戯れは程々に



「先輩〜!」

 ごみごみとした本社のエントランスで、視界の端に映り込んだ赤。
 慌ててその背中に駆け寄りながら呼びかけると、振り向きもされず、気の抜けるような声で呼ぶなとだけ返事が返ってくる。

「気なんてとっくに抜けてるんじゃありません?」
「うるせぇ」
「隠しても無駄ですー!」
「あーもう、うぜえなぁ!」

 腕に纏わり付いてみると睨まれた。でも、無理矢理解こうとはしないじゃないですか。
 諦めたフリをしてるんだろうけど、私がどれだけ強く引っ張ったって、レノ先輩が本気になったらすぐ振り払われてしまうことぐらい分かってるのに。

「帰社時間が被るなんて、運命ですね」
「何かの間違いだぞ、と」
「ふふ。照れちゃって」

 はぁと溜息をつくレノ先輩は、それっきり言い返してもこなくなった。
 すれ違う社員達は皆私達の事を見ないようにコソコソと通路の端を歩いていく。もっと見ればいいのに。別に、騒いだっていいのよ?
 私達の事が噂になって、レノ先輩に声をかける女子社員が居なくなればいいのになー、なんて。

「オイ。不穏な事考えてんじゃねーよ、と」
「不穏な事ってなんでしょう?」
「とぼけんな……」

 先輩は周りで聞き耳を立てている社員達に睨みを利かせる。蜘蛛の子を散らすように、あっという間に皆散っていった。

 先輩にくっついたまま地下フロア行きのエレベーターに乗り込む。
 地下三階なんてあっという間に着いちゃうから、この降って湧いたランデブーもすぐ終わり。だからもうちょっとくらいくっついてても良いよね、なんて勝手に結論つけてみたりして。

 抱きついたままの先輩の腕にぎゅっと額を押し付ける。
 レノ先輩は何も言わなかった。

 すぐに終わると思われたランデブーが、なかなか終わらない。
 というか、エレベーターがなかなか到着しない。

 あれ、と思ってフロアの表示を見上げると、B7とかB8とか、目的地を通り越してまだ数字は増えていく。

「オフィス、B3ですよ?」

 一応レノ先輩を見上げながら教えてあげる。でも自分のオフィスの場所を忘れるなんてあるわけない。

 ようやくエレベーターのドアが開く。
 目の前の壁には『B10』と書かれたプレートが掲げられていた。

「いつの間にか、オフィス引っ越したんですか?」

 もしや任務に出ている間に地下三階から地下十階に移動したのかと思って聞いてみると、レノ先輩は、んなわけねぇとだけ答えてずんずん進んでいく。

「え、じゃあどこ行くんです?」

 てっきりオフィスに顔出すと思ったからついて来たのに。
 私だって任務に出ずっぱりたったからやらなければいけないデスクワークもそこそこ溜まっているので、今用事があるのは総務部調査課のオフィスだけ。

「ていうかここ、なんのフロア……?」

 思えばエレベーターを降りてから誰ともすれ違っていない。地下には地上階と比べて対外的に公にできない施設も多くあるらしいけれど。

 するとレノ先輩はちらりと私に横目で視線を送ってくる。

「倉庫だぞ、と」
「そうこ……って、あの、物とかしまっておく?」
「見りゃ分かるだろ」
「なるほど確かに」

 先輩が顎先で示す方向には重厚な扉がいくつも並んでいる。ガラス張りになっている壁から中を窺うと、コンテナや段ボールがうず高く積み上げられていた。

「で、ここに何を取りに来たんです?」

 レノ先輩はまだ通路を進んでいく。私を腕にくっつけたまま。
 目的が分かればお手伝いしますと言うと、先輩はようやく一番奥の扉の前で止まり、お行儀悪くドアを蹴り開けた。

 部屋に入ると扉が重い金属音を鳴らして閉まる。挟まれでもしたら、腕がちぎれてしまいそうだ。

 そんな風にどうでもいい事を考えていると、突然私の背中がドアにぶつかった。

「痛っ」

 完全に不意を突かれて受け身も取れなかったから、背中に鈍い痛みが走る。
 何事かと顔を上げると、目の前にはレノ先輩の顔。先輩はわざわざ腰を落として、目線を私と同じ高さにしている。

 目の前と言っても色々あると思うけど、これは……

「ち、ちかいです」

 吐息がかかるほどすぐそこにあるレノ先輩の薄いグリーンの瞳には、目を丸くした私が映っている。

「そりゃあ、近くしてんだからな、と」
「え、えーっとレノ先輩?」
「いつもの威勢はどこ行った?」

 逃げようにも先輩の片手が私の肩を押さえていて逃げられなさそう。

 先輩の猫みたいな目がすっと細められる。

「ナマエ、お前のじゃれつき?つーの?アレはどういう意味なんだよ、と」

 例えばさっきのとか、と先輩は付け加える。

「で、他でもしてんのか?」

 あんまりにも毎回毎回あしらわれたり無視されたりするから全く気にしてないと思ってたのに、もしかして先輩意外と気にしてくれてた?

「オイ、なんで笑うんだよ」

 目の前の、いつも飄々としている先輩が愛おして仕方なくなった。

「もちろん、先輩にだけですよ?」
「……それ、ホントかよ」
「ホントのホントです!」

 そう言って私は目の前にあった先輩の薄い唇に自分のを重ねた。
 ちゅ、と少し乾いた音がして、今度はレノ先輩が目を丸くした。

「じゃれつき、じゃなくていつも本気のアピールのつもりだったんですけど」

 だって先輩、嫌がる癖に振り払わないから。
 そんな優しさに甘えてずるずるここまで本心を伝えなかったのは、私が悪いと思うけど。

 せめて他の女の子達より少しでも特別に思われたくて、うざいけど可愛い後輩、くらいに思っててくれれば良いかななんて思ってた。

 レノ先輩はまん丸にしていた目を瞑ると、長い溜息をつく。

「お前、ばかじゃねーの?」
「ば、ばかは酷くないですか」

 そんなに呆れないで。戯れが過ぎたからって、怒らないで。

「からかわれてると思ってムカついてたけど、いつの間にか期待してる自分に気付いちまったんだ、と」
「先輩、それって……」
「気付いたら今度はなんも出来ねぇオレ自身にムカついた」

 先輩の膝が私の脚の間に割って入る。さっきよりも更に顔が近付いてきて、レノ先輩は私の肩に顔を埋めた。

「オレ、ナマエとは遊びじゃ嫌なんだぞ、と」

 耳元でそう囁かれて、危うく身体から力が抜けてしまうところだった。
 それでも、レノ先輩が私を抱きしめるからその場にへたり込んでしまう事はなかったけど。

「本気、見せるから……お前も」

 顔を上げたレノ先輩がそう言って見つめてくるから、私はただコクコクと頷くことしかできなかった。


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