生きることは耐えること(9)


「んだよ、これは」
 呻くようにして絞り出した声が、全てを物語っているようだった。もう、手の施しようがないほどの状態になっているのかもしれない。
「……っ、ぅ」
 つ、と指先が背中に直に触れた。その瞬間、ぴりりとした痛みが駆け上がり、小さく呻いてしまう。恐らくは、真新しい傷か打撲痕だろう。軽く撫でられただけなのに痛むということは、もしかしたら、よほど酷い状態なのかもしれない。
「お前、これだけされて耐えてたってぇのか……!」
 これだけ、がどれだけなのかは、私では確認のしようがないから分からないが、耐えてたことには変わりなかった。
 そう、何をされても、私は剣を抜かずにただ暴行を耐えていたのだ。両親の教えがあった。それももちろんある。けれど、それ以上のものも、たしかに存在していた。
「……バカでしょう?」
 自嘲する。だって、明らかに殴ったり蹴られたりといった暴行ではない、もっと痛みの伴う――鉄の棒や木槌などを振るわれたことだってあるのだ。骨が折れなかっただけ、マシだと思う。そこまでされたなら、本当は剣を抜かなければならないのだ。だってそれは、『命の危険』に繋がるのだから。命を守るために、剣を抜かなければいけなかったのに、私は抜かなかった。
「これだけされても、何もしないから弱く思われるのも、剣は飾りだと思われるのも当然だと思います。……実際、弱いんでしょうね」
 ガンダルヴァさんの方を振り返って、小さく笑う。最後の言葉は、――諦めだ。笑って、諦める。それが、私にとってのお似合いの末路。
「両親の教えがあると言ったことは、覚えていますか」
 唐突な問いにガンダルヴァさんは何度か瞬きをしたが、少し考えるとすぐに思い出したのか、口を開いた。
「……口だけしか出してこない輩には手を上げるな、ってやつか」
「はい。見れば分かる通り、もう、口だけじゃなかったんです。刃物は使ってないにしても、武器と呼んでもおかしくないものは、もう私に使われています」
「だろうな。他よりも傷痕が酷い。見えないとこだから容赦がなかったのは嫌でも分かる」
「それでも私は、剣を抜かなかったんです。自分の身を守るための剣を抜かずに、ただ黙って耐えていた」
 何かを持ち出されていたのはいつのことだったか。けれど、その初めては、まだ私の記憶の中にたしかにある。初めてそれを見た時、私はひどく動揺して、そして、震えた。剣を抜かなきゃ、と思ったのに、柄に手を掛けただけで、それ以上何もできなかった。そして、酷い暴行を受けた。
 それを、『弱さ』と呼ぶのなら、間違っていないと思う。
「両親は、絶対に剣を抜くな、とは言いませんでした。剣を抜かれたら抜きなさい、と。自分の身を守るための剣を抜きなさい、と言ってくれてました。でも、私はその教えを破りました。私の心の強さを誇って自分の心を守るためではありません。黙って耐えることを選択した、私の弱さを、彼らの言う通り、認めたんです」
 街の住民は、いつだって数で私を圧倒していた。私が剣を抜けば、同じように剣を抜くだろう。それも、複数人で。もしもそうなれば、私が生きている保証などどこにもない。武器というのは、ほんの少しの間違いで誰かの命を奪うものなのだ。それは、私だって例外ではない。
 だからこそ、怖かった。手違いで誰かを殺してしまったり、自分が死んでしまったりすることが。
 自分の取った選択が、自分の首を絞めることになるかもしれない。それが、怖かった。
 決して剣を抜かずに彼らに反撃しなかった理由の一つにそれがあるとガンダルヴァさんが知ったら、彼は何と言うだろうか。
 ……怖い。
 知らずに俯いてしまっていた顔を上げようとしたけれど、上げられなかった。どうしても、怖くなって。
 今更、とも思うけれど。それでも、そう思うには、与えられたものが多すぎて、簡単に決心することができなかった。
 優しさを、与えられた幸福を全て殺すには、少しの時間を要した。やっとゆるゆると顔を上げた頃には、やはり不機嫌そうなガンダルヴァさんと、目が合った。
 ……どうせなら、さっさと捨ててほしい。
 見込み違いだと言われるのであれば、それでもよかった。多分、それが正しい姿なのだから。私は、強くなんかない。剣の腕も褒められるほどあるはずがないし、心だって強くない。そんな人間は、秩序の騎空団にとってはただのお荷物であろうから、さっさと私を置いてアマルティアの街を出ていけばいい。そうすれば、私が縋るものは何もなくなり、街の住民の望む通り、私は一生暴行を受ける。それでいい。それが、私の人生だ。
「……メイリエ、約束しろ」
 ガンダルヴァさんは床に両膝を突いて私に目線を合わせた後、わしゃわしゃと頭を撫でてきた。その手はすぐに離れていって、背中を晒すように向きを調整された。
 その手が私の横に置いてある救急箱に掛けられ、あの大きな手が小さなピンセットと脱脂綿、それから消毒液を取り出す。
「ぅ……」
 消毒液の瓶の蓋が明けられたまま乱暴に箱に置かれたかと思うと、すぐに強い痛みが襲い掛かってきた。先程触れられた痛みとは全く違う、私が決して慣れられない痛み。脱脂綿に消毒液を含ませてそれを傷口に当てて消毒してくれているらしかった。
 ありがたいけど、次から次へと襲い掛かってくる激痛に呻き声が止まらない。
「いいか。怪我をしたら必ずオレ様の所に来い。絶対に怪我を隠すな。どうして怪我をしたのか全部言わねぇと許さねぇし、オレ様がいる限りは毎日チェックさせてもらう」
「チェック、ですか」
「あぁ、新しい傷作ってねぇか、な。お前の行動は大体オレ様の把握してる範囲内にあるんだ。何かあったらすぐに分かるものだと思え」
 そこまで徹底されなければならない理由などないのでは、と思うもすぐにその考えを打ち消す。理由など、既に何度も説明されていることだ。
 言わなければどうなるか分かるよな、とばかりに消毒液を染み込ませた脱脂綿を押し付けられ、より一層痛みが酷くなる。多分、これ以上に酷い手当てをされるのではないだろうか。痛みには慣れてしまったとはいえ、痛みが気にならないわけではないのだ。それは先程から私が呻いていることからも彼には既にお見通しであるわけで、だからこそ脅しが通用しているのだと思う。
「それからもう一つ」
 満足するまで消毒したらしいガンダルヴァさんは、今度はガーゼと医療用テープを手に取ったようだ。びっ、とテープを引く音が聞こえる。
「甘えることを覚えろ」
 ぺたりとそれを貼りながら、ガンダルヴァさんは私への要求を突きつける、
「甘える、ですか」
 しかし、それがどういうことなのか、今一つ頭の中で結びつかない。それが自分一人ではできることではないから、どうすればいいのかが、分からない。
「少しくらい頼れってこった。もう、お前を差別する奴はいねぇ。なら、できねぇことは素直に言って手伝ってもらうべきだし、寂しいならちゃんと口にすりゃあいい。何でもかんでも一人で抱え込もうとすんな。ちゃんとオレ様に言いに来い」
 例えば、こうなる前にちゃんと言いに来いと、そういうことだと思う。自分でどうにもならないことがあるのなら、素直にそれを言いに来いと。それは、先程も言われたようなことである。
「……その、ご迷惑では、ないですか」
「ったく、お前はそればっかか」
 そうまで何度も言われても、やっぱり自分の価値を見出せなくて尋ねてしまう。だって、私は、どうせ。
「っ、う」
 それ以上を考える前に、額を指で弾かれた。そこそこの勢いで私の額を弾いたその指はそれなりの痛みを私に残していった。
 深い溜息は、私の考え方が気に食わないせいであろう。
「あのな。オレ様とお前は同じ艇に乗るんだ。この意味、分かるか?」
「えっと……一緒に、仕事をする、ということですよね?」
 同じ艇に乗るということの私の答えを返すと「それもある」と言われた。それもあるということはつまり、それ以外もあるということだ。
 だが、その答えが分からずに首を横に振ると、ガンダルヴァさんはそのまま答えを続けてくれた。
「一緒に生活するってこった。朝から晩までずっとな。同じ飯を食って、同じように眠る。つまり、オレ様とお前は大体同じ場所で同じように時間を過ごすってこった」
 そこまで言われれば何となく意味は理解できた。できたが、それは余計に報告する必要がないと思うのだが、どうだろう。報告するまでもなく、ガンダルヴァさんが全てを把握してしまいそうなものであるが。
「そういうことだからもっと頼れ」
「……けど」
「嫌か」
「はい」
 たとえ保護される側だとしても、私だけがそうやって迷惑を掛けるのは嫌だった。私のせいで、誰かに迷惑を掛けてしまう。それは、嫌だ。
「なら、お前も頼られるようになればいい」
「私が、ですか」
「あぁ。何でもいい。仕事だろうがそうでなかろうが、一つでいいんだ。お前が、他の奴らから頼られるようになれば、自分から何かを頼るのも罪悪感はねぇだろ? 頼られる代わりに頼ればいい。それなら、できるだろ?」
 自分で何か一つ頼む代わりに、その代金代わりに自分も何か頼まれる。たしかに、それであればまだ抵抗が少ない。条件が同じであれば、その内容にあまりにも大きな差がない限りは、あまり気にしなくてもいいかもしれないとは、思う。実際にやってみなければ、分からないけれど。
 迷惑を掛ける代わりに、私も迷惑を掛けられる。そんな簡単なことではないかもしれないけど、それが最善策であろうことは何となくではあるが、分かる。
「時間は掛かるかもしれねぇけどな。それまでは前借りだと思ってどんどん甘えてこい。オレ様が借りを全部覚えておいてやる。返せるように努力しろ」
 そんな無茶な、とも思ったが、決して間違ってはいないように思えた。要はお金の貸し借りと一緒であるということだ。
「だがまぁ、そうだな。強いて言えば、オレ様から一つ」
 救急箱を閉じてから自分も同じようにベッドに乗り上げて私の横に座る。想定外の体重が掛かってしまったベッドが悲鳴を上げているようにも思えたが、だからと言って「下りろ」とも言えなかった。抗議の言葉を飲み込んだまま彼を見上げれば、思いのほか真剣な眼差しが私に向けられていた。
「オレ様は強い奴が好きだ。弱い奴は置いて行く。どんな奴であろうとも、だ」
 真剣な声で紡がれた言葉は、彼自身の信念を語っているようであった。新入りたる私に分かりやすく、してくれるために。
「いいか、メイリエ。力こそが、世界の真理だ」
 シンプルなその言葉は、私の胸の奥深くにまで刺さったようだった。
 力。それは、強さでもある。剣の腕、腕っぷしの強さ、心の強さ。様々あるとは思うが、きっと、そのどれもが『世界の真理』であると、ガンダルヴァさんは言うであろう。もしも何かに限定するのであれば、それはもう、とっくに言われているはずだから。

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