塗り潰して、掻き消して
こんな事ってない。
楽しみにしていた誕生日ディナーを明日に控えて、死ぬ気で休みをもぎ取ったし、朝から美容室の予約も入れていたのに。
「このタイミングで浮気発覚するって、なに?」
しかもご丁寧に、明日のために予約していてくれたお店も"彼女"と"下見済み"らしい。
何それ。
もしかして浮気相手って、私の方だったりする?
友人達から次々と寄せられる目撃情報は、レストランだけならまだしも公園、ショッピングモール、決定打は八番街のホテルと来たものだ。
随分堂々としちゃって。だからこそ私の方が浮気相手だったのかなと思ってきて、余計に辛くなる。
良い子にしてないとタークスがくるよ?
ああ、そのタークスすら騙せちゃう男にそんな脅しは通用しないか。
「好きなのは私だけだったんだ……」
こんな惨めな気持ちのまま一人ぼっちの家に帰りたくなくて、仕事は片付いたというのに誰もいない調査課オフィスにから出られないでいる私。
生憎他のみんなは任務中。
レノかルードでも帰ってきてくれたら飲みに誘ったのに。ツォンさんでも話くらい聞いてくれたかもしれない。
イリーナは……知ったら多分彼を殺しに行くだろう。さすがにそれは私念がすぎる。
「はぁ……へこむ……」
「任務で失敗したとは聞いていないが?」
突然オフィスの入り口が開いたかと思うと、ツォンさんのいないこの部屋には用事などないと思われるお方が顔を覗かせた。
さらりと、顔にかかったプラチナブロンドが揺れる。
「しゃ、社長!?」
まさしく私達タークスの上司ーー間にひとりいたような気がするけど忘れたーーであり雇用主、ルーファウス神羅社長その人だ。
彼の指示で動く私たちにとっては近いようでしかし遠い、雲の上の高貴な人。レノなんかはだいぶ砕けた調子で付き合っているけれど、私は……。
今の彼氏と付き合う前は、この人に淡い想いを抱いていたこともあったななんてぼんやりと昔に想いを馳せながら、私はいつ見たって綺麗なそのご尊顔をまじまじと眺めた。
でも、そんな殿上人がなぜこんな夜遅くにこの部屋に?
「あの、ツォンさんなら明後日まで戻らない予定ですが……」
オフィスに入ってくるなり主任席のデスクに腰掛けた社長に向けてそう告げる。
あれ、でも確かその命令は社長から出ているはずだからご存知なのかな。
「ああ。私の指示だからな」
やっぱり。ではなぜここに?
「急ぎの任務ですか?」
「いや? 遅くなってしまったから、たまには懐かしの部屋で仮眠でも取ろうと思ってな」
「はぁ、そうなんですか」
懐かしの部屋、と言うのは彼が副社長時代のほとんどを過ごしたこのオフィスの奥にある隠し部屋のことだろう。
しかし社長にとってあそこは、あまり良い思い出がある場所ではない気もするけど。
高貴な人の考えることはさっぱり分からない。初心忘れるべからず、みたいな風の吹き回しかな?
「片付いてないかもしれません。急いで確認してきます」
彼があの部屋を出てからもうひと月以上は経っている。
清掃員のおばちゃんに隠し部屋の存在を明かすわけにもいかないので、たまに私かイリーナか、ごくたまにツォンさんが軽く掃除をするくらいに留まっていたはずだ。
私は社長に待っていて欲しい旨を告げて、奥の部屋へと向かう。
どうせ手持ち無沙汰にしていたので、やる事ができてちょうど良かった。
「あれ、イリーナかな? すごい綺麗になってる」
先週埃を取りに入った時には本や雑誌が乱雑に置かれたままだったローテーブルは、片付いてピカピカに磨かれているし、ソファカバーもしわしわだったのがピンと伸ばされている。
おまけに扉一つ挟んだ向こうにあるベッドルームも、前まで白い寝具だったはずがペールグレーに変わっていた。
思わずそこまで足を踏み入れて、私は首を傾げる。念のため盗聴器なんかの気配を探る必要があるかもしれない。
「清掃のおばちゃんが入ってきた? まさかそんな……」
パスワードがかかった隠し扉を突破できるおばちゃんがいるなら、清掃員をやめてぜひうちに来て欲しい。
しかし失礼ながらイリーナがやったとも思えないこのきっちり具合。まさかやっぱりツォンさんが……?
「ふむ。相変わらず狭い部屋だな」
「わっ! びっくりした……」
突然背後で低い声がするから私は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
社長の気配の消し方は、仕事モードの私たちに匹敵するかもしれない。
「気が抜けすぎだぞ。仮にもタークスだろう」
仮にも、ではなくて正真正銘タークスなのですが……。けど今の失態はそう言われてもおかしくないので反論はしない。むしろへこむ。
「すみません……」
へこんだらせっかく忘れかけていたことまで連鎖的にまた思い出してしまう。
ああもう、やっぱり帰ろう。
そんな私の事情なんて知る由もない社長は、これ以上片付ける必要もない部屋の中でジャケットを脱ぎ始める。
それをぽいっとベッドの上に投げようとするものだから、つい咄嗟に手を出して受け取ってしまった。
こんな仕立ての良いジャケットを、鼻噛んだティッシュ捨てるみたいに放らないでいただきたい。社長の持ち物だからどう扱おうと社長の勝手なんだけど。
まだ温かいジャケットからは社長愛用の香水が香ってくる。
護衛の任務に就くときに、良い香りだななんて思ったことは数知れず。改めてまともに嗅いでしまうとまたあの淡い想いを思い出してしまうのだけど。
彼氏の匂いも好きだったけど、今はそれを思い出そうとするだけで気持ちが暗くなるから考えるのをやめた。
香りは記憶と結びつきやすい。そんな面倒な仕様、いらないのに。
「気落ちすることがあるなら話してみれば良い」
シャツの袖ボタンを外してネクタイを緩めながら、社長はベッドの端に座ると顎をくいっと動かした。要は、隣に座れと言うことらしい。
そんなに顔に出ていましたか。ですよね、はい。そんなこと聞かなくても分かる。
どうしよう、と畳んだジャケットを抱えたままベッドの前で立ち尽くしていると、社長の眉間に皺が寄った。
そもそもこれは上司の寝具。その上にお尻を乗せるなんて失礼にも程があるのでは、と反論しようと思って気がついた。
まずい。タークスにとってこの人の命令は絶対なんだった。
それが例え、どんなことであっても。
「私には話せないことか?」
「え、あの、いや、その……」
彼氏に浮気されました。
しかも発覚したのが誕生日の前日です。
そんな俗っぽい話、この人に話すようなものじゃないんだけど……。
「言いたくないなら良い。だが大抵の問題なら私に解決できないものはないぞ?」
目を細めて私を見上げる社長の貫くような眼差し。
そんな綺麗な顔で見つめないでください。
もし彼に尋問されようものなら秒単位で吐いてしまう自信がある。
社長からしたら私の悩みなんか些細なことで、鼻で笑われてしまうだろう。
でももしかしたら、そうやって笑い飛ばしてもらえた方が良いのかもしれない。
馬鹿者が、簡単に騙されてと叱られるかもしれないけど、叱ってもらった方が目が覚めるだろうし。
私は意を決して、失礼しますと断りを入れてベッドの反対側の角に座らせていただく。
社長と私の間には、彼の愛犬一匹くらいなら余裕で座れる隙間がある。
「……彼氏がいたんですけど」
「知っている。どこぞの商社の営業マンだろう?」
「あ、え? ご存知だったんですか?」
「当たり前だ。部下について知らないことはない」
あまりの驚きににいきなり出鼻を挫かれそうになりつつ、社長がさも当然だと言いたげに言うのですんなり納得してしまう私がいた。
「で?」
「あ、はい。その……浮気されまして」
「ほう」
「しかも結構前からだったみたいで、むしろ私の方が浮気相手だったんじゃないかと思うくらいで」
「……で?」
社長は淡々と、その表情は眉一つ動かさずに私の話を聞いている。でも合間に相槌は打ってくれるし、私が閉口しそうになれば先を促してくれた。
促してくれた、と言うよりは強制した、という方が正しいけれど。
それでもその強引さによって、心の奥に閉じ込めているよりはこうして口に出した方が気持ちが軽くなるんだと言うことに気づけたのでありがたかった。
「私、実は明日誕生日なんですよ」
段々可笑しくなってきた。
さっきまで鬱々とした気持ちだったのに、こうして声に出してみると滑稽すぎて笑えてくる。
社長が鼻で笑い飛ばしてくれる前に、自分で笑い飛ばしてしまえそうな気すらしてきた。
「知っている」
社長のその返答にももう驚かない。どうせ部下の個人情報だって把握済なんだろう。
別におめでとうとか言ってくれるような人じゃないのは分かってるからそこは期待してないし。
「誕生日の前日に発覚するって笑えません? ディナーの約束してたんですよ。わざわざ美容院まで予約して」
私は思い切り伸びをして、丸まりかけていた背筋を伸ばす。
気持ちを切り替えて明日からは仕事に生きよう。元々仕事で本当には何をしてるか話せない上にその仕事優先だったから、浮気なんてされたんだろうけど。
ただの事務員がしょっちゅう出張に出て連絡も取れないなんて、そんなわけないもんね。
「馬鹿みたいですよね、タークスのくせに彼氏の二股すら見抜けないなんて。でも、お願いですからクビにはしないでいただきたいんですが……」
この最後の一文が重要なので、恐る恐る社長の顔色を伺ってみる。彼は横目で私を一瞥すると、ふむ、と顎に手を当てた。
「お前はどうしたいんだ?」
「もちろん、タークスであることに誇りを持っているので辞めたくありません!」
「そんな事ではなく、その男についてだ」
「……へ?」
仕事への情熱をアピールしてなんとか残留しようと試みたものの、あっさりと話題がすり変わってしまい肩透かしを喰らった気分になる。
そんな事って……というか、そっちが大事なんですか?
もしかして社長、意外と恋バナ好き?
でも、そう言われて初めてこれからの事に想いを馳せる。
ずっと、むかつくとか、悲しいとか、そういう事しか考えてなくて、彼とどうしたいかとかまで考えに至っていなかった。
さすが社長。先を見据えて戦略を練る天才だ。
「正直言って、自分でもよく分からないんです。いきなり嫌いになれるかと言われればそうとも言えないし、かと言って相手の女の子に勝てる気もしないし……」
「随分と気弱だな」
「ほんと、これじゃあタークス失格ですよね、私」
命令で人を殺す事や尋問する事は躊躇なく出来るのに、心が離れてしまった彼氏をすっぱり諦めることもできず、そもそも本人を問い詰める事すらまだ出来ていないのだから。
考えがまとまらない私が前のめりに頭を抱えると、後頭部が僅かに重くなる。
「そんなに好きなのか? その男が」
そう言われて顔を横に向けると、その重みの正体は社長の手だと分かった。
無表情の社長が私の頭に手を置いている。もしかして慰めてくれているつもりなのだろうか。
私の頭の中では、すぐに答えの出ないその問いかけがぐるぐると渦を巻く。
「好き、なんだとは思うんですけど」
「なんだ。自分の気持ちだろう」
「よく分からないです。もう……」
膝の上で交差した腕に顔を沈める。
どんな時だって冷静な人にはこのもやもやした気持ちなんて理解できないのだろう。
この先の身の振り方なんて、むしろ社長命令で決めていただきたいくらいだ。
すると、頭に置かれていた社長の手が次第に私の髪を撫で始めた。あまりに惨めな私を本格的に慰めてくれているのかもしれない。
その感触だけで、私の髪に絡んだ細長い指の形が分かってしまい思わずドキッとしてしまう。
その優しい手つきは一体どういう事ですか。
このままじゃうだつが上がらなくて役に立たないから、早く立ち直れという事ですか?
「たとえば」
耳に届いたのは、相変わらず淡々とした社長の声。落ち着いたその響きはざわめく胸の内に心地良い。
昔はこの声で呼ばれてよく胸を躍らせていたなあ、なんて。
「その男はお前の事をどう呼んでいる?」
「へ? えーと……普通に名前で呼びますよ」
「そうか。……ナマエ」
あれ……。
社長はタークスにとって直属のーーという事に勝手にしたーー上司だから元々こう呼ばれていたはずなのに、改めて名前を呼ばれただけでまた胸の奥がドキッとした。
社長の声がやたらと低くて、わざわざ一呼吸置いてから呼ぶから余計に質が悪いと思う。
私が戸惑いながら顔を上げると、じっと見下ろしてくる社長と目が合った。
「お前はその男に、どう触れられるのが好きだったんだ?」
「……え、っと」
「いいから話してみろ。気が楽になるぞ」
なんですかその質問は、と言おうとしたけどそれより早く社長に遮られる。
この人が白と言えばカラスも白になるーーそんな彼に囁かれた私は、甘い餌を目の前にして罠だと分かっていても向かってしまう獲物のよう。
質問の答えを考えると思い出したくなかったはずの記憶が次々と溢れ出てきて、私は思わず自分の身体を抱きしめた。
「頬を……撫でてもらうのが好きでした」
「なるほど。それから?」
「えっ、あの……社長……?」
社長の手がすっと伸びてきたかと思うと、長い指が私の頬を滑る。
軽く触れられただけなのに背筋に電気が走ったみたいにゾクゾクしてしまった。
好きだったはずなのに、今まではただ包み込むみたいな触れられ方しかされてこなくて、ただ頬を軽く撫でられただけでこんなに身体の芯が熱くなったことなんてない。
社長の細長い、それでも男性らしい節のある指は、私の頬骨から下に降りてくると顎先を捉えて人差し指の上に乗せた。
「それだけか?」
否が応でも社長の方を向かされて、見下ろしてくる青い瞳の冷たさに驚かされる。
怒っていらっしゃる?
そんな疑問を口に出すほど私も馬鹿ではない。彼の質問に質問を返すなんて、許されることではないのだから。
氷の目にじっと見つめられて、まるで魔法にかけられてしまったような気持ちになる。
後はただ、彼から紡がれる呪文に従うだけ。
「キスは、何処にされるのが好きだったんだ?」
「……どこ、というのは無いですけど……」
だってキスなんて唇か頬か、せいぜい首回りくらいでは?
「なら質問を変える」
急に社長の顔が目の前に近付いてくる。
長い睫毛まで綺麗なプラチナブロンドで、私は何故か無性に泣きたくなる。
社長は私の顎から手を離して、代わりに私の手を掬い上げた。そして目の前に持ってくると、私の手の甲に唇を寄せる。
「ここにされたことは?」
「無い、です」
フッと笑った社長にキスを落とされ、今度は手の甲が痺れて動けなくなる。
今この人は、私に何をした?
この人は、私の上司で雇用主で、守るべき対象。ただそれだけのはずでは……。
「ここは」
そんな私にはお構いなしで、彼はそのまま私の腕の内側に鼻先を寄せた。
「な、ないです」
思わず素直に答えてしまうとまた軽く、ちゅっと音を立てて啄まれる。
「ここも無いのか?」
今度は二の腕に。
私はただ頷くことしか出来なくなって、今まで知りもしなかった初めての感覚を待った。
キスって、こんな何でもない場所にされても気持ち良いものなんだっけ?
それ以外は何も考えられなくなってしまうくらいに。
「ここは流石にあるだろう?」
社長は私の鎖骨の前に顔を寄せる。
再び私がこくりと頷くと、今度は喉の奥で笑いだした。
「ククク……、だが"本物"は知らないだろうに」
そう言った社長は私の鎖骨を甘噛みする。
「ひゃんっ!」
「ほう……いつもそんな声を出すのか?」
自分のものとは思えないような情けなくて甘い声が漏れてしまって、私は思わず自分の口を塞いだ。
でも社長の耳に届いていないわけもなく、彼は顔を上げると心底愉しそうに私を見上げる。
自分でも驚いて、あまりに恥ずかしくて。
私はふるふると首を横に振ってそれを否定した。
こんな声は出した本人でも聞いたことない。
だってこんな快感今まで受けたことないんだから。しかもこれ、キスなのに。
「しゃちょ、どうして……?」
呂律が上手く回らない口から絞り出した言葉は、返事をいただく前にあっさりと塞がれてしまう。
ここもさすがに、キスされたことあります。
……でもやっぱりこんなに気持ち良かったことはありません。
緩やかに抱き締められて思わず目を瞑ると、そのまま柔らかいスプリングに沈められる。
それでも口腔に与えられ続ける快感は止まなくて、社長の熱い舌を伝ってどちらのとも分からない唾液が混ざりあった。
夢見心地のまま重い瞼を押し上げてみると、ゆっくり唇を離した社長は熱の篭った目で私を見下ろしている。
それはさっきまでの怒りを含んだ冷たい視線と、同じ人のものとは思えなかった。
「これでもまだ、あの男が忘れられないか?」
そう言われてやっと思い出した程度には、もうあの浮気男のことなんて頭の片隅にも残っていないくらいだった。
「フッ……俺に憧れているようだったから待っていてやったら、まさか別の男に横取りされるとは思わなかった」
彼のプラチナブロンドがたらりと垂れて、私の頬をくすぐる。
"待っていてやった"ってなに。
"俺"ってなに。
その困ったような微笑みは、一体、なに?
「本当は嬲り殺してやりたいくらいだがまあ良い。余計な遠回りはしたが、どうやら俺の自尊心は守られたようだからな」
そう言って鼻で笑った社長が、次の瞬間私の肩に顔を埋めてくる。
「上書きされただろう?」
「もう……すっかり……」
吐息混じりにそう訊かれれば、耳から全身にまた甘い電気が走った。
耳ってこんなに気持ち良くなるんだ……。
この短時間で何度思い浮かべたか分からない感想を抱きながら、私はそっと社長の引き締まった身体に腕を回した。
「この先も知りたいか?」
そう言って彼が笑うから、頭の奥がくらくらする。
低い声で甘く囁かれたその言葉は、私をまだ知らない世界へ誘なう、とびきり悪い魔法の呪文。
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