初めての親切心(8)


 部屋に戻り机の上にテキストをまとめて置いた後、私はベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めたまま深呼吸をすると、どうしてだか落ち着いて、そのまま目を閉じる。
 ほとんど一日中椅子に座って文字と向かい合ったり、講師役を務めてくれる団員の人と話をするだけだというのに、どうにも疲労が溜まる。広い庁舎を歩き回っているとはいっても、それだって大した運動量になっているわけではない。殴られたりしているわけでもないのにどうしてこんなに疲れるのか。今はこんなにも、楽をさせてもらっているのに。
 ご飯を食べている時にそんなことを相談したら、初めてのことばかりだからだよ、とは言われたものの、初めて尽くしと言えばここに連れてこられた直後もその状況に当てはまるのに、あの時よりも疲労が溜まっているようにも思う。もっとゆっくりお風呂に入ったら、とも言われたけれど、こんな傷痕だらけの体を見られたくなくて、ゆっくりお風呂になんて入っていられない。
 ……あぁ、綺麗な肌って、顔だけの話じゃないんだ。
 先程の主任さんとの会話を思い出して今頃納得する。てっきり顔の肌がどうのという話だと思ったのだが、全身の話だったか。努力といえば顔だとこれまでの会話の中で学んでいたのだけど、あの時は背中を診てもらった後なのだから、それ以外の可能性に思い至るべきだった。
 男性に体を見られることはないけれど、女性には毎日のように体を見られる。誰も私の体のことなんか触れないけれど、心の中では何を思っているのかなんて分からない。声に出していないだけで、汚い女だと思われているのかもしれないと思うと、怖くなる。だから、できるだけ早く、頭と体をきちんと洗ったら、逃げるように浴室を出るようにして、脱衣室で一緒にお風呂に行っている団員の人を待つようにしていた。
 温かなお湯に浸かれば疲れは取れるっていうけれど、私には無理だ。そんな勇気は、とても。
 そんな私に残されている疲れを取る方法はひたすら眠ることだけだ。早めに寝て、ゆっくり起きる。疲れが残っている気はするけれど、それ以外にどうすればいいのか、分からない。今までだって、そうやって疲れを取っていたのだし。
 ただ、勉強を始めてからは、出された課題をこなさなければならなかったりして、早く寝ることができないこともある。分からないものは分からないという諦めも必要だとは言われたけど、でも私は諦めきれなかった。だって、自分で考えなければ、自分の力にはならない。
 ……もっと、頑張らないと。
 力が、欲しい。ありとあらゆる力が。
――力こそが、世界の真理だ。
 ガンダルヴァさんが言ったことが、頭から離れない。シンプルな言葉だった、けれど、心の奥深くまで刺さった言葉は、私の中でたしかに生き続けている。
――力さえあれば何でも守れるんだよ。
 ガンダルヴァさんの強さを見せつけられた後に言われたそれは、たしかな説得力を持っていて。だからこそ、あの時に、もしも、と考えた。
 もしも私に力があったなら、誰にも迷惑を掛けずに生きることができるのだろうか、と。
 アマルティアの街の住民にも、秩序の騎空団の人達にも迷惑を掛けずに、たった一人で生きることができないか、と。
 剣の腕があれば、魔物が倒せる。魔物が倒せれば、そうした依頼を受けることができる。そして依頼を無事に終えることができれば、お金を受け取ることができる。お金さえあれば、どこにいたって生きることができる。
 どこかでずっと生きることになれば、きっとアマルティアの街で暮らしていた時と同じようになってしまう。だから、一ヶ所で生きることは諦めて、その日暮らしをするしかなくなるだろうけれど。でも、それならば、きっと。私は暴力を振るわれることも、暴言を吐かれることもないだろうし、私に関わる人もこんな穢れた存在を長く見続けることはない。
 私がこれから生きることを考えれば、きっとそれが、誰にとっても一番幸せなことなんだろう。いずれ、お世話になったここを出ることになるとしても。
 ……ここの人達だって、いつまでよくしてくれるか、分からない。
 今は皆笑顔で私と話をしてくれるし良くしてくれるけれど、それもいつまで続くか分からない。もしも秩序の騎空団に何かあれば、そしてそれが私がここに来た時から続いていた良くないことであれば、私のせいだと思われるのは当たり前のこと。親切なんてものは、一瞬でなかったことにされるって、私はもう、よく知っている。
――お前なんか助けるんじゃなかったな。
「……ぅ」
 かつて言われた言葉と共に振るわれた暴力のことを思い出して、枕に強く顔を押し付けた。強く目を閉じて、歯を食い縛って、どうにか涙を堪えようとしても、溢れてくるものは止められない。
 ……いや、だ。
 あの時みたいに、そんなことを言われたら。微かに抱いた親近感をなかったことにされてしまったら。もう一度ボロボロにされてしまったら、今度こそ、どう生きればいいのか分からない。
 もう街に戻ることもできなくなり、逃げ出したところで頼ることができる人もいない。ここの人達に裏切られてしまったら、今度こそ、生きなければいけない、という意志さえ粉々に砕けてしまう。
 手を掴んで引っ張ってくれる温もりを知ってしまった。笑顔を向けてくれる温かさだって。優しい声が掛けられる当たり前の時間は、もうそれがなかった時へは戻してくれない。何よりも、誰もが皆、私を穢れた子ではなく『私』として見てくれている。メイリエという人間として扱ってくれて、暴力も暴言も与えられない、穏やかな時間を過ごさせてくれる。
 もう、それらがない頃には戻れない。もう一度、この街で暮らすことなんてきっとできないし、ここで同じような目に遭ってしまったら耐えるという選択をすることはできそうにもない。
 だから、逃げ出せるだけの力が欲しい。正式に退団をすることができなかったら、今仲良くしてくれている団員とも戦わなければならないかもしれない。そのための力を、身に付けたい。剣の腕も、それから、生きるための知識も。魔物退治以外のことをやれた方が、きっと、生きていきやすいはずだから。
 ……でも、できるなら。
 いつも私の手を掴んで歩く、大きな背を思い出す。面倒臭がりだと言われていて、それなのに、私のことを気に掛けてくれる人。私の、世界を変えてくれた人。
 せっかく、あれこれと教えてくれているのだから、できることなら役に立ちたいって思う。私に、普通に生きることができる場所を用意してくれたガンダルヴァさんの役に立ちたい。強くなって、いろいろなことを覚えて、そうしたらきっと、ここで生きていてもいいんだって、思えるはずだから。
「テキスト……進めなきゃ……」
 役に立ちたいのなら、今私がするべきなのは、こうしてベッドに倒れ込んで泣いている場合じゃなくて、出された課題を終わらせてしまうことだ。剣を握ることはできなくても、勉強をすることはできる。知識もまた、力なのだから。
 だから、頑張ってたくさん勉強して、膨大な量の知識を頭に詰め込んで、自分で使いこなせるようにしなければ。そうしないと、きっと、勉強している意味が、ない。
「……ねむい、な……」
 腕を突いて上半身を起こしたけれど、すぐにベッドに沈んでしまう。体が重くて、思考もぼんやりする。横になったせいで、薄らと感じていた眠気が強くなったらしい。
 枕に顔を当てているせいで、視界も暗い。大きな欠伸を一つした後、何も考えられなくなった。

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