困った。非常に困った。 冨岡義勇はしたためたばかりの文を片手に思案する。 鬼殺隊の関係者同士で文のやりとりをしたいときの手段と言えば、彼らに支給されている鎹鴉に運ばせるのが常である。 しかしその鎹鴉が使えない場合はどうしたら良いのか。 彼は文と、鎹鴉の寛三郎を見比べて溜め息を零した。 鬼殺隊本部は隠された場所にある。 普通の隊士では立ち入るどころか場所すら知らされていないが、義勇は『柱』と呼ばれる鬼殺隊の中でも最上位の力を持った幹部であるのでその限りではなかった。 事前の連絡もなく義勇が訪れたことに驚いた当主の妻あまねだったが、彼の要件を聞くとすぐにそれを夫である耀哉に伝える。 すると産屋敷家当主・耀哉は、二つ返事で義勇との謁見を許可したのだった。 暁に鳴く 壱 「そうかい。寛三郎の具合が悪かったんだね。それは心配だ」 波ひとつ無い湖の様な穏やかな笑みを浮かべ、寝ていた布団から上体を起こした耀哉は傍らで正座した義勇の膝を見る。 そこには一羽の鎹鴉が、静かに丸くなっていた。 「本来ならこんな事でお館様のお手を煩わせる訳にはいかないのですが、人間と違い鴉の具合を見せられる相手が分からずお伺いしてしまいました。 申し訳ございません」 義勇は耀哉に向かって頭を下げる。 彼の手の中で、寛三郎が弱々しく身体を震わせた。 「良いんだよ、義勇。寛三郎の具合が良くならなければ君も心配だろう? それにいざと言うときに寛三郎が本調子で無ければ上手くいくこともいかなくなる」 耀哉は義勇に面を上げるよう付け加えると、後ろに控えていた娘を呼んだ。 「ひなき、義勇を鴉の集会場に案内してくれるかな」 「かしこまりました」 産屋敷家の五つ子の一人ひなきは、父親に一礼してから切れ長の大きい瞳を義勇に向ける。 耀哉も再び義勇に向き直り、緩く口角を上げた。 「義勇、鎹鴉のことなら何でも任せられる子がいるから安心して行っておいで」 「はっ! ありがとうございますお館様」 義勇はまた深々と頭を下げてから立ち上がる。 耀哉は義勇が大事に抱えた寛三郎にも、慈愛に満ちた視線を向けた。 「寛三郎、君には長い間苦労をかけるがまだまだ頑張っておくれ」 この三日ほど悪寒と頭痛に悩まされ禄に飛ぶことすら叶わない寛三郎は、力なく掠れた声でカァと鳴く。 代わりに義勇がこうべを垂れ、彼らはひなきに先導され部屋から出て行った。 静けさの戻った部屋で、妻に支えられ身体を横たえた耀哉はまだ一人笑みを浮かべている。 「寛三郎はすぐに良くなるよ。それに、きっと君にとっても良いことがある筈だ、義勇」 そっと呟かれた言葉を聞いて、あまねは目を閉じた夫の顔を不思議そうに見下ろした。 兎にも角にも夫が楽しそうなので良かったと素直に思う事ができる、良き妻である。 ひなきに案内されたのは、本部から徒歩で一時間ほど離れた場所にある雑木林の中だった。 鬼殺隊はその機能を鬼によって一網打尽にされないよう、要となる施設を一箇所にまとめてはいない。 そのため、隊士たちに欠かすことのできない鎹鴉の施設も離れたところに置かれているのだとひなきは述べた。 「此方です」 林に入って十五分ほど進んだところで、ようやくひなきが足を止める。 義勇がひなきの小さな背中の向こう側に目をやると、そこには木造の小屋が二つ、大きいものと小さいものが並んでいた。 バサバサと羽ばたく音や鴉の鳴き声が漏れ聞こえ、辺りには黒い羽根が散っている。 「それでは、私はこれにて」 ひなきはそう言うと、後ろからついてきていた護衛の隠達の元へ向かった。 「ご足労いただきありがとうございました!」 普段は言葉足らずな義勇も、産屋敷家に対しては最上級の畏敬の意を込めて感謝を述べる。 ひなきは振り返らず、隠達に囲まれて去っていった。 「久シブリジャノゥ……」 義勇の腕の中で、寛三郎が力なく首を持ち上げる。 掠れた声ではあるものの、年老いた鎹鴉の言葉の中には高揚感が混ざっていた。 「俺は初めて来た」 「普通ハ隊士ガ来ル所ジャナイカラノ」 「まあ、そうだろうな」 「スマンノウ、義勇」 寛三郎がコホコホと乾いた咳をしたので、義勇は彼の背中を摩ってやり、小さい方の小屋に向かった。 大きい小屋は一見して鴉達の宿舎と分かるものだったからだ。 小さい小屋の戸を三度叩く。それから一呼吸あけて、また二度。 ひなきから教わった順序通りにすると、ややあって戸の鍵が中から開けられた音がした。 それからすぐに戸が開き、中から女性隊士が顔を出す。 彼女の肩には鴉が止まっていた。 「お待ちしておりました、水柱様。中へどうぞ」 隊士は義勇を中に案内すると、柔らかい布が敷かれた籠を持ってきて寛三郎を寝かすように言う。 鎹鴉の担当をしているだけあって、女は隊服の上に黒い羽織を着ていた。 「お館様よりご連絡をいただきました。寛三郎の具合が悪いと伺いましたが……」 そう言いながら女は浅い呼吸を繰り返す寛三郎の身体に触れる。 頭から羽根、腹、背中と確かめていき、それから平たい棒を持ってきて寛三郎の口の中を診た。 「ああ、腫れてますね。痛かったでしょう、寛三郎」 寛三郎は口を開けているので返事が出来ないだろう、と思ったものの義勇がそれを口に出すことはない。 彼はただ、女が鴉を診断するのを黙って眺めていた。 「風邪ですね。薬を出しますから毎晩飲ませてあげてください」 女は寛三郎が寝ている籠を義勇の前に置いてから、調剤台と思われる机に向かった。 「鎹鴉も風邪を引くのか?」 「生き物ですからね。なるべく良くなるまで安静に、寝るときは暖かくしてあげてください」 なるべく安静に。義勇はどうしたものかと頭を捻る。 何せ鬼は寛三郎の風邪の治り具合など気にせず現れるから、任務が入れば鎹鴉は隊士に付いていかなければならないのだ。 「治るまで私の鎹鴉をお貸ししますよ。寛三郎はここでお預かりすることもできますが……」 なぜ俺の考えている事が分かったのかと義勇は目を丸くする。 それを見た女は軽く笑っただけで、寛三郎の口元に耳を寄せるとうんうんと頷いた。 「水柱様のことが心配だそうですので、寛三郎は連れ帰ってあげていただけますか?」 義勇は本日二度目の溜め息をつく。 自分が寛三郎を心配することはあれど、寛三郎に心配されるようなことは何一つないからだ。 この年老いた鎹鴉には何かと肝を冷やすことも多い。 それなのに、自分が心配だから一緒に帰ると言うのは困りものだ。 本来ならここで静養してくれた方が義勇にとっても安心できるし任務に専念できる。 彼女も自分の鎹鴉を貸し出す必要もない。 しかし困りもののはずなのに、義勇はどこか嬉しいと感じてしまう自分がいることに気がついた。 「任務が入って投薬できなくなることもあるでしょう。その時は私にお任せください」 義勇の溜め息は寛三郎の小さな我儘に対して困っているからだ、と思ったらしい女がそう付け加える。 さすがに鴉の診断をしているだけあってこの女は鎹鴉の味方らしい。 妙に納得した義勇は首を縦に振った。 「分かった。もし何かあったら借りた鴉に頼めば良いんだな?」 女隊士は頷くと、自分の鎹鴉を義勇の前に立たせる。 「『みむねひこ』と申します。数字の三、統率する意の統べるにやまびこの彦と書きます」 寛三郎と比べると若く、艶のある漆黒の羽根を持つ三統彦はカァとひと鳴きした。 「宜しく頼む」 三統彦は神妙な顔で挨拶をする義勇の肩に飛び移る。 若く大柄の鎹鴉は、寛三郎に比べるとずっしりと重かった。 「重いでしょう。鎹鴉の中でも大きい方なんですよ、三統彦は」 義勇の肩から手の中に視線を移し、女は寛三郎を撫でた。慣れない診察に疲れたのか、今はすやすやと寝息を立てている。 「良かったね、寛三郎」 義勇は頭の中に疑問符を浮かべた。 一体何が良かったと言うのだろうか、寛三郎は体調を崩しているというのにと思う。 すると寛三郎から手を離した女が微笑んだ。 「鎹鴉を大切にしてくださってありがとうございます。 寛三郎、水柱様と一緒にいるのが楽しいみたいですよ」 「そうなのか?」 「他の鎹鴉と違ってあんまりここに来てくれないんです。だからきっと、あなたとひと時も離れたくないんだなって」 そこまで言われて気恥ずかしくならない訳もなく。 義勇はむず痒い気持ちで腕の中を見た。 寛三郎は相変わらず、すやすやと眠りこけている。 「久しぶりに会えたから良かったです。具合が悪いのは可哀想だけど、こういう理由でもないと顔を見せてくれませんから」 「他の鎹鴉はもっとここに来ているのか?」 「そうですね。霞柱様の銀子を除けば」 義勇は時透無一郎の鎹鴉を思い浮かべたものの、その姿はほとんど記憶に残っていない。 ただ、言われてみればあの雌鴉はやたらと無一郎を溺愛していたような気もした。 「想いの形はそれぞれですが、皆自分の主が大好きですからね。離れ難いと思う子も一定数居るんですよ」 女はくすりと笑った。 その柔らかな表情から、義勇は彼女が今思い浮かべているであろう鎹鴉達に対する想いを実感するのだった。 「鴉が好きなんだな」 彼女の役目からして当然だとは思いつつ義勇がそう尋ねると、女隊士は自分より背の高い義勇を見上げて満面の笑みを浮かべる。 「皆家族のような存在ですし、何より鴉は嘘をつきませんからね」 「それは一理ある」 義勇があまりに神妙な顔つきで頷いたものだから、女は堪らずに小さく噴き出した。 笑われてしまった義勇の方は不満だと言いたげに、眉間に皺を寄せる。 「お前が言ったんだ」 「すみません、水柱様がそんな風に全面同意して下さるなんて思わなくって」 くつくつと肩を震わせながらまだ笑っている女に気づかれないほど小さく、義勇は本日何度目か分からなくなった溜め息をついた。 こういう時にどのような反応をしたら良いか分からない。 同じ柱の一人である宇髄天元ならまだしも、自分はその答えを持ち合わせていないのだと心の中でこぼした。 「あ、すみません! どうかお気を悪くなさらないで」 「……そういうわけじゃない」 自分に対して注がれているのが呆れた視線だと感じて、女は慌てて義勇に謝る。 義勇は義勇で、気にするなとも何とも言えずに後頭部を掻いては気まずそうに目を逸らした。 そもそも人見知りの義勇には同年代の、しかも異性と話す機会など同じ柱達以外では皆無と言っていい。 たがそれを口にする訳にもいかなかった。 これ以上ここに長居する理由も無いので、義勇は帰ると呟くと数十分前に入ってきた戸に向かう。 「頼んだよ、三統彦。お前はよく水柱様をお助けするように」 女は義勇の横に立ち、自分の鎹鴉と義勇の腕の中の寛三郎を順に撫でた。 「寛三郎、お大事にね。早く良くなりますように」 相変わらず気持ち良さそうに眠り続ける鴉に向けた優しい眼差しと声色。 それを感じ取った時、何故か義勇の胸の奥に懐かしさと苦しさが混じり合ったものが湧き上がってきた。 心のどこかに引っ掛かりを感じて立ち止まる。すると女隊士は義勇を見上げて首を傾げた。 「水柱様?」 義勇はかぶりを振って、女には目を合わせず戸に手をかける。 「世話になった。何かあればまたよろしく頼む」 引き戸を開けると、木漏れ日が差し込む雑木林を鴉達が飛び回っていた。 「お気をつけて、水柱様。少しでも困ったことがあれば三統彦を寄越してくださいね」 小屋から出て落ち葉を踏みしめる義勇に向け、女隊士は頭を下げる。 振り返ってよく見てみれば、裾の長いワンピース型の隊服を着た彼女は羽織から長い靴下、編み上げ靴まで全てが真っ黒だ。 彼女自身がまるで鴉のようだと思いながら、義勇は軽く会釈をして踵を返した。 雑木林を出た頃に目を覚ました寛三郎はまだ重い頭を持ち上げて、自分を抱いてくれている義勇の顔を覗き込む。 「起きたのか。まだ無理はするな」 その視線に気付いた義勇も腕の中に視線を落とした。借りた鎹鴉は彼らの頭上を飛んでいる。 「スマンノゥ義勇……」 「気にするな。それより今は休むことに専念しろ」 「義勇ハ優シイノウ」 「そんなことはない」 「ワシラノヨウナ鎹鴉ニナド、目ヲカケヌ隊士モ少ナクナイゾ」 それはお互い様じゃないのかと、義勇は先程の女隊士の言葉を思い出していた。 鎹鴉の集会所に中々寄り付かない寛三郎の方が、調子の悪い鴉に優しく接する隊士よりも一層珍しい筈だ。 そもそも隊士は皆鎹鴉に助けられているし、産屋敷家から託された大切な借り物なのだから丁寧に扱うのは当然だと義勇は考える。 隊士と鎹鴉の関係性にまで思案を巡らせ始めたところで、寛三郎の掠れた声に義勇の意識は引き戻される。 「気立テノ良イ娘ジャッタロウ?」 寛三郎が言っているのは先程の女隊士についてだろう。 義勇は回想し、気立の良し悪しで言えば確かに良い方だったなと思う。 柱相手に不遜な態度を取る輩自体少ないが、どうにも言葉足らずで人と打ち解けるのに時間がかかる自身にも親しげに話しかけてくれたことは印象深かった。 初対面にしては打ち解けられた方だと、己の経験上から義勇はそう考える。 「そうだな」 義勇が頷くと、寛三郎はもたげていた首を主人の腕に乗せ満足そうに喉を鳴らした。 「義勇ガ楽シソウニ話シテイテ良カッタ」 「は……?」 楽しそう?俺が?義勇は思わず立ち止まり頭を捻る。はて、先程のやり取りで楽しいと思ったところはあっただろうか。 決して居心地が悪いとは思わなかったけれども。 「違ッタカノ? 義勇ガ笑ッタトコロヲ見タノハ久シカッタガノゥ」 「笑った……。俺が?」 そんなつもりは無かったので義勇はますます困惑した。 しかし寛三郎はあっけらかんとして、ソウジャソウジャと答えるばかり。 「分からないな」 答えが出ないことを延々考えても仕方がない。 義勇は疑問を心の奥底に押し込むと再び歩み始める。 「鴉は嘘をつかない、か」 ふと頭に浮かんだのは、彼女が満面の笑顔で告げたそんな言葉だった。 [back] ×
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