秩序の要塞(3)


「……さって」
 パタンと扉を閉めると彼は私を見下ろした後、思い出したように膝を突いて私をまじまじと見つめてきた。
「あの……何か……?」
「いや、お前をどこから連れて行くべきか悩んでな」
 立ち上がって、私の手を取ると、手首を掴んで歩き始める。一体どこを歩いているのか、そもそもここが秩序の騎空団の庁舎の中でどの位置にあるのかも分からないから、ただひたすら彼に付いて行くことしかできない。まずはじめに見えてきた階段を下り始める。歩調は遅いが、彼の身長は私よりも遥かに高く、その中で手を引かれたまま階段を下りれるのか、と一瞬不安になったが、立ち止まるわけにもいかない。しっかりと段を踏みしめて、一歩ずつ確実に歩を進めていく。
「部屋でもいいんだが、邪魔になる荷物も持ってねぇし、まずはここで生活する上で利用することになるとこから押さえていくべきかと思ってな」
「はぁ」
「で、最初にどこに行くべきか悩んだんだがな」
 それで、先程私をじっと見つめていたのか。観察するように上から下まで見た後に、すぐに私の手を引いて歩き始めたから。
「医務室にすることにした」
「医務室?」
「あぁ。まずはその生傷とか腫れてる顔とかどうにかすんのが先だ。そこに行きゃ女もいるしな。お前のそのボロボロな恰好もマシにしなきゃなんねぇ」
 階段を下りきった後、また階段を下りる。彼の歩調が変わることはなく、私が足をもつれさせそうになったら立ち止まって待ってくれる。
「その後のことはまた後で考える。どうせ一通り案内しねぇといけねぇのには変わりねぇしな」
「……ご迷惑をおかけします」
「お前を連れてくって決めたのはオレ様だ。そこは謝るな」
 ずっと前だけを見ていた彼が私の方を振り返って目を細める。何だか、少し、怒っているような顔をしていた。
 私のせいで彼の時間を奪うから謝ったというだけの理由だったのだが、その原因を作ったのは自分にあるから気にするな、というのは無理だ。気にしなくていい、と言われても、気にしてしまう。今まで、そういう生き方しかしてこなかったから。
 それ以上、何かを言うことができなくて、黙って階段を下りていった。一階下りて、また一階下りて、そして三階目に差し掛かった頃、ついに耐え切れなくなって私は意を決して口を開いた。
「……すみません」
「だから」
「あ、いえ! その、謝罪ではなくて」
 先程の会話の続きで今更謝ったと思われたのだろう。それを、手を引かれていない方の手を振ることで否定した。
「えっと……、その……手を、離していただけないですか」
「あ? 繋いでねぇと迷子になりそうじゃねぇか」
「そ、そうかもしれませんが」
 たしかに、彼から見たら私なんかは小さいから、ふっと消えてしまうかもしれないと思うのだろう。せっかく自分が連れ出したのだから、どこかに消えられては困るという思いもあるのかもしれない。
「その、転びそうで、怖くて」
 だが、それ以上に危険を感じるのだ。歩調の違う人に手を引かれて階段を下りるということ。万が一階段を踏み外してしまったら、無様に落ちるだけ。傷だらけらしいということであるが、余計な迷惑をこれ以上掛けたくはなかった。それに、私が階段を踏み外すということは、この人に私の体がぶつかるということ。最悪の場合、彼まで階段の下に転がり落ちかねないのだ。
 それを回避するためにも、この手は一度離してもらわないと困る。
「上る時は何も言わなかったじゃねぇか」
「上る時は、転びそうになかったので……。足元も、見やすかったですし」
 下りる時に恐怖を感じるのは、体の近くに段がないせいだろう。段が遠くに見えて、それを遮るように自分と彼の手があるから、視界が狭まってしまうのだ。となると、一段下るだけでも、それなりの勇気が必要だった。
「どこにも、行かないので。階段を下りる時だけでもいいので、離してくれませんか」
「ったく、分かったよ」
 彼が立ち止まり、私も立ち止まってから手が離された。迷子にならないようにするためにも、せめてこの人の隣に立とうと、私は空いていた距離を一気に詰めた。
「ありがとうございます」
「礼には及ばねぇよ、行くぞ」
 私が横に立ったことを確認してから、彼はまた階段を下り始める。その歩調は先程までと変わらない、恐らくはドラフの男性の歩調にしてみれば緩やかなもの。多分、体の小さな私に合わせてくれているのだろう。
 すれ違う騎空士が私の方を見ては何事か声を交わすのを見る度に、彼は私を庇うように一歩前に立った。それ以上の余計な詮索を防ぐためなのであろう。その心遣いがありがたかった。私の前に立った彼は、壁同然で。誰かから私を隠すのには十分だった。騎空士が私達の前を通り過ぎるまで立ち止まって壁になってくれることが、素直にありがたい。
 見たくないものを見なくてもいいというのは、私が思っている以上に心が軽くなるみたいだった。
 人が増えて私を見る好奇の視線が増えたせいで立ち止まる時間が長くなったその階段を下り切った時、彼は不意に立ち止まり、私の方へと目を向けた。
「メイリエ、手ぇ出せ」
「はい」
 言われた通りに手を差し出せば、また手首を掴まれた。どうしてかこの人は、私の手をちゃんと握るのではなく、手首を掴んで引っ張っていくのが好きなようだ。
 人通りの多い通路を階段を下りる時よりも速いスピードで歩く。ひそひそという声は未だに聞こえるが、それは私の存在を疎んでいるのではなく、私が惨めな姿をしているせいかもしれないと、今なら分かる。もっとも、明日になっても変わらないのであれば、私がこの秩序の騎空団で歓迎されていないのだということと同義になってしまうが。
 段々と人が多くなってきたが、彼はふと足を止めて、白い扉を開けて中に入った。ノックも何もなく入っていったのでギョッとするが、声に出すこともできず、私はただ引っ張られるまま中へと連れ込まれた。
「邪魔するぞ」
「……ガンダルヴァ船団長?」
 勝手知ったる、といった様子で中へと進んで白衣を着た女性に声を掛ける。その女性は私達を見るなり、あからさまに顔を顰めた。
「こんな幼い顔立ちの方を連れ込んで何をなさるつもりですか。ボロボロじゃないですか」
「何もしねぇよ。あとボロボロだから連れてきたんだよ。とりあえずこいつに手当をしておけ。あと、着替えを用意しろ」
「怪我人は医務室へ。それは正しいですけど。でもどうしてこんなボロボロなんですか」
 女性が棚を開けて大きな箱を取り出すと、その蓋を開けながら彼に問いかけた。中から出てきたのは、包帯、消毒液、ガーゼ、絆創膏といった馴染みのある道具だ。
「事情があんだよ。詳しくは言えねぇがな。その内ヴァルフリートから通達が来るはずだ。保護する許可は取った」
「保護……?」
 彼の言葉に引っ掛かりを覚えたのか、白衣を着た女性は私をじっと見つめた。数秒間私をじっと見た彼女は、深い溜息を吐いてから椅子に座る。
「分かりました。どんな理由であれ怪我人は手当しなければなりませんし。あと、少し大きいでしょうけど、着替えも用意します」
「おぅ、頼んだぞ」
 彼は手近にあった椅子を引き寄せると、どっかりと腰を下ろした。更にその近くにあった椅子を引き寄せたかと思うと、今度はその椅子をこちらがわに転がして寄越す。キャスターの付いた椅子は勢いよくこちらに寄せられ、なんとか両手で背もたれを掴んでその勢いを止めた。危うく彼がこちらに寄越した椅子で大怪我でもするところだった。
「……ガンダルヴァ船団長」
 白衣の女性がじとっとした目を向けて、低い声を出す。頬を掻き「わりぃ」なんて言っているが、白衣の女性は嘆息するだけだ。それなりに付き合いがあるのだろう。表情や声音で本当に反省しているのかどうか判別できるのかもしれない。そして、彼女の様子を見るに、悪いとは一切思っていないのだろう。実際、彼は悪びれた様子もなく腕を組んでこちらを見ていた。
「それで? この方とはどういった関係なんです? ガンダルヴァ船団長のお答え次第では引き剥がしますが」
 袖を捲り上げながら女性は彼に問うた。まだ何の知らせも受けていない彼女からしてみれば、私と彼の関係は良くないもののように思えるのだろう。とはいえ、引き剥がさなければいけないような理由というのは、私には分からないが。
 そんな彼女は、私の腕に残る大小さまざま、色とりどりの痣を見て即座に顔を顰める。袖を上げられるだけ上げて私の腕全体をよく観察する。その間、彼が答えることはなかった。
「ガンダルヴァ船団長、お答えを。医務室主任として伺いますが、この方とはどういった関係なんですか。これは、あなたがやったんですか」
 転んだ時に擦り剥けた場所を消毒液で消毒し、切り傷には絆創膏を当てていく。軟膏も塗られ、腕のほとんどに何らかの治療行為を施されたような状態だ。袖を元に戻した後、逆の腕も確認する。やはり同じように内出血を起こして醜くなっている腕を一瞥して彼女は後ろを振り返った。彼は、私をじっと見てから、溜息を一つ吐いた。
「オレ様が連れてきた。例の問題の当事者であり、被害者だ」
「例の……? ではやっぱり噂は……」
「そこまでにしておけ、主任殿。そいつは秩序の騎空団が動いていたことすら知らねぇんだ。一気に情報を与えると混乱する」
「そうですか……」
 手際よく治療を終えた彼女は立ち上がり、奥のブースに入っていった。関係者用のスペースのようで、“立ち入り禁止”という貼り紙がしてある。
 私は俯いて自分の膝を見ていた。この服の下には、こうした傷がかなりある。脚もそうだし、お腹や、胸や、背中まで、全部。変色しているし、化膿してしまった傷痕だってかなりある。傷がないのは、首と頭くらいのものだ。顔だって、殴られて腫れていることがよくある。
 見られた、という意識が私を苛む。全く綺麗ではない私の体の一部を見られた。こんなに汚れていて、だから蔑まれる傷の一部を。この人と、白衣を着たあの女性に。
 ……怖い。
 この傷が、次の暴力を生むのではないかと思うと、怖い。私に暴力を振るう人達は、そうやって私をいいように殴っていたのだから。
 この巨大な組織も、私を蔑むのではないかと思うと、怖かった。もう今すぐ逃げ出したいのに、それをすることはできないとも思う。あの腕は、私が立ち上がって彼に背を向けたところで、きっと私の腕を掴むだろう。悔しいが、ドラフの男性の大きな体はそれが不可能ではないのだ。そして、逃げれば余計に暴行の苛烈さが増してしまう。今まで、ずっと、そうだった。だから、動けなかった。逃げ出して、もっと痛い目に遭うのは、嫌だった。
「それは」
 不意に掛けられた声に顔を上げると、彼がこちらをじっと見ている。
「それは、今日の暴行でできたやつか」
 首を横に振った。いつから、というのはもはや分からない。あまりに遠い昔のことだから、もう分からない。
 まだ両親が生きていた頃からだったから、体が成長しきる前からなのは間違いないだろう。
「治らないんです。毎日のように、されるので」
「治ればまたやるし、治らなくてもやる、か。……胸糞わりぃな」
 私にとってはそれは当たり前のことだった。怖いという感覚すら、麻痺しかけていたけれど、でもやっぱり、暴力を振るわれるその瞬間は怖かったし、全てが終わった後に襲ってくる激痛も、怖かった。
 痛い。何もかもが、痛い。
 思い出したくもない一瞬が鮮明に浮かび上がり、ぎゅっと目を瞑る。
 怖い。嫌だ。痛いのは、嫌だ。
 耐えることこそが、私の存在価値だから、逃げることは許されないけれど。でも、嫌なものは、嫌だった。痛みなんか、ない方がいいに決まってる。
「お待たせ。小さいもの探してきたからこれなら……、って、どうしたの」
 白衣の女性の声が聞こえてハッと顔を上げた。手に何かを持ってブースの前に立っていた。
「ねぇ、あなた」
「ひっ」
 近付いてきて顔を覗き込まれた、その瞬間。咄嗟に床を蹴ってしまい、勢いよく後方へキャスターが転がった。何かにぶつかって、けたたましい音があがるのと同時に、背中に衝撃が走る。その瞬間に走る痛みで、私は自分が何をしてしまったのかに気付いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 慌てて椅子から下りて、何かを傷付けていたりはしないかと確認する。もしも、もしも何かを壊してしまったのなら。
 ――恐ろしいほど強烈な一撃が私に降ってくる。
「落ち着け!」
 微かな傷も見逃さないようにして棚を確認していると、後ろから腕を引っ張られた。
 痛いほど強く腕を掴んできたのは、私を街から連れ出した彼だった。両手を私の両肩に乗せると、彼の後ろに立つ女性に目で合図を送った。それを見た女性はゆっくりと私に近付いてきて膝を折った。
「大丈夫。何もしないよ。怒らないよ。大丈夫」
 触れることはせずに、穏やかに微笑みながら、ゆっくりと私に声を掛けた。しばらくしても、彼の手が動くことはなかったし、女性は同じような言葉を繰り返しかけてくる。それをずっと聞き続けて、やっと私の心に余裕ができたようだった。
 深く息を吸って、吐き出して。やっと、ここが街とは違う環境だと、思い出せた。
「メイリエ。オレ様は何もしない。横の女もだ。いいか?」
「……はい。あの、取り乱して、すみません」
「いや、いい。オレ様も何かまずいこと言っちまったみたいだからな」
「違います、あなたは何も――」
「いい。今は言うな。傍から見て震えてたんだ。何か怖かったことくらいは分かる」
 彼が私の言葉を遮った。その手は動くことなく、私の目を見て、静かにまた唇が動いた。
「オレ様が訊くことにだけしっかり答えろ。いいな?」
 ちいさく頷くと、よし、という言葉が返ってきた。
「今は落ち着いたな?」
「はい。その、本当に」
「そこまでだ。謝罪はいい。次だ」
 必要以上の言葉はいらないとばかりに遮られる。身振りも何もなく、声だけの威圧感。けれど、少し大きな声で話されるだけで、自然と口を噤んでしまうような威圧感がそこにはあった。
「お前、歳はいくつだ」
「今年、十七になります」
「分かった。飯は食えそうか」
「……大丈夫、だと思います」
 お腹が空いているかどうかは、よく分からなかったけれど。でも、朝食べてからは何も食べることができなかったから、食べ物を前にしたらちゃんと食べられるとは思う。そういえば、今は何時なのだろう。食事を気にされるような時間になってしまったのか。
 今日この人に会ってから、時間の流れが狂ってしまったように感じる。いつもは、ただひたすら暴力を振るわれたり暴言を吐かれたりしているだけだから、時間の流れがとてつもなくゆっくり感じられるのだ。
「分かった。じゃあとりあえず着替えろ。そうしたら案内の続きと飯だ。いいな」
「はい」
 小さく答えると、彼が白衣の女性に合図をした。同時に、私の肩にずっと乗っていた手が離れ、彼が立ち上がる。
「それじゃあ、メイリエちゃん。こっちへ」
 白衣の女性が微笑んで、私を連れて少し離れたベッドへと案内した。ベッドの周りにあったカーテンを敷いて、その一角をカーテンで仕切ってしまう。
「やっぱりちょっと大きいと思うけど、とりあえず今日はこれ着てて。ゆっくりでいいからね」
「はい。ありがとう、ございます」
 白衣の女性が差し出してくれたのは、私の着替えらしかった。綺麗に畳まれたそれは見知らぬ石鹸の香りがして、自分が家とは違う場所にいるということを、改めて教えてくれた。
 じゃあ、とだけ言って女性がカーテンの外へと出ていく。狭い場所ではあるが、私は仕切られた区画の中で一人きりになった。
「……っう、ぅ……」
 途端に込み上げてくる涙。仕切られているとはいえ、同じ部屋に彼らはいるというのに。嗚咽を噛み殺しながら、私はベッドに伏せた。聞かれたくなかった。こんな、情けない声なんか。
 今は、私に暴力を振るってくる人が誰もいないというのに。日常の一部と化していたそれは、幻覚となって私に襲い掛かってくる。
 何もされていないはずの腕や脚が、ひどく痛かった。

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