辛く悲しい物ではないのに寂しい匂い、とは。

一日の日課を終え、義勇は自室にて何をするでもなく座している。
柱稽古が始まってからは夜回りの担当日も以前より減り、彼はかつてないほど夜の時間を家で過ごすようになっていた。

思考に耽るための時間も沢山ある。
だからこそ、こうして何気ない疑問について思いを巡らせることができたのだ。

昼間炭治郎に言われたことが頭から離れず、義勇は一人になってからずっと同じことを考え続けている。
途中で何度自分の羽織に鼻を近づけてみても、そこからどんな匂いがするのかなど分かるはずもなかった。

ただ、そんな彼にも一つだけ理解できたことがある。
それは自分自身の気持ちについてだった。

ミョウジナマエと自分から同じ匂いがする──
炭治郎にそう言われたとき、確かに彼に湧き上がった感情は「うれしい」というものだったのだ。

「どうして嬉しいなどと……」

しかしその理由までは分からなかった。
義勇はひとりごちてから腕組みをし、更にその続きを回想する。
ナマエ本人とのやり取り、彼女が語った過去、そして交わした約束について。

錆兎がつないでくれたもの。
それは義勇自身の命だけではなく、ナマエの命も同じだった。
そのことに想いを巡らせるたびに、彼は感謝とともに得体の知れないもどかしさを覚える。

それは以前にも感じた、「自分の代わりに錆兎が生きていれば、彼女は錆兎の隣でもっと笑顔になれたのだろう」という気持ちに繋がった。
誰よりも強かった親友に抱く憧れは、この点に於いてだけは後ろめたい嫉妬心となり義勇の胸に燻っている。

「もしかしたら、俺は……」

──彼女に笑っていてほしかったのだ。自分の隣で。

辿り着いた答え。
しかし義勇は抱いたことのない感情に困惑を覚え、気持ちを落ち着かせるために傍で眠る寛三郎を撫でた。
黒い羽根は彼女の羽織を彷彿とさせ、安らぎを覚えるとともに嫌でもその顔貌を思い浮かべさせられる。

胸の奥にある気持ちは「ただ隣で笑っていてほしい」だけではなかった。
その微笑みを、自分に向けてもらいたいのだと。

だが十三歳の頃から剣士として鍛錬に明け暮れてきた彼にとって、胸に湧き起こる気持ちはどう対処したらいいか分からない不可解な物である。
自分がナマエに対し特別な感情を抱いていることまでは自覚できたものの、その感情の名を明確に導き出すことはできずにいた。

義勇は廊下に出て、突き当たりに面した部屋に足を踏み入れる。
そこに置かれた文机の前に腰を下ろすと、ふうっと息を吐いてから道具入れに手を伸ばした。

おそらくこの一文字で表すことができるだろうという心当たりはある。
だからこそ彼は、信頼できる人物にその真偽を確かめることに決めたのだ。


暁に鳴く 弐拾壱


翌日も、義勇の予定はほとんど昨日と変わらないものだった。
朝は炭治郎に稽古をつけたが、優秀な剣士なだけあり義勇の予想より早く稽古が終わりそうだと嬉しくもあり寂しさもあるような気持ちを抱いたものだ。

その後も昨日と同じ隊士数名に稽古をつけ、ナマエが来るであろう時間まで自身の鍛錬を行なっている。
少し前向きになれた義勇の、かつてないほど穏やかな日々だった。

ふと玄関先に馴染みの気配を感じ、義勇は木刀を振るう手を止めた。
そろそろ時間か、と開け放した襖の向こうに広がる空を見上げる。
好きに入ってきて構わないと鍵は開けてあるので、間もなく彼女は道場に顔を出すだろう。
昨日自覚した想いの名はまだ空白のままだが、不思議と焦りは無かった。

義勇は昔育手に言われた通り心に水面を思い浮かべる。
今、その心は悪い意味で騒めいているわけでもない。
そこに広がる水紋が広がりきって消えるのを待ち、彼は凪いだ水面に己の姿を写す。

そこに映った男は、自分でも驚くほど穏やかな目をしていた。

ごめんください、と一言告げてからナマエは水柱屋敷の門を潜った。
昨日義勇に見送られこの場所を経ってから、あっという間に戻ってきたなと思えば自然と笑みが浮かぶ。
勿論目的は柱稽古だが、やはり想いを寄せる相手と会えるということは理由はともあれ喜ばしいことだ。

ナマエが玄関の戸に手をかけた時、足元からくしゃっという音が聞こえる。
視線を下ろすと、彼女は落ちている紙の端を踏んでしまっていたことに気がついた。

ナマエは慌てて足を退けそれを拾い、ゴミなのか落とし物かどうか確かめるため紙を広げる。
そこには端から端までびっしりと文章が書かれているが、筆跡には見覚えがあった。
それはこの家に滞在していた頃置き手紙などで幾度となく目にした、義勇の文字だったからだ。

しかしナマエが驚いたのはそれ以上に、そこに書かれている内容だった。
筆跡を確認するため冒頭の数行を読んでしまったものの、彼女はこれを簡単に義勇の元へ持っていき手渡すことができそうにない。
何故なら、あの冨岡義勇という男が綴った内容とは思えないほどのものだったからだ。

『彼女を思うと不思議な気持ちになります』

そんな衝撃の一文から始まるので、見てはいけないものと思いつつナマエはその後を目で追うことがやめられない。

『嫉妬というものをしたのは初めてかもしれません。しかも、自分が尊敬する相手に』

義勇らしい流れるような文字はまだまだ続く。

「『以下に、彼女を特に愛おしいと思う点を挙げます』って……これは、手紙なの?」

ナマエは思わず紙を広げたまま立ち尽くした。頭の中で読んでいたはずが、あまりの衝撃に声が思わず口をついて出ていたらしい。

一つ、自らの責務を第一に考え常に一生懸命であるところ。

一つ、私が上手く言葉に出来ない部分を汲み取ってくれるため、共に居て心地が良いところ。

一つ、周りの者たちを大事にしているところ。同期とも仲良くやっているようです。

一つ、時折自分の身を顧みないところ。

一つ、彼女が居てくれると家の中に穏やかで温かい空気が流れるところ。

この羅列はまだ続き、ナマエは最後まで読むことができず紙を畳んだ。
そして顔を上げると、困惑した表情で水柱屋敷の戸口を見つめる。

「冨岡さん、好きな人がいるんだ……」

この紙に綴られている内容は明らかに義勇が懸想する女性の特徴を書いたものだ。
手紙にしては唐突に内容が始まるため、もしかしたら日記のようなもの──西洋風にポエムと呼ぶべきか──なのかもしれないとナマエは考える。

「これ、どうしよう」

三統彦には幼い鴉たちの世話を任せてきた為幸か不幸か彼は側におらず、今この場所でこの紙の内容はナマエしか知らないはずだ。
義勇の家の前に落ちていたということは義勇が落としたのだろうかと、ナマエは首を捻った。恋をしている相手に渡すような書き方にも見えなかったからだ。

かと言って内容を見てしまったことが分かれば彼も恥ずかしいだろうと思い、落としてましたよと返すのも憚られる。

「とりあえずお預かりしておくしかないかな……」

隙を見てそっと彼の家に置いて帰るのが良いかもしれない。
ナマエはそう考え、義勇渾身の「ポエム」と思われるそれを羽織の袂に仕舞い込んだ。

口数の少ない義勇が饒舌に綴った内容は衝撃そのもので、彼が誰か「常に一生懸命で仲間思いの女性」に恋心を抱いているということは日を見るより明らかだった。
そんな女性なら誰でも好きになるだろうと思う一方で、ナマエは胸の奥に走る痛みに顔を顰める。

「そっか……そうだよね……」

彼も人の子なのだから、好きな相手がいても決しておかしくはないのだとナマエは考えた。
常日頃から落ち着いた義勇にこれほど情熱的な想いが秘められていたことには驚くが、逆に言えばそれだけ彼を夢中にさせる女性がいるということだ。

と言っても鬼殺隊にも魅力的な女性は多いし、義勇の交友関係をそれほど知らないのでナマエには相手の見当もつかなかった。
分かるのは、あの義勇がこれほど褒め称えるような素晴らしい人柄の女だということだけ。

「こんなすごい方に勝てるわけないし……私がどれだけ頑張っても、冨岡さんの眼中にも入らなそう」

ナマエは自分でそう言っておいて悲しくなった。しかし、これは紛れもない事実である。

「素敵な人はやっぱり素敵な人に惹かれるんだなぁ……」
「何故入ってこない」
「あ!冨岡さん……!」

がらっと引き戸が開けられたのと同時に、ナマエは反射的に姿勢を正して羽織の袂を押さえる。
気配はするのにいつまでも顔を出さないナマエを心配し迎えにきた義勇は、彼女の様子に首を傾げた。

「どうかしたか?」
「あ、いえ……すみません、ちょっとぼうっとしていました」
「体調が悪いのか?」
「そんなことないです!元気ですよ、元気」

腑に落ちない様子ではあるものの義勇はそれ以上追求することはなく、ナマエに背中を向け歩き出す。

騒めく気持ちのまま鍛錬は受けられないと、ナマエは勢いよく両手で自分の頬を叩いた。
弾けるような音に驚いた義勇が目を丸くして振り返る。
やってしまった、とナマエが愛想笑いを返すと、彼はもう一度首を傾げてからまた前を向いた。

ナマエは無意識のうちに頭の後ろに手をやる。菫青石の髪留めは、今日もそこで輝いていた。


狭霧山という名の人里離れた高い山に、とある老人が一人住んでいる。
彼は名を鱗滝左近次といい、元は鬼殺隊で柱にまで上り詰めた男だった。

常に天狗の面をつけた彼は今、愛弟子からの文を広げて頭を捻っていた。どうも二枚に分かれた手紙の内容が上手く繋がらないのだ。

今では弟子の中で一番出世した青年は、もともと口数が少ない上に話もよく飛ぶので汲み取るのが難しい。
だがあまり来ないものの手紙ではそういったことが無かったので、鱗滝は何かの暗号なのかともう数刻ほど手紙と睨み合っていたのである。

しかし概要は理解することが出来たし、話が飛んでいるのも書き手が緊張しているせいかもしれないと、鱗滝はそれらしい理由を思い浮かべた。
まさかあの愛弟子・冨岡義勇から恋についての相談が送られてくるなどとは露も思っていなかったので、鱗滝はこの手紙自体が狐の悪戯か何かではないかと思うほどだったのだが。

しかし、この手紙は義勇の鎹鴉が自ら運んできたものだ。
筆跡も愛弟子のそれである。
寛三郎が何故か足ではなく嘴に咥えてきたのは謎の残るところであったが、それでも我が子のような愛情を持っている義勇から血生臭い内容ではない文が届いたのは、とても喜ぶべきことだった。

「『何より、彼女は鎹鴉たちを大切にしており、持てる限りの愛情を持って育て導いています。その姿は誇り高く、何者にも代え難い尊さを感じるのです』とな。あの義勇がこんな台詞を吐こうとは」

鱗滝はあまりのむず痒さに後頭部を掻いてから一旦文を置き、さてどう返したものかと考え始める。

手紙の一枚目は、いつも通り挨拶と自分を気遣う言葉から始まった。
しかしその後にすぐ『私にも、懸想する女性が出来たようです』と綴られていたのには驚き、危うく天狗の面を引きちぎってしまうところだった。
手紙を持ってきた寛三郎はしばらく鱗滝の側にいたが、「会エバ鱗滝殿ニモワカル」とだけ残して飛び去ってしまった。

そしてまた読み進めれば、三枚目には唐突にその相手が鴉を育てている姿が何より尊いと書かれていて、何よりも何も無いだろうとは思わされた。
だが鎹鴉を育て導く女と言われれば鱗滝が知るのはたった一人である。
自身が柱を辞めた後のことだから直接会った試しはないが、そんな隊士がいることには聞き覚えがあるからだ。

「義勇、それはな……」

鱗滝は新しい紙を広げ、墨を溜めた硯に小筆を浸す。
兎にも角にも今まで見てきた子供たちの中で一番心配させられた義勇に、少しでも心の支えができるならこれ以上のことはない。

弟子への挨拶の言葉と益々の活躍を労う言葉を綴ってから、鱗滝は天狗の面の下で密かに微笑むのだった。

 
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