力あるもの、力なきものを拾う(2)


「またお前か」
「あ……昨日の」
 今日は街の広場で同じ年頃の子どもから暴行を受けていたところを、昨日と同じように助けられた。大柄な体格であることがその凄みに拍車でも掛けているのだろうか。低く発せられた短い言葉だけで、彼らはあっという間に散ってしまうのだ。もっとも、この暴行現場を見られることは私を虐める人達にとっては最大のタブーのようであるから、全くの部外者に見られてしまったという事実に竦み上がっているだけのようにも思えるが。
 散々蹴られて踏みつけられた背中を擦りながら立ち上がると、顔を歪めた恩人と目が合った。瞬間、盛大な溜息を吐かれる。
「お前な、何で反撃しない」
「……何故、とは?」
 自分よりも体格のいい男性――正しくは同い年程度の少年――に取り囲まれている一人の女など、反撃したところで無意味であろうに。
 よく言うではないか。恐怖の前では抵抗のための動作もできず、助けを呼ぶための声すらあげられないと。それと同じだと、どうして思わないのだろうか。
 それに、一人のできる反撃などたかが知れている。それが一般的な感覚ではないのか。それとも、彼のように秩序の騎空団に属している騎空士ともなれば、それは一般的な感覚ではなくなるのだろうか。武器を持っているならば、武器を持たない者を簡単に叩きのめすことができるのだと。それが、常識なのだろうか。
 私には遠い世界だし、今後も交わることのない世界だろうから、その考えが分かることがないだろうけれど。
 ここでこうして耐え続けている限り、私は剣を抜くことがないだろう。彼らは決して武器を使ってこない。人格否定、己の体による暴力、見ていないうちに施される悪戯の数々。虐めの内容がこれらに留まっている限り、私に剣を抜く理由は出来やしないのだ。
 彼らは検挙されないためにその選択を取っているだけで、決して私に剣を抜かせたくなくてそうしているのではない。彼のような部外者からしてみれば、とっとと抜いてしまえばいいと思うのだろう。
 けれど、抜いたところで何になる。抜いて、斬って、その次は?
 私を虐めているのは、何も子どもだけではない。大人もだ。老人から年端もいかない子どもまで。老若男女問わず、この街に住む殆ど全ての人間が私の敵なのだ。一度抜いてしまえば、それは彼らにとっての正義になる。私を更なるどん底に落とすための大義名分になる。それを分かっているから――分かってしまっていたから、私は剣を抜かないのだ。
 それを、どうこの人に説明すればいいのだろう。
「お前のその剣は飾りか?」
 大きな手が、私の腰に差してある剣を指した。
「いえ、飾りではありません」
「じゃあ抜けよ。それは自分の身を守るためにあるんじゃねぇのか」
「それは、そうです。そのために鍛錬はしています」
 住民が見ていないところで。家の中でできることなど限られてはいるが、毎日剣を抜いて剣の状態は確認しているし、天井の高い部屋で抜かないまま素振りをしていざという時のために躊躇いなく触れる鍛錬もしている。外に出る時は、剣を抜いた時のシミュレーションのために常に地形を見ながら歩いているし、走り込みや飛び降り、跳び上がりも欠かさない。街を歩くだけでも、十分な鍛錬は行えるものだ。
 でもそれは、私を虐めてくるだけの人間に対しての鍛錬ではない。同じ土俵に立って、剣を持つ者として対峙するために行っている訓練だ。
「何故抜かない。昨日も今日も相手は丸腰だったろうが。お前は武器というアドバンテージを何故生かさない」
 戦う者に、この理屈は通用するのだろうか。ただ街で暮らしているだけの人間の、理屈が。
「ああして口だけしか出してこない輩には手を上げるな、と。両親から言われていますので」
「それでお前が怪我をしてもか」
「純粋な力では、敵いませんから。だから、彼らが剣を抜かない限りは、抜きません。私は、戦士として自分の前に立った人にしか、剣を抜きたくありません」
 自分よりも遥かに背の高い、体格のいい男性から目を逸らさずに告げた。手に持つ太刀は武人の証。私の理屈が通用するかは分からないけど、戦士としての信念があることくらいは伝わればいいと、そう思った。
「ほぅ、面白いことを言うな。……おい、お前」
「はいっ!」
 不意に彼が後ろを振り返ると、誰かを呼んだ。目が合っただけで自分のことだと分かるのは、素直に凄いと思う。
「ちょっと手合わせしてみろ」
「はぁ……。この方とですか」
「そうだ」
「……えっと、本気、ですか?」
 突然言われた男性の方も戸惑っているだろうが、私だって同じだ。
 手合わせしろ、だなんて。それも、こんな突然。
「当たり前だ。お前が自分で言っただろうが。戦士として自分の前に立った奴にしか抜きたくねぇって」
「それは、そうですけど。でも!」
 秩序の騎空団と言えば、厳しい規律で有名ではなかったか。その厳しい規律に、街中で私闘を繰り広げてもいいことが記されていないわけがない。彼らほどの組織であれば、絶対にやってはいけないことではないのか。
「オレ様達のことをお前が気にすることはねぇ。そうまでされて耐えるのが、両親の教えによるものか、お前自身の弱さのせいなのか見てやろうってんだ」
「手加減は……」
「いらねぇ」
 私と手合わせをする男性がドラフの彼に問うと、即答が返っていた。手加減は、いらないと。
「その剣が飾りかどうか確かめてやるんだ。手ぇ抜く必要はねぇ。いいな」
「分かりました」
「ドラフの女、お前もだ」
「わ、私も、ですか」
「当たり前だ。遠慮するこたぁねぇ。力こそ、この世界の絶対だ。お前の持つ力がそこで埋もれていいものか、オレ様に示してみろ。いいな?」
「……分かりました」
 ドラフの男性に指示された通り、開けた場所に出て向かい合う。相手との距離は五メートルほど。同時に駆け出せば、こちらの勢いが付かない内に剣を交えることになるであろう。
 ……ぬかるんでる。
 そして、地面の状態。昨夜は雨が降っており、その影響で地面が少しぬかるんでいた。歩幅を大きくして走れば足を取られて上手く跳躍できないかもしれない。
 相手はヒューマン。一般的な体格の男性だと思う。両親以外と剣を交えたことはなく、もう何年も誰かと剣を交えるということをしていないが、果たして、私の剣は通じるのだろうか。
「お願いします」
 剣の柄に手を添えて深々と一礼した。突発的な戦闘ではなく、形式ばった戦闘をするのならば、相手に礼儀は尽くせと。これは母からの教えだ。
「こちらこそ」
 一礼が返ってきたことを確認して、私は剣を抜いた。それを見たのか、相手も剣を抜き、構える。奇抜な型ではない。一般的な型だ。
「はじめ!」
 互いが構えたことを確認したのであろう。ドラフの男性が開始の合図を下す。息を吐いて、じっと相手を見るも、――動く気配はない。カウンターを得意とする人なのか、それとも単に一撃目はこちらに譲ってくれるのか。
 どちらにせよ、あまり距離がない今、その選択は、好都合。
 じり、と足を小さく前に出して警戒して、にじり寄る素振りを相手に見せてから、大きく一歩を踏み出し、足に力を入れ、駆けた。
 泥に足を取られないように、無理のない歩幅で。代わりになるべく速く足を動かすことを意識して相手の前に躍り出た。
「なっ!?」
 驚いた声が相手から漏れるが、さすが歴戦の騎空士といったところだろうか。咄嗟に剣が振り上げられた。小柄であることを活かし、一気に距離を詰めた一撃目の横薙ぎは呆気なく受け切られる。だが、そこで手を緩めるつもりはなかった。弾かれた剣を握る腕はそのままに、ばちゃりと音を立てて着地した足を軸にしてしっかりと踏みしめつつ、薙いだ剣とは逆方向から回し蹴りを見舞った。
 肉体にぶつかったたしかな感触。蹴りを見舞われるとは思っていなかったのだろう。さすがにそれは回避しきれず、相手は大きく体勢を崩した。後ろによろめいたことを視界に入れる。
 しかし、それも一瞬だったようだ。次の瞬間には、しっかりと地面を踏みしめた男性が剣を振り上げた。私は冷静にそれを剣で受け流す。その勢いを利用し、一歩身を引く。
 相手が剣を構え直す前に剣を水平に構え、刺突。空を切った剣先は、そのまま何かに触れることはなかった。伸ばし切った腕が、相手の回避行動を教えてくれる。利き足を軸に身を引いたらしい。そして、そのままの流れで剣が振り上げられていた。
「っ!」
 回避行動は間に合わず、剣を引き戻して受け切れる自信はなかった。
 躊躇は、一瞬。
 カンッと軽い金属音が鳴り響く。剣を持つ手とは逆の手に伝わる、衝撃。それに気を取られることなく、間合いから抜け出ようと転がるようにして相手から距離を取る。今ほど相手の一撃を受けたそれ――逆手に握ったナイフ――を腰に差してあった鞘に戻し、バネのように起き上がる。相手に、もう一本武器を持っていたことを気取られないように。あくまでも、ずっと握っている剣で勝負するように、役目を終えたそれは仕舞う。
 起き上がった私は、剣を振り上げる。袈裟懸けの一閃――剣を弾かれて動揺している相手の一瞬の隙を突いて、右肩から心臓を斬るような軌道で剣を振り下ろした。
「勝負あったな」
 笑いを含んだ声が、勝負の決着を告げた。私の剣は相手の身を切り裂く直前でぴたりと止められ、相手は回避行動を取ろうとしていたのか、左足を大きく後ろへと下げたまま動けずにいた。それは、回避行動が間に合わないことを意味し、私の剣の軌道は相手の命を奪うところへと乗せられていた。
 それを、手合わせしてみろと持ち掛けてきたドラフの男性は正確に見抜いたのだろう。だから、私が剣を止めたその瞬間に、勝負の決着を告げたのだろう。
 大股で歩いてきたドラフの男性は、私の肩をポンと一回叩いた。
「ドラフの女、この手合わせ、お前の勝ちだ」
 第三者から告げられた審判の内容を聞いて、私は体から力を抜いた。相手を傷付けないように慎重に剣を離して、鞘に収める。
「ありがとうございました」
 深々と一礼すると、相手も剣を収めた。
「こちらこそありがとう。びっくりしたよ。速いね」
「はぁ……どうも」
 速いとは、何を指してのことだろうか。単純なスピードか、動作一つ一つに対する評価か。詳しく訊こうとする前に彼はドラフの男性に下がるよう言われてしまったのでこの場を離れてしまった。
「その剣は飾りじゃねぇな。最初の一撃目以外は、あいつは手を抜いてねぇ。それに、腕も立つ方だ。そいつから一本取るんだから、その剣が飾りだって言うのは失礼だな。悪かった」
「いえ……。実際、誰かと手合わせすることは、随分と久しぶりでしたから。飾りには、変わりなかったんです」
 両親以外との初めての手合わせだった。一人で素振りをするだけでは、この剣は『飾り』と言って間違いなかった。誰かと剣を交えたのは、いつぶりだろう。緊張のせいか、それとも興奮のせいか。まだ胸がどきどきと鼓動を強く打っていた。
「随分と勿体ねぇことだ。お前なら、良い戦士になれるだろうに」
 恐らくは、手放しの称賛なのだろう。普通ならば、喜んでもいいはずだ。強さを褒められ、将来を期待される。子どもにとって、それは何よりも嬉しいことのはずなのだ。
 けれど、こんな環境にずっと放られている私にとって、その称賛は何の意味もなかった。だって、私は、この扱いを脱することはないのだから。この街で生き続け、この街で虐められ続け、痛みを受け続ける。私の人生は、そういうものだ。それ以外の道は、ないのだ。
 島の外に逃げ出せるだけの金銭的余裕もなければ、頼りにできる人もいない。島を出れば逃げ出せるかもしれないという希望は、いつだって現実の重さに押し潰されてしまう。
 この街にある家が私の住処であり、ここ以外の居場所はない。最低限の金銭で暮らせる場所は、ここにしかないのだ。私には、誰もいない。私を守ってくれる人、私を慕ってくれる人は、誰も。だから、絶対に。
 戦士になる未来など、ありえない。まして、この人達みたいに空を自由に駆ける、騎空士になど。
「……そんな未来は、ありません。私は、剣を飾り物にしかできない弱い人間のまま、ここにいるだけです」
「本気か」
 見下ろす視線の冷たい温度に怯まないよう、拳を握りしめてドラフの男性を見返した。彼の胸元程にしか届かない私の背では、見上げるだけでも一苦労だが、それでも、この視線から逃げてはいけなかった。強者の視線から逃げてしまえば、あっという間に痛みが襲ってくる。この人は、戦士なのだ。その痛みはきっと、私が味わったことのないほどに鮮烈なものとなるだろう。
 それと、もう一つ。この人は、私をただ虐めるだけの存在ではない。理由のない暴力を加える人ではない。弱さは糾弾するであろうが、それはあくまでも私の態度が原因となるものだ。私が存在しているというだけで危害を加えることはない、はずだ。
 だから、逃げてはいけない。視線を逸らせば、痛みが私に襲い掛かってくるはず。
 私はその視線から逃げることなく、臆することなく口を開いた。そうすることでしか、私の気持ちも伝えられないから。
「はい。……あの人達が言っていたことは、事実なんです。正しいことに憤る必要はありませんし。それに、あなたが見ている通り、私が何もしていないのも事実です。私は、彼らに反抗をしたことはありません。……弱虫で、臆病者。彼らが言っていることは、一つも間違ってない」
 全部本当のこと。本当のことで私を追い詰めるのだ。私が存在しているというだけで暴行を加えるのだって、本当のことで私を追い詰めているだけ。
 彼らにとっては、私という存在は、空恐ろしいものに見えるのだろう。得体の知れない化け物に、見えるのだろう。私は、彼らのよく知る存在から生まれているのに。
「事実? 弱虫、剣が飾り、何か言ってみろってのは分かるが、他は? お前、両親はいねぇのか」
「えぇ」
 静かに頷いた。それを隠してもどうにもならないし、両親がいないことは後ろめたいことではないのだ。処刑されたわけでも何でもない。両親は、事故で亡くなっただけなのだから。
「二人とも、既に。何年か前に亡くなっています」
「……半端者ってのは何だ? お前の性格のことか?」
「いえ」
 首を横に振った後、しゃがんでもらうように言った。このことだけは、あまり他の人には聞かれたくなかった。この人はリーダー格のように見えるから、言うだけだ。この情報をどうするかは、この人次第だけど。もし何かあった場合は、私はやはり人と関わってはならないのだと諦めるだけだ。地獄がもう少し、酷いものになるだけだと、諦めて。
「…………私、混血なんです。本当は、ドラフじゃありません」
 この人にしか聞こえないような声で、告げた。
 それこそが、私が、私の家族が街の住民から危害を加えられる理由。存在自体が稀な存在を、自分達とは違う何かを、彼らは受け入れられないのだ。各種族の独立性は尊重しているが、その血が混じるだけで、化け物や汚物を見るような目で、私を見るのだ。自分達と同じ存在であるはずの、両親も、その対象だった。
 私は、両親のことが大好きだし、産んでくれたことに感謝している。だから、自分から死を選ぶことはない。両親は、「それでもいい」と思って私を産んでくれた。生きるための全てを授けてくれた。そんな両親のことを誇りに思う。恨んだことは、ない。
 でも、違うことは事実だから。私のような存在は、全空を捜してもどこにもいないかもしれないから。だから、日頃の鬱憤を晴らすちょうどいい道具として、私はここで生きるのだ。ストレスを晴らすことで円滑な生活を送るために。自分が優越感に浸ることで、活力を得るために。そのためだけに、私はボロ雑巾のように傷付いていく。
 それが存在意義だと、誰かが言ったから。危害を加え続けられる限り生きていろ、と私を虐める誰かが言ったから。
 でも、私という存在が特異すぎるから。彼らの言っていることは、どれも嘘ではなかったから。だから、私は現状から抜け出せない。
 未来は決まっている。私は、永遠にこの街で全ての住民の嫌がらせを受けて、彼らが不満なく生きるための道具となる。穢れた存在には、似合いの末路だと、誰かが言っていた。
「自分達と違う存在を貶めて、力があると錯覚しているだけだと両親は言っていました。……この街の人達は、優越感に浸りたいだけの弱い人だと。そんな人達を相手にする価値はないと、言われていました。剣を抜かない限り、私の心は誰よりも強いのだから、それを誇りなさいと」
 どれほど傷付けれても、真に大切なのは心の強さだと、言われていた。私は、その教えを守るために、剣を抜かない。同じ次元になれば、私を誇ってくれた両親の顔に泥を塗ってしまうような気がした。それだけは、許されない。
「おい」
 身を屈めてくれていたドラフの男性が立ち上がりざま、後ろに控えていた人の内一人を呼んだ。その男性はすぐにドラフの男性の下へと駆け寄ってくる。
「ヴァルフリートに話を通せ。こいつに、居場所を与えろ」
「わ、分かりました!」
 男性はすぐにその場を後にした。彼を邪魔しないようにするためか、他の人達が脇に避けて道を作り上げていた。
 その男性を見送った後、ドラフの男性は再びしゃがみこんで私に目線を合わせた。
「お前の剣の腕はたしかだ。それで、その心の在り方も、オレ様は嫌いじゃねぇ」
「はぁ」
 心の在り方、というのはピンとこない。剣を抜かないという心情を指してのことだろうか。戦士でない者に抜く必要はない、というのは、もしかしたら彼には理解できるものかもしれない。同じ、戦士として。
「けどな。こうして毎日毎日街で騒ぎを起こされるのは迷惑なんだ。分かるか?」
「……はい」
 それは、分かる。この街の住民は全ての人が同じように私を虐めてくるが、秩序の騎空団の人達は違う。彼らは、この街に生きる人であるかもしれないが、もっと大きな括りの人間で、アマルティアの街の住民、とはまた違う。住民とは違う思想を持っている彼らからすれば、私への暴行は騒音騒ぎにも近しい迷惑行為に見えるのであろう。
「お前が悪くないのは分かった。悪いのは、お前を取り巻く環境だってな。気にすることはない」
「でも……、私が、生きているから」
「生きてるだけで暴行を受けるのは、街の方に問題があるんだよ。こんなところで騒がしくするくらいなら、オレ様と来い」
「え、でも……」
「言っただろ、迷惑だって」
 毎日毎日街で騒ぎを起こされる方が迷惑。たしかに、この人はそう言った。
 私が生きているだけで、迷惑する人が、住民以外にもいる。それは、少し、ショックだった。けれど、それはきっと正しいから何も言い返せない。自然と、顔が俯いた。
「だから、お前が本当に迷惑な存在なのかどうか、環境を変えて証明すんだよ」
 私を取り巻く環境が悪いから、誰かが迷惑する。それならば、たしかに環境を変えてみれば一定の改善は見られるかもしれない。
 けれどそれは、仮定の話。何もできない私が、誰にも迷惑を掛けないなどと、そんな都合のいい話、本当にあるのだろうか。
 存在自体をずっと否定されてきた私からしてみれば、ドラフの男性の言葉は、全然信じられなかった。
「お前、名は」
「メイリエです」
「よし、そうと決まれば本部に行くぞ、メイリエ」
 言うが早いか、彼は私の手を取って歩き始めた。恐らく加減されてはいるのだろうが、手首を掴まれている大きな手は、手錠か何かのように私の手をしっかりと握って離さない。片手が使えないのでは、どう足掻いてもこの人からは逃げられない。このまま、秩序の騎空団の本部とやらまで連れて行かれるのだろう。
 彼を先頭に、後ろには他の団員達も付いてきている。やはり、どうやってもこの人達からは逃げられない。
「あの!」
「なんだ。行きませんってのは聞かねぇぞ。お前に拒否権はねぇよ。ともかく一度来てもらう。話はそっからだ。ここじゃ落ち着いて詳しい話もできねぇ」
 これだけがっしりと手首を掴まれていては、拒否権がないことは嫌でも分かる。
 だが、私が訊きたいのはそんなことではない。置いていかれないよう必死に足を動かしながら、こちらを見るその顔を見上げる。
「あ、あなたの名前は……?」
「なんだ、そんなことか」
 私にとっては、大きな問題なのに、彼にとっては些細なことらしい。いくらこの街に住んでいるからといっても、騎空団の団員の名前など、私は知らない。自分に、縁がなかったから。
 けれど、彼らと関わりを持つ以上、せめてそのリーダー格の彼の名前くらいは知っておく必要があると思った。名前は、何かと便利だとよく聞くから。
 そんな私の胸中など知らず。彼は淡々と言葉を紡いだ。
「ガンダルヴァ」
 名乗って、立ち止まった。彼よりも一歩進んだところで手首に負荷がかかり、私も足を止めて、彼の方を振り返った。
 私よりも遥かに背の高い男は、私を見据えて堂々と名乗りを上げた。
「秩序の騎空団、第七騎空艇団船団長、ガンダルヴァだ」
 彼の名を、私は口の中で反駁する。
 ガンダルヴァ。私を、鬱屈とした感情が渦巻くこの場所で見つけ出し、連れ出させた男の名前。

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