秩序の要塞(4)


 どうにか涙を収めようと深呼吸を繰り返す。ゆっくりでもいいとは言われたが、あまり長く時間を掛けては不自然だ。でも、嗚咽は聞かれたくなかったし、泣き顔も見られたくはなかった。一刻も早くこれを収めてしまいたくて、どうにか忘れようと別のことを考える。
 とはいえ、今までずっと暴力を振るわれる生活をしていた私が考えられる別のことなど、何年か前に亡くなった両親のことくらいで。それ以外のことなど――、
 ……手、大きかったな。
 ふと浮かんだのは、ずっと私の手首を掴んでいた手だった。手袋に覆われた、大きな手。多分、私の手よりも二回りくらいは大きいと思う。ちゃんと握手なんてしても、彼の手を握れる自信もあまりなかった。それくらい、体格が違う。
 温かくて、大きくて、優しい手。暴行を加える目的以外で私に触れてきた、両親以外の初めての手だった。あの手なら、触れられてもいいと思う。あの手は、まだ、私に危害を加えることはないから。
 ……行こう。
 そんな人が待っていると、思い出した。そうだ、あの優しい手の主は、私を連れ出すと言っているのだ。いつまでも泣いてなんていられない。ここでうじうじとしていたら、また心配を掛けてしまう。また、さっきみたいに迷惑を掛けてしまう。
 よろよろと立ち上がって、渡された服を広げる。病人着、だろうか。風通しの良さそうな素材の布でできた上下揃いの服は、見覚えのあるようなものだった。少し衿が広いような気もするが、それも多分、治療のしやすさなどを考慮しているからなのだろう。
 別に病人でも何でもないと思う反面、これだけあちこちに傷を作っている人間が健康体だと言えるわけもない。渡されたものは、正しく私が着るべきものだろう。もっとも、治療される気は、ないのだけれど。
 それまで自分が着ていた服を脱いで、渡されたそれに袖を通した。白衣の女性が言っていた通り、袖も丈も全体的に長かったが、逆に好都合だった。びっしりとできてしまっている痣を見てしまうことは、きっと誰にとっても不快だろう。隠れるのならば、それでいい。
 自分が着ていた服はボロボロだった。元々の劣化はもちろんあるが、同じ年頃の少年達の気が済むまで殴られたり蹴られたりしていたせいで、ところどころ破れているようだ。また補修しなければならない。靴の痕も残っているし、地面に転がされた時に付いた泥汚れも酷い。本当は下着も一式替えなければいけないのだろうが、そんな贅沢なことは言っていられなかった。
 とりあえず自分のものを汚く見えない程度に畳んでカーテンをそっと開けた。
「すみません、お待たせしました」
 近くのベッドに腰掛けていた白衣の女性に声を掛けると、彼女は、いいの、と微笑んで私に紙袋を渡してくれた。
「とりあえず、これに入れて持っていきなさい」
「ありがとうございます」
 空のそれに服を入れると、女性の先導で先程の机の場所まで戻ってきた。腕を組んで俯いていた彼――ガンダルヴァさんは、私達が戻ってくると顔を上げた。
「まぁ、着れねぇことはねぇな」
 私を一瞥してそう告げた彼に、私は今一度自分を見下ろした。たしかに、着れないことはないが、やはり少し大きい。
「少し、大きいですけど」
 袖の先からは指先しか出ておらず、ズボンの丈も長くて何度か折り返してある。恐らくはヒューマンの小柄な女性のサイズを選んでくれたのであろうが、私にとってはまだ大きかった。
「ごめんね、在庫切らしてて。ドラフの大きい女の子なんて久しぶりだから」
 言われて、あぁそうだ、と思い出した。周りにドラフの女性がいなかったから忘れていたが、私はドラフの女性の平均身長よりも背が高い。父も母も抜きんでて背が高かったわけではないが、私には半分ヒューマンの血が流れている。見た目はただのドラフの女だが、少なからずヒューマンの血の特質も受け継いでいるということだろう。それが、この身長。とはいえ、特別高いわけではないのだけれど。ただ、珍しいとは思う。
 それを思えば、服を貸すという単純な依頼であっても、悩ましかったであろうとは思う。
「いえ。貸していただけるだけありがたいです。鏡、見せてもらっていいですか」
「えぇ、こっちよ」
 だから、彼女の謝罪には首を横に振って否定する。代わりに、頼みを一つ言えば、快く姿見の前に案内してくれた。
 その前に立てば、私の姿が飛び込んでくる。なるほどボロボロだな、と笑いたくなってしまった。着替えた時に手櫛で整えたとはいっても髪はボサボサだし、ガーゼが貼られた頬は腫れていた。そして、服は泥が付いていたり靴痕が付いていたりしていたのだ。それは、悪目立ちもするだろう。清潔な服に袖を通した今でさえ、ボロボロに見えるのだから。
 鏡に近付いて、一番に気になっていた場所をよく見る。服が大きくて襟周りがどうなっているのか気になっていたのだ。鎖骨の辺りがあまりにも見えてしまうのは、どうしても困る。そこも、痣ができている時があるから。
 だが、今鏡に映っている私は、胸元まで見えてしまうような状態ではなかった。これなら、誰かに見られてしまう心配はないだろう。
「すみません、ありがとうございます」
「いいのいいの。その服はすぐ返してもらわなくても大丈夫だから。今は庁舎の中がどうなっているのかを覚えるだけで精いっぱいだろうし」
「そんなに広いんですか……?」
 思わず問いかけると白衣の女性は苦笑いを返してきた。どうやら、相当広く、そしてお世話になる場所も多いということであろう。この医務室だってその一つ。ではあるが、実際医務室がどこにあるのか、と問われると分からない。一人でここにもう一度訪れることは不可能だ。せいぜい、一階にあるということしか分からない。
「後で地図渡してやる。今はとにかく何があるかだけでも覚えろ。最低限の場所は紹介してやる」
「……お願いします」
 最低限、というのがどれほどあるか分からなくて怖いのだが、それには頷くしかない。覚えなければ生活はできないのだから。
「おし、それじゃ次行くか」
「はい」
 ガンダルヴァさんが立ち上がって、また私の手首を掴んで歩き出した。そのまま扉まで一歩も止まらずに歩いていたが、彼がそれを開けると不意に立ち止まって振り返った。
「邪魔したな、主任殿」
 それだけ言って、ガンダルヴァさんは医務室を出た。置いて行かれないように足を動かしながらも振り返って一礼すると、白衣の彼女は手を振って「またね」と言ってくれたが、初めて言われたその言葉の意味するところは、あまり分からなかった。ただ、悪意があるようには思えなかったので、少なくとも歓迎されていないわけではないように思う。
 医務室を出てひたすらまっすぐに進む。すれ違う騎空士はかなり多いものの、先程よりも好奇の視線を向けられることはなくなったように思う。やはり、ボロボロの恰好で歩いていたことが興味を引いてしまったようだった。今も目を向けられることはあるが、先程よりは棘もないような気がする。
「洗濯スペースだ。一応は共用だ」
 外に面したその部屋は、多くの人で賑わっていた。桶を抱えて談笑しながら歩く人々は、皆腕まくりをしており、たしかにここで洗濯をしているのだと窺える。大きな窓の向こう側には、色とりどりの布が風に靡いていた。
「私物はここで皆洗ってる。男はあっち、女はそっちだ」
 ガンダルヴァさんが指で示しながら教えてくれる。目を向ければ、彼の言う通り、男女で綺麗に分かれてスペースを使っている。
「あの……」
 洗濯物の量はそう多くはなさそうで、彼の言う通り、たしかに私物であろう。しかし、私物以外――たとえばベッドのシーツ――はどうなるのであろうか。
「私物、って言いましたけど、私物以外はどうなるんですか?」
「あぁ、シーツなんかはまとめて洗ってくれる奴らがいるからな。回収場所があるからそこに放り込んでる。その時に新しいものを支給してもらうっつぅルールだ」
「そうなんですね」
 なるほど。でもまぁ、シーツなんかは自分で洗うのにも限度はある。洗うスペースに限りがあるし、干すスペースも決まっているであろう。それに何より、全ての者が綺麗に洗えるのか、と問われれば微妙なところだ。
「外に出りゃ干してるとこも見れるが、そこまでは別にいいだろ」
「はい」
「んじゃ、次だ」
 そうしてまた手を引かれて、歩き出す。
 医務室で白衣の女性が庁舎の中がどうなっているのか覚えるので精いっぱいだろう、という意味がよく分かった。
 事務局、武器庫、会議室、談話室、演習場にトレーニングルーム、大浴場、単身者用の居住スペースなど、とにかくたくさんの場所に行った。これでまだ、敷地の外には騎空艇の整備場があるというのだから、秩序の騎空団がどれほど巨大な組織なのかがよく分かる。しかも、ここはファータ・グランデ空域の拠点で、他の空域にも似たような拠点があるという。
 眩暈が、しそうだ。一体何て所に連れてこられてしまったんだろう。

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