少しずつではあるけれど



「すみません、前失礼しまーす!」
 麦藁手の蕎麦猪口を一つ一つ食卓に並べていく。絶対に座っていて下さいねと十回は念押ししたこともあり、お義母さんはちゃんと食卓の前に座って待っていてくれた。自分の家の台所を嫁に使われることは本当ならあまり良い気持ちがしないのかもしれないけど、彼女は困惑しつつも今日の夕食の支度を任せてくれたのだ。

 お義母さんだけではなく、冬美さんと夏雄さんも並んで待っている。冬美さんは何度か台所に顔を出しにこようとしたけれど、焦凍くんに頼んで廊下を見張っていてもらったので諦めてお義母さんと談笑していたらしい。きっと不安だったんだろうな。冬美さんには少しだけ、協力してもらう為にも事前にネタばらしをしてあったから。
 でもきっと皆さんに喜んでもらえるはず。色々な過去の出来事から歪な形をしていたこの家族も、長い時と彼らの努力のおかげでようやく少しずつあるべき形に戻りつつあると側から見ていて思う。私は元々部外者だけど今ではこの家族の一員──に、してもらえていると良いなと思う。戸籍の上では立派な轟家の人間だけど、そういう話じゃなくてもっと、本質的な部分で。
「蕎麦湯もありますからね、ここに置きますよー」
 まずは形から入るのも大事だと思って買った赤い漆塗りの湯桶。買ったというか買っていただいたというかだけど、それを食卓の端に置き、次にお箸を配る。そこへ焦凍くんが予め作って冷やしておいた麺つゆの入った両手鍋と、山葵とおろし金を乗せたお盆を持って入ってきた。
「めちゃくちゃ本格的だなぁ」
「これ全部二人で作ったの?」
 夏雄さんが感嘆の声をあげ、お義母さんも目を丸くしている。涼やかな雰囲気の綺麗なお義母さんは、驚いている顔もまた美人だ。
 私は明確な返事はせず笑ってみせてから、台所へ一番大事な品の様子を見に戻る。盛り付けの準備をしようと大きなお盆に木桶を乗せたところに焦凍くんがやってきた。
「ちょうど良かった! ここに氷お願いできる?」
「分かった」
 冷凍庫には製氷器で作った氷だって勿論あるけれど、今日はどうしても彼が作ってくれた氷を使いたかった。元々約束していたので、焦凍くんは二つ返事で小さな氷の粒を木桶の中に散りばめてくれる。
「ありがとう、完璧だよ」
 キラキラと輝く純度の高い氷に胸が弾む。木桶の中身から視線を上げると、同じように覗き込んでいた焦凍くんと目が合った。
「俺の方こそ、今日はありがとな」
 私たちがこれからしようとしていること。ここまで準備をしてきたこと。焦凍くんは全部知っているのでお礼を言ってくれたのだろうけど、そんなこと言われる必要はどこにも無いのに。
「余計なお世話だったらごめんね」
「そんなことはねぇよ。きっとみんな、お母さんだって喜ぶと思う」
「そうだと、いいな」
 彼の優しい心遣いが伝わってきて、まだ何も始まっていないのにもう涙が浮かんできそうになる。ここで泣いてはいけないと思い目に力を入れて堪えていると、まだ私を見ていたらしい焦凍くんがぷっと噴き出した。
「すげえ顔だ。そんな緊張しなくても大丈夫だろ」
「悪かったねすごい顔で」
「いや、一生懸命になってくれてんの分かるからすげぇ嬉しい」
 わざとらしくむくれた私だったけど、相変わらずマイペースな焦凍くんは咎めもしなければ乏しもせず、ただ僅かに頬を緩めながら私の鼻先まで顔を近づけてくる。
 目を閉じる暇もなくちゅっと音を立てて軽く触れるだけのキスを落としてから、彼は私を見据えて左右色の違う瞳を細めた。
「本当にありがとな」
 そんな彼に私がただゆっくりと首を縦に振ることしか出来ずにいると、不意に台所の襖に人影が映ったので私たちは勢いよく顔を離した。
 次の瞬間、小気味良い音を立てて襖が開け放たれる。そこに立っていたのは、この家の主で焦凍くんのお父さん、そして私の義父である轟炎司その人だった。彼は少し前に事務所から電話がかかってきた為、外に出て行っていた。
「親父……」
「準備はいいのか」
「はい! あとはお蕎麦だけです!」
 相変わらず父親に向けて愛想良くすることはしない焦凍くんに代わって、私はお義父さんをコンロの前まで連れていくと沸き立つお湯の中で踊っている麺を覗き込んだ。
「あと一分です」
 キッチンタイマーは残り五十秒から正確な速度でカントダウンしている。焦凍くんが大きなざるを流しに置いてくれたので、タイマーが鳴ればあとはそこに茹で上がった麺を上げて流水でしめてあげれば良いだけだ。
「楽しみですね」
 不安そうに鍋の中を見つめているお義父さんを見上げたら、私の視線に気付いた彼に目を逸らされてしまう。そんなに心配しなくてもいいのにと思うけれど、今まで自分がしてきたことからくる深い自責の念を拭い去ることができないお義父さんにとっては仕方の無いことなのかもしれない。
 私はいつだって、少しずつで良いからこの不器用な家族が寄り添うことが出来れば良いのにと願わずにはいられなかった。
 そのために、出来ることがあるならなんだってしたいと思う。

「お待たせしましたー!」
 焦凍くんと手分けして出来上がったお蕎麦を運び、お義兄さんお義姉さんにも手伝ってもらって食卓の中央に並べていく。艶やかな十割蕎麦は、この日のために飽きるほど何度も試作品を食べてきた中でも最高の出来栄えだと思う。
「うわ、うまそー」
「凄いわねこれが手打ちなんて」
 夏雄さんと冬美さんは顔を見合わせて頷き合っていた。既に喜んでくれているのが分かって私もとても嬉しくなり、隣に座った焦凍くんと食卓の下で小さくグータッチする。
 早速皆さんがお蕎麦を取り分けているところに後からお義父さんが入ってくると、一瞬だけ夏雄さんの動きが止まり、お義母さんは部屋の入り口から視線を逸らしたのが分かった。けれど冬美さんと私が海苔はここにあるよとか山葵は私がすりおろしますとか声を発したことで空気はすぐに元に戻った。焦凍くんも普段と違って、ネギなら沢山あるとか言ってみんなに配る程には頑張って気を遣ってくれている。
 まだまだ自然に和気藹々するまでには程遠いけれど、前途多難なのは承知な上で私はこの家に仲間入りさせてもらったんだ。最近では焦凍くんも私の気持ちを理解してくれてか、こんな思いつきに付き合ってくれるのだから彼は本当に素敵な旦那さまだと思う。

 家族全員で手を合わせてから箸を取る。こんな些細なことすらこの家庭には長年許されないことだった。私は話の上でしか知らないけど、なんとかこの光景を取り戻そうとしていた冬美さんにとっては特に辛い毎日だったに違いない。
 それがようやく叶うようになったのは最近の話だけど、この輪に私が入れてもらえるのは本当にありがたいことだった。

「……美味しい」

 私の向かいの席でつるつると少しずつお蕎麦を啜っていたお義母さんが呟く。口元に手を当てる彼女は、素人の手打ち蕎麦がこんなに美味しいものだと期待していなかったのかは分からないけど、蕎麦猪口を見つめて瞬きを繰り返している。その仕草がなんとも可愛らしくて、見ているこっちはつい頬が緩んでしまう。
 次第にお義母さんを挟んで座る冬美さんと夏雄さんも同じように「美味しい」と口にし始める。私は胸を張って、そうでしょうそうでしょうと言いたくなるのを我慢しつつ皆さんの反応を伺った。私の隣で勢いよく蕎麦を啜り続ける焦凍くんは放っておくとして。
 でも上座に座ったお義父さんだけは、箸を持ったまままだ蕎麦を口にしていなかった。彼は斜め向かいに座るお義母さんの様子を見て、まるで時が止まってしまったかのように動かない。その口元は僅かに開かれたままで、呆けていると言うべきなのか、とにかく無心で自分の奥さんの姿を凝視していた。
 その視線に気がついたお義母さんが戸惑いがちにお義父さんを見詰め返す。二人の異様な雰囲気を感じ取った夏雄さんが「何お母さんにガンつけてんだよ親父」と露骨に嫌悪感を表し始めたので、私は箸を置くと小さく深呼吸してから、気まずい沈黙を引き裂くように努めて明るい声を上げた。
「このお蕎麦、実はお義父さんが打ったんですよ」
「……え?」
 お母さんは危うく箸を落とす程驚いて目をまん丸にした。それと同時にお義父さんからは「言わない約束だろう!」という非難の眼差しが飛んできたけど私は初めから明らかにするつもりだったので気づかないふりをさせていただく。後で怒られたって気にしない。そういうときは絶対焦凍くんが庇ってくれるし、なんだかんだお義父さんは可愛い末っ子の嫁である私にも強く出られないみたいだから。
「本当なの?」
「本当だ。結構練習してた」
 ずぞぞーとお蕎麦を啜ってから、焦凍くんは私の証言を確かなものにするためお義母さんの質問に答えてくれた。夏雄さんも信じられないと言いたげに複雑な表情のまま固まっている。冬美さんには事前に相談してあったので、目が合った彼女は大成功だねと言わんばかりのウインクを飛ばしてくれた。
 自然と全員の視線がお義父さんに集まり、かつてのナンバーワンヒーローはこれでもかと言うほど眉間に深く皺を寄せて咳払いする。
「……どこぞの誰かに、焦凍が好きな蕎麦を一緒に打たないかと誘われただけだ」
 確かに誘ったのは私で、渋々だけど焦凍くんを引き合いに出され誘いに乗ったのはお義父さん。
 お義母さんにご馳走しましょうと提案したら、どうせやるならと一級品の蕎麦打ち道具を買ってくれたのもお義父さんだし、本場長野から蕎麦粉や山葵を取り寄せてくれたのもお義父さんだけど。
 なんなら知り合いのお蕎麦屋さんに頼んで仕事の合間に一人で修行し始めたのもお義父さんだし、私も何度かこっそり修行の場に呼んでもらったけど、その手配をしてくれたのもお義父さんだった。
「私よりも随分お上手なのでほとんどお義父さんにやってもらったんですよ。何せ二ヶ月も修行されていたので」
「二ヶ月も!?」
 素っ頓狂な声を上げた夏雄さんは、混乱のあまり首がもげてしまいそうなくらい何度も両親の顔を見比べている。お父さんのこと、少しは信じてあげてほしいな。
「今日ご馳走することは私が勝手に決めてしまっていたんですけど、この日に合わせてきちんと修行を終えて完璧に作れるようになったのは流石お義父さんですよね!」
「そうだったんだ……」
 蕎麦猪口と箸を置いたお義母さんは、小さくそう零してからお義父さんに身体を向ける。
「ありがとう」
 ほんの少し。本当に僅かだったけれどお義母さんは確かにお義父さんに向けて微笑んでいた。まるで深々と降り積もった雪に陽の光が差し込み、僅かに溶けた雪が淡く照らされているような温かい笑顔だった。
「とっても、美味しいよ」
 お義父さんが一緒懸命練習したんだから美味しいのは当然なのに、分かっていたはずの感想を聞いた私は目頭が熱くなるのを感じる。お義母さんは言った後しみじみと噛み締めるように目を瞑り、そっと胸に手を当てていた。
 あんなに夢中で食べていた焦凍くんさえ手を止めて、両親の姿を見守っている。でも駄目、視界が歪んじゃってよく見えなくなってきた。

 ふと、膝の上で握りしめていた拳に温かさを感じる。少し視線を下げると、ぼやけた視界の端にはそこにそっと重ねられた手が映った。
「やっぱ喜んでくれただろ」
 隣から聞こえてきた声に私は頷き返すことしかできない。声を出せば泣いてしまいそうだから。多分冬美さんも泣いているんだろう。小さくしゃくりあげる声が聞こえてきた。
「……伸びるから、早く食べなさい」
 やがてお義父さんはそれだけ言うとようやく自分の打った蕎麦を端で掬う。
「そうだね、こんなにたくさん作ってくれたし食べないと」
 お義母さんもそう言って、蕎麦が盛られたざるに箸を伸ばした。

 ほんの少し。少しずつで良いから。
 まだまだ続いていく長い時間の中で、私の大好きなこの家族が寄り添い、歪だけれど彼らにとって一番良い形になっていけますように。

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