団子屋からの帰り道、既に陽は西の空に沈みかけていた。義勇はナマエと並んで歩きながら、間もなく見えてくるであろう家路への分かれ道の方角を見遣る。 「もう暗い。見回りも兼ねて送っていく」 鎹鴉の訓練所がある林は義勇が担当する地区の端にあった。他の柱の担当地域とも被っており、過去に鬼が出たこともないので特段気にしたことがない区画ではある。 しかしつい最近上弦の鬼が柱と一戦交えたこともあり、産屋敷家から十二分に気をつけるよう通達があったばかりだった。 「すみません……でも、心強いです。ありがとうございます」 「元々見回りはするつもりだった」 ナマエが感謝の意を述べると、義勇は涼しい顔のまま歩き続ける。どちらとも、もう先程まで交わしていた恋愛論議の続きを口にすることはなかった。 暁に鳴く 拾弍 「ここで大丈夫です。ありがとうございました」 林の入り口に差し掛かった辺りでナマエが足を止める。 「……気をつけろ。今のところ鬼の気配は無いが」 義勇は鋭い眼差しで周囲を見回す。普段通り獣の気配も少なく、雑木林は静寂に包まれていた。 「分かりました。いつも以上に気をつけて帰りますね」 ナマエは慎重に頷く。 すると義勇は一度懐に手を入れてからずいとナマエに向けて差し出した。そこには笹の葉で作られた小さな包みが載せられている。 「これってさっきの……!」 「三統彦の分だ」 「ありがとうございます冨岡さん!」 義勇がナマエに渡したのは、団子屋で土産にと包んでもらった餡子だった。 ナマエはそれを丁重に受け取り、三統彦に見せる。 「冨岡さんからいただいたよ、三統彦」 「気ガ利クジャナイカ、義勇。アリガトナ!」 「もう、三統彦ってば言葉に気をつけなさい!」 三統彦はナマエの肩に止まり、義勇に向けて羽ばたきながらカァカァと鳴いた。 三統彦なりの感謝の表現ではあるが、黒い羽根が舞い散り、義勇は無表情のまま風を受けている。 ナマエは悪びれる様子のない鴉に溜め息をついて、渡された包みを隊服のポケットに仕舞った。 そうして自宅の方角へと足を向け、義勇に別れの挨拶を告げる。 「今日は本当に、色々とありがとうございました。冨岡さんもお気をつけて」 「ああ。少しでも異変を感じたらすぐに知らせるんだぞ」 義勇はそれだけ言うとあっという間に消え去ってしまった。 柱の管轄範囲は非常に広いため、悠々と歩いていてはこの辺りの地区を見回ることすら出来ないからだ。 ナマエは義勇が消えた場所をしばし見つめてから、踵を返して歩き始めた。 雑木林の入り口から鎹鴉の集会場までまだ半分ほど道のりを残した辺りで、ナマエは異変に気がつく。 足を止め、注意深く周囲を見回したが獣が居るような気配は無かった。 ならば、この異質な空気は何か。ナマエが思い当たる物は一つだけ。 答えは出せても、決して当たっては欲しくなかったが。 「三統彦、先に行ってみんなの様子を見てきてくれる?」 ナマエが空を仰ぐと、三統彦は主人の腕に止まって声を顰める。 「……深追イスルナヨ」 「うん。でも訓練所の方には絶対行かせないようにするから」 「先ニ義勇ニ伝エニイクカ?」 心配そうな声色の三統彦に対し、ナマエは首を横に振った。 「みんなが心配だから。でも、様子を確認したらすぐ戻ってきて、そのまま冨岡さんの所へ行ってもらいたいの」 「了解。無茶シタラ許サナイカラナ!」 三統彦はすぐさま飛び上がり、あっという間に雑木林の奥に消えていく。 事は一分一秒を争うのだ。後ろ髪を引かれる思いはあるものの、鎹鴉として鬼殺隊の施設を守るため一役買わなければならない。 「ナマエ、スグ義勇ヲ呼ンデクルカラ絶対無理ハスルナ……!」 林の奥はまだ静寂に包まれているようで、僅かな安堵を覚えつつ三統彦は持てる限りの力を振り絞って羽ばたき続ける。 一方ナマエはというと、日輪刀を構えて注意深く林の中を進んでいた。 違和感は増していくのに決定打が無く、無闇に飛び込んでいくこともできないため気配がする方角を睨みつける。 それでも、気配のもとは少しずつ奥へと向かっていく。 まだ距離はあるが、鎹鴉の集会場兼訓練所となっているナマエの自宅には絶対に鬼を近づけてはならなかった。 そう。ナマエが感じているこの気配の主は、十中八九鬼のものである。ならば無駄に待つこともないと、ナマエは日輪刀の柄を強く握りしめた。 「出てきなさい!絶対この先には行かせないわよ!」 ざわ、と気配が動く。しかし鬼はまだ姿を現さず、ナマエの様子を窺っているようだった。 それならばとナマエは日輪刀の鋒を持ち上る。今の僅かな気配の揺らぎで、おおよその方角だけは見当がついていた。 「風の呼吸、壱ノ型……」 スゥ、と一度息を吐き切ってから、ナマエは深く息を吸い込む。 「鹿旋風・削ぎ!」 ナマエが翡翠色の光を放つ日輪刀を薙ぎ払うと、そこから発せられた剛風が地面を抉りながら気配の元へと注がれた。 轟音と共に木々を揺らす衝撃波によって、太い木の幹の裏に隠れていた鬼は後方へよろけ、ナマエは遂にその姿を捉える。上背の高い、体格に恵まれた鬼だった。 「ゲゲッ、鬼狩りに見つかった!早くしないと!」 あまり知能は高くなさそうだ、とナマエは頭の中だけで呟く。 体躯や声色から生前は男性だったのだろうと推測されるその鬼は、背中に大きな瓢箪を背負っていた。 「逃げろ逃げろ。急げ、鴉を殺しに」 「鴉を、殺しにですって……?」 瓢箪を背負い直して走り出す鬼に対し、ナマエは普段より一等低い声を発する。 「まさか無惨に気取られた!?」 「ヒェッ、恐ろしい名を口にしたな!くわばらくわばら、これだから鬼狩りは」 脱兎の如く逃げ出す鬼を追って、ナマエは落ち葉を蹴散らしひたすら走った。 もし鬼舞辻無惨が鎹鴉の訓練所を襲撃しようと企んでいたとしたら。 それは、無惨が本格的に鬼殺隊を潰しにかかってきているのだということだ。 手始めに狙われる場所としては妥当なのかもしれないと思い、ナマエは奥歯をギリリと噛み締める。 あくまでこれから隊士に付く予定の鴉たちがいるだけの場所なので他の施設と比べれば警備は手薄だ。 しかし此処を落とすことが出来れば、鬼殺隊全体には少なくない動揺を与えることができる。 それに鎹鴉が不足すれば、新しく隊士になる者たちに指令を伝えることが困難にもなるのだ。 「鬼舞辻無惨。なんて陰湿な奴!」 「ヒイイッ、命知らずめ!黙れ黙れっ!」 鬼は余程無惨を恐れているのだろう。ナマエがその名を出すたび震え上がる。 「黙らないならまずはお前を殺す!」 鬼は突如足を止め、ナマエから二尺ほど距離を取りながら睨みつけてきた。舞い上がった落ち葉が全て地に落ちるより早く、ナマエは刀を持つ手を振り上げて跳び上がる。 「風の呼吸、伍ノ型……」 鬼が視線を上げると、はらはらと散る落ち葉の向こう側で翡翠色が煌めいた。 「木枯らし颪!」 何処からともなくびゅううと突風が吹いてきて、鬼は思わず両手で顔を覆う。 足を開いて重心を下げ、ようやくその場に踏みとどまれる程の強い風だった。 それでも、柔らかい腐葉土の上ということもありずるずると後ろに追いやられる。 風が止んだ瞬間慌てて手を退けた鬼の目の前に、鋭い鋒が飛び込んできた。 ほとんど無意識のうちに身体を捻った鬼の左肩から先が宙を舞う。 もし妖怪鎌鼬が存在したらこのような斬撃を与えるのだろうと、肩口を押さえながら鬼は地面に転がる自らの片腕を眺めた。 声は上げない。 どうせまた生やすことはできるし、この女の鬼狩りが思っていた以上に素早い剣技を繰り出してくることが分かったからだ。 鬼はナマエを見据え、一瞬たりとも隙を与えてはならないと気を引き締めた。 対するナマエは日輪刀を一振りし、鋒から滴り落ちる鬼の血を払う。 元々一撃で頸を斬らせてくれるとは思っていないが、ことのほか鬼が冷静なのでナマエは最初に受けた印象を訂正せざるを得なかった。 一匹で鬼殺隊の施設を襲撃しにきただけはあるのだから、十二鬼月ではなくともそれなりの実力があるのだろう、と。 「この先には行かせない」 「それは困る、とても困る。鬼狩りどもの鴉は根絶やしにしないと!」 鬼が肩口から手を離すと、そこに新たな腕が生えてきた。 あっという間に元通りになってしまったそこをぐるぐると回し、具合を確かめる。 多少の痛みはあれど、鬼にとって頸以外を斬られせて逃げ延びることはただの手立ての一つである。 特に相手がナマエのような素早い剣技の使い手ならば、蜥蜴の尻尾の如く身体を切り捨てながら戦う手は非常に有効だった。 ナマエは怒りを露わにし、日輪刀を構え直す。絶対に、鴉たちの元へこの鬼を辿り着かせてはならないのだ。 その時、ナマエの頭上を一筋の影が通り越していく。 見上げずともそれが三統彦のものだと分かるナマエは、ならばまだ訓練所は無事なのだと内心安堵した。 恐らく気配からしてこの鬼だけが鴉の雑木林に派遣されたのだろう。 「冨岡さんのお手を煩わせないようにしないとね」 三統彦は偵察を終えた後真っ直ぐ義勇の元に向かう手筈になっている。 義勇とナマエが別れてからまだ半刻も経っていないので、鬼殺隊本部に伝令しに行くより早いはずだ。 「他の施設も心配だから、ここに柱の方をお呼びするのは本望じゃないんだけど……」 小さく、鬼には聞こえないほどの声でナマエはつぶやく。 しかし異変があれば伝えるようにと言いつけられていたこともあり、この地区の担当でもある義勇には状況を伝えなければならなかった。 ならばせめて彼が到着する頃には全て終わっているように──そう心に決め、ナマエは軸足を踏み込んで一気に間合いを詰める。 「風の呼吸、捌ノ型・初烈風斬りッ!」 ナマエが立っていた場所に一陣の風が吹いた頃には、既に彼女は鬼の脇をすり抜けた先にいた。 すれ違い様に斬られた鬼からは血飛沫が噴き出し、辺りに鼻をつんざくような臭いを撒き散らしている。 それでも、鬼はすんでの所で身体を翻し胸を斬らせる代わりに頸を守っていた。 「……っ、次こそ!」 立ち込める生臭さに腕で口元を覆ったナマエは、上体をふらつかせながらも膝を折ることのない鬼に対し苦虫を潰したような顔を浮かべる。 この鬼の能力は再生能力から見ても平均以上で、攻撃される前に殺してしまわないといけないとナマエは危機感を覚えた──矢先のことだった。 「ぐおおおお、痛い!痛いぞ鬼狩りの女ぁぁぁぁ!」 鬼は激しく斬りつけられた胸元を押さえながら吼える。 夜の雑木林にこだまする絶叫はおぞましいもので、ナマエには命を持たぬはずの木立すら震え上がっているように感じられた。 嫌な汗がナマエの背中を伝う。 気づけば彼女の手にも汗が染み出していて、日輪刀を落とさぬようしっかりと握りしめたその時。 鬼は、背負っていた大きな瓢箪を空に向かって投げる。 ナマエが一瞬そちらへ気を取られた隙に、鬼はナマエの懐向かって突進してきた。 「ぐおおおおお、殺してやる!」 「くっ、速い……!」 ナマエは鬼の爪が羽織にかかる直前で攻撃をかわし、つい先程まで鬼がいた場所に舞い戻る。 しかし鬼は図体からは想像できないほどの俊敏な動きで、片足を軸にしてぐるりと振り返った。 「かかったな!」 鬼がにやりと笑う。 硬い破裂音が響いたかと思えば、次の瞬間ナマエの頭上には割れた瓢箪の破片と共に大きな水の塊が降ってきた。 避けることも出来ないまま、ナマエはその水塊に捕らえられ身動きが取れなくなってしまう。 「ぐっ、これ……なっ……!?」 思わず口を開いてしまったナマエは大量の水を飲み、苦しみのあまり両手で自身の喉を締めた。 これ以上一気に水が流れ込んできたら気管に入って死んでしまうと思い、咄嗟に手が出た故のことだ。 翡翠に光っていた日輪刀は輝きを失い、うず高く落ち葉が積もった腐葉土の上に落ちる。 ナマエの口から、音を立てて気泡の塊が吐き出された。 「苦しいだろう?お前は間もなく水に溺れて死ぬ!ああ可哀想、可哀想だ!」 鬼は声を上げて笑う。 ナマエを閉じ込めた大量の水は、この鬼が使う血鬼術によるものだった。 「命乞いする暇(いとま)も無いねぇ。鴉なんて捨て置けば良かったものを、真面目だねぇ」 長い爪が光るしわがれた指先で虚空に円を描く鬼。 すると、ナマエを閉じ込めていた水の塊が一層大きくなり、黒い羽織に包まれたその身体には重圧がかかっていく。 「ぐ……ッ!?」 内臓を圧迫される苦しみと息が出来ない苦しみ。 二重の苦しみに喘ぐナマエは、徐々に意識が遠のき始めたことに気がついた。 このままではまだ若い鎹鴉たちの身が危ない。 しかし、血鬼術によって作られた水塊はナマエを離してくれそうにもなく、薄れゆく意識の奥底でナマエはただ助けを求めることしかできずにいた。 ──たすけて、冨岡さん……。 「ミョウジ、しっかりしろ……ナマエッ!」 幻聴かと思うほど遠くから名を呼ばれ、はっとして意識を繋ぎ止めるナマエ。 耳をすませば、あるはずのない潮騒が聞こえてくるような気がした。 「水の呼吸 肆ノ型、打ち潮」 静かな、しかし芯の通った低い声が響く。 ナマエが辛うじて目を僅かに開くと、視界を覆っていたはずの水の壁が別の水流によって消しとばされるところだった。 バシャンと水が弾ける音がして、ナマエの身体は圧力から解放される。 地面に膝をつき激しく咳き込むナマエの前に立ったのは、助けてほしいと願い彼女が心の中で切望した冨岡義勇その人だった。 「俺はお前を赦さない」 眩いほどに青く色づいた刀身を煌めかせ、義勇は鬼を睨みつける。 「お前も鬼狩りか?こわやこわや」 「水の呼吸、捌ノ型」 鬼の言葉に返事をすることもなく。 氷よりも冷たい眼差しを称えた義勇は、駆け出しながらひと息に日輪刀を振り下ろした。 「滝壺」 刹那の時を経て、何が起こったのか理解し切る前に鬼の視界は宙を舞っている。 水塊が壊されてから、ほんの僅かの間の出来事だった。 「な、んだ……?」 おかしい、と鬼は思った。 何故自分を睨みつけていたはずの男が、自分の身体の横に立っているのかと。 しかも、自分自身はその光景を空から逆さまに見ているのだから。 がさり。 鬼は生まれて初めて、自分の首が落ち葉の中に埋もれる音を聞く。 そして、これは鬼が最後に聞く音となるのだった。 「水は、誰かを苦しめるものじゃない」 ぼろぼろと崩れていく鬼の首を見ながら義勇は冷たい声色で呟く。 見下ろすその目はやはり冷たく、行いを省みることもなく消えた鬼への憎しみだけが込められていた。 [back] ×
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