この身と心が怒りと悲しみ以外の激情に焦がされた──ような気がした。

一度凪いた水面に波紋が立てばそれは大きく広がっていく。
きっかけは些細なものであっても、確かな変化は気付かぬうちに少しずつ育まれ続けていた。

まどろむ意識の中、義勇は胸のざわめきを感じ重たい瞳を持ち上げる。

明烏は、まだ鳴かない。


暁に鳴く 拾漆


「何故俺はここに……」

もそもそと布団から起き上がった義勇は、ここが見知った部屋ではあるものの自分が目覚めるべき場所ではないことに気がついた。
部屋の中は薄暗く、換気の為なのか僅かに開かれた格子窓の向こうには低い位置にある月が見える。

義勇がまだ定まらない視界に目を凝らすと、布団が敷かれているすぐ側に、木の盆に置かれた水差しが見えた。
本能的にそこへ手を伸ばし鉛硝子のコップに水を注ぐ。
一息で飲み干せば、澄んだ水が乾いた身体の隅々にまで広がっていく気がした。

「冨岡さん、お目覚めですか?もう少しお休みになられては?」

閉ざされた襖を隔ててナマエの声が聞こえてくる。
義勇はのそのそと立ち上がると、部屋の明かりを点けてからゆっくりとそこに向かい襖を開けた。

襖の前で控えていたナマエは、まず義勇の顔色を伺ってから彼の様子に安堵する。
流石に、安全な状態であることを確認しなければ今宵の義勇には近づけないと思っていたからだ。

「ミョウジ……、俺は何故ここで寝ていた?」
「ええっと、それはですね……」

ナマエは思わず目を泳がせてしまった。
その理由が分からず不審に思った義勇は眉を顰める。

少し明瞭になった頭で思い起こせば、確か自分は任務の後真っ直ぐ帰ろうとしたところを助けた男に引き止められたのだと思い出した。
その際に、勧められた酒を断りきれなかったことも。

「俺は酒を飲んで帰ってきたのか」

ナマエは目を丸くする。
まさかそこまで義勇の記憶が曖昧になっているとは思わなかったからだ。
この部屋での一悶着くらいは綺麗さっぱり忘れて欲しいとは願っていたものの、彼には比較的しっかりとした口調で話していた時分もあったため困惑するしかなかった。

「確かにお酒を飲まれていたようですね。鍵が見当たらないと塀を乗り越えてお帰りになったので、一番近いこの部屋でお休みいただきました」
「塀……」

自分がそんな真似をしたのかと唖然とする義勇に向け、鍵は後でお探しくださいねと言ってナマエは畳んだ隊服を彼に手渡す。

「お部屋まで運んでさしあげられなくてすみません。もっと鍛錬します」
「いや……、迷惑をかけた」

まだ甘露寺蜜璃が相手なら納得できるが、ナマエに抱えられる自分は絵面からして想像したくない。
そう思いながら、義勇は受け取った羽織には袖を通さず腕に抱えた。

「お風呂ならすぐ沸かし直せますけど」
「……そうする」

とにかく土埃に塗れた隊服を脱ぎ顔を洗って身体を清めたい。
そう思っていたところだったのでナマエがまたしても欲しているものを口にしてくれたことに感謝しつつ、義勇は彼女を見下ろした。
これ以上迷惑はかけたくないという心持ちになり、風呂の支度は自分がやると決めたからだ。

「ミョウジは休んでろ」
「大丈夫ですか?寝起きだしお酒も残ってるでしょうし」
「問題無い」

そこまで心配されるほど酔っていたわけでは無いと言いかけて、しかし義勇は何か大事なことを忘れているような気持ちになる。
帰ってきてすぐナマエが布団まで連れてきてくれたのだと聞いたが、朧げな記憶の中で自分は文机に突っ伏していたような──

「冨岡さん?あの、本当に一人で大丈夫ですか?」

ナマエに顔を覗き込まれ、義勇はハッと我に返る。
彼は酒に酔っていた間のことを思い出そうとすると頭が痛くなるので、諦めて忘れることにした。

もしかしたら自分が今思っている以上に酔いつぶれてしまっていたのかもしれないと思い、義勇は迷惑をかけただろうナマエに対し申し訳ない気持ちで一杯になる。
ナマエが言ってこない以上、しつこく聞くことも憚られたのだが。

本気で心配そうに見てくるナマエの眼差しから逃れたくて視線を下げると、義勇はふと違和感を覚えた。

「怪我をしたのか?」
「え?怪我ですか?」

張本人のはずなのにナマエがきょとんと首を傾げたので義勇は不思議に思う。
部屋着の浴衣を纏っているナマエの首元、ちょうど鎖骨の上辺りには確かに赤い鬱血痕があった。

「赤くなっているが」

義勇は自分の鎖骨を指差して痣の場所を示す。するとナマエはびくりと肩を震わせ、慌てて首元を両手で押さえた。
義勇がぐっすり眠ってしまった後、油断してうっかり鏡を見忘れていたのだ。
しかも、ナマエが想像していたより実際にはかなりくっきりとした痕が付いている。

「なっ、なんでしょうね!?あ、赤いですか?蚊ですかね、蚊!」
「蚊?にしてはかなり痕が大きいが」

義勇の指摘はもっともなものだったが、彼に記憶が無い以上ナマエには真実を告げることなど到底出来るわけがない。
あなたに吸われましたなどともし言おうものなら、真面目な義勇はこの場で切腹すると言い出すかもしれない──というのはナマエの想像でしかなかったが。

とにかく、ナマエには口が裂けても何があったか話す気は無い。
ナマエ自身にとって、思い出すだけで心臓が破裂しそうになるほどの出来事だったからだ。

ようやく落ち着いて義勇と話せていたのに忘れようとしていた記憶を強制的に呼び覚まされてしまったので、ナマエは踵を返すとぎこちない動きで駆け出す。
ばたばたと廊下を走りながら、ナマエは背後の義勇に向けて叫んだ。

「やっぱり私がお風呂沸かしてきますーっ!」

残された義勇は何が何だか分からずしばらく呆然としていたが、意味を考えようとすると頭痛がしたのでやめることにする。
そして彼は、とにかく酒はもうしばらく遠慮したいと願うばかりだった。


幸か不幸か、それ以来しばらくの間またすれ違いの生活が続いた。
ナマエは少しでも気が緩むとあの夜のことを思い出してしまい、その度に身悶えし胸が苦しくなったので、なんとか忘れようと鴉の訓練や自身の鍛錬に一層励んでいる。
とにかく今は、余計なことを考えないよう手を動かし頭を働かせることが大事だった。

義勇の方は相変わらず多忙を極めており、最近では夕刻にはもう出かけて日が昇り切ってから帰宅する生活が続いている。
鬼の動きは、以前よりも明らかに活発化していた。それには、とある少年隊士たちの活躍が関係している。

──竈門炭治郎たちが上弦と相見え、死闘の末音柱とともに撃破した。

その知らせは瞬く間に鬼殺隊中に広がり、ある者は驚き、またある者は信じられないと首を振った。

鬼殺隊が上弦の鬼を倒したのはおよそ百年振りの快挙である。
だからこそ鬼舞辻無惨は焦り、苛立ち、彼の意のままに動く鬼たちはこれまで以上の頻度で、夜な夜な人を食い散らかすようになっていた。


「今戻った」
「お、おはようございます冨岡さん。……お早いお帰りで」

ナマエはまだ朝食を取っているところだった。
夜通し複数の鬼を斬り帰ってきた義勇は、卓に置かれた自分用の食事を見下ろし立ち止まる。

普段なら腹を空かせて帰ってきて、ナマエがもう自宅に戻った後の静かな食卓ですぐに朝食を取るのが近頃の日課だった。
しかし今の彼には、あまり食欲が無い。

ナマエは久々の邂逅にたじろいだものの、無言のまま食卓を見下ろしている義勇に首を傾げた。

「大丈夫ですか?任務、立て続けだったと聞いてます」

義勇に対して何処か辛口なところがある三統彦ですら、報告してきた鎹鴉に向け「義勇ノヤツハ働キスギダナ」と零していたほどだ。
他の柱たちも同様に多忙を極めていたし、ナマエのような一般隊士ですら任務が増えているのだから仕方がないことかもしれないが。
すると義勇は立ち尽くしたまま、ぽつりぽつりと話し始める。

「炭治郎が上弦との戦いで生き残った」
「例の遊郭で……ですよね」

ナマエはあの夜のことを思い出し、遊郭という名を出すべきでは無かったかと一瞬後悔した。
しかし記憶のない義勇はその点に触れず、淡々と話を続ける。

「あいつは柱になれる。ならなきゃいけない」
「確かに、下弦どころか上弦を倒してますけど……でも、まだ階級が足りてませんよね?」 

下弦の壱であった厭夢、それから上弦の陸・妓夫太郎と堕姫。
どちらも柱の助力なしでは太刀打ちすらできなかった相手ではあるものの、十二鬼月との戦いで炭治郎たちほどの階級の隊士が生き残っただけでも奇跡なのだ。
彼らが甲の隊士であったならば、柱になる条件を満たしていることになる。

しかしナマエは、誰であっても鬼殺隊士ならば知っているもう一つの条件に思い当たる。
それは、隊士個人の努力ではどうにも覆せない条件だった。

「竈門くんは水の呼吸を使いますよね?水柱なら冨岡さんがいらっしゃいますし……彼はもう一つ炎に近い呼吸も使うようですが、そちらはまだ荒削りだと松右衛門が」

柱になるためには、そもそも柱の席が空いていないとならないのだ。

水の呼吸の頂点である水柱なら今は義勇がその座についている。
現在空いている席は煉獄の後継者がいない炎柱と、遊郭での戦いにより引退を余儀なくされた宇髄の後釜である。
基本の呼吸から派生した流派は様々だが、隊律により柱の上限は九人までと決まっていた。

すると義勇は苦々しい表情を浮かべ、拳を握りしめる。

「炭治郎は、水柱になるべきだ」
「……えっ?」

ナマエの視界の端で、義勇の握り拳が僅かに震えていた。

「駄目なんだ、炎では……」

彼は吐き捨てるように呟く。

「水柱は、俺ではない」

ナマエは箸を置き、身体の正面を義勇の方へと向けた。
そして手を伸ばし、きつく結ばれた彼の拳を両手で包み込む。
武骨な、乾いた手だとナマエは思った。

驚いた義勇が僅かに目を見張り、ナマエはその視線に気づいたものの顔を上げず握った手に向けて呟く。

「いつか冨岡さんが話せるようになったら、聞かせてくださいね」

その手が更に固く握り直されたことを感じ、ナマエは胸が苦しくなった。
この手は幾人もの命を救い、そのままにしておけば更に多くの人に危害を加えただろう鬼を屠ってきたであろう。
そんな義勇の心が何かに囚われたまま、長い間救われずにいることは想像に難くなかった。

何が彼を苦しめているのか知りたい。
そう願うものの、口を開こうとしない義勇の態度からナマエは自分の無力さを思い知る。
固く閉ざされた心は、自身の力では解くことが出来ないのだと痛感していた。
それは辛く悲しいことだ。
しかしナマエには、他に思うところもあった。

「……もちろん、私にじゃなくても良いんです。冨岡さんが心を開けると思った人に。少しだけでも話せたら、気持ちが軽くなることもありますから」

彼に救いがあれば良い。
それを自分が与えられればこの上ない幸福ではあるものの、そんな事は身勝手な願いでしかない。
ナマエはそう思いながら最後にもう一度、ぎゅっと握った手に力を込めた。
それから静かに手を引き、立ち上がって食卓から空の食器を下げ始める。

義勇はしばらくの間、無言でその場に立ったままだった。
否、動くことができなかった。

彼はただじっと、ナマエが食事の片付けをする音を聞いている。 
未だに結んだままの己の拳を、じっと見つめながら。


ナマエが去ってのち、義勇は鍛錬のために赴いた自邸の道場で正座していた。
木刀を振るう前にまず心を落ち着けようとしたのだが、どうも胸の奥がざわついて収まらない。

ふと乾いた小さな物音が響いたかと思えば、寛三郎がやってきて義勇の傍に寄り添った。

「義勇、ナマエニナラ何ガアッタノカ話シテモ良カッタンジャナイカノ?」

寛三郎は義勇が隊士になってからのことは全て知っているので、勿論彼が何を背負っているのかも分かっていた。
直接目撃したわけではないものの、時折義勇が見せる激情とその時彼が呼ぶ名前はいつも同じだったからだ。

──蔦子姉さん。錆兎。

いつも、義勇が呼ぶのはその二人だった。
寛三郎はそれが誰なのかを出会ってから少ししてから知り、義勇の背負う過去の重さを理解した。

それからは義勇がその過去に押し潰されそうになる度こうして寄り添い、彼が流さない涙を代わりに流すこともあった。
辛いのに辛いと叫べない、悲しいのに泣くこともできない、そんな不器用な生き方しかできない義勇が不憫で愛おしくて仕方がなかった。

そして、そんな思いを分かち合い鴉である自分にはできない支え方ができる人間として、ナマエには義勇の側にいてほしいと思い始めるようになっていた。
しかし、寛三郎の思いをよそに義勇は小さく首を横に振る。

「ミョウジには関係無い」
「関係無イトイウホド他人デモナカロウ?」

寛三郎は義勇の膝に乗り、俯いた彼の顔を見上げる。
前髪の影になってはいたものの、その表情は悲痛そのものだった。

「……失望されたくなかった、のかもしれない」

そんなことはあるはずが無いのに、と言おうとしたが寛三郎は口を閉ざす。
義勇が唇を噛み締め、必死で耐えていることに気が付いたからだ。

──俺は水柱じゃない。鬼殺隊には、本当の水柱が必要なんだ。

痛いほどに唇を噛んだまま、義勇は心の中で叫んでいた。

弱い自分が嫌いで、しかし何も変えられないままただ鬼を斬ることしか出来ない日々がもどかしくて。
それでもこの道しか知らない自分には、命じられるまま任務に赴く以外には無いと己を律する。
自罰的な彼には、差し伸べられたナマエの手を握り返すことなど到底できそうになかった。
彼女が、弱い己に失望するのが恐ろしかったから。

「恐レル事ハナイゾ、義勇」

寛三郎が頭を義勇に擦り付ける。
人間がするように彼を撫でてはやれないが、少しでも労る気持ちを伝えたかったのだ。

「ナマエナラ大丈夫ジャヨ」

義勇は寛三郎の温かさを感じながら、しかし何故自分はミョウジナマエに失望されることを恐れたのかという疑問を抱く。

無意識で口走ったことだったが、彼はこれまで他人にどう思われようと相手の自由だと思ってきたはずだった。
胸の内をそう簡単に打ち明ける気にはならないし、上手く言葉にできる気もしない。
これまで誰かに話さなかったのはそういう理由のつもりだったのに、話した後のことを気にするなど今までに無いことだった。

「……分からない」

理由が分からず、胸の奥に靄がかかったままなのは気持ちが悪い。
しかし義勇には心当たりがなく、確かめる術すら思いつかなかった。

寛三郎の丸いつぶらな瞳が義勇を写す。
困惑する主人に助言を与えるのは簡単だが、老鴉は彼自身に答えを出してほしいと考えていた。
この問題には自分で気がつかなければいけないと、八年間義勇を見続けてきたからこその想いだった。

「今ニ分カル。義勇ハ出来ル子ジャ」

そう言って寛三郎がカァカァと鳴けば、義勇は僅かにではあるものの表情を和らげる。
今日の寛三郎はやたらと頼り甲斐があるなと思い、微笑ましく思ったのだ。

「ありがとう、寛三郎」
「少シズツデ良インジャ」

義勇は頷いてみせ、それから自分の手のひらに視線を落とす。
ナマエに握られた時に感じた温もりが、蘇るような気がした。

彼はその手をぎゅっと握り締める。
前は向けそうにないが、それでもまだ歩くことはできると思えたのだった。

 
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