──本当に頬を叩かれたような気がした。 あの日の痛みが鮮やかに甦り、それと同時に錆兎の怒鳴り声が確かに頭の中を巡った。 『お前も繋ぐんだ』 そう告げた、宍色の髪をした少年の顔と共に── 暁に鳴く 弐拾 何故か成り行きでざる蕎麦の早食い競争を強いられた後、義勇は対戦相手だった弟弟子の竈門炭治郎と共に自邸の前に立っている。 炭治郎は義勇を見上げ、その顔つきの変容に笑みを溢した。 「すみません義勇さん。俺、生意気なことを言って」 義勇はかぶりを振って、炭治郎を見下ろす。 「お前のお陰で大切なことを思い出せた。ありがとう」 どうしても後ろを向いてしまいがちな彼も、炭治郎の一言でようやく一歩前に踏み出すことが出来た。 『錆兎から託されたものを繋いでいかないのか』という言葉によって。 彼はその瞬間思い出したのだ。 かつて姉を喪った悲しみに打ちひしがられた時、親友から頬を叩かれたことを。 姉の代わりに自分が死ねば良かったと口走った義勇に対し、錆兎は姉を冒涜するなと怒り、命懸けで救われた自身の命を未来へ繋いでいけと言った。 錆兎のことを深く思い出すことすら辛く悲しく、これまで義勇はそのことすら記憶の奥底に封じ込めてしまっていた。 しかし炭治郎からかけられた言葉をきっかけに思い出した彼は、再び自分に託された『命を繋いでいくこと』を胸に抱き、ようやく立ち上がることができたのだ。 「良かった。義勇さんからやっと、辛く悲しい匂いがしなくなりました」 炭治郎はそう言ってにっこりと笑う。 彼は鼻が非常によく効く少年で、相手の秘めた感情すら感じ取ってしまうらしい。 義勇は、自分にそんな香りが立ち込めていたのかと思い羽織の腕を顔に近づけた。 もちろん彼自身にはそんな匂いなど分かるはずがないのだが、辛い悲しみの匂いが無くなったら今度はどんな匂いがするのか気になったのもある。 「今はどんな匂いだ?」 すると、炭治郎はすんすんと鼻を動かしながら目を閉じた。 「どんなと言うと……義勇さんのおうちの匂いがします」 「それはそうだろうな」 「はい。あぁ、そう言えば悲しい匂いが無くなった分ミョウジさんに近くなりましたね」 「ミョウジに?」 何故突然彼女の名前が出てくるのかと義勇は首を傾げる。 「前に会ったとき、ミョウジさんから義勇さんと似た匂いがしたんです!」 「ああ、それはミョウジが毎日うちに来ていたからだ」 あっけらかんと言い放つ義勇に対し、事情を知る由もない炭治郎は目を丸くした。 ミョウジナマエが鎹鴉の訓練士であることは知っているが、義勇とどういった関係かは知らなかったからだ。 「ミョウジさんってやっぱり義勇さんと親しかったんですね!この前は詳しく話を聞けなかったので」 「今はもう来ていない」 男女の機微には鈍い炭治郎でも、無表情でそう言い放つ義勇を見て何かを感じ取ったらしい。 「すみません、立ち入ったことを聞いてしまって」 義勇は構わないと首を横に振る。 聞かれて困るようなことは、彼にとっては何も無いからだ。 「また、来てくれるようになると良いですね!」 そよ風に揺れる義勇の後ろ髪や羽織へと意識を向け、炭治郎は再び鼻を動かす。 突然そんなことを言われた義勇は炭治郎の言いたいことがすぐには理解できず黙っていた。 しかし炭治郎は義勇を見上げるとまたにっこりと笑う。 「少し、寂しそうな匂いがしました」 「そうか?」 自分では分からず、義勇は首を傾げた。 「はい。でも決して、辛いとか悲しいとかそういうのとは違いました」 「人の感情を嗅ぎ取るな」 義勇は炭治郎の頭をくしゃりと撫でてから踵を返す。 それから自邸の門に手をかけ、そっと押した。 「……寂しい、か」 「義勇さん?」 「なんでもない。明日また同じ時間に顔を出せ。稽古をつけてやる」 そう言われた途端に炭治郎はぱあっと顔を綻ばせる。 望んでいた義勇の柱稽古がようやく受けられると決まったからだ。 「ありがとうございますっ!明日からよろしくお願いします!」 腰を直角に折って頭を下げる炭治郎。 義勇はその姿を横目に見て、無言のまま門の向こうへと去っていった。 一人になった義勇は己の手のひらに視線を落とす。託されたもの、繋いでいかなければならないもの。 それを思い描いたとき、自然と浮かぶものたちの中には彼女の顔もあった。 錆兎が守ったもの。 それは義勇自身の命であり、あの日藤襲山で共に試練を受けた仲間だ。ナマエもその一人であり、彼女も錆兎に助けられたと言っていた。 そしてそんなナマエを自分が救ったこともまた事実で。 義勇は手のひらを握りしめ、誰に向けてでもなく一人呟く。 「錆兎が守ってくれたもの、俺も大切にしたいと思う」 そして、この浅からぬ縁にはきっと何か意味があるのだろう。 そんな風に思えるようになったのも紛れもなく炭治郎のお陰だと思い当たり、義勇は自然と柔らかい笑みを浮かべるのだった。 そんなミョウジナマエが水柱の柱稽古を受けに来たのは翌日のこと。 義勇の稽古は後から追加になったこともあり辿り着く隊士が少なく、しかも岩柱のものと同じで任意とされていた。 冨岡義勇が行う柱稽古は『受け流し』の鍛錬である。 それは現存する水の呼吸の使い手最強である彼に、最も合ったものであった。 朝一で炭治郎に稽古をつけて以来義勇の元には数人の隊士が訪れただけで、ナマエが門を叩いた時にはちょうど彼の手は空いていた。 なので義勇はナマエを出迎えると真っ直ぐに道場へと案内したのだ。 彼女からは何故今になって柱稽古をやるようになったのかなど詳しいことは聞かれなかった。 説明するのにもどこから話したら良いか分からなかったので、義勇はそれを有難く思っている。 「早かったな」 別の任務があるため柱稽古を行わない胡蝶しのぶを除いても、あと六人分の稽古がある。 義勇は決して最上位の位ではないナマエが自らの元に辿り着くのが、これほど早いものだとは思っていなかった。 義勇に続いて道場に足を踏み入れ、ナマエは胸を張る。 「驚きましたか?実は柱の方を相手にする時の秘訣がありまして」 「秘訣?」 「柱の方々の鴉たちが稽古の特徴を教えてくれるんですよ」 銀子のはただの自慢話ですけどそこに攻略法が隠されているので、と続けながらナマエは人差し指を立てた。 「だから対策が取りやすくてですね。ずるい、って思われるかもしれませんがこれも立派な作戦です!」 「なるほど」 「でも寛三郎は遊びに来てくれないので何も聞いてないんです」 悪戯っぽく笑う彼女に木刀を手渡し、義勇は自分の物を構える。 彼は自分への対策がどんなものか聞いてみたい気もしていたが、それはどうやら叶わないらしい。 簡単に超えられてしまうのも味気なかったので、その方が良かったのかもしれないと思いつつ。 「まあ、俺としては都合がいいか」 ナマエはその時、対峙する彼がまるで憑き物が落ちたような晴れやかな表情を浮かべているのに気がつく。 水柱が柱稽古を行うこととなったという知らせには驚き、義勇に何かしら心境の変化があったのだろうとは考えていた。 何はともあれ義勇が元気そうで良かったと思い、ナマエは木刀を身体の前に構える。 「よろしくお願いします、冨岡さん」 「俺の方こそ頼む、ミョウジ」 一度木刀の鋒を合わせてから一歩離れ、二人は同時にすっと息を吸い込んだ。 「今日はここまでだな」 義勇の凛とした声が道場にこだまする。 「はぁ、はぁ……ありがとう、ございました……」 木刀を下ろし、肩で息をするナマエ。 対する義勇は涼しい顔のまま、同じように木刀の鋒を床に下げた。 はしたないと思いつつ羽織の袖で額の汗を拭い、ナマエは大きく息を吐く、 「これだけ打ち込んでも全て受け流されてしまうなんて……流石です」 義勇はナマエの手から木刀を預かり、満足そうに彼女を見下ろした。 「思っていた以上に速かった。風の呼吸の使い手らしい良い太刀筋だ」 「あ、ありがとうございます」 全く歯が立たなかったものの、そう言われたナマエは僅かに照れてしまう。 柱には到底及ばないものの、一生懸命切磋琢磨してきたつもりの剣技を褒められて嬉しくならない者はいないだろう。 ナマエが使用する風の呼吸は他の呼吸以上に攻撃的なものだと言われている。 逆に水の呼吸は守りに向いたものだと言われているので、二人が使う剣技は逆の特徴を持っていた。 だからこそ、ナマエが義勇から学べるものは多い。 「明日も訓練の後来るのでこのぐらいになると思います」 黒い羽織を脱ぎ、手で顔を扇ぎながらナマエは言った。 道場の窓は開けられておりそよ風は吹き込んでくるが、激しい鍛錬で身体を動かし続けた彼女は汗だくだ。 義勇はそんなナマエに水を差し出す。 稽古を受けにきた隊士皆に、こうして水を出してやるのが義勇の優しさだった。 ナマエは短い礼を述べてから水の入った竹筒を受け取る。 ごくごくの音を立て飲み干せば、体の芯から潤っていくという実感が湧いた。 「鎹鴉の訓練をしてから来るのか?」 「鴉たちにも速度と体力向上の鍛錬を課しているので」 「その後自分の鍛錬をするのか」 義勇は目を丸くする。 ナマエの役目は鴉たちの育成や訓練をすることなので、決戦を控えた今彼女が鎹鴉たちのために時間を割くのは当然だった。 しかしその訓練とて立派な肉体労働である。 鴉とともに雑木林の中を駆け抜け、跳び回ることもあるのだから。 それを話に聞いていたので義勇は驚いたのだ。 「ミョウジは努力家だな」 「え?そうですか?」 空になった竹筒を義勇に返し、ナマエははてと首を傾げる。 ナマエとしては鬼殺隊士なら誰でも与えられた役割に邁進するのは当然のことと考えており、自身の研鑽と鴉の訓練が自分にとっての役割だと思っているからだ。 「皆努力しているでしょう。冨岡さんだって、柱になられてからも鍛錬を続けてますよね?」 「お館様から手紙をいただいたんだ」 義勇が回想するのは、つい先日柱稽古を始めることと遅れてしまった詫びを産屋敷家に伝えたときのこと。 戻ってきた寛三郎の足には、震えた形跡はあるものの確かに耀哉の筆跡で文が綴られていた。 「お前が育てた鴉が、珠世という鬼の家を突き止めたと書かれていた」 「私が育てた、といっても今は親方様のところの子です。お館様やあまね様のご教育の賜物ですよ」 ナマエも以前その話は聞いていた。 それは、産屋敷家から義勇と炭治郎のことを気にかけるよう申しつけられた手紙の冒頭に書かれていたことだ。 「その方が蟲柱様と協力すれば大きな戦力になる、と。本当は蟲柱様の稽古を受けたかったのですが、仕方のないことですね……」 ナマエは、胡蝶しのぶと薬学の話をしようと約束したのをもうとっくの昔のことのように思い出す。 柱稽古で会うことができればそんな話も出来たかもしれないが、どうやらしのぶは今珠世と共に特別な薬を研究しているらしい。 勿論、これは柱など一部の人間にしか知らされていないことだ。 「胡蝶もお前と話したかっただろうな」 「そうだと嬉しいんですけど、いずれにしても緊張してしまいますね」 そう言って困ったように笑うナマエを見て、義勇は濃紺の瞳を細める。 ナマエはこうして少しずつ産屋敷家や柱たちの信頼を得てきたのだろうと思えば、彼女が眩しくて仕方がなかった。 「お前は、すごい」 「冨岡さんほどのすごい人に言われるととても恐縮です」 ナマエはふるふると首を横に振る。 口数の少ない義勇が相手だからこそその一言の重みを感じ、自分にはそこまで褒められる所以はないと恐れ多く思う一方だった。 しかし世辞を言っているつもりはないので、何故ナマエが素直に受け取らないのかと義勇には少しだけムッとしていた。 それに、そんな彼女に褒められる所以は自分にあるはずないと思っているのだ。 要は、彼ら二人は同じことを考えているだけなのである。 「俺は別にすごくない」 「何を言います!柱に上り詰めただけでも相当な努力をしたはずなのに」 「ミョウジの方がすごい」 「いやいや冨岡さんの方がすごいですよ!」 やがてその不毛な褒め合いの応酬が可笑しくなり、ナマエは小さく噴き出した。 義勇の方も、自分たちは一体何をしているんだと呆れて苦笑を浮かべている。 「だんだん何を話してるのか分からなくなってきました」 「俺もだ」 そうして二人は視線を合わせ、どちらともなく肩を震わせ笑いはじめる。 「ふふ……。冨岡さん、少し変わりましたね」 口元に手を当てて笑みを溢しながら、ナマエは義勇の顔を見上げた。 しかし義勇はただまばたきをしているだけだ。 「雰囲気が、少し柔らかくなられました」 「柔らかく?」 「はい。何か良いことがありましたか?」 彼が柱稽古を始めたのもその一環だろうと思いつつ、ナマエは理由までわからなかったのでそう問うてみたのだった。 義勇は彼女を見下ろし、顎に手を当てる。 「良いこと……なのかは分からないが、炭治郎のおかげだな」 「竈門炭治郎君ですね」 ナマエがそう聞くと義勇は頷き、肯定の意を示す。 ナマエも炭治郎が義勇の元に通っていたことは知っているので、やはりそれがきっかけだったのかと内心で納得し炭治郎に感謝した。 自分には到底、義勇の抱える深い闇を晴らすことはできないと思っているからだ。 「竈門君は良い子ですよね。私も一度話しましたけど、真っ直ぐで」 「ああ、そうだな」 流石の義勇も、真っ直ぐすぎる炭治郎に意味も分からずざる蕎麦の早食いをさせられたことは言わなかった。 しかしそんな突拍子ないことさえしてみせる、嘘偽りない炭治郎の眼差しに彼が救われたのは事実だ。 「本当に、炭治郎には感謝しなければならないな」 そんな気持ちを義勇が噛み締めていると、ナマエがぽんと手を叩いた。 「そう言えば、村田君も炭治郎君と知り合いみたいでした」 「村田が?」 この場合、村田といえばナマエや義勇の同期のことである。 以前からナマエが村田と仲良くしていることは知っていたので、義勇は何故村田と炭治郎が仲が良いのかをナマエが知っているのかは聞かなかった。 「村田君も那田蜘蛛山に行ってたらしいですからね。ほら、彼は柱合会議に呼ばれたんでしょう?」 「そうだったな」 「それからの仲みたいです。真面目な良い子なのに強くてすごいと言ってました」 「そうなのか」 義勇はなるほどと納得しながら、一方で胸の奥に小さな「つかえ」を感じて顔を顰めた。 「冨岡さん?」 不思議そうに覗き込んでくるナマエを横目で見下ろし、義勇は得体の知れない「つかえ」からくる不快感に困惑する。 それと同時に、浮かんだのは一つの疑問だ。 「お前はよく村田の話をするな」 「え?そりゃまあ……」 ナマエは初めこそ驚いたが、特に恥ずかしがるような様子もなく言葉を続けた。 「冨岡さんは覚えてないと思うんですけど」 彼女が頭の中に思い描くのは、遠い日の記憶だ。 「藤襲山の選別で、頭に怪我を負ったあなたの側にずっと居たのが村田君でした。私は、試練が終わった後隠の人たちに介抱される冨岡さんと、付き添い続ける村田君と一緒にいたことがあって」 たった一人の候補者を除き、全員が生き残ったその年の選別。 生きたまま七日目を迎え、鬼殺隊本部から派遣された隠たちから皆が手当を受ける中で一人呆然と虚を見つめ続ける少年がいた。 赤錆色の羽織を着たその少年は、どうやら頭に怪我を負って、しばらくの間出血から意識が朦朧としていたらしい。 ナマエは狐面の少年に助けられ命からがら安全な場所まで逃げてきた折、赤錆色の少年とその側に付き添うもう一人の少年と出会ったのだ。 『その子は?』 『こいつ、危なっかしくて目が離せないんだ。意識もほとんどないし大怪我をしているくせに、無意識で友達を探しに行こうとする』 さらさらと細い黒髪を夜風に遊ばせながら、その少年はナマエに助けを求めてきた。 『俺一人じゃずっとこいつを見張ってるのも限界でさ。悪いけど手伝ってくれるか?』 それが村田とナマエ、そして本人には覚えが無いものの義勇の出会いだった。 「そうか。だから……」 彼の認識の中でだが、ナマエと初めて会った頃に感じた気持ち。 体調を崩した寛三郎を介抱し、優しく声をかけたナマエに覚えた既視感の正体。 それはかつて、自分にかけられた励ましの言葉だったのだと義勇は気が付いたのだ。 「なので、村田君の話なら冨岡さんにも通じると思って」 共通の知り合いがいれば話もしやすい。それは確かに事実である。 だからこそナマエは自分との共通の話題として村田の話をしてきたのだと、義勇はようやく理解した。 「特別仲が良いのだと思ってた」 「手紙は送りあってますけど、量も頻度も他の同期と変わらないですね」 「そうなのか」 不思議と、少し前まで感じていた違和感は消えていた。 そんな義勇は凪いだ胸に手を当てて、しかしながらそんな風に自分を支えてくれた同期の仲間のことを忘れていたことを恥じる。 「覚えていなくてすまない」 しかしナマエはゆっくりと首を横に振り、表情を緩めながらも眉尻を下げた。 「あれだけの事があったら当然でしょう」 親友に救われ、気を失っている間に七日が過ぎたこと。 鬼を斬ることも出来ないまま、その親友とは永遠に会うことが叶わなくなってしまったこと。 あの選別で義勇の身に起こったことを想像するだけで、ナマエは胸が引き裂かれるほど辛い気持ちになるのだ。 ならば実際に当事者となった義勇の悲しみは推し量ることすら出来ない。 だからこそ、ナマエは今日まで彼があの日を無理矢理思い出す事がないようこの話をしなかったのだ。 「けど、もう大丈夫そうですね」 事実を明かした後しばらくの間義勇の様子を見てから、ナマエはそう告げた。 対する義勇は胸に当てていた手をぎゅっと握り締め、力強く頷いて見せる。 「ああ。錆兎が守ってくれたものを繋いでいくと決めた」 「良かった……本当に」 ほっと胸を撫で下ろし、ナマエはようやく心からの笑みを浮かべることが出来た。 彼女にとって、過去を捨てるのでもなく引きずるのでもなく、繋いでいくと語る義勇の顔は凛々しく眩しいものだった。 遠いあの日、布団の中で嗚咽を漏らし続けた赤錆色の背中の少年は、今もうどこにもいない。 「では、また明日」 道場から表門まで見送りに来た義勇に、ナマエは深く頭を下げた。 日は既に傾き始めており、方々から夕食の香りが風に乗って漂ってきた。 「そう言えば、ご飯はちゃんと食べてますか?」 以前寛三郎に頼まれて訪れた日にはまるで食欲が無さそうだったと思い出し、ナマエは心配そうに義勇を見上げる。 しかし彼は安心させるように、少しだけ口角を上げて答えた。 「心配無い」 「それは良かったです」 「だがお前がいた時の方が良かった」 「……え?」 さりげなく呟かれた言葉にナマエは耳を疑う。 しかし義勇は相変わらず感情が分からないような無表情を浮かべていた。 彼としては、ナマエが居てくれた時は色々と助かっていたと言いたかったのだが。 それにしても、義勇自身も不思議に思うほどナマエが来なくなってからはどこか物足りない気がしていた。 だがこんなことを言えばまた三統彦に家事は自分でやれと怒られてしまいそうだと思い口にはしなかった。 しかし生活が元に戻っただけのはずなのに、何を食べてもどれだけ質の良い布団で寝ても、どこか違和感が拭えなかったのである。 その上炭治郎には『寂しい匂いがする』と言われてしまったのだから義勇は困惑するしか無かった。 元通りの生活が寂しいものだなどと、思ったことはないはずだと。 「あの、冨岡さん?」 義勇が黙ったままであることを心配し、ナマエはおずおずと声をかける。 考えに耽ってしまっていた義勇ははたと気が付き、気まずくなって後頭部を掻いた。 「すまない。前のことを思い出していた」 「前の?もしお困りでしたら、私またお手伝いに来ますよ?」 義勇の家から出立した日、ナマエは彼に同じことを申し出たはずだった。 彼はそうならないよう努力するとは言ったものの、やはり柱の身では自らの生活の世話も難しいのだろうとナマエが思いを巡らせていた、その時。 「またあの鮭大根が食べたい」 真摯に告げる濃紺の瞳は、その奥に隠しきれない期待感を秘めている。 有り体に言えば、義勇の目はキラキラと輝いていた。 「鮭大根」 思わずナマエはその名を鸚鵡返しにする。 過去に義勇が見たことないほどの笑顔を浮かべたあの料理の魔力は、未だ健在らしかった。 驚きはしたものの、彼がそこまで所望してくれることはナマエにとって喜ばしいことだ。 その期待には、なんとか応えたいと彼女は願う。 「分かりました。ただ、出来れば冨岡さんの稽古に慣れてからで良いでしょうか……」 実のところナマエは今もへとへとで、台所に立つ気が起きなかった。 義勇は勿論だと首を何度も縦に振る。 余程、好物にありつける機会を逃したくないのだろうとナマエは少し可笑しくなった。 「では、私も頑張って早く冨岡さんのお墨付きを貰えるようにします」 「あんなに美味かったのに?」 「いや、鮭大根じゃなくて柱稽古の方です」 「ああ……」 どれだけ頭の中が鮭大根一色なのだと、ナマエは真顔の義勇に対して頭の中だけで呟いた。 彼はそんなことを思われているなど気が付きもせず、見下ろしたナマエに向け人差し指を立てた。 「では、ミョウジが無事に俺の稽古を終えたら頼む」 この申し出は、流石に鍛錬の合間に手を煩わせるのも悪いと思い、しかしわざわざそのためだけに来てもらうのも悪いと思った義勇なりの気遣いである。 ナマエも、そのことはきちんと感じ取ることができた。 「分かりました!では明日からまた気合を入れて頑張りますね」 冨岡さんの鮭大根のために。 ナマエがそう付け加えれば、義勇は再び力強く頷いた。 そんな彼が浮かべたのは柔らかい笑み。 それを目の当たりにしたナマエは、込み上げるざわめきを落ち着かせるため胸を手に当てる。 この恋心からはきっと逃れられない。 そう思いながらも、やはり課せられた務めを果たすまでは蓋をしておこうと心に決めるのであった。 [back] ×
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