる。 久々に立ったこの家の台所だったがまだ使い勝手は忘れておらず、彼女が手際良く作った夕食は義勇の目を爛々と輝かせた。 だが好物を前にした彼の驚くほど眩い笑顔はなかなか直視できず、ナマエはほとんど手元を眺めながら食事を終えたのだ。 義勇は黙々と箸を口へと運び続けたので、目を合わせずに済んだのは助かったものだ。 「ミョウジは、これで柱稽古は全部終わったのか?」 ふと、ようやく異常なほどの上機嫌から元の無表情に戻った義勇が問う。 ナマエは食器を片付けながら、流しに向けていた視線を上げた。 「私は鎹鴉の訓練もあるので稽古の履修は半分で良いと言われていたんです。でもなるべくお受けしたいと思っていて、自分に合ったものから受けているので……あと二つほどだったでしょうか」 「そうか。精進したのだな」 「その中でも、やはり冨岡さんの稽古はとても参考になりました」 男性の隊士ほどは力のないナマエが強い鬼と対等に戦っていく為に、相手の攻撃を受け流しつつその懐に一閃薙ぎ払うというのは非常に有効な戦い方だ。 守りに長けた水の呼吸の長所を風の呼吸の使い手であるナマエが取り入れる訓練は、不足していた部分を補って余りあるほど身のある稽古となった。 「やっぱり、水柱にふさわしい方は冨岡さんしかいないと思いました」 ちょうど片付けも終わり、手を拭きながらナマエが呟く。 義勇は何故そんなことをと、不思議そうな顔でナマエを見つめた。 少し前の彼ならもっと怪訝な顔をしただろうが、今の義勇には卑屈な気持ちはもう残っていない。 「手合わせをしていただいて思ったんです。他の柱の方々と同じ、呼吸の型を誰よりも極めた方の剣だと」 たとえ真剣でなくとも鋭く重く、ナマエが受けた義勇からの太刀筋はどの柱にも劣ってはいなかったのだ。 「前に自分は柱じゃないと仰ってましたけど、まだそんな風に思ってますか?」 流し台から離れ、義勇に向き合ったナマエが彼を見上げる。 炭治郎のお陰で変わることができたと言っていたからこそ、今の彼にそんな気持ちは無いと分かっていての質問だった。 「俺は、錆兎から託されたものを繋いでいくと決めた」 同じ師から同じ剣技を教わり、切磋琢磨した親友。 そんな錆兎が守ってくれた自分や、志を共にする仲間たちの命。 それを繋いで、鬼のいない世を実現するために剣を振るうと決めた。 そんな義勇は、水柱として錆兎に恥じない生き方をしようと心に誓ったのだ。 「助けてもらったこの命で、出来ることがあると思うから」 「それなら、私も同じですね」 ナマエは見上げた義勇に笑いかける。 義勇が前向きな気持ちを抱いていることが伝わり安堵したからだ。 「私も錆兎さんに助けてもらったから、この命でできる限りのことをしたいです」 互いに藤襲山の選別で出来なかったことは沢山あるが、あれから何年も経った今なら出来ることは少なくない。 「強くならないといけないですね。痣を、出す為にも」 竈門炭治郎と恋柱及び霞柱に出現した痣。 それが何かということと出現させる方法、そして発現した者の行く末については全ての鬼殺隊士に通達されている。 義勇は柱であるから、鬼殺隊の中でも特に痣者に近い場所にいると周りからは考えられていた。 「痣が発現した場合……俺たちはあと四年の命ということになる」 義勇とナマエは同い年なので、痣者の寿命とされている二十五歳になるまで残り四年だ。 「そう、ですね。痣は、寿命の前借りだそうですから」 痣が出れば強い力を発現させることができるという話ではあるが、産屋敷家によってこれまでひた隠しにさせられていたのはそれだけでは無かった。 痣者は二十五までしか生きられない。それは、強い力の代償であると。 義勇もナマエも鬼殺隊に入った時から命を賭ける覚悟で任務に当たってきた。 それは彼らだけでは無く鬼殺隊士なら当然のことで、鬼舞辻無惨と全ての鬼を葬り去る為には必要な心持ちである。 しかし、実際に命の残り時間を提示された時に複雑な心境になるのは仕方がないことだろう。 「やり残したことがないように、精一杯生きたいですね」 ナマエはそう呟き、義勇から視線を逸らす。目の前にいる彼を失うことは恐ろしかった。 自らの死が現実になることもさながら、彼がその命を散らすことが特に。 しかし義勇にそう伝えれば彼は自分に失望するだろうと思い、ナマエは口にすることなど到底出来なかった。 鬼殺隊士なら自分の命よりも鬼を倒すことを優先しろと言われると思ったからで、ナマエ自身もそう考えているからだ。 「やり残したこと、か。あまり考えたことがなかった」 対する義勇は顎に手を当て考える。 彼は鱗滝から「心の赴くままに生きて良い」と伝えられたばかりだったが、その心の行き先が明確に分かっていない以上どうしていいかも分かっていなかった。 しかしナマエはあの独白が書かれた紙の存在を忘れることは出来なかったので、無意識のうちに羽織の袂に触れる。 そして、再び義勇に視線を戻すと努めて明るく言った。 「たとえば、大切に想う相手がいらっしゃればきちんと気持ちを伝えるべきです」 何故彼女はそう言ったのか。わざわざ自らを苦しめることにはなるが、一番は義勇自身の身を案じてのことだった。 彼が焦がれるような想いを胸に秘めつつ、どうすることも出来ていないことは想像に難くなかった。 惚れてしまったからこそ、相手が辛く苦しいままなのは嫌だったのだ。 さらにもう一つは、義勇の本心が知りたかったということもある。 もしかしたらあのポエムのような紙は何かの間違いか、彼がまた酔って綴ったただの物語かもしれない。 義勇がここで、「そんなものはいない」と一言言ってさえくれれば、彼の本心はどうあれ心穏やかに鬼殺の道だけを真っ直ぐ進めると思っていたのだが。 しかし、そんなナマエの心算は早くも砕け散ることとなる。 「何故知っている……?」 義勇は瞠目している。 ナマエはそれを見て、ああ言ってはいけないことを言ってしまったと後悔した。 懸想する相手が居ることを何故ナマエが知っているのかと驚くということは、彼にはれっきとした想い人がいるということに違いないからだ。 「いや……あの、深い意味ではないんです。そういう方が、きっといらっしゃるんだろうなと思って」 「……そうか」 義勇は口を噤み、気まずそうに視線を泳がせる。 ナマエの前でこの話題に動揺してしまったことが恥ずかしかったからだが、彼女の方は別な意味で衝撃を受けているので彼の本心には気がつくわけもなく。 義勇の反応は、明らかに懸想する相手が居る時のそれだった。 ナマエが感じ取れたのはその事実だけ。公平でないとは思いつつ、あの紙を見てしまったことは言えそうになかった。 「そろそろ、帰りますね」 意気消沈したナマエは、顔に出さないよう注意しながら義勇に背を向ける。 自分で聞いてしまったのだから仕方ないとはいえ、このまま彼と顔を合わせているのは辛かった。 しかし義勇は窓の外に目をやってから、黒い羽織の背中に歩み寄る。 「日が暮れてしまった。送っていこう」 「大丈夫ですよ、私も柱稽古をいくつか修めた剣士です」 「見回り当番じゃないから時間がある」 「ならゆっくりお休みください」 顔を向けないナマエからつれない態度を取られ、今までこんなことはなかったのにと義勇は内心苛立った。 そもそも自分の都合で引き留めたようなものなので、夜間にナマエを一人で出歩かせるつもりなど義勇には始めからなかったのだが。 「何かあってからでは遅い」 有無を言わせず、ナマエよりも先に玄関へと向かう義勇。 今は彼と二人で歩きたいと思えなかったが、過去に鴉の集会所が襲撃されそうになったこともある為ナマエも強く断ることができない。 彼女は仕方なく義勇の後ろを歩き、外に出ると空に向かって片手を挙げる。 すると差し出された腕には、ずっと水柱邸の門に止まって待っていた三統彦が舞い降りてきた。 「お待たせ」 「送ラセルノカ?」 「お断りしたんだけど、ね」 三統彦がナマエの肩に飛び移り、彼らは互いにだけ聞こえるような声で言葉を交わす。 三統彦はナマエと義勇が家の中でどんなやり取りをしたかまでは知らなかったが、主の気落ちした雰囲気を感じ取って小さな溜め息をついた。 「泣クノハ帰ッテカラニシロヨ」 「……分かってる」 「何ガアッタカグライハ聞イテヤル」 「ありがとう、三統彦」 何故こうも上手く事が運ばないのか。 いつしか芽生えていたはずの小さな子葉を見守ってきた三統彦には、それがさっぱり分からなかった。 前を行く義勇は一見普段通りだった。 しかし彼も彼で、内心ではずっと同じことを問答し続けている。 『大切に想う相手がいらっしゃればきちんと気持ちを伝えるべきです』 まさかそんな言葉を『想う相手』本人から投げかけられるとは夢にも思わなかった。 だが、義勇には鱗滝からの『思うままに生きていい』という言葉もある。 その二つと、背中の後ろから聞こえる自分のものより軽やかな足音。 相変わらず自分を顧みず一人で帰ろうとする彼女は、以前より実力をあげたとはいえ心配で堪らなかった。 大切に想う相手というのは、ミョウジナマエでしかない。 もし思うままにこの気持ちを伝えてしまえば、彼女は断る事ができないような気もしていた。 それは義勇が柱でありナマエより立場が上である事や、彼女の性格を思ってのこと。 だからこそそこに付け入るような真似はしたくなかったし、何より義勇には最も優先すべき事が他にある。 鬼との最終決戦が近づいている予感がある以上、今考えるべきなのは鬼舞辻無惨を葬り去る事のみ。 色恋にうつつを抜かしている場合ではなく、水柱としてこの戦いに全力を──それこそ命を捧げる覚悟の義勇にとって後ろ髪を引かれるようなものを作るのは気が引けた。 だが、しかし。 ──大切なものを作ることを恐れるな。 義勇は師から伝えられた言葉を頭の中だけで反芻し、それから亡き姉と親友を思い描く。 大切なものを抱いたまま自分は最後まで戦い抜けるのだろうかと、すぐには答えが出ないだろう問いかけを自らに課しながら。 心の赴くままに生きるということは、この鬼の蔓延る世においてどれだけ難しいことだろうか。 枷になるようなものは一方で力の源になるということを、この時の彼らはまだ知らない。 [back] ×
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