いつも通りの時間に鍵を開け、戸を開き特段何も考えず水柱邸の敷居を跨ぐ。 初めの内こそ緊張したものの、さすがに日を重ねればナマエにとっても日常となったこの瞬間ではあるが、今日はなぜか違和感があった。 先日共に食卓を囲んでから早数週間が経つが、あれ以来またナマエと義勇はほとんどすれ違いの日々を過ごしている。 「良い匂いがする……」 違和感の正体は匂い。その匂いは玄関から続く廊下の向こう側から漂ってきているようだ。 ナマエはすんすんと鼻を動かしながら、釣られるように匂いの元を辿る。 すると台所の手前に差し掛かったところで、部屋から出てきた義勇と鉢合わせた。 「冨岡さん!こんばんは」 「来たか」 「これからご出立ですか?」 義勇は羽織を着ておらず、鬼殺隊の隊服姿ではあるもののその手に持っている物は日輪刀の鞘でもない。 代わりに彼が持っているのは木製の椀だった。 「あれ?今からご飯ですか?」 普段なら彼はすでに夕食を終えて見回りに赴く時間である。 それなのに義勇は全く出かける様子がないのでナマエは困惑した。 彼が時間を間違えたことは、ナマエが知る限りでは過去に無い。 すると義勇はさも当たり前だと言いたげに、そうだと返事をして食卓に向かう。 状況が飲み込めないままナマエがその後についていくと、そこには驚くべき光景が広がっていた。 暁に鳴く 拾伍 「これがお夕飯……?」 確かナマエが今朝義勇のために拵えていったのはもっと質素な食事だったはず。 外出する前に腹一杯食べるのは良くないからだ。 しかし食卓の上には鉄の鍋が置かれ、白い湯気が立ち昇っている。 鍋の中には肉や野菜が既に煮込まれた状態で所狭しと敷き詰められていた。 「牛鍋を嫌いな奴はいないだろう」 「確かに、それはそうですけど」 何故ここに牛鍋が置かれているのかが分からないまま、ナマエは義勇に促されるまま席につく。 鉄鍋はまだ火から下ろされて間もないのだろう、黒柿色のつゆはぐつぐつと音を立てていた。 ナマエの目の前にずいと差し出された椀の中には山吹色がとろりと輝いている。 新鮮な卵特有の濃い色をしたそれを好きなだけ使えと、義勇の眼差しが物語っていた。 「もしかしてこれ、冨岡さんが?」 「そうだ」 「すごい……!」 正直なところ義勇は料理など全く出来ないものと思っていたので、ナマエはその考えを改める。 屋敷中に立ち込める割り下の香りは見事に空腹を刺激し、気を抜けば腹の虫が鳴いてしまいそうだった。 「でも、見回りには行かれないんですか……?」 ご飯の入ったおひつを抱えてきた義勇に向け、ナマエは来た時から思っていた疑問を投げかける。 義勇はおひつを置き、蓋を開けると茶碗を手に取った。 「今日は非番だ」 「そうだったんですか?伺っていませんでした」 前回義勇が非番だった日は、前もってその旨が伝えられていたのでナマエは来訪してから夕食を作ったのた。 しかし今日については事前に知らされていなかったので、今朝の時点で三食分を作り置きしていたのだが。 「昼に二食分食べたんだ」 「え?昼に?」 「今も腹は減ってるから問題無い」 どうやら義勇はナマエが用意していった分は既に食べていたらしい。 食べ物を粗末にすることは出来ないが、かと言ってナマエに予め夕食は要らないと伝えると休みだと知られてしまうと思ったからだった。 「驚かせたかったんだ」 義勇はそう呟きながらご飯をよそった茶碗をナマエに手渡す。 ナマエは驚き、目を見開いて固まった。 「飯、要らないのか?」 「あ、いただきますすみません」 声をかけられ、ナマエは慌てて手を出す。 受け取った茶碗からはじんわりと熱が伝わってきた。 「あの、冨岡さん。どうして私を驚かせたかったのか教えていただけますか?」 茶碗を目の前に置き、ナマエは義勇の顔を伺う。 そこにあるのは変わらない涼しげな表情だったが、ナマエを見返す紺碧の瞳は穏やかなもので。 「俺にも家事ができるところを見せれば驚くと思った」 確かにそんな話をしたなと、ナマエは義勇の好物を作ってやった日のことを思い返す。 しかし忙しい義勇が本当に実行するとは思っていなかったので、理由が分かってからも驚く気持ちは変わらなかった。 「冷めてしまう。食べよう」 「そ、そうですね!ありがとうございます、いただきます」 そう指摘され、ナマエは我に返って両手を合わせる。 そして鍋に箸を伸ばし、艶やかな黒柿色を纏った牛肉を摘み上げた。 「これを冨岡さんが……」 肉を潜らせると、てらりと光る卵の黄身が下に構える茶碗に盛られたご飯に滴り落ちる。 思わずナマエは生唾を飲み込んだ。 味を想像したのもあるが、何より想い人が手ずから振る舞ってくれる料理をこれから食するのだから。 箸の先に伝わる振動でふるりと揺れる肉を、ひと思いに口へと運ぶ。 広がるのはふくよかな肉の香りとまろやかな卵に包まれた甘塩っぱい割り下。 そして、そこに混ざる上品な脂の風味だ。 「お、美味しい……美味しいです冨岡さん!」 柔らかく程よいサシが入った肉は上等なものに違いない。 そもそも牛肉自体が貴重な代物だ。ナマエは味の余韻を噛み締めながら、半ば興奮状態で義勇を褒め称えた。 「お肉も柔らかいし、卵もすごく味が濃厚で……お買い物からして料理の才能あるんじゃないですか!?」 義勇は相変わらず口に物を入れた状態で喋ることが出来ないので、返事もすぐには返せない。 しかしその口元は明確に緩んでいる。 決して、初めて自分で作った牛鍋が想像以上の出来栄えだったからだけではなかった。 「どうしましょう。人参も春菊も椎茸も白滝もすごく美味しいです!あ、焼き豆腐もいただきますね」 ナマエは少し食べては美味しい美味しいと言いながら、全ての食材を順に食べていく。 そして、ここに使われている食材はどれも今朝の時点では台所になかったので義勇が態々買ってきたのだと気が付いた。 「冨岡さんが、こんなに食材の目利きがお上手なんて思いませんでした」 「この前藤の家で美味い牛鍋が出たから、主人に教えてもらったんだ」 「えっ、冨岡さん自ら聞いたんですか!?」 「そうしたら食材選びの目安と作り方を書き留めてくれた」 ここ最近、義勇は任務の関係で藤の家紋の家に泊まる機会があった。 その際に食べた牛鍋は非常に美味で、感動を覚えた彼は普段の調子で一言『これを作りたい』とだけ主人に告げたのだ。 しかし流石に藤の家紋の家の当主なだけあり、男はすぐさま妻に作り方などを書かせ義勇に持せてくれた。 丁寧な文字で綴られたそれには、細かな手順だけではなく肉質の見分け方など食材選びの極意までが載っている。 義勇はその紙を大事に持ち歩き、今日の昼間は商店を梯子したのだった。 あの口下手な義勇がわざわざ料理の仕方を人に乞うたのかとナマエはまたしても驚き、そして温かい気持ちと言葉にできないほどの感動で胸が一杯になる。 心なしか、元々冨岡家に置いてある米ですらいつも以上の旨味を感じる気がした。 「……美味いか?」 「美味しいですしか言えなくなりました」 「そうか」 言葉にすればたった一言。 しかし義勇は目元を緩め、口角も僅かに上げて手料理を頬張るナマエを見つめた。 元は三統彦に家事ができないのかと言われたから証明してやろうと思ったのが始まりだったが、こうして向き合ったナマエが心底美味しそうに食べてくれることは義勇に不思議な感情を芽生えさせる。 世間一般ではそれを愛おしさと呼ぶのだが、彼が気付くことはなかった。 「ごちそうさまでした!本当に美味しかったです……」 夢見心地のまま最後にまた手を合わせ、満腹になったナマエは空になった食器を重ね立ち上がる。 「片付けは私がやりますね。冨岡さんはゆっくりなさってくだ……ええっ!?」 「どうしたミョウジ」 台所の流し台に向かおうと足を進めたナマエが小さく悲鳴を上げた。 義勇は何事かと、慌ててナマエの元に駆け寄る。すると台所の入り口でナマエが立ち尽くしていた。 「ぬ、盗人でしょうか……?」 調理台の上には菜箸や小鍋、小さな椀、まな板や包丁がこれでもかというほどに散らばっている。 それ以外にも買い物用の籠、肉を包んでいたと思われる包み、卵の殻、垂れた卵液や醤油、溢れた砂糖、にんじんの切れ端──。 その光景は一言で表すなら『惨状』だった。 「いやでもそんな気配は……」 「俺だ」 「はい?」 「俺がやった」 慌てふためくナマエを他所に、義勇は呆気らかんと言い放つ。 それからすたすたと調理台に近づくと、転がっている木椀を拾った。 「手の込んだ物を作ったのは初めてだったからな」 その時ナマエは全てを察する。 この惨状は義勇自らが作り出したものなのだ、と。 おそらく彼は慣れない料理に夢中になる余り、使った調理器具や食材の不要な部分をそのままにしてしまったのだろう。 その散らかり具合は常軌を逸するものではあったが、そこに気づいてしまえばなんとも微笑ましいものだった。 勿論、ナマエが義勇に懸想しているからこそではあるが。 「片付けも俺がやる」 難しい顔で流し台に全ての調理器具を投げ入れていく義勇の横に、ナマエは慌てて駆け寄ると片手でその作業を制する。 不服そうに見下ろしてくる義勇に対し、ナマエは笑顔を浮かべて彼を見上げた。 「一緒にやりましょう。その方が早いですから」 義勇はしばし考えたものの、頼むと言って頷いてくれた。 二人並んで食器を洗い、ごみをまとめ、洗った物を吹き上げて片付ければあっという間だった。 ナマエは手桶に汲んできた水で布巾を洗いながら、なんと幸せな時間だっただろうかとその余韻に浸る。 密かに想いを寄せる人とする共同作業には寿命が縮む思いもしたが、不慣れな義勇にも分かりやすく指示をしてやるよう気をつけていればいつの間にか緊張感も無くなっていた。 一生懸命に片付けをしてくれていたので余計なことは喋りかけないようにしたものの、それでも時折食事の感想や感謝の気持ちを口にすれば、義勇は満更でもなさそうな反応を見せてくれたのだ。 「こんな日が続いたらいいのにな……」 片付けを終え、急須に茶葉を入れながらナマエは一人呟いた。 義勇は既に居間に戻っており、この場にはいない。 「でも……それじゃ駄目なんだよね」 薬缶から湯を注ぎ入れ、こぽこぽという水の音を聞く。 ふわりと広がっていく茶葉を確認して、ナマエは急須に蓋をした。 「鬼殺隊士なら、鬼舞辻無惨の首を取るまで安寧なんか望んじゃいけない」 穏やかな日常を夢見ることはあっても、それは無惨を始め全ての鬼を葬った後の話だ。 上部だけの平和に流されて戦いから逃げることなど、この世界を知ってしまった今では不可能だった。 何故ならこれまでに沢山の隊士が、たった一人鬼舞辻無惨を倒すために数え切れないほど命を落としてきたから。 殺された身内、友人、同僚の顔が次々とナマエの脳裏に浮かんだ。 自分もいつかその屍の山の一部となるだろうことはナマエにも覚悟がある。 そうして繋いでいかなければ、この先に人間の勝利はないのだから。 急須と二つの湯呑みを盆に乗せ、ナマエは義勇が待つ居間に戻る。 食卓の椅子に座っている義勇は、膝に乗せた寛三郎を撫でていた。 「お茶どうぞ」 「すまない」 いえいえ、と答えながらナマエは義勇の前に淹れたての緑茶を置く。 手を伸ばしかけた義勇は、しかしその手を止めナマエをじっと見つめてきた。 「ミョウジ。もし俺に万が一の時があったら寛三郎を頼んだ」 自分の湯呑みに茶を注いでいたナマエの手が止まる。 何故そんなことを突然言うのかと、彼女は信じられないという眼差しで義勇を見返した。 「お前には鍵を渡してある」 「……そんなの、どうにでもなるじゃないですか」 「それに、俺が死んだら寛三郎はお前の元に戻るんだろ?」 それは寛三郎に限らず、全ての鎹鴉に共通することだ。 しかし義勇はそれを分かった上で敢えて念押ししている。 「俺は天涯孤独の身だから残す物も少ない。一部は先生に、あとは好きに処分してくれと書き遺した」 彼が言っているのは鬼殺隊士全員が産屋敷家に預けている遺書の内容だ。 それが分かるからこそ、ナマエは何故義勇が自分にそんなことを話すのか分からないでいる。 「この家もきっと誰かの物になるだろう。でも、ここは俺だけの物じゃないから」 ああ成る程、とようやくナマエは理解することができた。 義勇はおそらく自分が亡くなった後、寛三郎の気が済むまでここに住ませてやってほしいと言いたいのだろうと。 「寛三郎は、縁側で昼寝するのが好きなんだ」 「……ええ、知ってます」 それはまだ、ナマエが義勇と知り合ってから間もない頃に見た光景だった。 大切な相棒の数少ない楽しみが、自分の死によって奪われてしまうことを義勇は懸念しているのだ。 それを察し、ナマエは目の奥がつんと痛くなるのを感じる。 「……駄目です、冨岡さん」 「何故だ」 「あなたの膝に乗せて、縁側で日向ぼっこさせてあげてください」 ナマエは義勇と目を合わせていられなくなり、視線を落とした。湯呑みには波紋もなく、凪いた水面には今にも泣き出しそうなナマエの顔が映っている。 「……ちゃんと寛三郎と一緒に帰ってきてください。私は干したてふかふかのお布団を敷いて、縁側はぴかぴかに雑巾掛けして、冨岡さんと寛三郎の大好物をたくさん作っておくので」 ナマエは願いをかけるかのように言葉を連ねていく。 自己肯定感の少ない想い人に、なんとかここへ帰ってきたいと思って欲しかった。 「ミョウジ、それでも俺はきっと」 「嫌です。絶対、そんなの……」 言いかけた義勇に、首を横に振り拒絶の意思を示すナマエ。 浮かび上がる涙を堪え、彼女はそれ以上はもう何も言うことができなかった。 義勇も黙り込み、しばらく静かに寛三郎を撫で続ける。 以前ナマエに教わった通り時折毛繕いをしてやっているので、近頃は羽根の脂艶がよくなっていた。 彼自身は無意識ではあるものの、そういった小さな変化は少しずつだがナマエと関わるようになってから増えてきている。 「覚えていてくれ」 ナマエは返事を返さない。 しかしそれでも良い、きっと彼女は分かってくれるはずだと、義勇は勝手とは思いながらも確信していた。 手の平に感じる寛三郎の体温はあたたかく心地が良い。 義勇は目を閉じ、湯呑みに残っていたぬるい緑茶を飲み干した。 [back] ×
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