初めての親切心(9)


「ん……」
 ぼんやりする頭で身を起こすと、部屋は思ったよりも明るかった。片腕で体を支えながら空いている手で目元を擦ってから、ベッドの上に座り直す。すると、はらりと体の上から何かが滑り落ちた。
「あれ……」
 目を落とせば毛布の端が目に入る。力尽きるようにして寝てしまったはずだから、当然毛布なんて被っていなかったはずだ。というか、この部屋に毛布なんてなかったと思うのだけど。
 どうにもおかしい。夕方に部屋に戻ってきて寝ていたのだから、部屋はもう真っ暗でなければいけないはずなのに明るいし。まさか朝になった、と考えるも、目の前にある窓から陽の光は入ってきていない。
 そうなれば考えられるのは一つだけ。心臓の鼓動が速くなっていく。呼吸も浅くなる。頭から血の気が引いていく。
 身を起こして何秒経った。いや、もう一分は経っている。もしもここに誰かがいるのなら私が振り返った瞬間に暴力が飛んでくるだろう。いなかった場合は荒れ果てた部屋が視界に飛び込んでくるはずだ。何が待っている。この秩序の騎空団の庁舎の中で、私に与えられていた穏やかな時間はもう終わった。その現実を受け入れなければいけない。
 やっぱり私は、本当は生きていたらいけないのかもしれない。誰かと過ごすなんてそんな夢物語、叶うはずがないのだ。生きるなら、街でボロ雑巾のように生きるしかないのだ。
 両手をぎゅっと握りしめて、ゆっくりと振り返る。私に害を為そうとする人がここにいて暴力を振るわれて街に連れ戻されるか、それとも全てを破り捨てられているか。
 ひどくゆっくりとした動作で振り返って視界に入った部屋は、荒れ果てているなんてことはなかった。そして、ベッドの傍に誰かがいることもなく。ただ、私の部屋には似合わない大きな体の男性が一人、目を閉じて床に座り込んでいるだけだった。
「ガンダルヴァ、さん……?」
 名前を声に出すと、情けないほど声が震えていた。いつこんな状況になってもおかしくはないって分かっていたはずなのに。そして、私を助けてくれたこの人があの時みたいに暴力を振るってくることもあるかもしれないって、少しは考えていたはずなのに。
 いざ直面すると、こんなにも苦しくなるなんて。
「……ん? ……あぁ、起きたか」
 のっそりと立ち上がったガンダルヴァさんはゆっくりとした足取りで私の近くに立った。
「不用心」
「え?」
「だから、不用心だって言ってんだ。寝るなら鍵掛けてから寝ろ」
「ぁ……」
 見上げた先では顔を顰めて私を諭すように声を掛けるガンダルヴァさん。その拳が力強く握られる気配はなく、それ以上の言葉が掛けられる様子もなかった。私が部屋に戻ってきてすぐ、鍵も掛けずに力尽きて寝てしまったことを咎める以外には何かを言う様子もない。
「すみません、その通りです……」
 目を伏せて謝罪の言葉を口にする。次に何をされるか分からなくて、ガンダルヴァさんを見れない。
「分かりゃいい。……ま、オレ様が番してるのも、悪かねぇが」
「……番、ですか」
「あぁ。飯に呼びに来たらベッドに突っ伏してるお前を発見してな。そのまま引き返して鍵の開いている部屋に入られてお前に乱暴を働かれるのも目覚めが悪ぃからな。見張ってたわけだ」
「乱暴?」
 その言葉が引っ掛かってもう一度顔を上げると、ガンダルヴァさんがまた顔を顰めた。
「……お前な、分かってんだろ? オレ様と一緒に寝る前は遠慮したんだから」
 分かるとは、何のことだろう。一緒に寝る時は遠慮したというのは言葉通りの意味だとして。それと、鍵の掛かっていない部屋に侵入することに、何の関係があるのだろう。
 乱暴というのは、それこそ私が街で受けていた暴行のことだと思うのだが、それがどうしてガンダルヴァさんと一緒に寝たという出来事と結びつくのか。あの時はたしか、何かあっても守ってやれる一番安全な方法だと言われたが、でもそれは最初から隣に居ることが前提の話だ。侵入してきて乱暴を働くというのとは、意味が違うはず。
 何も言わずにただただ首を傾げているだけの私に呆れたのか、ガンダルヴァさんはわざとらしく溜息を吐いた。
「意味が分かってねぇのはよく分かった。お前がオレ様を見て怯えてんのもな」
 ガンダルヴァさんは私の体から滑り落ちた毛布を取り上げて雑に畳みながら口を開く。
「まず一つ。前にも言ったが、ここは秩序の騎空団だ。街でお前を虐げてた奴らがここまで来るなんてことは絶対にねぇし、ここの奴らはお前に好意的だ。お前がここで暴行を受けることはねぇよ」
 ガンダルヴァさんと目が合った時から既に私が怯えていたことは見抜かれていたらしい。私は無表情であることが多いから、表情が少しでも違うとすぐに分かると言ったのはガンダルヴァさんだ。だから、怯えていることなんて、深く考えなくても分かってしまうのだろう。その理由も。
「そこは安心しろ。不安になるのは分かるけどな。それからオレ様はお前には暴力を振るわねぇ。絶対に、だ。それだけは信用しろ」
「……はい」
「まぁ、すぐに、と言うつもりはねぇよ。難しいのは分かってる。けど、毎度毎度怯えられるのも堪えるってことだけは覚えておけ」
 ガンダルヴァさんの言うことはもっともだ。会う度にそんな顔をされたら、私だったらもう会わない方がいいかもしれないと思って逃げてしまう。それが相手にとって一番嫌なことだと分かっていても、だ。自分のことより相手を大事にしなければいけない理由なんてどこにもない。自分の心を守るために何もせずに離れることは、きっと悪くない。相手を傷つけるようなことを言っているのでもないし、暴力を振るっているのでもないのだから。自分も相手も傷付くのなら、せめて自分が傷付かない方法を模索するのは当たり前のことだろう。
「それからもう一つ。こっちが今お前に教えておかなきゃいけねぇことだが」
 ガンダルヴァさんがベッドに片手を突いて身を乗り出した。
「いいか、何も空き巣や暴行だけが危険なことじゃねぇんだからな」
 次の瞬間、肩を強く押されて私はベッドの上に逆戻りする。先程と違うのは、今度は仰向けで寝かせられたこと。
「え」
 だが、驚くのはそれで終わらなかった。ぎしりとベッドが軋んだ音を立てると同時に、私の顔の両側にガンダルヴァさんの大きな手が置かれる。手から正面へ目を移せば、天井を遮るようにガンダルヴァさんの顔がそこにある。
「ドラフの女は小柄だ。それは、ヒューマンとのハーフであるお前も例外じゃねぇ」
 言葉と共にガンダルヴァさんが私の方へと近付いてくる。いつの間にか、ガンダルヴァさんを支えていたのは手ではなく肘から先になっていて、その分だけ私と彼の距離が縮まっていた。私の爪先はせいぜいがガンダルヴァさんの腰より少し下くらいまでしかないらしい。脚を動かしても、ガンダルヴァさんの体を支えている膝から下の部分に当たるだけで、完全にガンダルヴァさんに覆われたことを理解した。
 一緒に寝た時とは全然違う。上から見下ろされるのは少しの恐怖を私に与えるのには十分すぎた。何か言おうとしても、唇が震えるだけで何も言えない。
「ヒューマンやエルーンの小柄な男でさえお前を囲うには事足りる。オレ様みてぇなドラフの男なら、もっと簡単だ。……こうしてやるとな」
 その声と共に、ガンダルヴァさんの右手が行先を無くしていた私の腕を柔らかく掴んで私の頭の上に動かした。体を動かせない私の腕を動かすのは簡単だとばかりに、私の両腕を頭のすぐ腕で交差させると、その大きな手で私の両手首をゆっくりと押さえつけた。
「逃げられねぇだろ?」
 口の端を上げて笑ったガンダルヴァさんの言葉を否定したくて腕を動かそうとするけれど、びくりともしなかった。その手に力が入っている感じはしない。ただ上から押さえつけられているだけだ、痛くも何ともない。なのに、全く動かない。彼は片手で、私は両手なのに。
「え……な、なんで……!?」
 困惑と共に必死に手を動かそうとしても、やっぱり動かない。目の前のガンダルヴァさんは、表情一つ変える気配すらない。
「動かせねぇだろ。なぁ、そっから、どんな抵抗ができる?」
 手が動かないなら脚を動かすしかない。そう思って脚を動かしてみても、ガンダルヴァさんの両膝が脚の間に入り込んできただけで蹴っても当たることがなくなってしまう。じゃあ、と膝を立ててみても私の膝がガンダルヴァさんのお腹に当たると、そこに体重を掛けられてしまい動かすことができなくなってしまう。文字通り手も足も出ない状況にさせられると、ガンダルヴァさんは不敵に笑う。
「どうだ? このまま何もできずに乱暴されて処女散らすか?」
「……処女……?」
 言葉の意味が分からずに問い返すと、ガンダルヴァさんは一瞬だけ目を見開き、すぐに溜息を吐いた。
「……ま、乱暴の意味が分からねぇんだから、そこからだよな」
 どうすべきか、とでもいうように視線を彷徨わせたが、その瞳はすぐにまた私を射抜いた。
「その内きちんと教えてやるが、まぁ、こういうことをされるって覚えとけ」
 その顔がそのまま私に近付いてくる。何をされるかも分からず、ぎゅっと目を閉じると、不意に首筋にべろりとした感触がした。それと同時にぞわぞわとしたものが背中を駆け上がるようだった。それは、一度だけではなく、二度、三度と往復する。何をされているのか、と恐る恐る目を開けても、私から見えるのはガンダルヴァさんの頭だけで、その顔が見えることはなかった。ただ、そのべろりとした感触と共にその頭が微かに動いていることは分かり――そして、今私が何をされているのか、感覚的に理解した。
「ひっ」
 引き攣ったような声を上げてもそれが止むことはない。舐められる度に駆け上がる何かが無意識に体を動かそうとしているみたいだが、完璧に抑え込まれてしまっている状態で何の抵抗もできなかった。
 そのままされるがまましばらくその感触に耐えていると、ガンダルヴァさんが顔を上げる。
「これで怖がってるようじゃ、本当に乱暴された時なんかどうすんだ」
「だ、だって……」
 初めてのことに対処する方法なんか、耐える以外に知らない。ただ耐えて、終わるのを待つだけ。それ以外に、何があるというのだろう。
「暴力を振るわれるのと同じくらい耐え難いことだぞ。取り返しがつかないことになるかもしれねぇ。もしもこんな風にされたら全力で抵抗して逃げろ。事によっては、暴力を振るわれた方がマシだって思うかもしれねぇぞ」
「暴力の方が、マシ……?」
「あぁ。そうならねぇためにも、ああやって無防備に寝る時はきちんと鍵を掛けろ。そうすりゃ、乱暴される確率は減るからな」
 ガンダルヴァさんは自分の服の袖口を私の首元に当てて乱暴に拭った。今自分で舐めたところを拭いてくれるみたいだ。
「どこの街でもそうだし、ここでもそうだ。いいか、メイリエ」
 首を拭き終わったガンダルヴァさんは身を起こしてから私の手を取った後引っ張り、背中に手を添えて上体を起こしてくれた。
「男は狼だ。たとえ仲が良い奴であろうが、絶対に油断はするな。今言った通りだが、お前のようなドラフの女は小柄な男でもさっきみたいに十分身動きを完全に封じることができるんだからな。忘れるな」
「は、はい」
 その油断とは一体何を指しての油断なのか私には全然分からないが、忠告であることには変わりないので頷いておく。何かあった時困るのはガンダルヴァさんではない。私だ。
「特に歳の近い奴は良い顔してお前に近付く可能性が高い。油断はするな。特に酒に酔った奴は何をしてくるか分からねぇ。絶対に部屋に入れるなよ。それから、そういった奴の部屋に行くのも禁止だ。酔ってない時に行くのは許可するが、十分に警戒しろ。何かされて後悔してもオレ様は知らねぇぞ」
「えっと、その……」
「何だ?」
 忠告を聞いて気になったことはあるものの、それを口に出していいものか悩んだ。けれど、そんな迷いはすぐに見抜かれてしまったようで、ガンダルヴァさんは先を促してくる。
 言っていいものかどうか。けれど、言わなければ困ることもあるだろうし、何よりも私が今一番信頼しているのはガンダルヴァさんだ。今の話を聞いている限りでは、ガンダルヴァさんに一番注意しろという風に聞こえてしまうのだが、はたしてそれはいいのだろうか。
「あの、……ガンダルヴァさんは、どう、なんですか……?」
「オレ様?」
 少し低そうにベッドに腰掛けたガンダルヴァさんは、呆けたような顔をしてから、私の顔をじっと見始めた。急に言葉もなく見つめられるのは居心地が悪いが、そんな時間も、そう長くは続かなかった。
「ハッ、お前はまだ早ぇよ」
 ニィッと笑ったガンダルヴァさんは、私から視線を外した。
「未成年に手を出す趣味はオレ様にはねぇよ。そこまで飢えてるわけでもねぇしな」
 飢えてる。それが、単に食欲を満たす言葉ではないことは分かるが、具体的に何、と言われるとよく分からない。話の流れからして、乱暴されるかどうか、ということになるのだが、でもそれだと、私に危害を加えてくるような人達は『飢えている』ことになるのだが、そういう理解でいいのだろうか。
「分からないなら分からないでもいい。ただ、警戒はしておけ。オレ様に対しては、そうだな。お前が酒を嗜む年齢になったら……同じように警戒することだな。その時は、オレ様も手を出すかもしれねぇ」
 言ったことの意味を理解していないということはガンダルヴァさんも見抜いているらしい。だが、理解をする必要はないようで、とにかく警戒を、と繰り返された。それに、今の時点ならガンダルヴァさんには警戒をしなくてもいいともいう。
 ……困ったら、助けを求めればいい、ってことだよね。
 難しいことを全部省くとそういう理解になるが、それでいいのだろう。甘えろ、とはもうずっと言われていることでもある。他の誰かを頼って結局私自身が『乱暴』されたら意味がないというのなら、ガンダルヴァさんを頼っていればまず間違いはないだろう。
「お前は誰かに親切にされるって経験がほとんどないから、特に騙されやすそうだからな。あんまり隙見せねぇ方が身のためだぞ」
「はぁ……、気を付けます」
「……本当に大丈夫なのか、お前は」
 心配そうにこちらを見つめられるのだが、ここで大丈夫じゃないと言ってもどうにかできるわけでもないので、ひとまず頷いておく。要は、ガンダルヴァさん以外の人には一定の警戒心を抱いておけという話だ。裏を返せば、ガンダルヴァさんと一緒に居れば何とかなるという話でもある。
「まぁいいか。とりあえず飯にするぞ。何か食わねぇと倒れちまいそうだからな」
「いえ、ちゃんと食べているので……」
「食わねぇと体力がつかねぇだろ」
 ガンダルヴァさんがベッドから立ち上がって私に手を差し出したので、それをゆっくりと取った。ガンダルヴァさんならば、手を振り上げない限りは、怯えずに自分から手を差し出せるようになった気がする。いや、他の人が私に手を差し出すことなんてないから、もしかしたら他の人でもできるのかもしれないけれど。
 でも、私を助けてくれた人だからか、他の人よりも心を許しているな、とは自分でも感じている。だから、何か提案されたり手を出されたりしてもあまり怖くならないのだと思う。
 けれど、それ以上に、私が知らないたくさんの温かな時間を与えてくれたことが、ガンダルヴァさんに対する安心感に繋がっているのかもしれない。それは、私にとっては初めてのことで、少し不思議な感じはするけれど。でも、もっと触れたいと思うことは間違いない。
 先に部屋を出て廊下で待っていてくれたガンダルヴァさんは、私が部屋の鍵を閉めたことを確認すると、黙って私の手首を掴んで歩き出した。その掴まれた手の温度は、もう私にしっかりと馴染んでいて、生活の一部になっているようで。
 私を逃がさないための手ではなく、私を安心させるためのその大きな手は、もう私にはなくてはならないもののような気がした。

prev top next

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -