きみにエールを



 西の空を赤く彩る夕陽に照らされながら、スチール製の欄干に両腕を預ける。昼休みはそれなりに生徒たちで賑わうこの場所も、さすがに放課後になれば閑散としていた。
 遥か下、グラウンドを走るサッカー部の掛け声が校舎に響く。そろそろお開きなのか、テニス部の女子たちの笑い声も聞こえてきた。
「冷えるぞ。帰らないのか」
 突然後ろから声をかけられて、私の肩がびくりと跳ねる。ドアが開いた音すら気づかなかったなんて、そんなに景色に没頭してたかな。

 そこに立っていたのは、夕陽に負けないくらい鮮やかな赤と眩いほどの黄色の癖毛を風に靡かせるひと。生徒には冷えるぞと言う癖に、自分はワイシャツの袖を捲っているのだから矛盾してないだろうか。この先生の身体の芯は、いつでも熱く燃え盛っているのかもしれない。だって、学園一の熱血教師と言われているひとなのだから。歴史の、煉獄杏寿郎先生は。

「私気にしないから、吸って良いですよ」
 視線の先、先生の胸ポケットに透けるパッケージには馴染みのある文字が印字されている。
「父親が同じの吸ってるんで」
「よもや……流石に生徒の前では」
「放課後だし、先生も定時過ぎてるでしょ」
 大方ここで夕陽を眺めながら一服するつもりだったのだろう。あまりに熱血教師らしくて、なんだか笑えてしまう。
「それに、見てみたいです。先生が煙草吸ってる姿」
「むう……」
 このひとは多分、圧倒的に生徒からのお願いに弱い。だからこそ授業が脱線することは数知れず、煉獄先生が生徒から圧倒的な人気を得ている理由の一つでもあった。
 私がじっと先生の胸ポケットを見つめていると、根負けしたらしい先生は小さな溜め息をつく。スラックスのポケットに手を入れたかと思えば、艶の無い黒のジッポを取り出した。無性に、先生は大人の男の人なんだなと思わさせられる。
「失礼する」
 先生は胸ポケットの箱から煙草を一本取り出すと口に咥え、私から顔を背けた。それから片手で口元を覆い、カチッと音を立てて火をつける。
 ややあって、嗅ぎ慣れた煙の匂いが漂ってくる。それは不思議と、父から薫ってくるものより甘く感じられた。

「今更だけど、先生も吸うんですね」
「まあ、な。学校に来る日は夕方までは吸わないようにしているが」
 先生は私の隣に、間を少し開けて立つ。両腕を伸ばして欄干に乗せた先生の右手の人差し指と中指の間には、先端から一筋の煙を立ち昇らせる煙草。
「まさか見つかるとは思わなかった。親御さんの影響とは思うが、勧められるとは更に思わなかった」
「普段は相当我慢してるんですね」
「教師だからな」
「なるほど。偉い」
 君に褒められるとは、と困ったように少し笑って、先生はまた煙草を咥える。嫌でも、横目でその口元を窺ってしまった。普段は元気よく大声を紡いでいる唇は今、静かに白い煙草を挟んでいる。

 しばらく、先生は煙草をふかしながら空を眺めていた。私もおしゃべりする気分にはならなくて、欄干に腕と顎を乗せて景色を眺め続ける。まだ夕陽は半分ほど顔を覗かせていた。グラウンドに残っている生徒はさっきよりもまばらで、片付けをしているか立ち止まって話しているかのどちらかのように見える。
 学園の一日は、世界よりも一足先に終わろうとしていた。

「読んだぞ、君の書いた小論文」
 ふぅー、と先生が長めに吐き出した紫煙は空へ吸い込まれていく。そういえば、煙草を吸ってるからなのか、先生はいつもよりだいぶ声のトーンが落ち着いていた。まあ、休憩しにきているんだろうし流石に煉獄先生もこの時間になれば疲れているのかもしれない。
「へえ……先生の担当って国語でしたっけ」
 なんで煉獄先生がわざわざ? そんな動揺を隠したいと思えば、我ながら可愛くない台詞が口から飛び出した。
 先生はそんなこと気にする様子も無く、だいぶ短くなった煙草を携帯灰皿に押し付ける。煉獄先生は灰を散らさずに、綺麗に煙草を吸う人なんだなと少し感心した。
「国語科の先生たちが軒並み絶賛していたので気になって拝読させていただいた。俺は文学に明るくはないが、確かに素晴らしい文章だと思ったぞ」
 手放しに褒められるとむず痒くて仕方ない。というか、なんで私の小論文は回し読みされているのだと恥ずかしくて堪らなくなった。確かに私は最近推薦入試の為に小論文の練習をしているけれど、指導教官だけが読むのかと思っていたのに。
 明日会ったら文句を言わないと、と思っていたら自然と眉間に皺が寄ってしまっていたらしい。気づけば煉獄先生の大きな双眸が、私の顔を覗き込んでいた。
「わっ、びっくりした」
「すまん! 気に触ることを言ってしまったのかと」
 思わず欄干から飛び退こうとした私は、煉獄先生の太い腕にぶつかってしまう。先生は私がバランスを崩さないようにと思ったのか、私がしっかりと両足で立ち止まるまで背中を支えてくれた。背中、汗ばんでなかったかな……。
「にわかな知識しかない俺は人の文章に感想を述べるべきではないと思う。だが」
 先生はもしや、私が歴史教師には小論文の評価をしないでほしいと思っていると捉えたのだろうか。せめてすぐお礼を言えば良かったと、素直に慣れなかったことを後悔した。
 でも、煉獄先生は不快に思っている様子はない。それに、まだ何かを言いかけているようだから私は先生の言葉の続きを待った。ライオンのたてがみにも似た先生の髪は、真っ赤な夕陽に照らされてまるで燃え盛る炎のように見えた。
「だが、俺は単純に君の文章が好きだ。技術云々もあるかも知れないが、表現や言葉遣い……何より、君が深く掘り下げた解釈に心を打たれてしまった」
 先生は少し、ほんの少しだけはにかんだ笑顔を浮かべる。さっきまで大人の男っぽさを感じさせていたのに、今はどちらかと言えばまるで少年のように見えた。先生の丸い瞳が、きらきらと光っている。
 じっと見つめられて──息が、止まるかと思った。

「いや、面と向かって著者を褒めるのはさすがに照れくさいな!」
 はははと大きな声で笑って、煉獄先生はばっと顔を背ける。危ない、私の方こそ危うく窒息してしまうところだった。
 こちらに背中を向けたままワイシャツを捲り上げた腕で顔を擦って、先生は私に振り返る。いつもの、熱血歴史教師の顔だ。
「あれでもまだ推敲中らしいな。完成した暁には、是非また読ませてほしい!」
 何でそんなに楽しみにしてるんですか、とは言えなかった。先生の笑顔に、絆されてしまったのかもしれない。褒めてもらって少し自信が湧いたから、というのもある。
「分かりました。そしたら一番に煉獄先生のところに持っていきますね」
「うむ! それは楽しみだ!」
 約束してしまったからには、今夜帰ったらまた一から読み直さないと。昨日までは苦痛だった推敲作業に、俄然やる気が湧いてきた。自分でも現金な奴だと思うけど、やる気は無いより有るに越したことはないでしょ。
「応援しているぞ。君が書く文章の、一番のファンとしてな!」
 いつの間に一番になったんですかと私は笑う。煉獄先生は一瞬目を丸くしてから、よもや!と今日一番大きな声をあげて笑った。

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