初めての親切心(3)


 朝食を食べ終え、私はガンダルヴァさんに連れられて彼の部屋へと向かっている。医務室の食事の片付けは、私が主任さんに治療をしてもらっている間、ガンダルヴァさんが食器を返しに行ってくれたので私は多くの人の注目を浴びることはなかった。
 だが、一番人が多く集まる場所を避けることができたとはいえ、誰ともすれ違わずに部屋へ向かうことなどできるはずもない。医務室を出てからというもの、私はすれ違う団員のほとんどに「大丈夫?」「怪我は酷くない?」「無理しちゃダメだよ」などの声を掛けられていた。それも、顔も知らないような団員達からも、である。
 それらに対して私は謝罪をし、今は大丈夫であることを一人ひとりに告げていく。明らかにほっとしたような表情を見せた団員達は手を振ってどこかへと去っていくのだが、それにしたってその数は多すぎる。昨日の昼までは私のことは単なる新人としか思われていなかったはずなのに。事情を知っているような人には良くしてもらっていたけれど、でもやっぱりこれだけの巨大な組織のせいか私がどういった経緯でここにいるのかを知らない人の方が多かったようで、特に何も言われることはなかったというのに。
 手を引かれるまま歩き、けれど私を見て声を掛けてきた団員がいれば歩みを止められる。対応しろとばかりに目線で促されるため、声を掛けてきた団員と話をする。医務室からガンダルヴァさんの部屋までは距離があるため元々移動に時間が掛かる。だが、かなりの数の人に声を掛けられ、その全てに対応していることもあってか、全然部屋に辿り着けそうになかった。
 普段であれば、声を掛けてくる人達に対して面倒だと適当に対応するガンダルヴァさんが、今日ばかりはいちいち足を止めて対応しているため、そちらにも驚かれてしまう。しかし団員達はそんなガンダルヴァさんには目もくれず、私に対してしきりに声を掛けてきていた。恐らくは、触れない方がいいと思われているのだろう。
「……あの」
 階段を上がりながら、少し手を引いて声を掛けると、その顔がこちらに向けられた。
「何だ。あと足元見ろ、転ぶぞ」
 見上げたまま声を掛けたため下を見て歩いていないことに危機感を持ったのか、ガンダルヴァさんは丁寧に忠告してくれた。たしかに、まだここに来て一週間と少ししか経っていないが、それでも建物の構造は少しは分かったはずだ。前を見なくても、もう感覚的に歩くことくらいは――
「あっ」
 そう思っていた直後、段を上がろうと上げた足が引っ掛かり躓いた。体勢を立て直すこともできず、そのまま体のバランスを崩し、咄嗟にガンダルヴァさんに掴まれていない方の手を突き出した時、掴まれていた方の手がぐっと引き寄せられて、腰に手が回った。そのまま腰にも圧が掛けられ、私の体はあっという間に持ち上げられる。
「言わんこっちゃねぇ」
 呆れたように息を吐いたガンダルヴァさんは、そのまま私を抱えて階段を上る。広い踊り場の隅に立った後、顔を上げるように言われた。普段よりもずっと近くで見る顔は不機嫌そう、というよりも怒っているように見えた。多分、注意された直後に躓いたのが原因だ。
「……すみません」
 精いっぱい反省の意を籠めて謝ると、また息を吐かれた。
「あのな」
 片腕で私を抱き直して頭を掻いた彼は、暫しの間視線を泳がせた。言葉を選んでいるのだろうか。それとも、どうすれば私に伝わるのかを考えているのだろうか。
「お前はいちいち謝りすぎだ。昨日も言ったが、そんなものは何にもなんねぇ」
 怒っている、というよりも、諭している、と言うべきだろうか。ガンダルヴァさんは不機嫌ながらもゆっくりと言葉を掛けてくる。それは、たしかに昨日、私の家で言われたことだった。
 謝罪はいらない。そんなものは何にもならない。
 けれど、何か悪いことをしてしまったのであれば謝るべきだと私は教えられてきた。自分のやってしまったことを認め、心から相手に謝って許してもらいなさい、と。もしも何かを壊してしまったのであれば弁償しなければならないし、そうでなくても相手を不快な気持ちにさせてしまったのなら心から謝って自分の気持ちを伝えなければならない。謝罪というものは、自分が何かしてしまった相手から必要以上の報復を受けないために必ずしなければならないものだ。だからこそ、私はどんなに些細なことでも謝っていたのに。
 それを否定されてしまったら、どうすればいいのか、分からない。
「でも、私が悪いので、謝るのは当然のことですし」
「別に、お前の不注意で転ぶだけならオレ様に不利益は出ねぇよ。オレ様が怪我したわけじゃねぇんだ。お前が言うべきなのは、次から気を付けます、だ」
 ガンダルヴァさんの言うことはもっともなことのように思えた。たしかに、今私が転んでもガンダルヴァさんには何の被害も出ない。怪我をするとしても、私一人のものだろう。だが、手を繋いでいる以上はガンダルヴァさんにも迷惑が掛かるのも事実だ。現に今、こうして足を止めさせてしまっているし、そうでなくても転ばないように体を支えてもらっていた。とすればもう、これは立派な迷惑であり、謝罪すべきことだと思うのだが、違うのだろうか。
「でも、迷惑を、掛けましたし……」
「こんなもん、迷惑でもなんでもねぇよ。お前は道端で転んだガキに手を差し出して迷惑だったと思うのかよ」
 道端で転んだ子どもに、手を差し出す。
 そんな場面を思い浮かべようとしたが、私にはそれがどういったものなのか、今一つピンとこなかった。私はそんなことしたことがなかったし、されたこともない。いつも虐められていたから、両親に心配を掛けようとしないようにと、一緒に出掛ける時は気を付けていたし、剣の稽古をしていた時は自分の不注意で転んだわけではなかったから、迷惑とかそういったことを考えたこともなかった。
「……どうした?」
 いつまで経っても何も言わない私を不審がってか、ガンダルヴァさんが問いかけてくる。私はそれに、何でもないと言うように首を振ってから口を開いた。
「分かりません」
「何がだ」
「道端で転んだ子どもに手を差し出したことも、差し出されたこともないので、分かりません」
 ガンダルヴァさんが虚を衝かれたような表情になり、それはすぐにバツの悪そうな顔になった。
「わりぃ」
「……何がですか?」
「お前がそんなことができるような立場にないことが頭から抜けていた」
「それは……普通は、そんなこと、ないでしょうから」
 私の育った環境があまりにも異質なだけで。私にとっての普通が、誰かにとっての異常なだけであって。だから、ガンダルヴァさんが謝ることではないと思う。
 どんなに虐められていたとしても、少しくらいの親切をすることが許されると思うのは普通のことだと思う。実際、私はここでそういった場面をたくさん見てきた。けれど、多分、街で私がそんなことをしたならば、きっと、その人の関係者から手酷い暴行を受けたことだろう。穢れた子が触るな、と。
 そんなこと、普通は考えられないはずだ。だから、ガンダルヴァさんは悪くない。それなのに、ガンダルヴァさんは私に対して精いっぱいの謝罪を口にする。
「お前を連れ出したくせに、お前に対する配慮が抜けていたんだ。それはオレ様の不手際だ」
 後ろめたそうだった表情はすぐに真剣な顔つきになり、私をまっすぐに射抜いた。それは、何らかの決意のようにも見えた。
「似たようなことは多分、オレ様だけじゃなく、ここの奴らや向こうに行った後に会う奴でもあるはずだ。……現に、お前のことを全員が知っていれば、少なくとも、お前はそんな怪我をすることもなかっただろうからな」
 家族以外の人間とほとんど関わりを持たずに育ってしまったせいで、私にはあるはずのものがないのだろう。今の例えもそうだし、他にも、山のようにそんなことがあるはずだ。だって、私は、昔に途絶えてしまった両親との交流以外、温かな会話を知らない。言い訳や、謝罪しか口にすることはなかった。他にしてきたのは、買い出しの時に店の人と行われる事務的なやり取りだけ。私の噂は、下層の街以外にも流れていたのだろう。店先で世間話をするようなことなんか一度もなかったし、誰かに声を掛けられることもなかった。声を掛けてきたのは、ガンダルヴァさんが一番最初だ。
 だから、仕方がない。配慮が抜けていたのではなく、そんな配慮が必要だと分からないのだから。
 けれど、それを詫びる必要なんて、秩序の騎空団の人達にはない。悪いのは、私だ。普通じゃない私が、生きていたらいけない私が生きていることが、悪い。
「今後もし同じようなことがあったら遠慮せずに言え。今と同じで、分からないなら分からないってはっきり言ってくれていい。その方が、オレ様達も助かる」
「でも……」
「でもとかだってとかはなしだからな」
 迷惑です、と言おうとする前にガンダルヴァさんは強い語調で私の言葉を遮った。
「お前はそういう風に育ってきたのかもしれねぇが、ここにお前を虐げる奴はいねぇよ。言いたいことはちゃんと言え。頭ごなしに否定する奴はいねぇし、もしいたらオレ様に言ってこい。きちんと話を聞いてやる」
 言いたいこと、と口の中で呟いた。言いたいこと。思ったことを、素直に口に出すということ。
 それは、本当に許されてもいいのだろうか。私のような人間は、口答えをしてはいけないのではなかったか。だから、酷い暴力が襲い掛かってくるのではないのか。
「オレ様は昨日言ったはずだ」
 それでも何も言わない私に、ガンダルヴァさんは更に言葉を重ねていった。私の意識を、塗り替えようとするように。
「甘えろってな」
 誰も私に暴力を振るわないのだから、少しは頼ることを覚えろ、と。たしかに昨日、そう言われた。
 でも、甘えることがどういうことなのかよく分かっていない私にとっては、その内容はあまりに曖昧で、どうすればいいのか分からない。甘えろと言われても、一体どうすれば甘えられるのだろう。それとも、ガンダルヴァさんが今言ったような、言いたいことをちゃんと言うということも、『甘える』ということなのだろうか。
「お前みてぇなガキはまだまだ甘えていいんだよ。これまで甘えられなかったんだから、存分に甘えてこい」
「……でも、ガンダルヴァさんは、家族でも何でもないのに」
「あのな」
 後ろ向きな言葉が続くと察したのか、ガンダルヴァさんはまたも強い語調で私の言葉を遮った。私としては自分が悪いという思いしか湧き上がってこないからこれが当然だと思うのだが、実際のところはそうではないらしい。
「この前も言ったはずだ。お前の後見人はオレ様だってな。そういう書類だって書いたはずだ。お前を育てる責任は、今はオレ様にあるんだよ」
「そう、ですね。たしかにそうです」
「そこまで分かってんのに遠慮するのは何故だ」
「……血も繋がってない人に、そこまでしていただくわけには……」
「血の繋がりねぇ」
 ガンダルヴァさんは私の顔をまじまじと見た後に口を開いた。
「けど、お前の父親と母親は血は繋がってねぇ。それなのに、その二人は仲睦まじくなり、いろんなことを言い合って頼り合って、その結果、お前が産まれたんだろうが。お前と両親に血の繋がりはあっても、両親の間に血の繋がりはねぇぞ。けど多分、夫婦ってのは、どの関係よりも深く相手に全てを委ねてる関係のはずだ」
 たしかに、そうだ。ヒューマンと、ドラフ。父と母の間に血の繋がりはなく、でも誰よりも互いのことを頼っていた。今私が言ったことは、私が一番見ていた人達には全く当てはまらない。なのに、二人共、お互いのことを助け合って、そうして二人だけで生きてきた。二人だけで、私を育てて、守ってくれた。
 それを思えば、血の繋がりがないから頼るわけにはいかないという私の言葉は、たしかに説得力がないのだろう。繋がりを持ってしまった以上、私とガンダルヴァさんが全くの赤の他人というわけでもないのだから。
「血の繋がりがなくても頼る関係があるんだ。なら別に、オレ様とお前がそういう関係になったっていいだろ。お前に必要なのは、お前を守る存在と、お前を助ける存在だ。そういったものが欠けてんのなら、オレ様がなってやる。連れ出す以上、それくらいの責任は取る」
「……本当に、いいんですか」
 確認するように問いかけた声が、情けないほど、震えていた。
 けれど、怖かったのだ。私が産まれたせいで両親は頼るべき人達を失い、街の誰からも相手にされなくなっていった。そして、私の意思を叶えたせいで、事故に遭ってしまった。私がいたせいで、両親の人生が狂ったのではないかと、そう思うのだ。街の住民はそう言っていたし、実際、自分でもそう思う。
 だって、私が産まれなかったら、両親は、二人の家族を失うことなんて、なかったはずだから。
 それを薄々感じていたから、怖い。私に優しくして、私のことを守ってくれる人がまた疎まれてしまうのではないかと思うと、怖い。私は、私を守ってくれると力強く言ってくれる人を不幸にしてしまうのではないか。この宣言に甘えてしまったら、私はまた、誰かの人生を狂わせてしまうのではないか。
 そんな恐れが、胸の中で渦巻いている。
「お前が何を恐れてんのかは、大体分かってる。だから、もう一度言うぞ」
 私の不安を切り捨てるように、ガンダルヴァさんは口を開いた。
「お前が呼ぶっていう不幸は、全部オレ様が切り捨てる。お前も、オレ様も、他の奴らも、誰一人不幸なんかにさせねぇ。オレ様が、責任取って守ってやる。だから。甘えてこい。お前は今、それが許されてんだ。何も考えんな」
 私がいるから皆が不幸になる。私がいるから、全てが上手くいかない。
 ずっとずっと、そう言われてきた。そうやって、暴行されていた。それに耐えることだけが、私にできることで、私の存在意義だと。
 でもそれは、昨日までの話で。ガンダルヴァさんが手を引いて連れて行ってくれる先は、きっと、そんなことはなくて。もしあったとしても、ガンダルヴァさんが守ってくれる。立ち向かってくれる。
 繰り返し言われるその言葉は、たしかな力を持っているように思えたのだ。
「……私、甘え方なんて、分かりません」
 両親にどうやって甘えていたのかも覚えていない。それに、幼い時の甘え方と、今の甘え方は、多分別のものだ。だから、どうすればいいかなんて分からない。
「それなら甘やかしてやる。お前が何したいか訊いてやる。お前は、それに答えるだけでいい。オレ様達が甘え方を教えてやるよ」
 私の経験の乏しさを考えての譲歩なのだろう。その時々で何をしたいのか訊かれるというのは、面倒ではないのかと思ったが、そうしてくれるというなら、多分もう、それを考えるようなこともない気がする。だって、昨日今日でこうしたやり取りを何度も繰り返したのだから。
「お前に足りないもんは、これから与えてやる。それは、覚えておけ」
「……はい」
 自分に足りないものがどれだけあるかなんて今の時点では全然分からないけれど、そうまで言われて「嫌です」なんて、言えそうになかった。ここまで言ってくれてるのに、それを否定することなんてできそうにない。それに、否定すればこの人からも捨てられてしまいそうな気がして怖かった。
 両親以外で初めて触れてくれた温もりだ。それを、こんな形で手放したくはなかった。もし今後手放さなければならないとしても、その時は、私が不幸を呼んで私の存在を否定された時がいい。それならまだ、諦めがつきそうだから。私はやっぱり生きていちゃいけないんだって、そう諦められるから。
「よし、それじゃ、この話は終わりだ。行くぞ」
 そんな私の胸中を知ることなく、ガンダルヴァさんが意識を切り替えるように話を切り上げる。このことに関してそれ以上は何かを言うことはなく、片腕で私を抱え上げたまま階段をまた上り始めた。

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