鎹鴉たちの訓練中に受けた伝令によれば、義勇は今夜任務が入り早めに家を出るとのことだった。
ナマエは伝えてくれた三統彦に礼を言うと、再び鴉たちに向き合う。
何も特別な事ではないので、把握していれば良いだけの事柄だった。

聞くところによれば任務先は然程遠い場所ではないようだ。
とはいえ準備があるから義勇は早く家を経ったのだろうと、綺麗に平らげられた夕食の食器を見つけてナマエは考えた。

突然始まった居候生活も半年近く経過しており、こういった事は何度も経験している。
ナマエは洗った食器を片付けながら、少しは自分が義勇の役に立てているのだろうかと思案した。


暁に鳴く 拾陸


あれ以来鴉の集会所に鬼が襲撃してくることはなく、あの鬼が独断で功をあげようとしたのではないかという見解もある。
しかし産屋敷家からは依然として水柱邸に身を寄せるよう指示されているので、ナマエは甘んじて義勇の世話になっていた。
なので、出来る限りの恩を返したいと常々考えている。


いつも通り自分の夕食を終え、風呂に入り、ナマエは充てがわれた自室で手紙をしたためていた。
宛先は同期の数名とナマエの育手で、いずれも数ヶ月に一度の間隔で近況報告のやり取りをしている人たちだ。
ナマエは穏やかな心持ちで、自分は元気にやっているという旨を綴っていく。
ちなみに水柱邸への夜間滞在は育手にのみ報告していた。
口止めされているわけでは無いものの、義勇の私的な話を隊士たちに教えるのも憚られたし、何より自分自身が気恥ずかしい思いが強かったからだ。

気づけば日付が変わっており、随分没頭してしまっていたとナマエは筆を置く。
そろそろ寝ようかと思った矢先、何かの気配を感じてナマエは三統彦を呼んだ。

「三統彦、誰かいるみたい」
「鬼カ?」
「ううん、鬼じゃないとは思う……殺意は無いから」
「ジャア強盗カ?」
「分からない。それにしては静かだけど」

声を顰めて話していると、今度は庭から草を踏みしめる音が聞こえる。
ナマエは三統彦と顔を見合わせ、恐る恐る襖を開けた。

すると縁側の向こう、中庭の隅に人影が見える。
注意深く目を凝らして見れば、細い三日月が弱々しい光で照らしたのは他でも無いこの屋敷の主だった。

「冨岡さん!?」
「鍵が……見当たらない」

ナマエが慌てて駆け寄ると、俯いていた義勇がゆっくりと顔を上げる。
眉根を寄せ、困惑した表情の彼は羽織の袂に手を入れては出しを繰り返していた。

初め、彼が怪我を負っているのかと思ったナマエは義勇を支えようと近づく。
しかし血の匂いはなく、代わりに甘ったるい香りが漂ってきた。
その匂いには心当たりがあり、思わずナマエは顔を顰める。

「冨岡さん、お酒飲みました?」
「……少しだけ」
「なるほど……」

珍しいこともあるものだ、とナマエは思った。
酒に強い者を除き、いつ任務が入ってもおかしくない鬼殺隊士が酒を嗜むことはあまり無い。
うっかり酩酊した状態で鬼狩りに赴けば、あっという間に殺されてしまうばかりか仲間の足を引っ張ってしまうからだ。
そもそも子供の頃から鬼殺隊に身を置いている義勇やナマエには、飲酒をする機会もあまり多くない。

過去には任務に酒を持ち込んだ柱も居たと聞くがそれは特別な理由があってからこそで、ナマエだけでなく義勇もまた、相当に特別な事情が無い限り酒を飲むことはなかった。
のだが──

「大丈夫ですか?気持ち悪いとか……?」
「門を開けられないから塀を乗り越えてきただけだ」
「だけだ、ってことは無いと思いますけど……」
「良いだろう。俺の家だ」

むっとした義勇に対し、ナマエは内心溜め息をつく。
義勇の行為や態度は、酒に酔っている人間の行いそのものだった。

「私がいますから、寛三郎を飛ばしてくれれば良かったのに」

そう言ってやると、義勇は思いつかなかったと言わんばかりに目を見開く。
月明かりに薄らと照らされた彼の瞳は、幾ばくかの赤みを孕んでいた。

「ナマエ、爺サンノ奴酒ノ匂イニ当テラレテ使イモンニナラネエゾ!」

三統彦が、ふらふらと覚束ない足取りの寛三郎を連れてナマエの足元までやってくる。
寛三郎は三統彦に身体を押されてようやくここまで歩いてこられたらしい。
大きなあくびをひとつして、今にも眠ってしまいそうだ。

「フワァ……。義勇、早ク布団ニ入ルノジャ……」
「爺サンハ義勇ノ心配スル前ニ自分ノ寝床ニ入レ!マタ風邪ヒクゾ!」
「ごめん三統彦、寛三郎の方はお願いしても良い?」

こちらもふらふらと上体を真っ直ぐに保てていない義勇の背中に手を当て、ナマエは三統彦に声をかける。
主人が困っていれば助けるのが鎹鴉だと、三統彦は渋々ではあるが寛三郎をまた押し始めた。
なんとかして風の当たらない場所に連れて行ってくれるつもりらしい。

「冨岡さんもおうちに上がりましょう?ここは冷えますし」
「……そうする」

彼女がここまで覇気のない義勇を見たのは初めてだった。
ナマエは三統彦に倣って彼の背を押し、縁側まで連れてくると草履を脱がせる。
すぐ目の前はナマエの部屋だったが、その部屋の襖の前で義勇がへたりと座り込んでしまった。

「あの、大丈夫ですか……?そもそもなんでお酒を……」
「……断れなかったんだ」
「え?断れなかったって、誰に?」
「任務は早く終わって、帰ろうとした。だがどうしても礼がしたいと言われて、断れなかった」

話が繋がらない。
いつも通りではあるもののいつも以上に推測が難しいとナマエは頭を捻る。
任務先は近場のはずだったし義勇は柱なのだから、恐らく日没のあと鬼の頸を落とすまで然程時間はかからなかったのだろう。

しかしその後、助けた人にお礼として酒を飲まされたのだということだけは分かった。
鬼殺隊の中ではぶっきらぼうで有名な義勇なら飲酒など頑として断りそうなものなのに、何故断りきれなかったのかということも更にナマエを困惑させる。

だかその答えは、意外にもあっさりと義勇が口にした。

「人のために食事を用意する気持ちを知ってしまったんだ」
「それってもしかして、この前の?」

義勇はこくりと頷く。
恐らく、彼が助けた人は義勇のために食事を出してくれたのだろう。
そこに酒が出てくるのは、鬼殺隊の事情を深く知らない人ならむしろ当然なのかもしれないとナマエは考えた。
一般的には、最大限の感謝の気持ちを伝えるのに良い酒を出すのは至極普通のことだ。

「無下に断れば、その好意を無駄にすると思ったんですね?」

その問いかけにもまた義勇は頷いてみせる。
それはなんとも胸が温かくなる事実だった。
義勇はナマエの為に一生懸命夕食を用意した経験から、人に自分の料理を食べてもらう楽しさを知ったのだと言うことだ。
自分とのやりとりを通じて彼がそんな気持ちを味わってくれていたのだと思えば、ナマエは嬉しくて仕方がなかった。

しかしそうもいっていられないのが現状で。
ようやく話が見えてきたことに安堵すると同時に、ナマエはこの後どうしたものかと首を捻った。

「立てますか?無理そうなら、今夜はここでお休みになられます?」

任務が終わって帰ってきたということは、今日はもう義勇の仕事は終わりなのだろう。
万が一見回りや違う任務に赴かなければならないのなら、同じ場所にいることが本部に知られているナマエの元に伝令が来てもおかしくない。

しかし義勇はその問いには答えず、それどころか廊下にごろんと横たわった。

「……気持ちいい」

床板が冷たいのだろう。
火照った頬を擦り付けながら、義勇は瞼を閉じた。
しかしそんな場所で眠っては完全に体調を崩してしまうと、ナマエは義勇の腕を引いて部屋の中に引き摺り込んだ。
上官相手だが今は緊急事態だと、半ばやけくそ状態の自分に言い訳をして。

「……冷たくなくなった」
「まだ文机の方がましですよ、ほら」

そう言って、ナマエは口を尖らせた義勇の上体を起こす。
先ほどまで手紙を書いていた文机の前に座らせると、彼はぺたんと顔を机上につけた。

「うん、冷たい」
「良かったです、はい」

それからナマエは義勇に水を飲ませるため台所へと向かう。
その間、義勇は頬を文机に擦り付けたまま辺りを伺った。
すると、すぐ目の前にある手紙が目に入る。

「むらた、さま」

そこに書かれた文字を読み上げ義勇は目を細めた。
何度か目にしたことがあるので、これがナマエの書いた字であることは明確だ。

「……そうか」

自分自身でも、何が『そうか』なのか分からなかった。
しかし義勇はあまりよく働かない頭で、ナマエはやはり相当村田と仲が良いのだろうと考える。
実際には他の隊士や育手への手紙も置いてあるのだが、いかんせん酒に酔っているので義勇の視野はかなり狭くなっていた。

何故だか気に入らない──義勇がそう思った矢先、襖を開けてナマエが部屋に入ってくる。

「お水飲んでくださいね。あと、羽織はお預かりします」

文机の上の手紙は、ナマエの手によって片付けられてしまう。
代わりに置かれたのは水の入った湯呑みで、ナマエは義勇の方から片身替わりの羽織を脱がせながらそれを飲むように促した。

ゆるゆると身体を起こした義勇は言われるがままに水を飲み干し、ふうと短く息をつく。
少しだけ、酔いが和らいだような気がした。

「お風呂に入れますか?もしそのまま寝られるなら、せめて着替えを……」
「いや、少ししたら風呂に行く」

喋りながら羽織を畳んでいるナマエに向け、義勇は若干呂律の回らない口調で返事をする。
風呂に入って、もっとしっかり目を覚まさないといけないという自覚はあった。

ナマエは、それなら彼が酔い覚ましする間この部屋で座っていてもらうことに決める。
しかし酩酊状態の人間を一人にするのは忍びないので、ひとまずこの部屋に留まることにした。

慌ただしかった雰囲気が落ち着いてくると、義勇と二人きりという事実のせいでナマエの胸には別の焦燥感が生まれる。
正直なところ今すぐにでも風呂に行ってほしかったが、まだ義勇が立ち上がる気配はなかった。

「もし気分が優れないなら薬を持ってきましょうか?」
「……いらない」

義勇が背負う滅の字は緩い曲線を描いている。
ナマエはその曲がった背中がやけに愛おしく見えて、義勇の後ろに腰を下ろした。
白字の『滅』に手を這わせれば、義勇がゆるりと横を向きナマエの姿を確かめる。

「少しでも楽になるようにと思って」

ナマエがゆっくり上下に摩ってやると、義勇はその動きに合わせるように深呼吸をした。
全集中の呼吸が酔いに効くのかは分からないが、血行が良くなれば酒の成分が抜けるのも早いかもしれないと思ったからだ。

ナマエは不思議と緊張しなくなった。
今目の前にいるのが具合の悪い人間だということが理由だろう。
早く良くなって下さいねとナマエが呟くと、長い息を吐き終えた義勇がぼそぼそと話し始めた。

「みっともないところを見せた」

ナマエは一瞬きょとんとして手を止めたが、直ぐにまた義勇の背中を摩る。

「そんなことないですよ。冨岡さんにお酒を出された方は、あなたに助けられて心の底から感謝してていたんでしょうし」

無口な義勇のことだからきっと代替案を出すこともなくただ断ろうとしたのだろうとナマエは予想した。
実際その通りで、これでは気持ちが収まらないと押し切られた結果義勇は一等高級な地酒を勧められたのだ。

「本日の任務も、本当にお疲れ様でした」

ナマエはそう言って頬を緩める。
せっかく任務を素早く終え予定より早く帰れたはずなのに、簡単にはいかないところが義勇らしい。
しかしそれが彼の秘めた優しさ故であると分かっているからなんとか少しでも力になってやりたい。それがナマエの考えだった。

「当然のことをしたまでだ」
「任務から逃げ出す隊士もいますし、一生懸命やっても鬼に勝てない事もあるでしょう。今日は冨岡さんが頑張ったから、こうしてまたここでお会いできるんです」

以前義勇に自分が死んだら寛三郎を頼むと言われたナマエだからこそ、彼が無事に帰宅することは何にも代えられない大事なことだと感じている。

すると僅かに義勇の肩が動いた。
どうしたのかとナマエが彼の顔を覗き込むと、義勇は文机から顔を上げてナマエを見返す。
まだその目は赤らんでいて、心なしか普段より潤って見えた。

「また上弦が、出たかもしれないらしい」

たどたどしい口調ではあるものの、義勇が呟いた言葉はナマエを驚かせる。
数ヶ月前に炎柱・煉獄杏寿郎が上弦の参とまみえた末、その命を散らしたことは記憶に新しかった。

今までにこれほど短期間の内に上弦が現れたことがあっただろうかとナマエは記憶を辿る。
しかし考えてみても、恐らく彼女が隊士になってからは初めてのことだった。

「今炭治郎たちが潜入している吉原遊廓に」
「竈門くんが、ですか……?」
「宇髄も動いてる」

音柱が同行しているのであれば少しは安心できる。
しかし相手が柱三人分の強さとも言われる上弦ならば楽観視はできないと、ナマエは眉間に皺を寄せた。

「まだ尻尾は掴めてないらしいが」
「そうでしたか……しかし、本当に遊郭に鬼なんて」

吉原への潜入調査が始まっていると言う話はナマエも義勇から聞いたことがある。
その任務が大詰めを迎えているということらしいが、ナマエには上手く想像ができなかった。
そもそも、遊郭の中に入ったことがないので情景を思い描くことが難しいという理由もある。

しかし任務の話がこうも淡々と話せるのであればそろそろ義勇の酔いも覚めてきたのだろうかとナマエが考えた、その時。

「俺は、女じゃないからな」

充血気味の眼差しを向けながら、義勇はそう言って顔を顰めた。
脈絡のない話題に何事かと思ったものの、ナマエはすぐにその理由に思い当たる。

「前に、冨岡さんなら花魁になれると私が言ったからですか?」

ナマエは以前女装した義勇なら花魁になれるだろうと、ほんの僅かな悪戯心で口にしたことがあった。
どうやら彼はそのことを思い出したのだろう、不快だと言わんばかりに苦い顔を浮かべている。

「すみません、そんなに気にされるとは思わず……お許しください」

ナマエは畳に手をつき、深々と頭を下げた。
義勇の気分に障ったのならきちんと謝罪しなければならない。
しかし義勇が何も言わないのでどうしたものかと顔を上げると、彼は変わらない表情のままナマエを見据えていた。

「あの、冨岡さん……?」

やはりまだ酔っているのだろうかと、ナマエが義勇の顔を覗いた瞬間。
ぱっと片手を取られ、ナマエは思わず小さな悲鳴を上げる。

「きゃっ!」
「……俺は男だ」

目の前に義勇の赤みがかった頬が迫り、ナマエの身体は硬直した。
かろうじて、こくこくと油の切れたブリキ人形のよくに頭を上下する。
しかし義勇はじっとナマエを見つめてくるのをやめなかった。

「良いか。俺が女だったらお前は俺を押しのけることができる」

掴まれた手首を押された、とナマエが認識した瞬間背中に鈍い痛みが走る。
視界には影の差した義勇の顔と、その向こうに天井の梁が見えた。

「とみおかさ……」

両手を押さえつけられた上馬乗りにされているのだと、身体の自由が全く効かないことからナマエはようやく理解した。

「女に組み敷かれても、こうなるか?」
「……なり、ません」

恐る恐るそう返すと、義勇はそうだろうと呟く。
元々言葉足らずで手が出やすい性分ではあるものの、普段の彼がここまで突拍子もない実力行使に出ることは無かったとナマエは思案した。
ならば、やはり酒に酔っての行動だろう。

「冨岡さん、分かりましたから……お身体を退けていただいて……」

しかしナマエの懇願は受け入れられなかった。
それどころか紺碧の瞳はナマエをじっと見つめるばかり。
義勇は普段通りの無表情で、何を考えているのかナマエには到底予想もできなかった。

ばくばくとナマエの心臓が早鐘を打つ。
なんとか払い除けなくてはと思うのに、ふわふわと彷徨っているはずの彼の視線に射抜かれてしまい身体が動かせなかった。

中庭から吹き込んできたそよ風が、僅かに開いた襖の隙間を通って義勇の頬を撫でる。
乱雑に束ねられた黒髪が遊ばれ、彼の顔に落ちる陰影が揺れた。

冷たい夜風の心地良さに、義勇がすっと目を細める。

「ミョウジのような風だ」

ふっと義勇が微笑んだ──ようにナマエには見えた。
甘ったるい酒独特の香りが漂い、ナマエ自身も酔ってしまうのではないかという気持ちになる。
いっそのこと酔えてしまえれば良いのにと思うほど、ナマエは酷く困惑していた。

ようやくナマエの左手が解放される。
しかし、押さえつけていた義勇の手が伸びた先は彼女の頬だった。
そわ、と中指と人差し指の先で触れられた瞬間ナマエの肩が跳ねる。
ただ擽ったいと言い切ることは到底できない、体験したことがない感覚だった。
背筋から全身がぞくりと粟立って、ナマエは思わず息を呑む。

これが酔いに浮かされての行為だとは理解していた。
それでも、ナマエの心臓は今にも破裂してしまうのではないかと思うくらいに激しく痛む。
意を決して見つめ返した義勇の瞳は視点が定まらずどこか虚ろだったが、そこにはナマエがはっきりと映り込んでいた。

「お前といると、不思議な気持ちになるな」

ナマエの顔を滑る義勇の右手は、やがて彼女の左頬を包みこむ。
ナマエは身を捩りたくとも馬乗りになられているし、手を当てられているので顔を背けることもできなかった。

「それは……どんな気持ち、ですか……?」

恐る恐る口にした言葉は、ナマエ自身を酷く焦燥させる。
その答え次第ではこの淡い恋心は砕け散ってしまうだろう。
それでも聞かずにはいられなかった。

義勇はしばらく返事を寄越さず、ただ視線をふわふわとナマエの顔の周りに彷徨わせている。
ナマエは息をするのも忘れ、ただひたすらに答えを待った。

「わからない」

しかし、ようやく返ってきたのはそんな言葉だった。
ナマエは予想外の返答に一層混乱する。

「分からない……?」

好きとか嫌いとかではなく、分からない。
義勇らしい答えだとは思いつつ、では自分はどうしたら良いのかとナマエがあわや泣き出しそうになったその時だった。

「ただ……こうしたくなった」
「え……?」
「ミョウジ」

何をですか、と問うよりも早く。
名を呼ばれたかと思えばナマエの目の前に迫る義勇の顔と、一瞬遅れて唇に降ってきた柔らかい感触。
それが何かと理解するよりも早く、ぬるりとした温かいものがナマエの口内に割って入ってきた。

あまりに唐突に、何の前触れもなく与えられたのは仄かに残った清酒の味わい。
絡め取られた舌先に纏わりつく熱に浮かされ、ナマエは身じろぎすることすら出来ずにただ繰り返される口づけを享受することしか出来なかった。
彼女は最早、自分が生きているのか死んでしまったのか分からないほどの心地になる。
予期せぬ形とは言え想いを寄せる相手と唇を重ね、彼は今自分の口腔を夢中で舐っているのだ。

硬い舌先で歯列をなぞられれば全身が激しく脈打ち、つま先から頭の天辺でもがびりりと痺れる。
しかしナマエはこのままではいけないと思うのに、義勇の身体を押し返すこともできなかった。

「ん、っ……とみ、おかさ、っ……」

なんとか口づけの合間を縫って声を上げたものの、ナマエ自身が思っていた以上に情けなく甘ったるい声が漏れてしまう。
それでも義勇はぴくりと反応し、ようやく唇を離した。

「駄目です、こんなこと……」
「何故だ」

目が据わってる──ナマエは義勇の紺碧を見返し、心の中だけで呟いた。
心臓はまだ落ち着くことなく早鳴りしているものの、素面であるからしてナマエには少しの冷静さが残っている。

いくらなんでもここで止めてやらなければ、流石に義勇自身の名誉が傷つくと考えたのだ。

「だって私たちは……、っ!?」

何でもないのに、と言いかけた言葉の先はナマエの喉の奥でつかえてしまった。
鎖骨に走った鋭い痛みが、最後まで発することを防いだからだった。

「なにを……んん、っ」

続いて首筋にかかった生温かい吐息のせいで、意図せずナマエはくぐもった声で呻く。
視界にあったはずの義勇の顔はナマエの首元に埋められていた。

「冨岡さん、これ以上は……」

朝になってお互いに後悔するだけだと、ナマエはなんとか義勇を止めるべく左手で彼の背中を叩く。
しかしナマエはその時気がついた。いつの間にか掴まれたままだった右手が自由になっていたことに。

「あの、冨岡さん?」

問いかけても返事はない。
それどころか義勇からは規則正しい呼吸音が聞こえてくるではないか。ナマエにかかる彼の体重も、先程までとは段違いに重く感じた。

「……これで良かった、のかな……?」

どうやら義勇は眠ってしまったらしい。
彼が相当な酩酊状態にあったことは鍵を見つけられなかったことから始まり、今思えば炭治郎や宇髄たちが赴いている任務について言葉数が多かったことからも明らかだった。

「お疲れだったんですね」

ナマエは手を伸ばし、硬い黒髪をおずおずと撫でてみる。
烏滸がましいと怒られるかもしれないが、今だけは彼を労いたいのだと彼女は誰にでもなく言い訳をした。

柱の忙しさは一般隊士の比ではない。
煉獄が抜け、宇髄の手も長期間の任務に取られてしまっていることも義勇の多忙さに拍車をかけていた。

ナマエは義勇の下からそっと抜け出すと、自分が借りている布団を敷くため立ち上がった。
しばらく仰向けになっていたせいで立ちくらみがしたが、頭を横に振り体勢を立て直す。

「すみません冨岡さん。流石にお部屋まで運ぶのは大変なので……」

自分は一日くらい眠らずとも問題ない。
鬼殺隊士ならそのくらいの訓練は受けているから、とナマエは布団を敷きながら夜明けまで起きていようと決意する。
そもそも、目を閉じてしまえばまた先程の情景が浮かんできてしまうことは明らかなので落ち着いて眠れる気もしなかったのだが。

布団を敷き終えたナマエは自分の頬に手を当て、それから唇に触れてみる。
しっとりと濡れたままのそこは、まだ少し熱の余韻を残していた。

 
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