「立てるか」

目の前に差し出された手とその主の顔を見比べてから、ナマエはおずおずと自分の手を差し出す。
ぐいと引き上げられ立ち上がったナマエは、身体に張り付く濡れた隊服の冷たさに身震いした。

「最後まで送っていくべきだった」

細かい塵となった鬼の残滓を横目に義勇は顔を顰める。
血鬼術のせいで濡れてしまった羽織の裾を絞りながら、ナマエは首を横に振った。

「私がすぐ対処できなかったのがいけないんです。冨岡さんの手を煩わせてしまいました」

たった一体の鬼に翻弄され、柱に助け出されることとなったナマエ。
鬼殺隊士として、己の力不足を痛感するほか無かった。

「申し訳ありません。精進します……」
「ミョウジはお前の役割を果たせばいい。行くぞ」

義勇はそれだけ言うと、鎹鴉の集会場の方へ体を向ける。
気にすることはない、人にはそれぞれ役割があるのだからという部分を口にしないところは、彼が言葉足らずと言われる所以であった。

ナマエは置いていかれないように小走りで義勇を追いかけようとするものの、水をふんだんに吸った衣服は重く、足がもつれそうになるのをなんとか耐える。
仕方なく黒い羽織は脱ぎ、今度は隊服のワンピースの裾を絞った。

ぼたぼたと隊服から地面に水を垂らしているナマエの視界に、赤錆色と亀甲柄が映り込む。
ナマエが顔を上げると、黒い隊服姿の義勇が目の前にいた。

「脱げ」
「ええっ!?」

突然の申し出に、流石のナマエも素っ頓狂な声を上げ義勇から距離を取る。
少し考えれば義勇は濡れた隊服を着たままでは風邪をひくから貸した羽織を代わりに着ていろと言いたいのだと分かるが、何にしろ言葉足らずなせいで誤解されてしまうのが冨岡義勇である。
言った本人は何故驚かれなければいけないのだと不満そうだ。

とはいえナマエも距離をとって冷静になると義勇の意図が理解出来た。
しかし、さすがに男性の前で服を脱ぐわけにはいかないと固辞する。
言われてみればと義勇も自身の配慮のなさに気がつき、すまんと一言詫びたのだった。

「家まですぐですし、大丈夫ですよ」
「なら、せめて羽織ってろ」

ナマエは心配をかけないようにと努めて明るく言ったが、義勇は羽織を差し出した腕を引かず、ずいっと更に差し出す。

「冨岡さんの羽織が濡れてしまいます」
「良いから」

確かに、濡れた服を着たままの身体には夜風が冷たく染みる。
ナマエはこれ以上押し問答しても義勇の厚意を無駄にする事になるとも思い、片身替わりの羽織を受け取った。

「ありがとうございます。すごくあったかいです」

ナマエの物よりも大きい義勇の羽織は、冷えた身体をすっぽりと包み込んでくれる。
風が遮られるだけで体温が奪われる速度も緩やかになり、ナマエは素直に羽織を借りて良かったと心底感謝した。


暁に鳴く 拾参


そこへ三統彦が空から舞い降りてくる。

「ナマエ!遅クナッテ悪カッタ」
「ううん、ありがとう三統彦。お陰で私は無事だよ」
「義勇ガ速スギテ付イテコレナカッタゼ!」

三統彦は、ナマエの顔の横で羽ばたきながら息を整えていた。
幸い見回りをしている義勇のことはすぐに見つけられたのだが、三統彦が現状を伝えたところ義勇はものすごい速さで走っていってしまったのだ。
訓練を受けた鎹鴉ですら容易に追いつくことができないほど、柱の身体能力には目を見張るものがある。

「でもずっと俺の後ろで騒がしくしてた」

義勇はあっけらかんとして三統彦に振り返った。心外だと言わんばかりに、三統彦はカァカァと騒ぎ立てる。

「ウルサクナンテシテネェゾ!」
「ナマエ、ナマエと叫び続けるから移ったじゃないか」
「ああ、それでさっき……」

ナマエは義勇に助け出された時のことを回想した。
薄れゆく意識を繋ぎ止めてくれた義勇の呼び声は、確かにナマエの名を叫んでいたのだ。

「俺ノセイニスンナ」
「こら三統彦、失礼な物言いはやめなさい!」

しれっとそっぽを向く三統彦をナマエが叱ると、鴉は上空に飛び立ってしまう。
義勇はやれやれと肩を竦め、ナマエは彼に平謝りした。
空を行く三統彦は寛三郎と並び素知らぬ顔。
しかし義勇は怒っているわけではなかったので、早く行くぞと呟いて歩調を早めた。


「風呂はどこだ」

ナマエが住む小屋に入った途端、義勇は辺りを見回してから問いかける。

「裏手にありますけど、って冨岡さん?」
「待ってろ」
「えっ、ちょっと冨岡さん!」

小屋の裏手へと続く戸口から、義勇はあっという間に外へ出てしまった。
そこには薪置き場があり、側には衝立に囲われ離れのようになっている場所がある。
義勇が引き戸を開けると、中は正しく風呂場であった。

「冨岡さん?」
「ミョウジは着替えて身体を拭いてろ。少し時間がかかる」

そう言いながら義勇が水を汲むための桶を手にしたので、追ってきたナマエは目を丸くする。
一目で分かる通り、義勇は風呂を沸かそうとしていたのだった。

「自分でやりますから、冨岡さんは休憩しててください!」
「何故だ。風邪をひきたいのか?」

ナマエは義勇から桶を取り返そうとするものの、義勇はしっかりと握りしめて譲らない。
その間にもナマエが借りている片身替わりの羽織は少しずつ湿ってきており、義勇の言う通り放っておけばナマエの体温はどんどん失われてしまうだろう。

「風呂ぐらい入れられる」

そう言うと義勇はさっさと水を汲みに行ってしまった。
ナマエは困惑したが、身体が冷えていることは真実で。
仕方なく、ナマエは引き続き義勇の厚意に甘えることにした。


「沸いたぞ」

ナマエが部屋着の浴衣に着替えた後、手拭いで髪を拭いていると義勇が部屋に戻ってくる。

「ありがとうございます!冨岡さんもお疲れでしょうし良ければお入りください」

ナマエがそう言うと、義勇の眉間に深い皺が刻まれた。

「ミョウジが入らなくてどうする」
「私はだいぶ乾きましたよ?」
「阿呆。油断するな」
「ソウジャヨ。ナマエガ体調ヲ崩シタラ皆ガ悲シム」
「オマエガホントノ阿呆ジャナケレバ早ク行ッテコイ!」

寛三郎と三統彦も義勇に続けたので、ナマエは反論することもできず素直に風呂場へ向かうことにする。
三対一では、勝ち目がなかった。


ナマエが吊るしたのだろう。
赤錆半分、亀甲柄半分の羽織は部屋の隅に広げて干されている。
手持ち無沙汰の義勇が羽織の前で立ち止まっていると、三統彦が椅子に座るよう促した。
義勇がそこに腰掛けると机に置かれた手紙が目に入る。

丁寧に折り畳まれた手紙の表には、差出人の名前が綴られていた。
その名は義勇も親しいほどではないがそれなりに知っている人間のものだ。
中身を見るつもりはないが、義勇はぼうっとその細い文字を見つめていた。

夜更けも近づき、鴉の林は静寂に包まれている。
義勇はしばらくそのまま動かずにいたが、三統彦が飛んできて彼の目の前に止まった。

「昨日ノ夜ハナ、要ガソコデ泣イテタンダ」

三統彦は嘴の先で義勇が座っている場所を指す。
要の主人である煉獄杏寿郎がこの世を去ったのは、昨日の朝のことだ。

「いつもそうなのか」

義勇は三統彦に問い掛けながら、薬の調合台の上で羽根を休める勘三郎に目をやった。
寛三郎はうつらうつらと眠りこけているようだ。

「大体ハナ。ソノ度ニ、ナマエノ背負ウ重荷ガ増エテク」
「……重荷」
「遺ッタ鴉タチノ負ノ感情ヲ受ケトメラレル奴ハナマエシカイナイ。ナマエハ自分ノ責務ダッテ言ウケドヨ」

義勇は鎹鴉たちの涙や主人への想いを一晩中受け止めるナマエの姿を思い描く。
真摯に話を聞く彼女は容易に想像できたし、深く共感し鴉と共に悲しむ姿もまた簡単に思い描くことができた。
何せ、煉獄家で会った時にも彼女は泣いていたのだから。

「ソレヲ続ケテイッタ先デ、ナマエニ積モッタ重荷ハ一体ドウナル?」

三統彦は小さな丸い瞳でじっと義勇を見つめている。

「アイツノ抱エル悲シミヤ苦シミハ誰ガ一緒ニ分チアエル?ソレハナ、鴉ジャ駄目ナンダヨ。人間デナイト」

三統彦は常々考えていた。自分たちには、より知能の高い人間を深く理解することは難しいのだと。
励まし、寄り添うことはできる。
しかし、主人が求める的確な言葉を紡いでやれるかと言われればそれは出来ないのだろうと思っていた。
人間には、やはり人間が側にいて支え合う必要があるのだと。

「義勇。オマエニハソレガデキルト思ッテル」
「俺?」

義勇はまさか自分に話を振られると思っていなかったため、不意を突かれて顔を顰める。
三統彦はあくまで真面目に、真っ直ぐ義勇を見据えた。

「アイツノ……ナマエノ抱エテルモノヲ受ケトメテヤレル存在ニナッテホシイ」
「……俺に出来るわけない」
「ソンナコトナイ!オマエハ何度モナマエヲ救ッテクレタダロ!」

三統彦は翼を広げ、バサバサと羽ばたきながら捲し立てる。
三統彦はもう、主人が一人行き場のない負の感情を溜め込んでしまう姿は見たくなかった。心配をかけてしまうからと弱音を吐かないナマエがもどかしく、自分が人間だったなら違ったのだろうかと悩んだこともある。
だからこそ三統彦は、近頃ナマエと心の距離が近付きつつある義勇に希望を見出し、そして少し羨ましいと思っていたのだ。

しかし、義勇は頑なに首を縦に振ろうとしない。

「俺は上手いことを言ってもやれない。そう言うのは得意じゃない」
「ダガ……!」
「村田にでも頼めば良い」
「ハァ?ナンデアノ庚ガココデ出テクルンダヨ!」

義勇の視線は三統彦の後ろに置かれた手紙に注がれていた。
そこには、ナマエと義勇の同期である男の名前が綴られている。
今義勇が口にしたのは、まさしくその名だった。
文の中身は他愛もない近況報告であったが、それを義勇が知る由はない。

「仲が良いみたいだからな」
「オマエダッテ十分……」
「お待たせしました」

三統彦が言いかけた言葉は部屋に戻ってきたナマエによって遮られる。
勢いを失った三統彦は翼を閉じ、ナマエ本人の前でこの話を続けるわけにもいかないので口を噤んだ。

「羽織はまだ少し湿ってますね……すみません、冨岡さん」

干してある義勇の羽織を触ってナマエは申し訳なさそうに言う。
義勇は緩やかに首を横に振り、気にしていないと示した。

「よろしければお風呂どうぞ。簡単ですけど夜食も用意しますから」

ナマエの視線の先では、すっかり眠ってしまった寛三郎が規則正しい呼吸を繰り返している。
義勇も寛三郎の様子を確かめ、仕方あるまいと頷いた。
風呂は朝になって家に帰ってからでも良かったのだが、断ればナマエが気にしそうだと思ったのもある。

「世話になる」
「いえ!むしろ私の方がお世話になりっぱなしで……埋め合わせにもならないと思いますけど、少しだけでも休息の足しになれば」

そう言うとナマエは大判の手拭いを義勇に渡し、風呂へと送り出した。
米を炊く時間はなかったので、最近手に入れた干蕎麦を茹でようと湯を沸かす。
つゆに使う出汁を取るための鰹節を削りながら、ナマエは今日の出来事を思い浮かべていた。

長い一日であったと、朝煉獄家に赴いたことから回想する。
もっと言えば昨日炎柱の訃報が届いてからというもの碌に睡眠も取らず要を慰め、産屋敷家にはどうにか要を煉獄家付きの鎹鴉にしてもらえるよう頼み込み、それから煉獄杏寿郎との最後の別れに赴いたのだった。

ナマエは煉獄とほとんど言葉を交わしたことはない。しかし一度だけ、たまたま鬼殺隊本部で出会ったことがあった。

『きみが要を育ててくれたんだな!ありがとう!』

要は立派な鴉だと褒められた記憶が蘇る。
誰も彼もを等しく照らす明るい炎のような人だったと、ナマエは改めて煉獄の死を悼んだ。

そうしている内に湯が湧いたので、つゆの分だけ小鍋に取り削った鰹節を煮る。
出汁を取った後に砂糖と醤油、それから味醂を入れ煮詰めれば、立派な蕎麦つゆが出来上がった。

ナマエが蕎麦を茹でている間に義勇が風呂から戻ってくる。
相変わらず鬼殺隊の隊服は着ているものの、洗ったばかりの髪は結ばれておらず乱雑に拭かれただけの状態だった。

義勇はくんくんと当たりの匂いを嗅ぎ、良い香がすると呟く。
小鍋片手に振り向いたナマエは、義勇らしくない子供っぽい仕草にくすりと小さい笑みを溢した。

「もうすぐお蕎麦が出来上がるので、あと少し髪の毛を良く拭いて待っててくださいね」
「分かった」

義勇は素直に頷くと、借りた手拭いでまたがしがしと頭を拭く。
なるほど義勇の髪はだからあれ程に硬そうなのかと、ナマエは内心納得していた。
髪質にこれ以上なく気を遣っている、とある同期とは正反対だ。

間も無くして、湯気を立ち上らせるどんぶりが義勇の前に置かれる。
団子屋を出て以来ぶりの食事だったので、義勇は素直に箸を取り手を合わせた。
自分のどんぶりを置き、ナマエも向かいの席に座る。

義勇が食べながら喋るのは苦手だとあらかじめ話してあったので、ナマエも静かに蕎麦を啜った。
三統彦は行き場のない苛立ちを収めるため、外に出て屋根に止まっている。
鬼が去ってようやく見上げることができた空には、白い三日月が浮かんでいた。

食事を終え、義勇は熟睡してしまった寛三郎を見下ろし思案する。
羽織はようやく乾いたらしく、ナマエが皺を伸ばしているところだった。

「良かったら泊まって行かれますか?まだ外は暗いですし」

ナマエが広げてくれた羽織に腕を通しながら、義勇はまだ考え込んでいる。
この場所が無惨に知られてしまっているとしたなら、また鬼が襲ってくるかもしれない。
より強い鬼が遣わされてきたとすれば、絶対にナマエ一人では対処できないだろうと懸念しているのだった。

「……そうする」

彼は考えた挙句とりあえず今夜はここに滞在して、あるかもしれない追撃に備えることとする。
しかしながら、明日明後日鬼が来る可能性も考えられ義勇は更に悩むのであった。
どうするのが、最善なのかと。

「お布団どうぞ」

その考えを中断したのは他でもないナマエの声。
居間の奥にもう一部屋あり、彼女はそこを寝室としていた。

「いや、横になるつもりはない」

義勇は空になったどんぶりを流しに運んでからまた椅子に戻る。
鬼が出るのは夜の間だから、彼は朝まで起きていようと思っていた。

対するナマエは目上の義勇が起きているのに自分だけ寝るわけにもいかないと思い、馬毛製の刷子を手に取る。
調薬台で眠りこける寛三郎をそっと抱き上げて、ナマエは椅子に座ると彼を膝に置いた。

ゆっくりと刷子で羽根を撫でてやると、寛三郎は眠りながらも気持ちよさそうに身体を震わせる。
義勇はその様子を眺めていたが、その視線に気がついたナマエが顔を上げた。

「基本的には自分たちで砂浴びしたり行水したりしますから、わざわざ梳いてあげなくても大丈夫ですよ」

今しがた、本当はそうやって羽根を梳いてやる方が良いのかと思いながら見ていた義勇は、考えを当てられて僅かに目を見開く。
ナマエは手を動かしながらにこりと笑った。

「でも、時々やってあげたら喜びますよ。人間も按摩屋に行ったりするでしょう?」
「確かに」
「寛三郎は特にもう脂も少ないですから、たまに椿油をつけた櫛でとかしてあげると良いですよ」
「分かった。やってみる」

寛三郎のこととなると義勇は一等素直だった。ナマエはそこに親しみを感じ、頬を緩ませる。
義勇はナマエの手つきからやり方を学ぼうと、気持ち良さそうに羽根を梳かされ続ける寛三郎を凝視していた。

静かな部屋に刷子の音だけが流れる。
しばらくそうしていた彼らだったが、やがて羽根を梳かし終えたナマエが刷子を置いた。

「その羽織、半分は『彼』のものですよね」

膝の上の寛三郎に視線を落としたナマエが呟く。義勇は机の下で拳を握りしめた。

「……すみません。少し、懐かしい気持ちになってしまって」

あの日、藤襲山で鬼と対峙したナマエの助太刀に入った少年。
宍色の髪の少年は、亀甲柄の着物を身につけていたのだった。
この話は以前ナマエが義勇と同期であることを伝えた日に話しており、だから義勇もナマエの言いたいことの意味は分かっている。

義勇が羽織の裾を見遣れば、忘れられない狭霧山での日々が朧げに思い浮かんだ。
封じ込めたくても、やはり忘れることはできないものだ。
そしてこの羽織は、義勇にとってそれ以上の思い出を秘めている。
錆兎の着物は、半分しか使っていないのだから。

「残りは姉のものだ」
「お姉さん……ですか」
「祝言の前日に、俺を庇って鬼に殺された」

ナマエは絶句した。
義勇も天涯孤独の身とは聞いていたものの、そこまで壮絶な過去があったことは知らなかったからだ。
自分自身も同じような経験をしているからこそ、その辛さを理解したナマエは暗澹たる思いになった。

「……話しにくいことなのに、話してくださってありがとうございます」

亡くした姉と友人の着物を半分ずつ羽織に仕立てた義勇の思いを想像し、ナマエはそんな凄絶な過去について少しでも話してくれた彼に向け頭を下げる。

義勇は二人に守られて今ここにいるのだ。
そう思えば、二人の死を背負って生きているという重みが羽織という形になって義勇の肩に伸し掛かっているのだとナマエにも分かった。

「そんな羽織を貸してくださったことも、ありがとうございました」

ナマエは涙が出そうになるのを堪え、そう告げる。
今泣けば、この話をした彼はきっと困ってしまうからと。

一方、義勇は何故自ら過去をナマエに話したのか、自分でもよく分からないでいる。
だが、ナマエには不思議と自分から話をすることができた。
その理由には、義勇にも少しだけ心当たりがある。

「俺はよく言葉が足りないと言われる。だがミョウジはいつもすぐ理解してくれるのは何故だ?」

話していても嫌な顔をされないから、また話が出来る。
義勇がナマエに対して親しく出来ているのはこの理由に寄るものが多いと本人は思っていた。
実際、柱たちや隠などはよく義勇の拙い説明では言いたいことが分からず困惑したり顰蹙を買われたりすることがある。

「どうなんでしょう?でも、もし私なりの理由があったとすれば……鴉たちのおかげかも知れません」
「鴉の?」
「私は鴉たちに言葉を教えて、人間の言葉をまだ覚えている途中の子たちの面倒を見ています。だから、もしかしたらあまり言葉数が多くなくても意図していることが分かるのかも?」

それは、俺が訓練中の鎹鴉と同列ということか──義勇は内心衝撃を受けたものの、心外だと怒ることはできなかった。
事実、多くを語らずとも話が続くナマエには助かっていたからだ。

「まさか鎹鴉と同じなんて思ってないですけどね!分からなかったら聞きますし、一番大事なことは話してくれるじゃないですか……さっきも」

また思っていることを当てられたと、義勇は感心すら覚える。
それから、よく考えれてみれば別に鎹鴉と同列でも構わないと、ナマエの膝の上で眠る寛三郎を見ながら思うのであった。
義勇にとって、寛三郎は家族も同然なのだから。
それにナマエも鎹鴉を家族と思っていると言っていたから、この点において自分たちの価値観は同じだと結論づけたのだ。


「夜明けまであと一刻ほどですね。本当に長い一日でした」

時刻は丑の刻を少し過ぎた頃だった。
ナマエは窓の外に広がる空を確認して言った。

「少しでも仮眠を取ってください。いつまた任務が入ってくるか分からないですし」

炎柱が亡くなった今、八人となってしまった柱たちは元々広大な担当地区を更に広めて一人不足している分を補わなければならない。
今すぐに炎柱となれる者は、煉獄家を含めて誰もいなかった。

「いや、俺は……」
「私は冨岡さんが帰られたらすぐ寝ますから!それともお布団で横になってゆっくり休まれていきますか?」

貴重な戦力である柱に個人的な理由で負担をかけてしまったことを悔やみ、ナマエは半ば強引にでも義勇を休ませなければと考えている。
彼が押しに弱いことには気が付いていたので、ナマエは有無を言わせぬ勢いで義勇に詰め寄った。

「流石にこの時間にはもう鬼も此処には来ないでしょう。明日以降のことは、夜が明けたら三統彦に文を持たせてお館様にご相談します」

義勇は別に一晩くらい眠らなくても問題ないと言いたかったが、その意図はナマエに汲んではもらえないようだ。
仕方なく彼は椅子に座ったまま目を瞑り腕を組む。
眠りに落ちるつもりはないが、こうすることで少し休まるのも事実だった。

義勇がしばらく目を開けないことを確認してから、ナマエは寝室に赴き薄手の毛布を手に戻ってくる。
腕組みしたまま顔を俯かせる義勇の肩に毛布をかけ、文机の一つを残して石油ランプの灯を消した。

「ありがとうございました、冨岡さん」

眠っているのかどうか分からないものの、ナマエは椅子にもたれている義勇にそっと声をかける。
義勇は反応しなかったが、ナマエも返事を求めていたわけではなかった。

ナマエの手元にある明かりを残した石油ランプが、義勇の顔に濃い陰影を描く。
その肩から、結われないまま下されている髪が一房垂れた。
普段と違った雰囲気を纏う義勇の、長い睫毛に縁取られた瞼は閉ざされている。
それは、一閃で鬼を斬り捨てる歴戦の剣士とは思えないほど端正なもので。


風が木立を揺らし、ざわざわと音を立てた。
ナマエは思わず見惚れてしまっていたことに気がつき、慌てて義勇から顔を背ける。
胸の鼓動が高鳴って、苦しかった。

それは、決して義勇の見目に魅せられたからだけではない。
長い一日の中で触れた義勇の優しさ、強さ、そして心に抱えた物の重さ。
血鬼術から助け出される時に名前を呼ばれた叫び声は、ナマエの頭にこびりついて離れない。

──どうしてこんなに、苦しいの?

ナマエは産屋敷耀哉に文を書こうと取った筆を置き、そっと胸に手を当てた。
横目で義勇を盗み見て、ナマエは一つの答えに辿り着く。

自分は 冨岡義勇という男に、恋心を抱いているのだと。

気がついてしまえば脆い物で、胸の苦しさもすんなりと腑に落ちた。
強く見目麗しい剣士への単なる憧れと思えれば良かったのだが、最早それ以上の感情になってしまっていることには疑う余地もない。

ナマエは身の丈に合わない相手への恋心に、自分自身を叱りつけたくなった。
しかしその反面、もう抗うことは難しいのだとも理解している。
義勇が奥底に抱える闇に少しでも触れてしまったからこそ、彼を思えば思うほど苦しみとともに愛おしさが湧き上がった。

──でも、私は鬼殺隊士。
鬼舞辻無惨を殺し全ての鬼がこの世から消えるまで、恋にうつつを抜かすことなんて出来ないから。

ナマエは再び筆を取る。
雑念を払うように首を横に振ると、広げた和紙に宛名を書き始めた。

気付いたばかりの想いは深い胸の奥に秘めておくことにしようと、ナマエは一人心に決める。
産屋敷家から賜った使命を果たす、その日まではと。


しかしそんなナマエの気持ちは、いきなり揺るがされる事態となる。
しかも、その原因を作ったのは他でもない義勇その人で。

朝日が窓から差し込み、目を開けた義勇は開口一番こう告げた。

「ミョウジは、今日から俺の家に住めば良い」

 
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