臆病者の私たちは



「冨岡〜、トイレ借りるぞ〜」
「廊下の右側だ」
「ういーす」

 いつもより少しふわふわとした口調の友達が立ち上がる。見送る冨岡くんも普段よりは多少ふわふわしている、ような気がした。

 折りたたみ式のテーブルには沢山の空き缶と空き瓶、まだ開けてない缶が何本かと、どれも微妙に残っていて片付けられない乾き物やスナック菓子の袋たち。私の隣で体育座りをしている家主の冨岡くんは、鮭とばを齧りながらトイレに立つ友達を視線だけで見送っていた。

「そういや義勇、なんでこの前の合コン断ったんだよ」

 冨岡くんの向かいに座った我らがゼミ長は、そんなことを言いながらチューハイの缶を煽っている。合コンなんてあったのね……。まあ冨岡くんは顔が良いから、女子を呼ぶ餌にするのに引っ張りだこなのかも。

「俺だって行きたくないのに仕方なく行ったんだぞ! お前は来ないって聞いて驚いたんだからな」
「お前も断ればよかっただろ」

 食べかけの鮭とばを紙皿に置いて、涼しい顔の冨岡くんは発泡酒の缶に手を伸ばした。その横顔がいつもより少し赤くなってることに、私以外で気がついてる友達がいなかったら良いのに……なんて。いつもポーカーフェイスだとか無表情だとか言われている冨岡くんの些細な表情の変化を間近で見ることができただけで、こっそり今日の飲み会に感謝する。

 全員卒論提出おめでとう会という名目で集まったのは、同じゼミの中でも卒論のテーマが近かった五人。このメンバーとは情報交換をしていく中で、三年生の初めにゼミが始まった頃よりもかなり距離が近くなってきた気がしている。
 卒論提出期限を迎えるまでは全員総じて修羅場だったから、こうして集まって飲んだり食べたりするのはだいぶ久しぶりだけど。そういうわけで、今夜は一人暮らしをしている冨岡くんの家に集まってゆるい打ち上げをしている。

 冨岡くんの部屋は、一人暮らしをしている大学生の中ではごく平均的な広さのワンルームマンションだった。私は初めてお邪魔したけど、思っていた通り物が少なくて、思っていた以上に片付いていた。どうやらもう結婚しているお姉さんが近くに住んでいて、たまに様子を見にくるからいつも片付けていないと怒られてしまうらしい。その話を聞いたときには、冨岡くんって弟っぽいもんなあなんて思ってつい頬が緩んでしまったっけ。

 冨岡くんとは同じゼミに入ってからの付き合いになる。積極的に人とコミュニケーションを取る方ではない人だけど、今までもこういう集まりには必ず顔を出してくれた。話題を振れば色々と話してくれるし、天然でみんながズッコケるようなボケをかますときもある。そのくせ実技の授業をしているときはものすごく格好良いからとてつもなくズルい。専攻が違うから、偶然見かけるまで知らなかったけれど。

 私たちは体育大学の学生だから全員運動は得意だと思うんだけど、その中でも冨岡くんはずば抜けて身体能力が高い。簡単に言うと、彼は無駄の無い綺麗な動きをしつつ誰よりも俊敏だった。

 冨岡くんが専攻する剣道の事は残念ながら詳しくないけれど、偶然武道場の前を歩いているときに目にしてしまって、すっかり忘れられなくなってしまった。それ以来私の中で彼の存在が日に日に大きくなってきてしまったことは、まだ誰にも言えていない。
 だから実は今日のこの会には少し──少しだけだけど、期待していたんだ。いつもよりもっと近くで、しかも彼の部屋で。とはいえ特別に何かしようとは思わないし、そんな勇気もない。だからせめて近くで、普段とは違う姿が見られれば良いなって。
 あわよくばいつもより沢山話せたら良いのにとも思うけど、いざ始まってみればやっぱり普段通りにしか振る舞えない。下心丸出しなことを悟られたくないし、何よりお酒が入ってうっかり本音を溢してしまうのが怖かった。

 トイレから帰ってきた友達は大きく伸びをするとゼミ長の隣に座る。反対側の隣には副ゼミ長が、彼女の好物であるチーズ鱈を摘みながら夏みかんサワーの缶を揺らした。

「あー、甘いお酒もう無いじゃん」
「お前甘いのばっか飲んでると糖尿病になるぞ」
「はいはい、健康管理学で習ったから言いたいだけでしょ? 大体甘くなくたって酒なんてどれも糖分マシマシだよ」

 ゼミ長に指摘されてむくれる副ゼミ長。いつもと変わらない漫才が始まって、冨岡くんはあまり興味無さそうに発泡酒を飲み続ける。そっと盗み見するつもりが、酒が喉を通るたびに彼の喉仏が上下するのを見つけてしまった私の心臓がどきりと跳ねた。

 喉仏、正式名称『喉頭隆起』。
 お葬式のときによく火葬場の人が喉仏ですって見せてくれるあの骨は、実は脊椎骨なんだぞって解剖生理学の教授が言っていたっけ。喉仏は本当は軟骨だから燃えちまうんだぞって言われたときにはへーっていう感想しか出てこなかったんだけど。冗長な教授の豆知識披露の記憶も、今では乱れそうになる平常心を取り戻すのにうってつけだった。

 他のことを考えていないとこの行き場のない思いを叫びそうになる。冨岡くんの男らしい部分をこれ以上間近に見せつけられてしまったら、私はのぼせて死んでしまうに違いない。

「お、こないだの話? ほんとお前なんで来なかったんだよ冨岡!」
「別に良いだろ。義務じゃないんだ」
「つれねぇなあ」

 さっきトイレから帰ってきた友達もどうやら参加していたらしい。こっちの方が乗り気だったのか、勿体なかったぜとか言っている。
 私は心を無にして、まだ冨岡くんの喉頭隆起の動きを横目で窺っていた。本当に綺麗。参考書に載せる写真、冨岡くんのにすれば良いのに。

「……で、今からでも紹介できるぜ?」
「その必要はない」

 私が冨岡くんの喉仏に釘付けになっている間も、どうやらまだ合コンの話が続いていていたらしい。即断られて眉間に皺を寄せる友達の二つ隣で、副ゼミ長が「相変わらず塩だねー」と苦笑いしている。
 聞けば合コンに来てたのは近くの女子大の子たちで、自称面食いの友人も今夜は大当たりだと喜んだレベルだったとかなんとか。確かに、よく電車で見かけるけどみんな可愛いもんなあと思ってちょっとへこむ。私なんて、一限が実技の日はジャージ通学だよ。

「どーせうちらは汗臭い脳筋女子大生だよ!」
「こいつもそこまで言ってねえだろって。まあ、義勇も普段見慣れてないタイプの女子と交流するのは有りかもしれないな」

 またむくれる副ゼミ長を軽くあしらって、ゼミ長は思いのほか真剣に冨岡くんを見据える。

「教師になるならもうちょっと愛想を覚えた方がいいのは確かだ。だからもし彼女ができたら、俺の心配も無くなるんだけどな」

 ゼミ長が揶揄うわけではなくあくまで真摯に言うものだから、冨岡くんの方も余計なお世話だとか煩いだとかいう反論はしなかった。
 彼はただ無言のまま、空になったらしい発泡の缶をテーブルに置く。コン、と乾いた音が缶の中に響いた。

「俺ら卒論も無事に出して後は口頭諮問だけだろ? 冨岡だって春からキメ学の先生になるんだよな」

 ゼミ長の援護を受け勢いを取り戻した友人の言う通り、私たちは皆教職課程を取っていてそれぞれ四月から無事に中学や高校の体育教師になることが決まっている。ちなみに冨岡くんは母校のキメツ学園に、私は隣の市の私立高校に採用されていた。

 実技科目の教員だからといって生徒とのコミュニケーションが必要であることは他の先生たちと変わらない。
 冨岡くんに聞いたところ教育実習のときは昔の同級生が何人も一緒だったから問題はなかったようだけど、普段の彼を見ていると確かに若干心配になった。

 決して冷たい人じゃないし、むしろよく見ていると周りに気を使える人だと分かるんだけど何より彼は言葉が足りない。顔が良いから女子に人気はあるけど、無表情さとその足りない言葉のせいで殆どが遠巻きに見ているだけという有様だ。それも、実際過去に何人かが儚く玉砕したかららしい。
 私としては却って好都合なのかもしれないけど、その私自身もなかなか壁を乗り越えられないでいるから困りものだった。違うゼミにいる友達は、「冨岡くんは観賞用」なんて言い切ってたくらいだし。
 私が片想いしてる人は、それくらい高い山の頂上に咲く高嶺の花なんだよね。

「遊びたいとか思わねえの?」
「そうそう、そんなに難しく考えなくても良いんじゃない?」
「……好きじゃない相手とは無理だな」

 好き、なんて単語が冨岡くんの声色で紡がれただけで心臓が止まるかと思った。
 言い出しっぺの友人は目を丸くしてるし、我がゼミのツートップは、冨岡くんの返答を聞いて顔を見合わせている。こういうときに限って、この二人はやたらと息が合うから恐ろしかった。

「でも会ってみないと好きになれるかどうか分からなくない?」
「こいつの言う通りだよ義勇。会わないと好きになれないんだからまずは食わず嫌いしないで会ってみるのが良いと思う」
「おっ! お前らもそう思うだろ?」

 ほら、と横からスマホの画面を差し出す友達。つい私も注目してしまったけど、遠目に見た感じふんわりとした雰囲気の女の子が映っていた。

「お前こういう子タイプそうじゃね? 大人しかったけど、しっかりしてて可愛かったぞ」

 やめて、それ以上冨岡くんにそんな可愛い子を勧めないで! そう割って入ることが出来ればどれだけ良かったか。大人しくてしっかりしてて、しかも写真の雰囲気からして可愛い子なんて誰だって好きになるでしょ。
 現に冨岡くんも友人のスマホをじっと見つめて、何やら考え込んでいる。
 終わった……私の片想い。卒業と同時にひっそり諦めようかななんて思ってたのに、こんなに早く現実を突きつけられるなんて。

 無意識のうちに握りしめていたらしく、私の手の中でハイボールの缶が少しへこむ。そう言えばここにお酒があった。こういうときはもう飲むしかない。今夜はもうしこたま飲んで、くだらない話題に笑って、明日になって。それからまた時が流れれば。
 今隣に後少しずれたら触れてしまうほどの距離にいるのに見えない壁が立ちはだかっている冨岡くんのこと、そのうち綺麗な思い出にできるのかな。
 
「この子にお前の話したらめちゃくちゃ食いついてきてさ。お前の無口も気にしないからぜひ会いたいって」
「えー、めちゃくちゃ狙われてるじゃん冨岡君!」
「……断る」
「はぁ!? なんでだよ勿体ねー」

 私はようやく、そのやりとりの間息をすることすら忘れていた自分に気がつく。慌てて軽く呼吸をしてから、安堵の溜め息を漏らさないようお酒を流し込んだ。
 友人はあり得ないとボヤきながらスマホを仕舞い込む。ゼミ長は何か考え込んでいる様子で、副ゼミ長は苦笑いを浮かべながら冨岡くんを指さした。

「じゃあ冨岡君はどんな子がタイプなの?」

 私は危うくハイボールを噴き出すところで、なんとか堪えて飲み込む。炭酸が喉の奥で弾けて目の前がチカチカした。鼻がツーンと痛くなる。聞きたい、でも、聞きたくない。

「分からない」
「ええ?」

 彼の返答に副ゼミ長は不満を隠さない。私も少し拍子抜けしたけど、同時に安心した。死刑宣告を受けるために、わざわざここに来たわけじゃないから。
 それなのに副ゼミ長は追及をやめなかった。私がもし彼女の立場でも同じだろう。相手が、想いを寄せる相手じゃなければ。

「自分のことなのに分かんないの?」
「言ってみろよ義勇。見た目でも性格でも、何かないのか?」

 二人から畳みかけられ、冨岡くんはわずかに眉を顰めた。そりゃあこれだけ興味がなさそうに振る舞っているのに根掘り葉掘り聞かれたら不快だろう。
 頼むから冨岡くんを怒らせないで、困らせないでと願っている私の耳に、彼の低い声がぼそりと呟く声が聞こえた。

「……気づいたときには、もう好きだったから」

 私だけじゃなくて、ゼミ長も副ゼミ長も。三人とも時が止まったように固まっていた。ちなみにもう一人はいつの間にか、テーブルに突っ伏して眠っている。さっきまであんなに元気だったのに! 力尽きる前の悪あがきだったのか、あまりに冨岡くんがつれないから飽きて寝てしまったのか。
 とにかく、冨岡くんと二人のやり取りに夢中で気がつかなかった──じゃなくて!

「義勇……!」
「好きな子いるなら最初からそう言ってよ!」

 二人の声が重なって、一気に責め立てられた冨岡くんが肩をすくめる。驚いてるのはこっちの方なのに、冨岡くんは悪びれる様子もなくむしろなぜそんなに私たちが驚いているのか分かっていないように見えた。

「聞かれなかった」
「じゃねえよ! それなら合コン誘われたときに言えばよかったのに」
「ほんと言葉足りないんだから……」
「……秘密にしておくつもりだったんだ」

 冨岡くんはそう言ってむう、と膨れる。可愛い! じゃないんだってば、私……。

「水臭いぞ義勇。言ってくれたら協力するのに!」
「今からでも遅くないよ! 誰なの? やっぱりウチの大学?」

 膨れ面の冨岡くんにときめいてる場合じゃなかった。更に畳みかける彼らのせいで、私の死刑執行はほとんど今夜に決まったようなものだろう。
 冨岡くんは言いたくなさそうにむくれたままだけど、そもそも彼がこんな本音を零したことからしてお酒の力に他ならないはず。酔っていなければ好きな人の話題なんてはぐらかすに違いないから。二人もそれを期待しているらしく、目を輝かせていた。ああ、この二人も酔ってるなあ。

 私は無言のまま新しいハイボールの缶に手を伸ばす。なるべく静かにプルタブを開けたのに、カシュっという小気味良い音が静かな空間にやたらと大きく響いた。
 このタイミングで注目は浴びたくなかったけれど、ゼミ長の視線が私に注がれることになった。ずっと静かにしてたのが逆に違和感を与えていたのだと気づき、今になって失敗したと後悔するけどもう遅い。

「お前さっきから参加してねえけど、もしかして……」
「な、なに」

 思わず声が上擦ってしまう。無関心を装うために口をつけたハイボールの味は、全くもって分からなかった。

「知ってるのか? 義勇が好きな子のこと」
「こいつは知らない。というか誰にも話してない」

 私が答えるよりも早く冨岡くんが代わりに答えてくれる。自分のことを他人に話されるのは誰でも嫌だから当然かもしれないけど、明らかにムキになっている彼は珍しかった。
 好きな子のこと、ほんとに大事にしたいんだ……きっと。
 そう思ったらこの場にいるのが辛くなってきた。すぐ隣にいるはずの彼がこんなに遠い。あわよくばなんて考えていた自分が恥ずかしくて、冨岡くんの心の中にいる誰かに酷く嫉妬した。
 でも、私にはここで席を立つ勇気もなかった。彼の口から他の女の子の名前なんて聞きたくないのに、彼が焦がれる人の名前なんて知りたくないのに。それでも好きな人のことだから、全部知りたかった。

「えー、じゃあこの三人にだけ教えてよ。絶対協力するし他の人に言わないから!」
「そうだよ、若干怪しいコイツは寝てるしな」

 副ゼミ長に続いて、隣でうんともすんとも言わない友達の後頭部を見下ろしながらゼミ長が力強く頷く。私も当然頭数に入ってるんだよね?
 他言しないのは当然だけど、協力かあ……。出来る気がしない。
 ほら私、やっぱりもう帰った方が良いんじゃないの? 今ならまだ、浅い傷で済むんじゃないの?

 決定力不足の私がうだうだと考えている間、冨岡くんは何も言わないでいた。それどころか、グビグビと音が聞こえるくらいの勢いで発泡酒を飲み干している。空き缶を勢いよくテーブルに置くと、お次に隣に置いてあったハイボールの缶を取ろうとする。でもそれは、私の──

「誤魔化すなよ義勇。ってかそれお前のじゃなくねえ?」
「……っ! 悪い」

 すんでのところで手を止めた冨岡くんが、勢いよく私の方に顔を向けてくる。彼の濃紺の瞳が、僅かに揺れた気がした。

「飲み過ぎだぞ、お前結構酔ってるだろ」
「俺は酔ってない」
「そう言う奴が一番酔ってんだよなあ」

 ゼミ長もだいぶ顔が赤いけど、そういえばこの人はかなりお酒に強かった。一緒に飲むのは久しぶりだったから忘れかけてたけど、うちのゼミはツートップがそのままアルコール耐性のツートップでもあったりする。

「ま、後で話したくなったら教えてくれよ。悪いようにはしねえから」

 そう言って散らばった空き缶を潰し始めたゼミ長は、いくら仲が良くてもあまり攻めすぎては駄目だと思ったらしい。相手が冨岡くんだから一層だろう。彼がここまで話してくれただけでも奇跡に近いんだから。
 私にとっては、起こってほしくない奇跡だったけど。

 冨岡くんは私が飲みかけのまま置いたハイボール缶を避けて新しい缶チューハイを既に飲み始めていた。さっきまでと比べるとだいぶペースが早いし、食べかけの鮭とばはあれ以来手付かずだ。好きな人がいることを告白してしまった動揺のせいかもしれない。そうだよね、誰にも言うつもりなかったって言ってたし。
 もう少し頑張って耐えてくれれば良かったのに、なんて冨岡くんに逆恨みしてしまいそうになる。そんな自分に嫌気が差して、私はさっき彼が取ろうとしたハイボール缶に手を伸ばした。
 すると、ゼミ長がおもむろに立ち上がる。

「つまみが足りないから俺買いに行ってくるわ。酒ももっと要るだろ?」

 確かに、言われて気がついたけれど大したつまみはもう残っていなかった。冨岡くんの鮭とば以外は。お酒も冨岡くんと私がいきなりたくさん飲み出したせいで減りが早くなってきたみたい。
 すると副ゼミ長も、彼に倣って立ち上がる。

「甘い物欲しいから私も行く。つまみも、あんたに任せると塩系ばっかり買ってきそうだし」
「よく分かったな。俺はしょっぱくて食いごたえがある物が欲しい」

 何か欲しいものある? と聞かれて私は首を横に振った。欲しいものなんて、今隣でぼーっとお酒を飲んでる人の気持ちだけ。そんなこと、言えるわけないし二人に言っても意味がないことくらい酔ってても分かるから。

 スマホと財布をポケットに突っ込んで、上着を羽織った二人はあっという間に出て行ってしまった。

 後に残されたのは寝ている男友達と、私たち二人。膝を抱えたままお酒の缶を口につけた冨岡くんは止まったまま、何を見るでもなく空中を眺めている。
 私は彼を盗み見ながら、同じように体育座りになった。相手を真似することで親近感を抱いてもらえるようにすることをミラーリングと言うらしい。発達心理学の授業で習ったんだけど、たまには教養の授業も役に立つなと思った。

「……静かだ」

 ぼそりと冨岡くんが呟く。空き缶をテーブルに置いて、彼はぎゅっと膝を抱き直した。私よりも随分背の高い冨岡くんが小さく丸まっている姿は、失礼かもしれないけど可愛らしい。

「うん、ほんとに」

 私も自分の足を抱きしめて、膝の上に頬を乗せる。そこから隣を見上げると、冨岡くんは横目で私を見ていた。
 見下ろしてくる濃紺の瞳とぶつかって、私は思わず視線を逸らしてしまう。ほんの一瞬目に入っただけだけど、彼の長い睫毛は赤く色付いた頬に影を落としていた。目を逸らしてもなお、それは私の脳裏に焼き付いて離れない。
 これもまた男の人に言うのは変かもしれないけど、悔しいくらいに綺麗だった。

「起きないな」

 沈黙を先に破ったのは冨岡くん。規則正しいリズムで背中を上下させる友達を見ているのだろう。私はまだ、彼を直視することができないでいた。それでも何か答えないと会話が続かないから、すりすりと自分の膝小僧の感触を頬で確かめて平常心を取り戻そうとしてみる。なんとか、話題を捻り出さないと。

「……冨岡くん、随分と質問攻めにされてたね」
「うん。だいぶ疲れた」

 さっきまでのやり取りについて触れると、冨岡くんは困ったように眉を下げながら少しだけ微笑んだ。お酒が入っているせいだと思うけれど、いつもより表情筋も緩んでいるのかもしれない。こんなに柔らかい表情の彼を他の子には見せたくないなんて、醜い独占欲が私の胸の奥に蔓延り始めた。
 でもそんな自分は嫌だし、冨岡くんもそんな重い女気持ち悪いと思うんだろうな。だから顔には出さないように気をつけよう。

 私はなんとか、副ゼミ長みたいに一人の女友達として振る舞うように努力することにした。だって、その方がきっとこの先も冨岡くんと仲良くしていられると思うから。

「二人とも協力してくれると思うから、教えても良かったんじゃない?」

 ぐらぐらと揺れる心に蓋をして、笑顔を作ってみる。大丈夫、意外と芯の通った声が出せた──ような気がした。
 そんな私の気持ちを知る由もない冨岡くんは、真顔に戻ってこちらをじっと見てくる。やめてよ。君にとっては何でもない事でも、私の心に被せた蓋が今にも振り落とされてしまいそうになるから。

「お前も協力してくれるのか?」

 それは私にとって、この後告げられるだろう死刑宣告の次に残酷な言葉。好きな人と、今夜の間には判明するだろう彼の想い人をハッピーエンドに導く手助けをしろということだ。まさしく今からあなたは断頭台に立ちますよ、と言われているような気持ちになる。
 けれど頭ごなしに否定することもできなかった。ついさっき、腹を括ると決めたばかりだもの。

「……そう、だね」
「どうしてそんなに歯切れが悪い?」

 私の決死の返答は明らかにしどろもどろだった。それは自分でも自覚していたけど、冨岡くんにもあっさり指摘されてしまう。人の機微になんて気づかなさそうなのに、こういうときに限って目敏いんだから困っちゃうよ。結構、彼は教師向きなのかもしれない。

「どうしてって……そんなにおかしかったかな」

 質問に質問を返すなと怒られるかと思ったけど、冨岡くんは不快な顔をするわけでもなく澄んだ瞳をすっと細める。彼は黒目が大きいから少し幼く見えるのだということに、こんな時にと思うけど今になって初めて気がついた。
 アルコールのせいか、私の思考はあっちへ行ったりこっちへ行ったり落ち着かない。ただ、冨岡くんに見据えられて緊張しているだけかもしれないけど。

「普段のお前なら、俺が助けてほしいと言ったら二つ返事で承諾してくれる」

 確かにその通りだと思った。同じゼミの仲間なら当然だし、何より私は冨岡くんに好かれたいと思っているのだから。
 理由まで悟られていないと思いたいけど、私の行動が予測されていたのはとても恥ずかしかった。意外と人を見てるんだなと思えばやっぱり彼は教師向きだと思うし、そんな彼の期待に応えられなかった自分が情けないと思う。

 私が考え込んでいることに気がついたのか、冨岡くんは天井を仰いでからぽつぽつと話し始めた。
 彼が語るのは、私にとっても印象深い日の出来事だ。

「卒論の参考資料探しなんて、普通は自分の分だけでも大変なのに手伝ってくれただろ」

 それはまだ、私の服装が長袖のブラウスから半袖のシャツに変わり始めた時期の話。
 あの日は確かゼミで卒論のテーマを発表しあって、私たちはテーマが近いねって話をしたんだった。冨岡くんはテーマは決めたけれどまだ文献を調べられていないと言っていて、既に何冊か目ぼしい本を借りていた私は軽い親切心で彼に声をかけたのだ。

 ──参考にしたいモデルケースを決めた? 何かアンケートとか統計を取る予定はある?

 声をかけたのは本当に何となく、だったような気がする。
 ゼミの中ではいつも口数が少なくて、それでもゼミ長や他の男の子たちとつるんでいる時はどこか楽しそうで。基本的には真面目な彼がたまに放つ一言に笑わされることも多かったし、それでいてグラウンドを走り抜ける姿や竹刀を振るう剣捌きには誰より目を惹かれて。
 多分私は、知らないうちに落ちてしまっていたんだと思う。冨岡くんという、色んな面を持った不思議なひとに。

 無意識ではあったもののそんな下心を秘めた私の問いかけに、まだメイン以外の参考文献を決められていなくて悩んでいたと打ち明けてくれた冨岡くん。
 あの時彼が見せた、はにかんだような笑顔は今でも簡単に思い出すことができる。「ありがとう、助かるよ」と笑いかけられた時、私の中で確実に何かが変わったんだ。

「だって卒論は落としたらヤバいし。それに冨岡くん本当に困ってたでしょ」

 彼の選んだテーマにたまたま私のものと共通点が有ったから、参考になりそうな研究をしている先生を知っていただけ。
 二人で図書館の中を物色していたとき、冨岡くんは私がもし違うテーマを選んでたとしたら、今頃自分は一人で悩んで教授に泣きついてる頃だと真面目な顔で溢すから私は噴き出してしまった。
 思い切って声をかけて良かったと思ったし、あの日を境にそれまでよりも少し仲良くなれたと思ってる。その夜にお礼としてご飯を奢ってもらったくらいしか、進展も何もなかったんだけど。

「そうだよ、あの時は冨岡くんがハンバーグ奢ってくれるって言うからさ」
「じゃあ今度は何を奢れば協力してくれるんだ?」
「え……っと」

 もし神様がいるとしたらなんて残酷なんだろう。なんとかはぐらかしたくて、あの日のことは食い気に釣られただけなんだよと言ってみたけど。実際にはそんなことなくて、一緒に食事に行けただけですごく楽しかったから奢りじゃなくたってまた行きたいと思ったくらい。
 だから、このお誘いにもし何の理由もなかったら。そうだったら良かったのに。

「そういうのは、私よりもゼミ長たちの方が得意だと思うな」
「お前にしか頼めないことがあるんだ」

 冨岡くんの眼差しはどこまでも真剣だった。彼の瞳をこんなに間近で見つめたことはなかったけど、出来ればこんな形で実現されないでほしかった。濃紺の瞳は、アルコールのせいか普段より水気を孕んでいるように見える。
 手を伸ばせばその目元に簡単に触れられてしまうのに、とても遠く感じた。

「私にしか、できないことがあるの?」

 冨岡くんは私を見つめたまま頷く。もしかしてうちのゼミの子のことが好きなのかな。今日来ているメンバー以外にも女子はいるから、その中の誰かなのかもしれない。

 少しだけ想像してみて、私は自分の心の狭さに辟易した。今まで仲良くしてきたはずの友達の姿を一人一人思い浮かべては、その隣に彼が並ぶ光景に胸の奥が痛くなる。
 大好きな友達に酷く嫉妬してしまう自分が、惨めで大嫌いになった。しかもまだ同じゼミの子って決まったわけでもないのに、勝手に苦しんでしまうくらい冷静さを失っている。

「ごめん、冨岡くん」

 私は勇気を振り絞ってそう告げてから、一点の曇りもない彼の視線から逃れたくて顔を背けた。
 冨岡くんが、僅かに動いた気配がする。

「協力してあげられないかもしれない……」
「どうして」

 声が、さっきまでより少しだけ近く聞こえた。冨岡くんが体半分だけ私の方に寄ってきたのだと分かる。
 どうして、なんて私の方が聞きたいぐらいなのに。

「それは……」
「言えないのか?」

 自分からは教えてくれないくせに協力してほしいだなんて、私の気も知らないのに──なんて思いは、言い掛かりにも程があるとは自覚している。
 決して冨岡くんが悪いわけじゃないとは思いつつ、残酷すぎる現実に苛ついてしまったりして。

「冨岡くんには教えられない」

 抱えた膝頭に額をつけて、冨岡くんの部屋という嬉しかったはずの光景をシャットアウトした。自分でも分かるくらいには酔っているみたいで、感情的になってしまっているのもあるけれどいつもより顔が熱い。
 泣くな、泣いたら負けだと根拠のない鼓舞を自分に送った。だって、泣いたら冨岡くんがきっと困ってしまうから。

「……お前は、そんなに俺が嫌いだったのか?」

 小さかったけど、確かに私の耳に届いた言葉。どうしてそんなに悲しげな響きを含んでいるの? いつもは、親友以外の他人からはどう思われたって気にしないみたいな顔してるくせに……。

「嫌われるようなことをしたなら謝る。すまない」
「違うっ! ……そうじゃないの」

 遮断しようと思っていたはずの景色が、あっさりと私の視界に舞い戻った。
 私が勝手に好きになって勝手に落ち込んで怒っただけなのに、謝られる理由なんてどこにもない。それに、彼のことが嫌いだなんて嘘だとしてもそんなこと言えなかった。

 勢いよく顔を上げたら、私の目の前には眉を下げた冨岡くんの顔があった。さっきまでよりももっと近い。私の視界のほとんどが、彼に占領されてしまっているほどに。

 なんでそんなに切ない表情を浮かべているの、と聞いてしまえればどれだけ楽になれたんだろう。
 そんなに私と仲が良い子が好きなのかな。そうだとしたら神様は本当に残酷だと思うけど、このお願いを無碍にしようとしている私もまた、冨岡くんからしたら残酷な女に見えるんだろうね。

「……遅いね、二人」

 こんな不毛な話をこれ以上続けたくなくて、私はテーブルの上に放置したままのスマホに目をやった。
 時間を見ようと静かに手を伸ばすと通知画面に新着メッセージが表示されている。それどころじゃなくて、気がついていなかったみたい。

「ラーメン食べてくる……、だって」
「……そうか」

 こっちはこんなに不穏な空気が流れているのに、ゼミ長たちは呑気にラーメンだなんて。やっぱり私もついていけば良かった。冨岡くんと一緒にいられたらなんて、馬鹿みたいな下心丸出しだった自分が恥ずかしい。

 私はこっそり、彼らが一秒でも早く帰ってきてくれるように祈った。この気まずい空気を打ち破って、それから冨岡くんの好きな子の名前を吐かせて。早く、ひと思いに私の死刑を執行してよ。
 協力なんて出来そうにないけど、心を殺せば笑って聞き流すくらいできる──
 ううん。やっぱり、だめ。

「ごめん。まだ電車あるし、私もう帰るね」

 このままここにいたら泣いてしまうのも時間の問題だと思った。少しくらい親しくなりたいだなんて期待して来たのにあっさり失恋して、あまつさえ本人の前で泣いたりなんかしたら本当に目も当てられない。
 そんな情けない展開は絶対御免だと思って、私はテーブルからスマホを取ると立ち上がった。

 ──はずなんだけど。

「行くな!」

 空いている方の手首が熱い。油が切れたブリキ人形みたいにぎこちなくそこに顔を向けると、片膝を立てて私の手首を掴んだ冨岡くんと目が合った。

「頼む。帰るな」

 冨岡くんの顔には焦燥感すら浮かんで見える。
 なんで? どうして? 
 こんな惨めな私に縋りたいくらい望み薄なの? 
 それならそんな子やめて、私を好きになってくれたら良いのに。

 冨岡くんと一緒にいると、どんどん自分の醜い部分が露わになってくる気がして嫌になる。これ以上自分を嫌いになりたくないから、なるべく悟られないように遠ざからないと。
 でも、簡単には諦められないのに彼を傷つけたくもなくて。

「……冨岡くん、目が据わってるよ。とりあえずお水飲んで、少し横になったら?」

 すると、冨岡くんはムッと眉間に皺をよせ、口を尖らせる。

「俺は酔ってない」
「うそ。だって……手もすごく熱いし」

 なるべく考えないようにしていたのに、自分から口にするなんて私はやっぱり馬鹿なんだ。でもどうしてもこの熱に意識の半分を取られてしまっていたから、つい口をついて出てしまった。
 言葉にしてしまったら、もう意識のほとんどが手首に集中してしまって余計に熱くなる。自分の脈拍が、まるで嵐の後の海みたいに激しく波打っているように感じた。

「それは酔ってるせいじゃない」

 眉間の皺を一層深くした冨岡くんは、不機嫌な声色でそう言ったかと思えば私の手首をぐいっと引き寄せる。
 不意打ちを受けた私は、バランスを崩して彼のすぐ隣に尻餅をついてしまった。それでもまだ、手首は掴まれたまま。

「痛いよ、冨岡くん!」

 私の抗議も虚しく、彼は謝罪の言葉も無いまま私の顔を覗き込んでくる。じいっと音がつくんじゃないかと思うほどに真っ直ぐ見つめられて、今思うことじゃないかもしれないけど蛇に睨まれた蛙の気持ちが少しだけ分かったような気がした。
 少しでも動いたらこの視線に刺し殺されてしまうんじゃないかと思うくらい、冨岡くんの澄んだ濃紺は私を捉えて離さない。

「ねえ、やっぱり酔ってるでしょ」

 ふわりと香ってくる中には甘ったるいアルコールの匂いが混ざっている。至近距離にいるからこそ、彼の頬や首筋が薄桃色に色づいているのがよく分かった。
 勢いに飲まれて協力するなんて言いたくはなかったから、負けじと彼の瞳を見つめ返してみる。冨岡くんがあまりに突拍子もないことをしだしたせいで、逆に少しだけ冷静になれた。

「酔ってるのはお前の方じゃないのか」

 黒目の大きな人って、どうしてこんなに目力が強いんだろう。彼の場合は目尻が切れ長だから余計にそう思うのかもしれない。
 冨岡くんは不機嫌さを隠す様子もなく言い返してくる。好きな子が相手だったら優しい顔を向けるのかな。ああ、想像しただけで泣きたくなってきた。

「……私はすっかり醒めてるよ」

 きみとは違う。恋に夢中になりすぎていつもよりたくさん飲んで、目の前の女が自分に焦がれて今にも泣き出しそうになっていることすら分からない冨岡くんとは。そう言う代わりに、一言だけ。
 側から見たら冷たく聞こえたかもしれないけど、友達としての私を保つにはこうするしかないの。きっともうこうして彼と顔を突き合わせて話すことなんて無いだろうから、せめて冨岡くんの中でくらい最後まで良い奴のままでいたい。

「ならどうして泣くんだ」

 え、と私が声に出すより早く。冨岡くんの指先が私の顔に伸びてきて、目元に冷たさを感じた。
 その時初めて私は自分の目に涙が溜まっていたことに気がつく。おかしいな、堪えたつもりだったのに。

「酔っていないなら、本気で泣いてるってことか?」

 さっきまで不機嫌そうだった冨岡くんは、今度は心配そうにまた私の瞳を覗き込んでくる。
 彼の指先はやっぱり熱かった。触れられていることを嫌でも意識させられ、余計に私の涙を誘う。

「なんでだろう、ごめん……」

 視界の下半分が霞んで、冨岡くんの顔が滲んで見えた。瞬きをしたら溢れ出てしまったそれを、冨岡くんはまたしても拭い取ってくれる。
 どういうつもりなのか分からないけれど、彼は酔っているし元々優しいひとだからごく自然なことなのかもしれない。

「いいよ、大丈夫。自分でやるから……」
「駄目だ。離したらまた帰るって言い出すだろ」

 鞄からハンカチを持ってこようと伸ばした手は、さっきまで私の目元にあったはずの指先に捉えられてしまった。
 掴まれた両手は冨岡くんの顔の前に持っていかれて、身体ごと彼と向き合う形になる。

「ねぇ、どうしてそんなに私に協力させたいの……?」

 ついに、聞いてしまった。でもここまで引き留めるからには何か深い理由があるような気もしてきて。
 もし本当に、私以外に頼れる人がいないなら──必死で縋りたい相手に助けてもらえないのは、冨岡くんにとってすごく辛いことになる。

 好きな人にそんな気持ちを味わってほしくない。そう思ったら、私の小さなエゴで強がっているのが馬鹿馬鹿しくなった。
 私は大好きな冨岡くんに、笑ってほしい。

「ひとつ、教えてほしい」

 今度は冨岡くんから、質問に質問を返された。私も一度やっているから文句を言う権利はないし、そんなつもりもないから私は小さく頷いてみせる。

「お前には今、好きな奴はいるのか?」

 握られた手に少しだけ力が込められて、伝わってくる体温がさっきまでよりもっと熱く感じた。

「……ひみつ」
「なんでだ」
「冨岡くんだって結局教えてくれないじゃん」
「それはお前が……協力してくれると分かったら言う」

 やっぱりか。
 あーあ、好きな人が友達の彼氏になるのね。また涙が滲みそうになるけど、ここで泣いたら本格的にバレちゃうから耐えろ、私。

「じゃあ良い。知りたくないから」
「どうして?」
「やたら質問攻めにするね」
「はぐらかすな。質問して良いか確認しただろ」

 普段の彼からは想像できないくらいの返事の速さに、そんなにその子が好きなのかとまたしてもへこむ。
 でも、テンポよく言葉のキャッチボールをしていたお陰で私はいつもの調子を取り戻すことができた。
 言いたいことは今のうちに言っておこう。告白する以外は。

「じゃあ、せめてそんなに見つめないで」
「それは出来ない」
「なんで! 私を見つめたって好きな子には届かないよ」

 私が必死にお願いした後も、冨岡くんは視線を逸らしてくれなかった。
 私も私で、自分から顔を背けてしまえばいいのにそうすることが出来ない。最後だと思うとこの時間が愛おしくて悲しくて、とても名残惜しかった。

 冨岡くんは瞬きを忘れてしまったんじゃないかと思うくらい、ただじっと私を見つめ続ける。
 心の中まで見透かされてしまいそうだけど、口にしないでこの想いが伝わるならそれでも良いかなって。私、最後まで弱虫だなぁ。

「ねぇ、何か言ってよ冨岡くん」
「……なんで、かと言えば」

 あまりに静かすぎて、一瞬彼は目を開けたまま寝てしまったのかと思った。
 だから心配になって声をかけたのに、冨岡くんははっきりとした口調で言い切る。

「これ以上に無いチャンスだからだ」
「チャンス……?」

 私の友達に近づくための? と言おうとした私の目の前に、さっきよりも大きく冨岡くんの顔が映った。
 この距離になってやっと感じとれた、彼の香水とアルコールが混じった香りに頭がくらくらする。

「なんでそんなに近づくの? ねぇ、チャンスってどういう意味……、っ」

 せっかく思い切ってちゃんと聞こうと思ったのに、私は最後まで言葉を紡ぐことが出来なかった。
 
 手が、顔が、胸の奥が熱い。くちびるは、熱いだけじゃなくて──甘かった。

「とみ、おかくん……?」

 彼の吐息が私の顔にかかるほど、私たちの間には距離というものが無い。
 今の一瞬、無意識のうちに目を瞑っていたらしい私には冨岡くんの伏せられた睫毛が間近に見えた。

 私たち、今、キスをしなかった……?
 触れるだけの優しいものだったけど、確かに私の唇には冨岡くんの残した熱がまだ燻っている。

 与えられる情報の処理が追い付かなくて唖然とする私とは対照的に、冨岡くんは落ち着いた声色で一つの言葉を紡いだ。

「俺は、お前のことが好きだ」

 彼の長い前髪がその顔に影を落とす。それでも読み取れた表情は、穏やかそのもので。

「ちゃんと自覚したのは最近だけど、多分図書館に誘ってくれた日から……惹かれてたと思う」

 どうして今になって、私が質問する前に知りたいことを教えてくれるの? さっきまでは、全然言葉が足りなかったくせに。
 そんな文句を浮かべながらも、私は冨岡くんの言葉に当てられたせいかふわふわとした高揚感に包まれて何も言えないでいる。

「だから、お前が協力してくれないと俺の恋は叶わない」

 言われていることの意味を理解するまで、数十秒かの間私は動けないでいた。頭の中をぐるぐると、冨岡くんの言葉が回っている。
 
 ──お前のことが好きだ。俺の恋は叶わない。
 
 目の前の人物は本当にあの冨岡義勇くんなのだろうかと思うほど、その言葉には熱情が込められていた。

「ひとつだけ……聞いても良いかな」

 今度は私からの質問に、冨岡くんがこくりと頷いた。
 彼の言葉の全てをまだ信じきれていないけど、それでも私もちゃんと向き合わないといけないと思わさせられる。

「冨岡くん、やっぱり酔っ払ってる……よね?」

 すると冨岡くんは大きく首を横に振った。

「俺は酔ってない。もし酔ってたとしても、嘘じゃない」
「明日になったら全部忘れてるとか、無い?」
「明日まで一緒にいてくれたら証明する」

 やっぱり、今日の彼は返事が早い。
 でもそれがお酒のせいだけじゃないってことは流石に分かる。これだけ真剣に伝えようとしてくれてるから、疑うなんて出来るわけない。 
 私が無言のまま彼を見つめ返していると、冨岡くんはふっと表情を和らげた。
 まだ赤みの残る頬が緩められているのを見ただけで、私の心臓は一層速く鼓動する。もうさっきからずっと、身体中が脈拍になってしまったのかと思うくらいドキドキしてるのに。

「返事はその後に聞かせてほしい」

 全部覚えてる、酔った勢いで言ったわけじゃないってことを証明した後──明日、朝になってからのことだろう。
 それまでの間にもし眠ってしまっても忘れないと、冨岡くんは得意げに微笑んでいる。
 こんな顔は初めて見た。彼の微笑みにはほどけるような優しさが込められている。それが今、私だけに向けられていた。

「……信じて、いいのかな」
「もちろん」
「もし私の方が忘れちゃってたら?」

 そんなことあるわけ無いんだけど、最後の一押しが欲しくてついそんな質問をしてしまう。面倒な女だって、呆れられませんように。

「そうしたらまたキスするから大丈夫だ」
「……冨岡くんって思ってたより強気なんだね?」
「だってさっきは受け入れてくれたじゃないか」

 可愛げのない私の返事にも、冨岡くんは余裕すら感じさせる穏やかな声色でそう言った。

「拒否されたら終わりだと思ったけど、お前が目を閉じたからいけると思って」

 そんなことをあくまで真面目に言うものだから、なんだか可笑しくなってくる。
 人のことを見ていないようでいてよく見ている冨岡くん。私の想像を軽々と超えて、まさか私のことが好きだと言ってくれた冨岡くん。好きだと言ったかと思えば、勝手に確信を得ていきなりキスをしてくる冨岡くん。
 今日になって突然色んな顔を見せてくれたけど、やっぱりどれも私が好きになる要素しかなくて。

「ふ、ふふっ……きみって、面白いね」

 思わず私が笑ってしまうと、冨岡くんは笑われるとは思わなかったのか驚いたらしく大きな目を丸くさせた。
 その顔がいつもより可愛らしくて、また新しい一面を見ることができて嬉しくなる。

「ごめん、悪い意味じゃないの。あのね冨岡くん。私も……あなたのことが好きです」

 握られたままの手を手繰り寄せて、私から彼の瞳を覗き込んでみた。
 まん丸になったままの濃紺には、自分で思っている以上にふにゃりとした笑顔を浮かべた私が映っている。だらしないなと思いつつ、きっと私がこんな顔を出来るのは冨岡くんの前だけなんだろうなと思えば、自分の締まりのない表情すら好きになれる気がした。

「お前こそ、後から酔った勢いなんて言わないでくれ」
「そのつもりはないけど、酔ってる以上に緊張しすぎて記憶飛んじゃうかも」

 冨岡くんはそんなことを言いながら私の手首をぎゅっと握り直す。触れられていることを再認識させられて、笑って少し落ち着いたはずの心臓がまた大きく跳ねた。
 きっと、この鼓動は冨岡くんにも伝わっているんだろうな。

 今更気が付いたのだけど彼の手にはうっすらと汗が滲んでいた。
 もしかしたら、冨岡くんも緊張してるのかもしれない。彼が私のことを好きだったとしたら──私と同じように、ずっとドキドキしてくれてたのかな。
 そう思ったら、ただ好きなだけじゃなくて彼のことが愛おしくて堪らなくなる。

「そんなこと無いって確かめるためにも、明日改めて……」

 冨岡くんはそこまで言って、一度言葉を区切った。続きをすぐに言ってくれないから、私は彼の様子を伺う。

「……告白してくれるの?」
「改めて、キスしたい」

 私の唇に留まる冨岡くんの視線。その眼差しは静かに揺蕩う水面のように穏やかに見えて、奥底にはきっと青い焔が揺らめいているんだ。だから、その涼しげな瞳に見つめられた部分は意識しただけで燃えるように熱くなる。

 ねえ冨岡くん。明日までなんて、待てそうにないよ。

「今、は……?」
「今も、して良いなら」

 私は頷く代わりに目を瞑った。これが一番、分かりやすい合意のサインみたいだから。

 彼の気配が動いたかと思えば手を引かれて、前のめりになった私の後頭部を冨岡くんの手が支えた。
 顎を持たれたことに気がついたと同時に上を向かされて、唇に柔らかい感触が降ってくる。ねじ込められた熱に、思わず息が止まりそうになった。

「……ん、っ」

 今漏れたのがどっちの吐息が分からないくらい、冨岡くんは何度も味わうように深く私の口腔を舐る。
 私は何かに縋りつきたくなって彼の洋服を掴んだ。胸の鼓動が落ち着かなくて、何かを握りしめていないと気を失いそうだった。

 角度を変えて、二度、三度、四度──冨岡くんがこんなに情熱的なキスをする人だと思わなかった。息は苦しいのに、嬉しさと幸福感で胸がいっぱいになる。
 好き、大好き。という言葉は今はこれ以上口にしなくても、お互いにもう十分に伝わっているね。

 その内に歯列の裏に這わされた舌先が私の口蓋をなぞって、思わず身体がびくりと跳ねてしまった。
 ようやく唇が解放されて、代わりにぎゅっと頭を掻き抱かれた私は彼の胸板に吸い込まれる。

「……だめだ。止められなくなる」

 冨岡くんの鼓動も、もし体育の授業で生徒がこんな心拍数になっていたら即休ませないといけないほど速かった。

 彼の胸元に耳をつけていると、テーブルに突っ伏したままの友達が目に入る。うっかり彼の存在を忘れてしまっていたことに今更血の気が引いた。それに、いつの間にかいつゼミ長たちが帰ってきたっておかしくない時間になっている。

「やっぱり、改めて仕切り直しだな」

 私を抱きしめたまま冨岡くんが言った。彼の身体と密着しているから、その声が低く響いてきて心地良い。
 本当はずっとこうしていたいと思うし、まだ離さないから多分彼も同じことを思ってくれているんだろうな。

「明日、楽しみにしてるね」

 私が冨岡くんの背中に手を回しながら言うと、彼はうんと素直に答えてくれた。
 その時には、どうしてなのかとか、いつから私のことを好きだと気がついたのかをちゃんと教えてもらいたいな。
 彼の恋路に協力するからにはきちんと情報をもらわないと、ね。

 我ながらなんて調子の良い女だと思いつつ、身体を少し離して冨岡くんを見上げる。
 優しく凪いだ濃紺が、私を見下ろして細められた。

「今度は、どんな味がするのか楽しみだな」

 まだ私の口の中に残った、冨岡くんが最後に飲んでいたお酒の余韻は甘い。
 でも次はきっと、もっと甘い味がするんだろうね。

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