秩序の要塞(1)


 手を引かれたまま連れてこられたのは、私にも馴染みのある建物だった。が、馴染みといっても遠くから見上げたことがあるだけで、実際に立ち入ったことは一度もなく、近付いたのだって、今日が初めてだ。
――秩序の騎空団、その、本部となっている庁舎。
 アマルティア島を一望できる場所にあるその建物は、このアマルティア島の象徴ともいえる。そこは、秩序の騎空団の拠点となっている場所で、多くの人々が働いている。騎空士はもちろんのこと、彼らの生活や業務を支える者がここに詰めている。
 そもそも、ここアマルティア島に住んでいる者は、大なり小なり秩序の騎空団の関係者だ。私の母も秩序の騎空団の食堂で料理人として働いていたと聞いている。私がここに住むことができているのは、そのおかげだ。父は元騎空士であるが、結婚してからは艇を降りて母を支えながらこの街の武具店で経理をしていたと聞いているから、秩序の騎空団の関係者とは厳密には言わないらしい。もっとも、その武具店も秩序の騎空団とは取引があったとは聞いているが。
 とはいえ、私の家は街の下の方にあり、上の方にはほとんど縁がなかった。秩序の騎空団の庁舎が近付くにつれ、そこは騎空士の関係者の家族が住んでいる割合が高くなる。中層までなら商店などもあり立ち入ることもあるが、それより上になると完全な居住区で、立ち入る用がそもそもないのだ。だから、私は物心付いた後、一度もこの場所に来たことはなかったし、目指したこともなかった。
 アマルティア島の街はここ一つだけであるが、だからこそとてつもなく広い。段状になっている地形の性質上、街は階段だらけであるため、その段数は数えるのも嫌になるほどだという。下から上まで上がるにはそれなりの体力と時間が伴うため、そもそもこの場所まで来ようと思う方が無謀だ。いや、私の場合は街の住民――特に下層に居を構える住民――に見張られていたから、この場所に来ることは不可能に近かったが。
 裁きの門を通れば、街で行われている私への暴行が明るみになる。拠点としている街での暴行だ。この組織が見逃してくれるはずがない。それを防ぐため、私が商店が立ち並ぶ通りよりも上へ行こうとすれば、必ず何らかの妨害が入った。暴力か暴言かは、その時々で違っていたけれど。
「おい、まだ歩けるか」
 はぁーっと長い息を吐き出して両膝に掌を押し当てて呼吸を整えている私に、ガンダルヴァと名乗った男が声を掛けてきた。階段を上りきったところでようやく手を離してくれたおかげで、私はこうして呼吸を整えているわけだが、隣に立つ彼は息一つ乱れていない。彼だけではない。彼を取り巻く秩序の騎空団の騎空士達もまた、息一つ乱れていなかった。
 ……これが、騎空士に求められる体力……。
 手合わせの後、この人は私に、良い戦士になれる、と言ったがそんなのはやはり戯言であろう。私には、あまりにも体力がなさすぎる。
 最下層からここ裁きの門まで休みなく階段を上り続けたのは今日が初めてだ。今まで中層まで駆け上がったことは何度かあったが、それでも途中で呼吸が苦しくなり、まだ体力がないからこの走り込みはやめておこうと思っていた。全ての階段を歩き続けることすらろくにできないことを突き付けられた今、私は自分が思っていた以上に弱い人間なのではないかということを突き付けられた気分であった。
「は、はい……。大丈夫です」
 いつまでも私に合わせて騎空団の人を待たせるわけにもいかない。私は膝に当てていた手を離してきちんと立ち、隣に立つ男を見上げて返事をした。その瞳はこちらを見定めるようにすぅっと細められる。
 強がって返事をしたことは、やはり見透かされているだろうか。何とか呼吸は整えたが、それでもまだ辛い。できることなら、もう少し休みたい。
 けれど、私に非があるかどうかは別としても、私は騒ぎを起こした人間としてここに連れてこられているわけであるのだから、我が侭を言うことは許されるはずがない。それに、私と違ってこの人達は忙しいはずである。待たせてはいけないのだ。
「……少し」
「ガンダルヴァ船団長!」
 彼が口を開いて言葉を発したところで、その言葉は大きな声に遮られた。彼の名前が呼ばれただけであるが、その声は少しばかり慌てていて、彼は私よりも彼を呼んだ人の方を優先せざるをえなくなったようだ。その視線を私から裁きの門の向こうへと移す。
 秩序の騎空団の庁舎から駆け寄ってきたのは、ガンダルヴァと名乗った男が先に庁舎に戻らせた男であった。たしか、ヴァルフリートという人に話を通せと言われてあの場を駆け出していったはずだ。他の面々と同じように、この人もやはりほとんど息は上がっていなかった。
「団長殿から、すぐに出向くように、とのことです!」
「ほぉ」
 彼は笑みを浮かべると私を見下ろした。目が合った瞬間、その笑みは深まったが、それがどうしてなのかは分からない。
「ヴァルフリートにしちゃあ話が早いな。しばらく待たされるだろうから休憩するかと思ってたんだがな」
 彼は再び私の手を取って、目の前に聳える門を潜った。ここから先は、秩序の騎空団の敷地内。この門を潜って秩序の騎空団の庁舎に入った者が笑顔で出てこれるかどうかは、その者の行い次第であるという逸話がある門を、私は潜ったのだ。
 ……笑って、か。
 逸話を思い出しながら、一人ごちる。笑顔で出てこれるかはその者の行い次第。それは、そうなのだろう。助けを請えば彼らはきっと助けてくれるだろうし、捕縛されれば出られるかどうかも分からないのだ。その逸話が間違っているとは、決して思わない。
 けれど、私にとっての幸せな結末は何かということを考えると、何も思い浮かばないのだ。だって、最後に笑ったのがいつだったのかも、もう思い出せない。
 両親が亡くなってから、私は人と会話をすることがほとんどなかった。毎日毎日虐められて、陰に日向に悪口を言われて嫌がらせを受けて。その繰り返しで。笑えたことなんて、一度もない。もう、笑えるかどうかも、分からない。
 自分がどういう表情をしているのか、というのはあまり分からない。何となく、無に近い表情なんだろうな、ということしか分からない。
 だからなんだろう。庁舎の中ですれ違う人達が私の方を見てはひそひそと声を交わしているのは。私の方を見ては、何事かを交わしている。その言葉の中身までは、聞こえないけれど。でも、見慣れた景色であるそれは、私のことで何かを言っているのは分かる。それは、嫌というほどに見飽きた光景だ。どうせ、私のことをよく思ってなどいないのだろう。
「……っ」
 それに、気付いた、その瞬間。
 息が、詰まるようだった。
「ちっ、鬱陶しいな」
 結局、どこへ行ってもそうなのだ。私は穢れた子で、私は不要な子。私がいるせいで、皆が不幸になる。
 それを分かっているから、この人達は――。
「メイリエ」
 それまでよりも強く私の手を引いた彼は、見上げるように手振りで指示を出した。それに従って彼を見上げると、その顔がぐいっと近付いてきた。
「見るな。聞くな。オレ様の手だけを見てろ」
 私の手首を掴む、大きな手を。私の視界に嫌でも入る、その手を。ただそれだけを見て歩けと、彼は指示を下した。聞くな、ということは、私の意識さえもその手に集中させろということなのだろう。ここは、街とは違う場所だけれど、今のままでは街と一緒なのだと、彼は分かってしまったのだろう。
 でも、それでもいい。どうせ、私はその程度の存在だ。誰からどう見ても、迷惑な存在なのだ。環境を変えたって、きっと、それは覆らない。だって、少し変わったこの場所でだって、同じように好奇や侮蔑の視線を向けられているではないか。息ができなくなりそうなほどに苦しいことが、その証拠。
 生きていてはいけないのだ、きっと。
「しばらく辛抱してろ。これから会う奴はお堅い奴ではあるが、そいつのお墨付きが出ればお前は苦しまなくて済む。もう少しだけ耐えろ」
「……はい」
 彼の目を見て、頷いた。それ以上の言葉は、出せそうになかった。
 何かを言えば、周囲で私を見ては密やかに声を交わしている人達にとっての餌になる。私の行動の全てが、彼らにとっての侮蔑の対象。私の言葉の全てが、彼らにとっての嘲笑の的。
 一人になってからずっとそうだったから、それ以上はもう、何も言えなかった。ただ、彼の指示の通りに私の手首を掴む大きな手を見続けた。
 私の視線の先がそこに向いたのを確認したらしい彼は、また歩き始めた。いつの間にか彼の周囲にいた騎空士はいなくなっており、私と彼だけが歩いている状態になっていた。恐らくは、庁舎に戻ってきたことで皆それぞれの仕事に戻ったのだろう。騎空士の仕事がどんなものか知らないから、憶測でしかないけれど。
 でも、これで人の視線が痛い理由だけは分かった。私達の周りに人がいなくなったのだから、棘のように刺さる視線を浴びるのは必然のことだ。痛む心の原因を、他者に押し付けることはできない。ここでは、部外者である私が正真正銘の異物なのであって、何も言わずに散ってしまった騎空士達を悪く言うことは許されないのだ。そもそも、庁舎に戻ってまで集団行動をする道理だってないであろう。仕事を終えた人間がそれぞれの場所に帰るのは当たり前のこと。生きていく上でのルールの一つでもあろう。
 彼に引かれてただ歩いているだけの私は、この庁舎がどういう造りになっているのかもよく分からない。そもそも、手を見ているだけの私に周りを見るなんてことはできないのだから、今どこをどう歩いているのかも分からないのだ。ただ、角を曲がって、階段を上がって、とそうしたことしか分からない。どれほどの人が私が通り過ぎていくのを見ているのか、誰かとすれ違っているのか、誰かが私を追い越していっているのかも分からない。
 ただ言われた通りに、彼の手に意識を集中させて、何も見ず、何も聞かずに無心に歩を進めているだけだ。
「顔上げろ」
 歩を止めた後、すぐにそう指示された。見上げて目に入ったのは、木製の扉。隣の部屋の扉はかなり離れたところにあり、目の前の部屋が特別な場所であることは、否応なしに分かる。周囲に人の気配はないことから、この部屋の近くが特別なのかもしれない。この階に誰もいないということはないであろうが、あまり近付くような場所ではないのだろう。
「この中にいるのが、秩序の騎空団を率いている奴だ。碧の騎士っても言われてる」
「碧の、騎士。……七曜の騎士の、お一人ですか」
 あまり多くの知識が入っていない記憶の引き出しをひっくり返す。たしか、そう呼ばれていたような、ということを告げると彼は小さく頷いた。
「あぁ。まぁ、秩序の騎空団の団長の仕事しかしてねぇんじゃねぇかって思うけどな。七曜の騎士として動くことは、そう多くはねぇよ。……いや、オレ様達に見せねぇだけかもしれねぇがな」
 どちらにせよ、この中にいる人が特別であることには変わらない。
 秩序の騎空団を率いていることも、七曜の騎士としてその実力を認められていることも。それは、力がなければできないことであるのだから。
 雲の上にいると思っていた人と、対面する。その事実に、今更ながら不安で胸が押し潰されそうだった。
 だが、彼はそんな私の心境など知ったはずもなく、何の躊躇いもなく目の前の扉をノックした。
「ガンダルヴァだ。先に使いをやった奴の用件だ」
「あぁ、入ってくれたまえ」
 扉を隔てているせいでくぐもっているが、落ち着いた低い男の声が返ってきた。その次の瞬間には彼の手が扉に掛けられ、それは開かれた。
 彼に促されて部屋に足を踏み入れると、鮮やかな碧の鎧に身を包んだ人物が窓際で佇んでいた。

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