初めての親切心(6)


「メイリエちゃんは飲み込み早いね」
 その言葉に顔を上げると、私に勉強を教えてくれている女性団員は笑顔を向けてくれた。それはまたすぐに手元のテキストへと落とされて、持っている赤いインクのペンで印を書き込んでいく。
「そう、ですか……?」
 どう返せばいいか分からずに曖昧な返事をすると、女性団員はまた頷いた。
「うん。日に日に正解の数が多くなってるよ。私が教えてるもの以外もやってるんでしょう?」
「はい。朝から夕方まで、休憩込みですけど……、一日三科目くらいは」
「私もそうだし、多分他の人も言われてるけど、課題出すようにしてるから、毎日これだけやっててこんがらないんだから凄いよ」
 出発の延期が決まった翌日から、ガンダルヴァさんが言っていた通り私には代わる代わる人が付いていろいろな話をするようになった。その主な目的は、やはりガンダルヴァさんが言っていた通り、勉強することであったが、勉強以外にもたくさんの話をするようになった。例えば、そう。ガンダルヴァさんと一緒に他空域から来たこの女性は、ガンダルヴァさんの話をしてくれることが多い。ちなみに、教えてくれているのは、騎空士としての基礎知識――各種武器の取り扱い方や属性力の引き出し方、魔法の基礎的な知識など――だ。
 実践指導は彼女以外の人がやってくれると聞いているが、しばらくの間は知識を増やすことを重点的にしていくらしい。なんでも、知っていることが増えればやれることも増えるから、だそうだが、騎空士というのはそんなに多くの知識が必要なのだろうか。
「……その、皆さんが来る前に簡単に確認していますから……。実際に課題をやると、分からないことも多くて」
「そう? でも結構いい線いってると思うけどなぁ」
 女性はペンを動かし、ページをめくり、そして言葉も発していく。前々から思っていたが、随分と器用な人だ。初めて会った時は、なんだか凄く、強引だったような気もしないでもないけれど。でも、私はこの人のことは好き、だと思う。何かあれば真っ先に声を掛けてくれるし、女性同士ということもあってか、先回りしていろいろと気を利かせてくれる。長い間忘れていた日常会話というものを思い出させてくれたのはこの人だし、それに、この人のおかげで、少し、笑えるようになったんだと思う。
 悔しさや悲しみや諦めといったようなものしかなかった私の生活の中に、楽しさや喜びといったものをたくさん教えてくれた。おかげで、何気ない一日というものが少しだけ楽しく感じられるようになったとも思う。元々の出発の日まではやらなくてはいけないことが多くて、それをどうにかするために必死だったけど、今は私のできる範囲で私のできることをやっているからか、随分と余裕がある。与えられた課題に向き合う時間も、いろんな人と交わす会話の中で気付いたことを考える時間も。分からないことを訊けば答えが返ってくるというのは、私にとっては何だか素晴らしいことのように感じられた。
 他の人と同じように過ごすことがどれだけできているかは分からないけれど、でも変に注目されることもない今、恐らくはそれなりにこの生活の中に溶け込めているのだと思う。挨拶も、今は自分からすることができるようになった。街に居た頃はそうした言葉を発することを許されなかったし、ここに来てからしばらくの間も、私が挨拶を返すばかりだった。自分から「おはようございます」と初めて言った時、ガンダルヴァさんは少しばかり目を白黒させた後に「成長だな」と言ってくれた。そういえば、「おやすみなさい」と自分から別れを告げる言葉を言えていたのに、会った時の挨拶というのはできなかったな、とその時初めて思い返した。
「はいこれ。さっきの分」
 両手でテキストを差し出されたので、同じように私も両手でそれを受け取る。恐る恐るページを開くと、赤いインクで答え合わせがされていて、マルとバツが至る所に付いている状態だった。三十分ほどで学んだことに対する理解度を見るためのそれは、私だけでなく、教えてくれる人の技量を試す場であるらしい。正答率が高くないとガンダルヴァさんに「教え方が悪いんじゃねぇのか」と先生を務めてくれる団員が小言を言われるそうだ。実際、初めの頃は何人かいたし、私も何度か見掛けている。
 ぺらぺらとページをめくると、分からなかったものにはやっぱりバツが付いていたり、分かっていたつもりなのにバツが付いていたりと様々だ。
 ……七割くらい?
 全てを見返して、もう一度。やっぱり、半分よりは多いってくらいだろうか。
 何日かこうして勉強を教えてもらうと、見えてくるものはある。例えば、この科目の中でも特に苦手な物があるとか。この科目は特に苦じゃないとか。この人に教えてもらっているところでいえば、属性力や魔法の基礎知識は苦手な方だ。自分で使っていないし、見たこともないから、実感として入ってこない。各属性の相互関係くらいまでなら何とか理解できたが、それ以上となるとさっぱりだ。
「どう? 何か分からないことってある?」
「……武器の属性の引き出し方の記述ですけど、やっぱり、自分でやっていないからか、言葉にするのが難しいです」
「あー……。うん、そうだよねぇ。普通の人……っていうか、武器を扱う大体の人は感覚で扱ってたり仕組みを理解した上で使っていたりするんだけど、メイリエちゃんは教えてもらわなかったんだよね」
「父からは、聞いたことがないです」
 属性とは、武器などに宿っている不思議な力のことで、魔力とは似て非なるものらしい。魔法を扱うためには生まれつきの才能が必要だったりするらしいが、この属性力を扱うことは魔法とは全く違う原理らしい。魔法は、魔力を通じて何もないところから何かを生み出すものであるが、属性力は武器を介して炎を纏わせたり冷気を放ったりすることができるようになるらしい。属性力を上手に引き出すことができれば、魔法にも劣らないことをやってのけることができるらしいが、残念ながら私は属性力の引き出し方からまず分からない。
 だからこうして理論立てたものを教えてもらっているわけだけど、見ているだけではやはり分からないというか。分かったような気になっても、その『分かった』がすり抜けてしまうように思うのだ。
 私の剣の技術の基礎を形作ってくれたのは元騎空士だった父だが、その父から属性の力という言葉は一度も出なかった。剣の持ち方、振り方、身の動かし方、小手先の技術などは教えてもらったが、そうした特殊なことは何も聞いていない。
「得手不得手があるから、お父さんは苦手だったのかもね。感覚的に引き出す人もいるっていうし、その時になってからどうにかしようって考えたのかも」
 女性の言葉には、なるほど、と頷く。何度か街の近くの魔物を狩りに行ったことはあるが、父は私に教えた通りのことはしても、特別なことはしなかった。それは教えなかったわけでも、見せたくなかったわけでもなく、ただ単純に、父自身が使えなかったのだ。そして、父は無くなり、私は実践で剣を振ることもなくなってしまったから、こうして何も知らないままここまで来てしまったというわけだ。
「……でも困ったなぁ。メイリエちゃんの実践、ガンダルヴァ船団長が見るって言ってるからなぁ」
「ガンダルヴァさんが、ですか?」
「うん。あんまりないことなんだけどね。メイリエちゃんのこと、結構気に入ってるのかな」
「はぁ……。気に入ってる、ですか」
 私からしてみれば、気に入っているというよりも、義務感で接してもらっている、というように感じることも多いのだけど。手を繋いでくれるのも、声を掛けてくれるのも、上官だからということ、それから、私の保護者であるということからくる義務感だと思っている。「守ってやる」という言葉を責任を持って守ってくれているだけ、というか。だから、気に入っているとは違うと思っている。
 実際、ガンダルヴァさんとその部下の人達を見ていると私と話す時よりも余程冗談を交わしているようにも思える。私とガンダルヴァさんの会話は、そんな軽々しい空気はない。あるのは、私を気に掛けているという思いと、どうしてそんなことを言うんだという呆れといった思いだろう。
「そうだよ。船団長が自分から稽古を付けるから手を出すなって言うこと、ほとんどないし。だから私としては教えてあげられないのがもどかしいんだけど……」
 しかし、彼女からしてみれば、普段言わないことを言うというその一点が、私を気に入っている証拠になるらしい。とはいえ、その口ぶりから察するに、彼女自身も気に入っていると確信はできないのだろう。私も同じではあるけれど。ガンダルヴァさんは、そういったことを口には一度もしていないし。
「船団長、属性力に一切頼らないから、メイリエちゃんにもそういうこと教えないだろうし」
「……そう、なんですか?」
「あ、そっか。ちゃんと見たことないんだよね。船団長、いろいろとこだわりを持ってる人でね。その内の一つが属性に頼らないことなんだよね。自分の不利も力技でどうにかしちゃう人なんだよね」
「使えない、ということではなく、ですか」
「使えると思うよ。絶対に使わないだけで」
「はぁ……」
 使えるのに使わない。それは一体どういうことなのだろう。
 使える手は何でも使いそうだと思っていただけに、少し意外だった。私を強引に連れ出すような人だから、自分の利益になるようなことは全て利用すると思っていたのに。
「まぁ、うん。その内分かるよ。もしかしたら教えてもらえるかもしれないけど」
「それは、私を気に入ってるから、ですか」
「……ちょっと違うかも」
 少し考えてから応えられた言葉に、私は首を傾げた。気に入っている理由があるから実践指導を自分ですると言っている。なのに、ガンダルヴァさんの口から直接教えてもらえるかもしれない理由は気に入っているのとは少し違う理由だという。似ているようで似ていないその言葉が、よく分からなくなってきた。
「もしかしたら、ここを出るまでに分かるかもしれないけど、ガンダルヴァ船団長とヴァルフリート団長、あんまり相性良くないんだよ。それでまぁ、ヴァルフリート団長が船団長に何かいろいろ言ってるらしくて、その愚痴なんかも聞かされるわけだけど……」
 そこで言葉を切った彼女は私を見てから視線を泳がせた。何か、あるのだろうか。
「……メイリエちゃんすら利用したんだよね……、船団長」
「私を、ですか」
「そう」
 はぁーっと息を吐いた後彼女は手を組んでぐっと上に腕を伸ばした。
「まぁ、それでもやっぱり自分から面倒見るって言うなんて私達としては全然信じられないことだから、気に入ってるんじゃないかなーっては皆で言ってるよ。だから、メイリエちゃんには悪いけど、私達もメイリエちゃんを利用させてもらおうって話で、今回皆で勉強会をさせてもらうことになって」
 体を伸ばし終わり手を離した彼女は、またペンを握って白紙に何かを書き出していく。
「どうせ何もさせてあげられないならいろいろ教えてもいいですよね、ってもっともらしい理由を付けてこうしてメイリエちゃんの話し相手兼先生になってるわけだけどね。最終的な目標っていうのが、メイリエちゃんにデスクワークできるようになってほしくて」
「デスクワーク?」
 馴染みのない言葉に首を傾げれば、そう、と女性は頷いた。その目線は相変わらず手元の紙に向けられたままだ。
「簡単に言えば、書類仕事だね。団全体のお金の動きとか、報告書の整理とか予定立てたりとか犯罪者の対処とか、そういったたくさんのこと。私達でもできることはあるけど、やっぱり自分の仕事もあるし、決定権もないから。それに、船団長のやる気を上げるのもなかなか難しくて。だから、メイリエちゃんがデスクワークができるようになると、助かるなぁって思って」
「……どうしてですか?」
「これ、船団長には言わないでね?」
 手を止めて顔を上げた彼女は声を潜めてそんなことを言うものだから、余程聞かれてはまずいことなのだと分かる。私はそれに静かに頷くと、彼女はペンを置いてから口を開いた。
「船団長がとっても強いのは、もうメイリエちゃんも分かってるよね?」
 その問いかけで私が思い出したのは、あの日のことだ。私が、一人で家に帰った日。あの日、街の住民を拘束していったガンダルヴァさんには迷いもなく、殴った力はとても強かったと覚えている。剣こそ抜いてはいなかったけれど、多分本気になったらあんなものじゃないだろう、とは嫌でも思い知った。
「はい」
「強さは、本当に誰もが認めるんだよ。私達なんかより遥かに強い。……でもね、デスクワーク、全然できないの……」
 項垂れるように吐かれた言葉は、女性の苦労を窺わせるような言葉だった。多分、この人だけじゃなくて、もっと多くの人が思っていることなのだろう。
「報告書を自分で書かないのももちろんなんだけど、読むのも苦手みたいで……。会議とかで作った資料でよく文句言われるの。それ以外にも決済の書類とかでもこっちで分かりやすく説明しないと全然進まない時もあるし……。本当にできないのか、できるけど面倒臭くてやらないのかも分からなくて。……それもあって息ぴったりで仕事できる人がいないんだよね」
 それまでよりも少し早く語られる言葉からは彼女の苦労が伝わってくる。多分、今までかなり長い間、悩まされてきたのだろう。
「それで、せっかく船団長が気に入ってるような珍しいことを言ってるから、利用してみようって話になったの。メイリエちゃんが何も教えてもらってないことを前提に、自分達でいろいろ基本的なことから全部教えて、騎空団の書類仕事ができるようになれば、もしかしたら船団長とメイリエちゃんでいい感じに組めるんじゃないかな、って。……少なくとも私は、そう思ってる」
 まさかこの数日間の勉強にそんな意味があるとは思わなかった。ガンダルヴァさんが私に言ったのは、もっともらしい理由であるというだけで、もしかしたらこの人が言うことが本当のことなのかもしれないとも思う。どっちも本当のことかもしれないけど。
「メイリエちゃんはまだ若いから、これからいろんなことを教えてあげればどんな可能性だって掴み取れるはずだって。私達は、そう信じてるんだよね」
 笑みを浮かべてそう言った彼女は、またペンを持って言葉を書き始める。
「……私も、剣だけです」
 そんな彼女を見て、私は小さく言った。
 きっと、皆がいろいろと期待してくれているのだろう。けれど、実際の私は、日常生活に必要なだけの最低限の読み書きができて、買い物をするための簡単な計算ができるだけしか教えられてこなかった。あとは料理と応急手当の方法と、身を守るための剣術しか、教えられてこなかった。だから、私だって、本当は多分、剣だけだ。一番長く教えてもらったのは、それだけなんだから。
 やりたいことが見つかったらまた考えないとね、と言われていた約束は果たされることなく、私はただ、両親から教えられた僅かばかりの知識と剣の技術に縋りながら生きるしかなかった。
 実際、この人達を満足させることはできないと思う。書類を作る時はいろんな言葉を事務の職員の人に教えてもらったし、今だって、戦いに関する基礎知識ですら分からないことがある。これからもっといろいろと難しいことを教えてもらうことになるのだろうが、そういった知識を使いこなせるようになる自信はない。
「最低限の読み書きくらいしか教えてもらってません。生活に関わること以外は分からないので、それ以上のことはとても、無理です。……だから、私が、ガンダルヴァさんと組むことができるようになるなんて、思えません」
 求められるレベルは、きっととても高い。だって、ガンダルヴァさんと一緒に仕事をするということは、騎空団に関わるとても大事な仕事をしないといけないということなのだから。今の私には、それだけの知識も、それから知っている言葉の種類も全然足りない。
 そんな状態なのに、そんな期待を掛けられて、本当にいいのだろうか。
 もしもそれを裏切ってしまったら、どうなるんだろう。また、暴力を振るわれたり暴言を吐かれたりするのだろうか。
「だから言ったでしょ、飲み込み早いって」
 けれど、そんな不安を吹き飛ばすように、女性はペンを置いてにこりと笑うのだ。最初に答え合わせをしていた時と同じことを言いながら。
「ゼロからに近い状態からやってるにしては、理解がかなり早いと思う。他の人も言ってるよ、メイリエちゃんは優秀だね、って」
「本当、ですか……?」
 褒められるという経験がほとんどなかったせいか、その評価がどうにも信じられない。勉強をするようになってから、先生として来てくれる人に掛けてもらえる私への褒め言葉も全然信じられないのに、私のいないところで私を褒めているという言葉なんか、信じられるはずもない。
「本当だよ。だから私達もどういうこと教えようかって話するの、すごく楽しい」
 再度の言葉に、ほっと息を吐いた。胸に手を当てると、心臓が少しだけいつもより高鳴っているように感じられる。
「……もっと皆でメイリエちゃん褒めなきゃいけないかな……?」
 そんな私の様子を見た彼女は、少し考えこむように呟いた。褒めなきゃいけないのは、どうしてだろう。褒められるようなことなんか何もしていないから、当然のように褒められないだけだと思うのだけど。
 きょとんと首を傾げていると、彼女は「とにかく!」と先程の言葉を忘れるようにまた口を開いた。
「ガンダルヴァ船団長は最低限の知識が必要だと思って私達の提案を受け入れてくれたと思うけど、この調子で続けていけばビックリされるくらいにはなると思うよ。保証する。あ、でも、もちろん勉強が嫌なら強制はしないよ。嫌なこと続けて居づらくなる方が私達は嫌だし」
「そんなことは、ないです。分からないことは嫌ですけど、でも、いろいろなことを知ることはワクワクしますし。正解しないと、嫌になりますけど」
 好きか嫌いかで言えば、嫌いではない。楽しいかと言われたらそうでもない。でも、そんな中でも好きなことや楽しいことはある。分からなかったことが分かった時は嫌いな気持ちが吹っ飛んでいくし、新しいことを知るのは、何よりもワクワクする。まだ私には知っていることを上手に使いこなすことができないだけで、もっと多くのことを知って、もっといろんな使い方を知って、いろいろなことが分かるようになれば楽しくなるんじゃないかと思う。
 一人でゆっくりと突き詰めて考える時間はあっという間で、その中で答えを見つけた時は達成感も覚える。
 全部が全部嫌いではないのだから、ここでやめてしまうのは、何だかもったいない気もする。
 それに、もしも私がこの勉強を役に立てることができるのなら、助けてもらった恩を返すことだってできるようになる。だから、今は、できるだけ長く勉強を続けたいと思うし、もっといろいろなことを教えて欲しいとも思う。
「でも、嫌いじゃないので。だから、あの、……私が本当に嫌になるまで教えてくれると、嬉しいです」
 それがどういう状態なのかは、今の私にはあまりよく分からないけれど。でも、今「やめたい」と思うのはきっと早すぎる。
 だから、まだ付き合ってほしいと、それだけは伝えておきたかった。
「うん、分かった! 私達もどうすればメイリエちゃんが分かるようになるか、考えてくるね!」
 女性は顔を輝かせて頷いた。この人なら、多分本当にいろんな手を使って私のために準備をしてくるだろう。今までの付き合いで、何となく分かる。
「あ、それじゃあこれが今日の課題ね。次までにやっておいてね。それから、属性力のことは次回までの私の宿題にさせてね。分かりやすい説明考えてくるから」
「すみません、私のために……」
「いいの! 教えるのはこっちなんだから、メイリエちゃんが分かりやすいようにするのが当たり前! 気にしないでね」
 差し出された紙に書いてあることに目を通してから、それをテキストに挟んで閉じる。課題が出されたということは、今日はここまでということだ。
「じゃあ、とりあえず今日はここまでね。私はちょっとやることがあるから、また夕食の時に会おうね」
「はい。ありがとうございました」
 テキストを抱えて立ち上がってお礼をしてから、私は部屋を出る。女性は、扉を閉じるその瞬間まで、私に笑顔で手を振ってくれていた。
 ……あったかい。
 いつも、そうだ。ここに来て、そして勉強を教えてもらうようになってから、いつも。
 これまで決して私に向けられることのなかった笑顔や、言葉や、仕草が、とても温かい。心が締め付けられるようなものだけど、それは痛さではなくて。私が今まで体験したことのない優しさに戸惑って、でもそれを受け入れようとして、心が締め付けられているのだと思う。
 怒りや憎しみや嘲笑といったものではなくて、優しさや笑顔を向けられることが、こんなにも嬉しくなることだなんて思わなかった。これが当たり前だって、知らなかった。
 私が生きていてもいいって思ってくれること、いてほしいって思ってくれることが、こんなに嬉しくて、そうなりたいって頑張れる力になると思わなくて。
 だから、裏切らないようにしよう、頑張ろうって思える。
 誰かに頼られるような人になりたいという強い思いを抱えながら、私は自分の部屋に向かってゆっくりと歩き出した。

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