初めての親切心(2)


 道具箱を開けてから私の顔を覗き込んだ主任さんは、意外そうな声を出した。
「うーん、大騒ぎになった割に、怪我は酷くないわね」
 脱脂綿を消毒液に浸し、それをピンセットで摘まんで私の顔に当てていく。額から顎まで、あらゆる場所にそれを当てられた気がしたのだが、もしかして相当酷いのだろうか。いや、でもたった今、酷くない、と言われたばかりだし。どうなのだろう。
「小さな切り傷と擦り傷ばっかりで、逆に絆創膏とか貼る方が目立つからそのままにしておくわね。でも、右の頬は腫れてるから、ここだけ処置するわね」
 主任さんはそう言うと、ガーゼを用意して医療用のテープで私の頬に貼り付けた。次いで触診をされ、痛みがないかどうかの確認をされる。触れられたら鈍い痛みが走るものの、激痛というわけではないので、これは問題ないらしい。
 最後に口を開けての歯の確認。一応、全ての歯は揃っているようだ。
 ……殺すつもりは、なかった。
 あの暴行は、いつもよりも激しかった暴行は、けれどいつもと同じようなルールで行われていたということだろう。だから、今処置が施された顔はあまり大きな怪我はない。その代わり、顔を庇っていた手や腕はボロボロで、包帯を巻かなければいけないほどだったけど。
 でも、だからこそ確信できる。昨日の暴行に、殺意はなかったのだということを。あれは、ただの罰だったのだ。私が逃げ出したことに対する罰。これからもアマルティアの街で憂さ晴らしの道具として生きなければならないことを教えるための暴行。そうでなければ、私は今頃、もっとあからさまに分かるような怪我をしていただろう。少なくとも、普通に生活を送れないような怪我をさせられたはずだ。
「朝ご飯食べ終わったら少し冷やしましょう。それで腫れは少し様子見。それから、……その手は、自分でやったの?」
 包帯の巻かれた手に目を遣った主任さんが問いかける。昨日私が自分でやったそれはガンダルヴァさんから手際は褒められたが、傷の程度は何も言われていない。
「そうです」
「……念のため、診せてもらってもいい?」
 しばらく悩んだが、無言で首を縦に振った。顔の傷はたくさんできているらしいし、この人にはもう腕の傷を見られている。今更隠したところで嘘を吐いていると思われるだけだろう。それに、主任さんは多分私なんかよりも余程こういうことに詳しい。私ができることはせいぜいが傷の消毒と止血、それから腫れた部分を冷やすことくらいだが、それ以上のものになるとお手上げだしどういった状態になっているのかも分からない。だとしたら、一度ちゃんと診てもらう方がいいのだろう。
 おずおずと袖を捲り上げて腕を晒す。肩の近くまで包帯が巻かれた腕だ。
 それを見た主任さんは顔を顰めた後、少し圧を掛けながら私の腕を触り始めた。
「いっ……」
 骨の辺りだろうか、そこに触れられた瞬間に走った痛みに私は声を上げる。肘の辺りまでゆっくりと圧を掛けられるが、酷い痛みが襲って来るばかりだ。
「……あまり良くない状態かしらね。折れてはないようだけど」
 慎重に力を加えられながらの検査だが、昨日応急手当てをした後のような痛みとは全然違う。一日経って患部が悪化したとでもいうのだろうか。
「包帯取るわね。服脱いでもらっていい?」
「え、それは……」
 先日主任さんに見られたのは腕だけだ。他の場所は見られていない。万が一服を脱いで、他のところも見られたらと思うと、怖い。
 多分、私の体は主任さんが思う以上の傷がある。それは、昨日ガンダルヴァさんに背中を見せて、怒りを滲ませたのだから、間違いない。一つ見せたらそれ以上も見せなければならないのか、と思ってしまって、怖くなる。
 できることならば、この傷はあまり人に見せたくはない。自然に治るのを、待ちたい。こんな汚い体を見られて、それでまた嫌われてしまうかもしれないと考えると、怖い。
「あ、シャツとかはそのままでいいよ。一枚だけ脱いで、腕だけ見せてもらえればいいから」
「は、はい」
 主任さんの言葉にほっと息を吐く。それがどういった意図で発せられた言葉なのかは分からないが、腕だけ晒せばいいのなら気が楽だ。下着まで脱いでほしいと言われると、さすがに、抵抗がある。
 言われた通りに服を脱いでそれを畳んで台に置かせてもらった後、主任さんは私が昨日の夜巻いた包帯に手を伸ばした。
「これ、メイリエちゃんが一人で?」
「え? ……はい」
「器用だね。自分でここまでできる人ってそういないよ」
「自分でやるしか、なかったので……」
 両親が生きていた頃は主に母にしてもらっていたけれど、それもここまで酷い暴力を振るわれる前の話だ。毎日のように作ってくる傷を見ては呆れた息を吐いて自衛の方法と心の強さを語ってくれていた。顔や頭をきちんと守るように教えてくれたのも母だった。私が自分で守るべき場所を守るようになった後は、暴力は酷くなってしまったけれど。でも、その教えを恨んだことは一度もないし、感謝もしている。おかげで、どこを最優先に守らなければならないのか、ちゃんと分かったから。それは、相手も同じだったというだけのことだ。
 そんな母が教えてくれた応急手当ては、一人でやり始めた頃は酷いもので、包帯もちゃんと巻けなかった。でも、それでは良くなるどころか悪化するばかりで、私は痛みに耐えながら実践で包帯を上手に巻く方法やどれくらい傷を洗えば傷口が膿まなくなるのかを学んだ。そうしていくうちに、手早く手当てができるようになって、体を休める時間も長くなっていった。それがまさか、こうして褒められるようになるほどとは思わなかったけれど。
「そっか」
 主任さんは私の家族構成はもう誰かから聞かされていたのか、一人でやるしかなかったという話に対しては特に何の感情も見せずに頷いただけだった。
「ガンダルヴァ船団長は何か言ってた?」
 昨日の騒ぎの後に私とガンダルヴァさんが一緒に泊まったことももう知っているのだろう。私の手当てを見たかもしれないと考えてか、そんなことを問いかけてきた。
「医療班に放り込んでも問題ない腕はある、と」
「ふぅん。でも、そっちに入れるつもりはない、とか思ってそうね」
 ぱちぱちと瞬きして主任さんを見つめると、「当たりだった?」と肩を竦められた。それに小さく頷きを返すと、主任さんは小さく笑みをこぼす。
「ああ見えて分かりやすい人なのよ。一度決めたことは絶対に曲げない人だしね。自分で連れて行くと決めたのなら、医療班なんかに放り込むはずがない。あの人はあなたを最前線に連れ回すつもりで連れ出すわ」
 ある種の自信を持って告げられた言葉に、私は言葉を失った。たしかに、医療班にやるつもりはない、と言われた。でも、まさか、最前線に連れて行くなんて、そんな馬鹿な話があっていいはずもない。
 だって、私は、ただの小娘で。何もできない、弱者なのに。
 ガンダルヴァさんみたいな強さなんか、全然ないのに。
「もちろんこれは私の憶測」
 包帯を外して私の腕を見た主任さんは表情を歪めた後にまた私の腕の傷口の消毒を始める。まだ塞がっていない傷口に消毒液が染みて痛むが、何とか声を出さないように耐えた。
「でも、ガンダルヴァ船団長が自分で居場所を作ると決めたのなら、それは多分、あの人の隣よ」
 確信を持って告げられる言葉は、多分、ガンダルヴァさんのことをよく分かっているからこそ出てくる言葉なのだろう。
 でも、そこまで言い切るにはもう一つ情報がないといけないはずだ。
 主任さんは、私のことをどのように聞いているのか。誰から私のことを聞いたのかは分からないが、単に保護すると聞いているのでもなく、秩序の騎空団の一員として連れ出されるでもなく。ガンダルヴァさんが私の居場所を作るために街から連れ出すと聞いているのなら。私は、どのような存在として扱われているのか。
「あの」
 それを訊いていいのかどうかは分からなかったけれど。でも、訊いたら、その憶測の根拠も分かるような気がした。
「私のことは、どのように聞いていますか」
「……私みたいな役職持ちやメイリエちゃんが秩序の騎空団の団員として活動できるように手続きに関わった人は、メイリエちゃんのことを全部聞いてる。……ごめんね、ずっと、助けてあげられなくて」
「そ、そんな、謝ることじゃ」
 申し訳なさそうに頭を下げた主任さんは何も悪くない。秩序の騎空団だって、何も。
 もっと言えば、アマルティアの住人も誰も悪くはない。彼らは、ただ、どうにもならない感情を吐き出したかっただけだ。その方法が、正しかったかと言えば、そうではないのかもしれないだろうけれど。でも、私が、私という存在がなかったなら。
「……私が、生きているのが、悪いんです」
 ハーフなんていう、居るのかどうかもよく分かっていない存在が奇跡的に生まれてさえ、来なければ。もしかしたら、両親は今もまだ、この街で笑っていたのかもしれないと、そう思う。
 ……全部、私が壊した。
 両親の幸せも、街の住民の幸せも、全部。私が生きてさえいなければ、両親はあの事故は巻き込まれなかったかもしれないし、街の人から疎まれることも、家族から捨てられることもなかった。私が生きていなければ、この街の住民はこんな気持ち悪い存在に暴力を振るった挙句に秩序の騎空団に連行されることもなかった。
 私が生まれてさえこなければ、全部全部、上手くいっていただろうに。
 私が、全ての幸せを、壊したのだ。
「生まれてさえこなければ、誰も、不幸にならなかったのに」
「――そんなわけがあるかよ」
 聞こえてきたのは、低い声。そちらを振り返れば、ガンダルヴァさんがトレーを二つ持って入ってきたところだった。音を立てて机にトレーを置いた後、ガンダルヴァさんは私をじろりと見下ろした。
「生まれてこなければ不幸にならなかったかもしれないなんて、そんなの分かんねぇだろ。現にお前はここにいるんだからよ」
「でも、私が不幸を呼ぶから」
「お前はそう言い続けられたんだろうが」
 私の言葉を遮るようにしてガンダルヴァさんが言葉を発した。力強い言葉は、口答えを許さないかのような口調だ。
「お前が生きていなくてもお前の両親は死んでたかもしれねぇ。お前以外の奴を街の奴らが暴行してたかもしれねぇ。……お前という存在一つで誰かの人生がそう簡単に変わると思い上がるな」
 睨むようにして発された声に、私は口を噤んだ。
「ガンダルヴァ船団長」
「主任殿。こいつにはちゃんと聞かせて分からせなきゃいけねぇんだよ。そうじゃなきゃ、いつまで経っても全ての事故が自分の存在に帰結するんだ。ただそこにいたから取り返しのつかねぇことになった。そんなこと、あっていいはずがねぇだろ」
「それは、そうですが……」
 ガンダルヴァさんの強い言葉を止めようとした主任さんは、ガンダルヴァさんの言葉に言葉を失くしたようだ。
「オレ様達がこいつを助けられなかったのは事実だ。こんなになっちまうまで誰も助けなかったせいで考え方まで卑屈になった。だったら、オレ様達がすべきなのは多少きつい言い方でも、こいつが生きてるだけで悪いなんてことがあっていいはずがないってことを、こいつ自身に教えることじゃねぇのか」
 ガンダルヴァさんを見上げていた主任さんは、数秒の沈黙の後、そうですね、と静かに息を吐いた。
「謝るのではなく、導くことが、私達のやるべきことですね」
 主任さんは私の腕にまた包帯を綺麗に巻いた後、私を真っ直ぐに見つめた。
「アマルティアにいる間だけでも頼ってね。力になるから」
「は、はい」
 頼る、と言われても何をどうすればいいのか分からないけど、とりあえず頷いてしまった。主任さんに頼るって、どうすることだろう。私は今後、ほとんどここにいなくなるわけだし、頼ることなんてあるのだろうか。
 頼るとはつまり、自分にできないことをやってもらうということで。もう暴行を受けないかもしれない以上、主任さんに頼ることなんて、あるのだろうか。
「……分かってんのか、お前は」
 そんな私の答えを聞いて、ガンダルヴァさんが呆れたように問いかけてきた。昨日の今日だから、怪しいと思っているのだろう。
「えっと、多分」
「……どうだかな」
 あからさまに溜息を吐いたガンダルヴァさんは、けれどそれ以上追及してこようとはしなかった。手近にあった椅子を引き寄せてそれにどっかりと腰掛ける。
 一方の主任さんは何かメモを書き残しているようだった。
「主任殿、とりあえず終わりでいいか? いいなら飯食うが」
「えぇ、食べていただいて構いませんよ。食べ終わったら処置をさせてください」
「……何すんだ?」
 てっきりこれでもう終わりだと思っていたらしいガンダルヴァさんが首を傾げると、主任さんは呆れたように息を吐いた。いや、どちらかといえば、何かを憂いて、の方が近いだろうか。
「腫れてるところをとにかく冷やします。ひとまず顔と腕ですね」
「そうか。なら、先に食っちまうか」
 ガンダルヴァさんは椅子を動かして机の前に座り直してトレーを引き寄せた。私の前には量の少ない食事を、ガンダルヴァさんは私の倍くらいのものを自分の前に置いた。
「主任殿の治療が終わったらひとまず部屋行くぞ。今後の話をする」
「分かりました」
 そう言ってガンダルヴァさんが食事を始めたので、私もそれに倣ってスプーンを手に取ったのだった。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -